一般には自動車の輸入自由化に備えた国内自動車メーカーを強化するために通産省が主導して合併交渉を進めたといわれているが、当事者の一人であった元プリンス自工機関設計部長の故岡本和理氏は違う考え方を自著の「エンジン設計キーポイント探求」で述べている。(非売品)
ここに引用すると「新グロリアのモデルチェンジは大失敗でプリンス自工の命取りになり、日産との合併につながることになる。しかしプリンス自工、自販の歴史には大成功であったとは書いてあるが失敗であったとどこにも書いてない。しかし、一般社員の投稿の各種思い出集には失敗を裏づける記事があり、また当時モデルチェンジの総責任者で常務取締役技術本部長は失敗であったとし、その理由もあげていた。」この話は初めて聞く大いに興味深い話である。
確かにS40Dは発表時こそ、その斬新なスタイルで大好評だったものの、販売は尻すぼみで、目標販売台数には届かなかったようだった。
岡本氏によれば、日産と合併する直接の原因となったのはプリンスの失敗による自滅が原因で、資金繰りに行き詰まり、当時会長であった石橋幹一郎氏も経営に嫌気がさしたことで日産との合併に繋がったということである。
絶好調の会社であれば、例え通産省がなんと言おうとホンダのように自主独立の道を頑張れたであろう。どうも日産が資金繰りに行き詰ってルノーと資本提携したのと同じ轍を踏んだように感じる。
惜しまれるのは、もし新型スカイラインC10が発売される1968年まで我慢できればこのスカイラインの大ヒットで生き残れたかもしれないということだ。C10の発表が合併したのと同じ1968年8月というのはあまりにも皮肉な巡り合わせだ。日産としてはスカイラインという得難いブランドを手に入れることができ、しかも合併した途端にそのスカイラインが大ヒットしたのだから最高に良いタイミングで合併したと思ったであろう。
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2011/09/14 22:15:08