2013年03月11日
記憶が風化しないうちに、というか忘れさせないようにと思い公開します
、防災の一助となれば幸いです、ちとエグい話もありますので苦手な方は、見ないほうが
いいかも、代わりに津波にやられても知らないけど・・・
ある家族を流された方の話です(叔母から聞きました)
津波で娘さんを流されてから、毎晩、娘さんが見付けてくれ、見付けてくれと
夢の中に出てきたそうです、しばらくたって、○○町にいるからと夢でみたそうです
翌日、その町(親父の出身地だったりする)の遺体安置所を訪ねたところ、ご遺体を
見付けたとのこと、また似たような話で、流された身内が海で溺れているところを
毎晩、夢で見た方は、流された身内がしばらくして広田湾で見つかったそうです、
身元不明のご遺体の話(私がドックダッグを作った理由)
これは、私自身が見た話、地元の新聞に身元不明者の欄があり、身元不明者が見つかると
(2011年の夏頃で毎日数体づつでした)
発見場所、身体的特徴、持ち物、遺体安置場所、問合せ先が掲載されてました
実際は、こんな感じでした
発見場所
広田湾
身体的特徴
男性、身長165cm、体格、肥満体、腹部に手術痕あり、奥歯を治療中
持ち物・服装
黒のズボン、右指に指輪、ペンダントにK・Yのイニシャル
遺体安置所
○○町○○体育館
問合せ先
○○○警察署
意外とネックレスやペンダントの類を身につけている方が多いようでした
自分が被災した場合のためにと(ちなみに当日、居合せていたら十中八九、流されてます)
兵士が身に付けている認識表、ステンのプレートに認識番号、名前などを彫りこんだ物を発注し
近頃は、常時身に付けています、役に立つ日が来ないといいですが(激汗
避難所の責任者をあてにするな(学校の校長等)
河口近くの中学校の話ですが、そこの校長先生、内陸出身の方で津波のことをよく知らなかったようで津波警報が出たのに、高台(この場合は、山になりますが)への避難を渋ったそうです、地元の古老と学校わきの川の異変に気付いた教諭に説得され(ずいぶん控え目な表現です)、やっと生徒ともども避難、その学校、校舎の3階どころか屋上まで津波を被り、もし残っていたら、まず助かりませんね・・・この手の話は、石巻や松島でもよく聞きました、
安全だと思って逃げたらネズミ捕りの籠だった(松島の地元住民談)
避難所の差
津波で道路をズタズタにされた結果、交通、通信は、寸断され集落単位で孤立することになりました
避難所も例外では、無く、避難所によっては、物資の不足に陥り、死人が出たところもありますが
比較的恵まれた避難所もありました、どれだけかと言いますと・・・
水、近所に井戸があるので問題なし、水汲みは、重労働ですが
トイレ、下水の整備が遅れていた地区ですので昔ながらのぼっとん式、災害時でも普段と変わらず
燃料、ガスは、プロパンボンベ、なくても炭と薪が潤沢に
風呂、古き良き薪風呂です、水汲みの重労働させ我慢すればいつでも入浴可
食料、近所から炊き出し、畑もあるし、春で山菜が・・・
毛布、なぜか田舎の人は、物をとっておく習慣がありまして、毛布大量にありました
暖房器具、これもありました、というか、年代物も含めて家から5台以上発見、
最悪、畳剥がせば囲炉裏復活・・・
食事、避難者の中に市内の料亭の板前さん(それも腕利きのが)が居たので、
普段よりおいしい物が食べれたとのこと
照明、園芸用の太陽電池付きライトを転用、あと仏壇用のロウソク
情報、テレビ、ネット、新聞などは、沈黙しましたがラジオがあります、
祖母談、昭和30年代の生活に戻ったよ・・・
ちなみに物資不足で泣いていた、市内で最大の避難所まで車で15分ほどの避難所の話です、しかし、橋が3本とも流された上、津波に山肌ごと道路をえぐられ、山中を徒歩で大回りせねば通行できず、物資の輸送は、極めて困難でした、更に燃料不足も追い打ちをかけました、物資の豊富な場所(遠野市や一関市)は、峠の向こう側でした。
Posted at 2013/03/11 23:42:47 | |
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