こんばんは。さすがにグンマーもダメです。
やってらんねーですので、酒浸ってゲームしてますが、まだ持て余すのでブログ書きます。
みんカラでみなさんのブログを楽しく拝見させていただいてますが…やっぱりモラルのことになると皆さん苦労してるんだなあと。あれこれ意見が飛び交ってますので、僕もどこかで囁かれないように清く正しい運転を心がけたいと思います。
こんなこと書いてどうなんだろって思うんですけど、ちょっと前に気になるブログも見たんでちょっと。
最近会社でちょっとした人事があったんですよね。まあ、工程能力に対する人員の見直し的な話なんですけど。
で、結果から言うと入社2年足らずの僕が残留、その他ベテランが他部署へ転属という事態が起きました。
正直、自分のこれまでの努力が評価されたことが嬉しい半面、追い出したみたいで課に居づらいなあとも思うわけです。
僕は入社したとき、幹部連中から「組織を変えるためのニューウェーブになってほしい。」と言われたので、「そういうベクトル」で努力してきたわけです。例えば今までのやり方に対する懐疑を唱えたり、しつこいくらいにISO基準に対する管理を指摘したり。
きっと、職場に馴染んだキャリアだったらそういうことしたら煙たがられたと思うんですよ。僕としては「新参だから」というカードを使えるうちにこれをやらなきゃって思ってて。
もちろんね、能力もないのにそういうこと言ってたら嫌われると思うんですよ。だから、管理システム作ったり新製品作るためのプログラムを覚えたりっていう努力もしたわけです。「本来みんなが傾けるべき」部分でのベクトルでも。
でも、なんの代わり映えもしない毎日、マンネリ化しきった現場で正直自分の努力なんて何の意味があるんだろうって、ほんとに思うわけですよ。ましてやこんな中小企業でさ。もうほんと、自己満でしかないなって思いながらやってて。まあそれでも別に社畜じゃねーし、定時で帰ってアニメ見て、土日は車いじれれば不自由はないなってくらいのモチベーションで。
で、そんなふうに思ってやってたらあるとき、課長から「お前はここに残して現場を任せたい。」って言われたんですよね。別に、買い被って努力が認められたとか思ったりするわけじゃないですけど、その時に「何をやっても組織に抗うことはできない。自分はただ存在するしかない。」的な世の中の風潮に対して、自分が唱え続けたアンチテーゼを確信したんですよね。自己流でも貫くべき部分があるんじゃないかって。
なんでこんなこと書くかって言うと、ちょっと前にね、雇用制度に関するブログを見たんですよ。正規雇用、非正規雇用に関する話みたいな。
少し前問題になりましたが、この問題は特に製造業みたいな固定職系だと根深いなあと思うわけです。
でもその一方で、あくまでも会社としては「非正規雇用である」というカードを握っているというのも事実で、そういう宙ぶらりんなカードが一応のリスクヘッジになってくるわけですよね。
でね、実際に派遣の人ってのもそういう割り切りでやってる人が多いんですよね。中には社員登用を目指している人もいるんだろうけど、相対的な数としてそれは少ない。
僕は正社員だとか、アルバイトだとか、派遣だとか、そういう雇用形態が社会的に良いとか悪いとかっていう意見は全くありません。自分のやりたいことを優先するために雇用という束縛を捨てられる人はそれはそれで尊敬しますし、派遣社員でも音楽やスポーツを頑張っている人を僕はたくさん知っています。
けどね、そういう割り切りがあって組織的なニーズとサプライが成り立つ以上、正規-非正規の間には埋め難い壁があるのも事実なのかなあ。とも、思います。
世の中に対して意見を発信するということはとても重要なことだと思います。でもね、(ここで内田樹論が出てくるんですがw)排他的に「私はあの人とは違うから。自分は努力してるのに報われていないから。」というのはなんというか、とっても日本人的辺境的意見だなあって思うんですよね。
「僕はこういう信念を持っててこうするから、みんなもこうしたらいいんじゃない?」っていうのが協調的、或いは包括的意見だとしたら、相対比較的な排他論って全く逆じゃないですか?
でも、これがほんとに日本人に多い考え方。
だからさ、「僕はあの人より努力した。でも認められない。」は、抜本的な企業理念からすれば全くお門違いな努力かもしれないってこともあるわけですよ。仕事を頑張るってのはそうじゃなくてもっとエゴイスティックな部分でもいいと思う。例えばもっと仕事しやすい環境を作るだとか、利益そっちのけで作りたいもの作る(やりたいことやる)とか。
だって僕自身こそいままで会社で頑張ってきた根底にあるのは「いかに自分が自由でやりやすい環境を整えるか。」だったから。そのためには上司から指示を受けなくてもいいための技術、管理形態、人脈を揃えること。そんなステータスを揃えるためにこの2年努力してきたといっても過言ではないほど。
本質的にもっとクリエイティブに行こうよ?って、思うんですよ。
ここまで一人称に「僕」って使ってきましたけど、こんなこと、「私」の人称でエラそうに書けないんで…。っていうのは内田樹せんせーの受け売りですが、人称による主張性の判断ってのも秘匿性の高いブログなんかを読むときにはちょっと参考になったりして。
例えば、「俺」っていうのはけっこう自分のスタンスを高い位置に置く場合に使う一人称。それが意図的であったとしてもなくても、「俺はこういうことを言うから聞け」というキャラクターを作り上げている場合が往々にしてあります。
また、「私」っていう一人称は当該コミュニティーから俯瞰したいという思いの表れだったりもします。つまり「こういうこと言うけど議論はそっちでやってね。」っていう逃げ。まあ、かくいう私もそういうことなんですよ。笑
ちなみに「僕」っていう一人称は、相手と目線を合わせたいときに使う人称だと思っています。「僕はこんなこと考えてるけど、君たちはどう?」ってなるわけですよね。
さて少し話がそれましたけど、この排他的思考、実は国内における自動車の開発にも少し当てはまるんじゃないかなーなんて、思ってたりするんですよね。
戦後復興から「追いつけ追い越せ」で頑張ってきた日本ですけど、その追いつくべき相手はアメリカであり、80年代以降の自動車産業においてはEU、特にドイツだったわけですよね。
で、いざ追いつき追い越した時点で次に捉えるべきターゲットを見失った。ここでどう次のギアのを入れるかっていうのが日本のターニングポイントだったと思っています。それが00年代、レクサスの台頭とハイブリッドの片鱗が見え隠れした頃かなと。
で、現在の日本車はハイブリッドor低燃費の軽。おおまかに言ってこの2択になっていますよね。
これって、とっても日本的進化だと思うんですよ。
燃費がいいか悪いかってどうやって決めます?「あの車より燃費がいい。」っていうのが基準ですよね?
基準となる車が必要なんですよね、日本車には。
その点軽自動車ってのはまだちょっとガラパゴス的な要素があると思うですが、利用価値が日本市場に限定されるときにはやっぱり特筆すべきアイデンティティというか、主張性が「あの車よりは」的な部分になってくると思うんですよね。
そもそも軽規格自体が発展性のない部分が大きいってのもあるかもしれないんですけど。
そんな中、先日
ケータハムがスズキのエンジンでセブン作るよっていうニュースを聞きました。
大手でこういうことを先駆けたメーカーって日本にいたかなあって考えたんですけど、思い当たらないんですよね。
だって、K6AもF6Aもアフターマーケットでこれだけ実力が証明されてきたエンジンなのに、メーカーが何故その方向で開発をしなかったのか。
一言で言えば「それはトレンドではなかった。」からですよね。
いくらいいエンジンを作ったところで、いいフレームを作ったところで、いいシステムを開発したところで、それがトレンドじゃなければ、売れなければ、必要とされなければ、いつでも平気で捨てられる。
これは日本的アイデンティティの長所でもあり短所でもあると思うんですよね。
マーケットが存在する限り、日本車は生きる。しかし、飽和したとき、或いはマーケットが世界基準と共通化したとき、おそらくそれは崩壊する。
そんなとこで、日本車ってこれからどこでアイデンティティ発揮していくのかなあ…っていうのが一番気になっていることですよね。
はてさて、結構とっちらかってきたんですけど、まあ雑言駄文言いたいこと言ったので終わりにします。
まあ、クルマは楽しくてなんぼですよねーって結論で、いいですかね。
あー
明日は埋まったアコード発掘しに行くかー。
