都会の星 を都会に観に行って来た。人も華やぐ銀座四丁目。
遠く宇宙から見下ろしても目映い程に明るい街に降る星もオツ。
テーマは都会で観る星なのだけれど、番外としての展示のひとつ
大変に眼にとまり、その写真の前に足を止められずに居られなかったのは、福島県は三春の滝桜 その彼に降り注ぐ星空の一枚だった。
それはあの 震災直後の写真だった。
生の滝桜を私は、件の惨事の遥か以前に観た事があるが、
その後町は大きく変われども
その姿はいっそうに強く、凛と変らぬ美しさを称えていた。
これはもう何年も前に自分が観てきた時の滝桜。
今朝のニュース番組。
あの震災の瓦礫を別の地域に埋める云々の課題の議論を観ながら
私はおよそ能天気にサンドイッチを食べながら ボーイフレンドに言ったのだ。
『痛み分けはしないとだよね 総ての人の意見が一致することは決してないだろうけど』
キレイゴトに聞こえて結構だが、本当にそう思う。
勿論自分の住む地域にそれを反対する人も沢山いると思う。
気持ちも解かるし非難するつもりもない。だって、みんなそれぞれに守るものがあるからね。
例えば家庭がある。例えば子供がいる。
自分の後にまだ何年も生きるだろう自分の子供が、できるだけ安全に暮らせるようにしてあげたいと思う気持ちは親として当然だろう。
魚・野菜・肉にしても、少しでも疑わしいものは口にもしないという人も少なくない。
その為に安全な物を探して東奔西走するそれだって、守る者への愛情があるからこそだ。
しかしその一方でその煽りを受け、その人生を絶えざるを得ない人も少なくないのが現状だ。
私が上記のような、聞く人に因ってはキレイゴトと聞こえるだろう事を言えるのは、
守るべき者がないからなのだと思っている。
もし私自信の寿命が10年短縮されたところで大きな弊害がない。
そもそも元から何年生きるのかも解かっていないし、順当に行けば私の親は私よりも先に死ぬ。
親を悲しませる事がないのなら、残される者を持たない自分はもうそれで御の字なのだ。
未だ視ぬ先の事など誰にも解からない。世に発せられている情報は正しいのか否かも。
因って警戒を強め考える人もいれば、考えられないという人もいる。
痛みは分けられるヤツだけ分ければイイ。
守るべき者を守ろうとする人もいないとバランスが崩れてしまうよね。この国の。
分けられないことがいけない事ではなく、自分が別の立場だったらどうだろうというのは、
その立場にならなければ一生解からない事だ。
だから勿論、被災地で家を失くした人や家族を亡くした人の気持ちは、どんなに慮ったところで今の私には未だ解かり得る事がないのも現実だ。
だからこそ自分はおよそ能天気にサンドイッチを食べながら、今朝の言葉を言ったのだろう。
仕事で時々福島県にゆく。件の原発のあるエリアのすぐ近くを訪れ、通る。
島国の人間である私達は普段、地続きのエリアに境界を見る経験がそれほど無いからかも知れないが、ガランとした広地にまるで国境のように物々しく断かる境界のそれは、とてももの悲しく感じる。
今までに起こった様々な事件や事故。実は何も解決していないのに、報道されなくなると人はあたかもそれは無かった事かの様に忘れ、話題にしなくなる。
そして自分もそんな脳ミソの中の一員だ。
ヒトにとって忘れるという機能は素晴らしく重要だけど、絶対に忘れてはならない教訓もある。
この地に住まう以上はおそらく避けては通れない、いずれ訪れるであろう惨劇を覚悟するに
今一度、襟を正さなくてはならないと思わせられる一枚だった。
周りを彩る、キレイナキレイナ都会の夜空と星のコラボレーションの数点。
その中に凛と佇む、その桜がとても好かったから。
地上にどんな凄惨な事件が起ころうと、宇宙に瞬く星はいつも変らずずっときれいなのにね。
地上と空の境界は、どこなんだろう。
都会の星 入場無料なので興味のある方は観に行ってみるのも良いかも。
Posted at 2012/07/05 17:31:41 | |
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