2012年05月16日
アメリカ海軍
第二次世界大戦、太平洋戦線において何故日本が負けたのか?
こう聞くとだいたい、「国力の差」「暗号解読の差」「工業生産力の差」「技術力の差」。
あとは日本の将校がヘボだった。
この辺が出てくる。
間違ってはいない。
ただ、100%の回答か?と言われればそうでも無い。
少なくともアメリカ海軍の将校であれば、こんなずさんな情報分析はしない。
一つ確実に言えるのは、高度な技術開発も、高性能な兵器の運用も、高度な作戦立案も全て人間がやっているという事。
「国力の差」「暗号解読の差」「工業生産力の差」「技術力の差」。
それらを優位たらしめるのは扱う人間である。
もし、日本の将校がヘボだったというのなら、何がどのようにヘボで優秀な将校とは如何にあるべきか?という問いがセットでないとただ単純に当時の人間を罵倒して終わる。
それだけで終わるのも良いだろう。
簡単だ。
取り合えず馬鹿じゃないの、と言っておけば良いのだから。
対するアメリカ海軍将校はどうだったのだろう。優秀だったのだろうか。
少し時間軸を整理してみる。
ハワイ真珠湾 1941年12月
珊瑚海海戦 1942年5月
ミッドウェイ沖 1942年6月
第一次ソロモン海戦 1942年8月
マリアナ沖海戦 1944年6月
比島(レイテ) 1944年10月
坊の岬沖 1945年4月
単純に並べて見て気が付くのが二つ。
ハワイ~珊瑚海までの6ヶ月間とソロモン海~マリアナ沖までの1年10ヶ月。
よくTVで取り上げられる大きな海戦を並べただけだが、この二つの期間が目に見えて空いている。
次に投入戦力を見てみる。
開戦時
日本海軍
戦艦 6隻 巡洋戦艦 2隻 空母 6隻 巡洋艦 32隻
アメリカ海軍
戦艦 9隻 巡洋戦艦 0隻 空母 3隻 巡洋艦 21隻 (太平洋艦隊のみの戦力)
このうちアメリカ海軍の可動戦力はほぼ正見だが、日本海軍は軽空母を含めれば空母の数は倍、戦艦も、大和、武蔵は入っていない。
珊瑚海海戦
日本海軍
空母 3隻 巡洋艦 7隻
アメリカ海軍
空母 2隻 巡洋艦 8隻
ミッドウェイ沖
日本海軍
空母 4隻 戦艦 11隻 巡洋艦 15隻
アメリカ海軍
空母 3隻 戦艦 0隻 巡洋艦 8隻
ミッドウェイ沖でアメリカ海軍が勝利したのは知っての通りだがそんなに戦力差があった訳ではなく、寧ろ日本海軍の方が戦力は大きかった。
この後決戦戦力として圧倒的な差がつくのはマリアナ沖海戦まで待たなくてはいけない。
マリアナ沖
日本海軍
空母 9隻 戦艦 5隻 巡洋艦 13隻
アメリカ海軍
空母 15隻 戦艦 7隻 巡洋艦 20隻
このうち数としては日本海軍空母数が9となっているが、このうち空母としての性能でアメリカと張り合える参加兵力は、翔鶴、瑞鶴の2隻のみ。(両艦とも80機程度の展開能力がある。)
残り1隻は大鳳で新鋭艦だが航空機の展開能力は翔鶴級の半分程度。残りの6隻は軽空母と搭載機数50機程度の中型空母。
対するアメリカ側は、殆どがエセックス級(航空機展開能力は100機程度)であり、ヨークタウン級エンタープライズが入る位。
筑波2000でGTカー相手にノーマルのプリウスがレースするくらい絶望的な戦力差だ。いやもっと酷いかもしれない。
ここで分かるのは、上に上げた「国力に差」「工業力の差」というのが効いて来るのは以外と遅いと言う事。
視点を変える。アメリカから見てみよう。
開戦劈頭、アメリカ海軍は主力の戦艦7隻を真珠湾で失う。
結果から見れば太平洋戦線は「航空機の戦い」と言われるが、開戦前からその考えが支配的かと言われたらそんな事は決して無い。
何故そんな事が言えるのか。
開戦時のアメリカ兵力は戦艦の数が圧倒的に多い。
もし空母が主力だと本気で考えるなら、戦艦数と空母数は同じか空母の方が多いはずだ。
費用や建造資源が戦艦の方が圧倒的に安く、数が揃えやすいなら話は分かる。
だがそんな事はない。
ペンシルバニア級戦艦で基準排水量が33000t、ヨークタウン級空母で基準排水量が19900t。
ワシントン軍縮条約の申し子、戦艦改造空母のレキシントン級でも36000t。
排水量は海に浮かべた時どのくらい水の容積を排すればその艦が浮かぶのかという基準だが簡単に見るならその艦の重量である。
浮力設計等の絡みがあるので、イコールとは言えないが排水量が多ければ重い(それだけ建造資材が沢山必要)という事で考えればいい。
費用に関しては、ワシントン、ロンドン両軍縮条約がなぜ締結されたか考える。
軍事予算(主に主力と考えられていた戦艦の建造費)が国家予算を圧迫するまでに肥大していたからだ。
余談だが。
当時の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将が戦艦長門の甲板上で模擬対空戦闘を見ている最中、その様子を眺めながら「航空機で真珠湾をやれないかな。」と呟いた時の幕僚の反応は「はぁ!?意味わからん!」だった。
「いくら長官が博打に強いからと言ったって戦争まで博打でやられたらかなわん。」
そのくらい航空機が主力という発想は当時非常識だった。
真珠湾の作戦立案担当は「海軍一の変人」と称された黒島亀人参謀。
そういえば今度映画化するらしいのだがちゃんと描くのだろうか?まぁいいや。
話がずれたが、真珠湾で主力戦艦を戦闘不能にされたアメリカ海軍司令部は今まで補助戦力と考えられていた空母と巡洋艦で暫くの間戦線を維持することを迫られたのだ。
広大な太平洋で、圧倒的戦力を誇る日本海軍相手に。
手持ちの戦力は3隻の空母と巡洋艦。
大西洋からワスプ、ホーネット、ヨークタウン(いずれも空母)が回航されてくるまでこれだけである。
ここでアメリカ海軍の将校はほぼ一から、海戦に対する認識を改めなくてはならなかった。
何故それがアメリカ海軍の将校に可能だったのか?
同じ事には実は航空機にも言える。
開戦当初、艦上戦闘機の主力は日本、零式艦上戦闘機、アメリカ、F4Fワイルドキャット。
単純に空戦をやったら零式艦戦の圧勝である。
腕の問題ではなく性能の問題で。
零式艦戦はカタログスペックで急降下性能を除く全ての性能でワイルドキャットに勝っていた。
手持ちの戦力は空母だけ、肝心の艦載機も性能が劣っていると来た。
技量は言及するだけ野暮だ。
にも関わらずアメリカ海軍は戦線を維持し続けた。
残る要素は扱う人間の問題だけだ。
レーゾンデートル
存在意義の事だ。
自身が存在する意義は何か。
ある見方をすれば人間の致命的な弱点でもある。
何故弱点かと言われれば質問されれば絶対に決定的な返答が不可能だから。
目に見える、耳に聞こえる、人から必要だと言われれば意義なんか関係ない。
それも一つの回答だ。
身も蓋もなく言ってしまえばこんな事は考えなくてもいい。生きていける。
ただ疑う余地がいくらでもあるのも確か。
人から必要だと言われたのであるなら、その人が嘘をついている可能性は。
また、何か理由があってそう言っている可能性は。
視覚、聴覚から入って来る情報は電気信号に変換されて脳が認識するが、入力と脳で受け取る情報が同一であると何で証明するのか。
もっと簡単に疑問を呈するなら、何で人間は自分を否定される事を嫌う?
人生でも意見でも何でもいい。なんで否定を嫌うのか。
本質的に疑う余地の無い事柄だったら、否定されようが罵られようが関係ない。それは単なる外部入力に過ぎない。
もっと言えば自己を主張する必要も無い。
何で人間は外部の入力無しでは自分の存在を認識出来ないのか。
「目に見える、耳に聞こえる、人から必要だと言われれば意義なんか関係ない。」
では逆に外部から否定されればその人間に存在意義は無いのか。
まったくをもって不思議な話である。
十余年前どこぞのインチキアニメが「おめでとう」なんて解決策をもってきたもんだから言いたい事だけ言えればそれでいい、なんて話になってしまった。
自身を省みる必要もなく言いたい事が言えればいい。
それでもおめでとうなのだ。
まったくをもって愉快な話。
自身が気持ちよければそれでいい。
それさえあれば自身の存在意義は考えるまでもなく安泰だ。
なんだ、その気持ち良いってのは。
要すれば存在意義の充足。
充足するのは別に構わない。
ただ何が充足たらしめているのか。
それはただ言いたい事を言っていれば永続的に供給されうるものなのか。
それは自分のメシの種を永続的に満たしてくれるモノなのか。
まったくをもって愉快な話である。
Posted at 2012/05/16 20:24:05 | |
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カオスの欠片 | 日記
2012年05月14日
マイノリティー
自分達のメシの種を潰さない。
マイノリティー達にとっての死活問題。
社会的に少数派にとって一番の恐怖は多数派による弾圧である。
サブカルチャーなんていう造語を造るまでもなく、どの年代、どの世代にもマイノリティーは存在する。
マイノリティーたる所以はその特殊性ゆえ多数には理解されない事だ。
時に反社会的と見なされ弾圧される。
逆に言えばマジョリティーであれば大概の事は弾圧を免れる。恐ろしい事に。
最近でもっとも話が見えやすいのは喫煙者だろうか。
喫煙が当たり前だった頃は、逆に吸っていない人間が「ダサイ」とか言われていたものだ。
デフレ、経済の停滞、健康ブーム…最近は吸える場所を探すのが困難になってきた。
例えば、この状況で喫煙者が、喫煙して何が悪いと開き直り、ルールを無視してまで吸い続ければどうなるか。
簡単だ。弾圧、果ては淘汰の対象になる。
たばこに増税して値段を上げれば吸わなくなるだろう、を通り越して刑事罰が適用されるようになるかもしれない。
もし、これからもたばこを吸い続けたいと思うのなら、現在残された部分を保持しこれ以上マジョリティーに弾圧されるような要素をつくらない。
なんで自分たちがマイノリティーになってしまったのか。
そこを少し考えるだけで身の振り方は嫌でも判ってくる。
どこぞの脳医学者(しかもそれなりに名が知られている)が自分がたばこを吸えないもんだから「現在の禁煙活動はファシスト的だ」なんて自分勝手な寝言を言っていた。
まぁ自分で書いた本通りの事が起こっているだけなのに、マイノリティーになって弾圧された瞬間にそんな理屈をもって来るのだから非常に愉快な事この上ないが。
さて、まだ喫煙はいい。
少数派になったとはいえ、法に触れる訳でも無ければ反社会的なんてレッテルを貼られるまでには至っていない。
肩身は狭いだろうが。
世の中には口に出す事すら憚られる趣向をもった人間はごまんといる。
反社会的、刑事罰が科せられるなんてのも出てくる。
彼等にとっての死活問題。
自分たちが辛うじて趣向を代替できる何か、こっそり解消出来る場所があるのならこれを潰さない事。
これらが潰されては話にもならない。
もっとも、少し市民権を「得たような」気になって自らがなぜマイノリティーとなったか分別出来ずに自分の首を絞める。
ましてやマイノリティーである事を誇らしげに語る。
こういう人達も、どの時代にも一定数いるものだが。
エコ
これは比較的シンプルな問題だ。
現在エコという言葉で表される事象は主に二つ。
二酸化炭素の排出量の低減と資源の再利用だろうか。
前者に関しては実はもうある程度解決している、が経済活動が関わるから進まないだけ。
結局はお金の問題。
化石燃料は基本的にはC(炭素)とH(水素)の化合物だ。
化学式は
H H
| |
H - C = C = C ……x
| |
H H
この後Cがいくつ繋がるかで性質(ガソリンとか軽油とかアスファルトとか)が決まる。
そこにO(酸素)を加えて燃焼(急激な酸化反応)を起こすとCO2が出来上がる。
CxHx + O2x = CO2x
ただこれだけ。
このうち燃焼の部分が問題で現在燃焼を停めると産業が全部潰れる。
現在稼働中の火力発電所を全部停めると考えたらいい。
アメリカが京都議定書に調印しなかったのは国内産業を守るため。
国民を失業させ産業を停滞(無理に進めれば果ては国家が破綻する)させてまで達成しなくてはならない問題ではない。
電気が止まっても別に困らない所は…探す方が難しいだろう。
どうしても嫌なら呼吸を止めてエコに貢献してみるのも良いだろう。
人間もCO2は出している。
日産自慢のリーフもこれでは使えない。
結局の所、熱エネルギーを発電所で変換するのか、車の中で変換するのかしか違いは無い。
それでもコンバインドサイクルを実装した火力発電所なら熱効率は60%弱なので内燃機関よりは効率がいいかな。
送電損失を差し引いてどうだろう?と言ったところ。凄まじく有利にはならない。
だったら原因と結果、両方を人工的に管理すればいい。
燃焼が停められないのなら、化石燃料を「生産」し、二酸化炭素を「回収」すればいい。
実は両方とも研究段階としては確立されている。
人工の石油は造れるし、二酸化炭素の回収も研究されている。
二酸化炭素の回収は元々木々がやっているしね。
愉快な事に、二酸化炭素の回収に関してはアメリカでは国家プロジェクトとして国が研究資金を提供している。
とりあえず京都議定書の条件はのめないが、嫌が応でも飲まざるを得なくなった時の保険。
その辺は抜かりない。
日本でもいる。回収を研究している人はね。
個人レベルだが。
日本じゃお金出す人がいない。
要はそういう事だ。
生産に関しても理屈は同様。
生産単価より、採掘単価の方が圧倒的に安い。
現在のガソリン価格の10倍出すから安定供給してくれ。
消費者が口を揃えれば誰かがやってくれるかもしれない。
既存の原油調達ラインが確保されているうちはただのぼったくり産業になるだろうが。
いや、そもそも石油関連会社が割り込みを許してくれないかも知れない。
かと言っていきなり止められても困るのは事実。
対イラン制裁措置で戦線恐々としている姿は、大戦前となんら変わるところはない。
シーレーンの安全確保の為に海上自衛隊の派遣するのも嫌がる。
資源の回収。
これはちょっと難しい。
化学製品の多くは「土に還らない」。
最近は土に帰ってくれるようにつくるという話になってきてはいるが限度はある。
現在インフラ整備に使われている殆どの石油化学製品は土に還らない。
還ってくれても困る部分もある。
要は放っておいても、炭素、酸素、水素のサイクルに戻ってくれるのが理想だ。
石油の加工工程では色々余計なモノを使わざるを得ない。
燃焼の要に酸素だけ与えておけば勝手に話が進んでくれると楽なのだがそうもいかない。
じゃあ人間が回収したら良いじゃん。
一億総ボランティアするしかないな。
人件費は勿論でない。
人件費が出ない場合の回収率は、現在の社会に見る通りだ。
そうそう、蛇足ながらエコといえばガンダムを引き合いに出さないと原作者が怒るだろう。
富野氏が考える一番のエコは、地球上から人類が居なくなる事である。
Posted at 2012/05/14 18:28:49 | |
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カオスの欠片 | その他
2012年05月12日
観察科学
観察をもって良しとする考察方法。
理論を構築し、それを再現、実験し、理論通りの結果が得られるかどうかを検証する。
主に化学的な実験の考証に用いられる事が多い。
また、既知の現象ではなく、新しい現象及び確率論が関係するものが対象となる場合が多い。
既知の物に関しては既に「そうなる」と証明されているため、再度観察の必要が基本的には無いが、学校の化学実験等で教育のため再現される場合がある。
要すれば、誰がやっても、同じ論理で同じ実験をすれば同じ結果が得られないとおかしいという事。
再現性があればそれは理論として確立される。
再現性がない場合は全てを見直すしかない。
理論に抜けがないか?実験は同じ環境で行われたのか?そもそも理論構成の段階で不足の要素はないか?
化学に限らず、観察したモノはそれを事実として認めるしかない。
理論と現実が違ったのであれば何処かに違いか見落とし、隠れたモノが存在することがあると言う事。
是か否かは観察結果を受け入れてからの話。
当たり前に思うかも知れないが、これが出来ない人間は山ほどいる。
アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と捨て台詞をいうまでもなく、シュレディンガーの猫が死んでいると観察されても「いや、猫は生きている。何かの間違いだ。」と主張したい人間は山ほどいる。
定期演奏会
先日の事であるが、母校吹奏楽部の定期演奏会に行って来た。
何年ぶりかは不明。たまたま同輩に誘われたのがきっかけ。
会場に入りパンフレットを見る。
自然と現役当時との「違い」を探している自分がいた。
アンケート、「この演奏会を何処で知りましたか?」の欄から「風の便り、虫の知らせ」が無くなっていた。
違いを探す事自体は悪い事ではない。
違いを見つける事は、思考を喚起し、問題提起を促す。
ただし「違う」事に感情論はいらない。
感情は事実を偏光させる作用しかない。
別にいれても構わない。
結果違っても良いなら。
結論から言ってしまうと、正直某達が現役のころより上手かったと思う。
B部門ながら、東関東で金賞というのも伊達ではないだろう。
音量も某達の3分の2から半分程度の人数ながら同等の音量を出す。
各セクション毎のアンサンブルが入れられるというのも大したものだと思う。これはある程度技能的に慣熟しないと出し物にできない。
同輩には怒られるかも知れないが、現役時代の某達では出来ないだろう。理由は技量不足。
現在の現役生に感じたのは何よりも、吹奏楽が好きな人間が集まって一生懸命練習しているのだろうと言う事。
演奏が、呼吸、音感共によく鍛えられているのがわかる。
これは演奏が「指導」だけではどうにもならない領域だった事が理由だ。
もう、某達が所属していたバンドとは思えない。
様々なモノが全然違うものなのだ。
「違い」を見つけていた某は非常に馬鹿馬鹿しい事をやっていたことになる。
某達はもう要らない兵士なのだ。
ブラックロック★シューター
言語によって傷つけられた心はどの程度の痛みを味わうかを視覚的に表すという、何とも愉快かつ画期的なアニメだ。
表世界で主人公に投げつけられる言葉は、裏世界で主人公の分身をこれでもかと痛めつける。
轢かれたり、でかい針で刺されたり、ドリルで貫かれたり。
それでも主人公の分身は傷つかないし、血も出ない。
心だからね。
表世界でカウンセラーの先生が「自分の心の痛みは誰かが変わってうけてくれていると思えばいい」と宣う。
自己の外で起こる不快な刺激に対し、全て自分に起こっている事では無いとし、精神的な防衛を図るのはよくある話だが。
そんなに人間の精神は器用ににゃ出来ていない。
デメリットを無視すれば可能な戦術ではあるだろう。
パワーポリティックス
政治的強制力、とでも訳せば良いだろうか。
国家間の力関係をバランスとして表す場合によく使われる。
国家間の力関係を決める物。軍事力、市場経済力、資源。
日本人の大好きな技術はこの中には入らない。
何故か。
うちの言う事を聞かないと、軍隊使って攻撃するぞ。
うちの言う事を聞かないと、うちの中で経済活動させないぞ。
うちの言う事を聞かないと、うちにある資源を売ってやらないぞ。
それに対し、
うちの言う事聞かないと、うちの技術使わせないぞ。
さて、相手に言って一番効きそうなのはどれだろう。
最近は何処も景気が悪いので両得な2番目のやり方が流行っている。
3番目はやりすぎると本当に戦争に発展するから。今はこれでつり上げるのは得策ではない。
だから中国をG8から外せない訳だ。
技術は、経済力が身に付けば自国でも何とかなる。
軍事力があれば資源の確保も経済力の拡大もある程度可能だ。
資源があれば軍事と経済の両方に干渉出来る。
技術は、能動的に他国に干渉しうる(他国を動かしうる)外交カードでは既にない。
というか寧ろ、有効な外交カードになった事が実はない。
みんカラの土俵で話をするなら、ふた昔前の貿易摩擦時の対応を見ればいい。
アメリカは日本との貿易摩擦を解消するための、電子戦機を購入することで手を打った。
大変愉快な話である。
問題はそこで日本が拒否しようと思えば拒否出来たのか考えて見ればいい。
ゴメン、うち技術あるから儲けても良いよね!当たり前だよね!とアメリカに何故言えないのか。
技術成長が単純な一国の努力だけで成る訳がない。資源も何もない東洋の小さな島国なら余計だ。
近年の歴史でそれをやってのけた大国は大戦中のアメリカくらいだろう。
今の日本は非常に幸運な偶然の先にいる。
その幸運を保つバランスが崩れかかっていだけだ。
それでは、「国同士の力の掛け合い」の中では何も出来ないのだ。
Posted at 2012/05/12 22:09:55 | |
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カオスの欠片 | その他
2012年05月10日
ZETMAN
最初スクライドか?と思ったのだが、それだとどうにも尻の収まりが悪いので暫く見続けた。
スクライドは正義や、人間がどうこうなんかに異常に固執するアニメではない。
何より、「人」と名付けられながら人でもプレイヤーでもない主人公…。
何度も人の変身シーンを見ているうちに想い出した。これはデビルマンの方が近い。
近代化改修が随所に施されてはいる。
パッケージングだけ見れば全然別の作品だ。
原作は桂正和。デビルマンを知っているかどうかは推して知るべし。
ヒーローもの作品にこだわりを示す桂が考えたらこうなった。
ヒーローにとって善と悪は永遠の命題だからだ。
どちらの線でもおかしくは無い。
ある事を突き詰めていったら道は違えど同じようになってしまった、なんて話は良くある。
人の人助けは一律1万円だ。面白い事に年齢がいくつになろうと変わらない。
子供の頃に1万円だが年齢が上がっても1万円。
もっとも、年齢が上がった彼はお金をもらう理由がとっくに消え失せている。
とりあえず「1万円で助けるけど、どうする?」今にも殺されそうな人間に対して人はこう問う。
助けられる方も、律儀な人間ばかりで、その場で払えなければ探して払いに来る。「約束だもんね。」
何故か、メインヒロイン以外には外見的ハンデを付けたがる。
最初のお水の姉ちゃんは、重要人物にも関わらず顔面に大怪我をする。
後に人の計らいで綺麗な顔に戻るがそれを披露する前に出てこなくなる。
次に出てくる女の子は豚鼻?ぽい上の前歯を矯正中だ。
綺麗でいるのは小葉だけ。
哲学
一言でこの学問を表すなら、何故?を延々と繰り返す学問だろうか。
何故人間は生きているのか。何故人間は存在するのか。
何故をとことんまで突き詰める。
こういう話をすると良く聞かれるのが、「誰のファンですか?」。
某は誰のファンでもないのでそう答える。
むしろあまり好感を持っていない。
学問の範疇で話をする。
何故暇人の戯れ言だ、と揶揄されるのか。
某にとっては哲学は、目的ではなく手段だ。
「我思う、故に我あり」という有名なデカルトの言葉がある。
一応命題の扱いにはなっているが、これは非常に愉快な事だ。
これだけでは何の役にも立たないし、何の解決にもならない。
だから愉快であり、目的ではなく手段なのだ。
氷菓
ラノベ使いからしたら古典部シリーズの方が通りが良いかも知れない。
おっと、メインの男二人の声優がクラナドと一緒だぞ、京アニ。
主人公は典型的な天才肌。
点と点を「自動的に」線にかえられる人間。
ミステリーの探偵役にはメジャーかつ必須な技能である。これが出来ないと話が先に進まない。
メジャーなところだと相棒の杉下右京。ご先祖様はコロンボ警部補と言ったところか。
紅蓮次郎や榊マリコ、十津川省三とかも実はやっている事は本質的に変わりはない。
「不自然な点は全て見逃さずとことんまで突き詰め、残らずつなぎ合わせて線にする。」
松本清張の「点と線」もここから来てるんではなかろうか。
ただ、この中で特筆すべきなのは杉下とコロンボで、彼等は状況や分野を選ばない。
紅や榊が、あくまで自分の専門分野を武器に線を描くのに対し、杉下やコロンボは特に固定の専門分野が存在する訳ではない。
むしろ、相手が特定の専門分野を持ち、自身の知識量や理解量が劣ると見るや、相手のホームコースで後追いテールトゥノーズが出来るまで練度を上げて来る。
先行する(できる)必要はない。それは一般的に見て自然か不自然か、相手の分野から見たとき自然か不自然か(つまり相手が何をやっているのか。)、それが分かれば目的は達成されるから。
ヒロイン千反田のクレバーな所はここにある。
彼女は成績優秀な才女であり、ある見方をすれば天才と見えるかも知れない。
が、彼女は自分の弱点を知っている。
自分は、点の発想や理解には優れるが、それを線として活用出来ない。
馬鹿にされがちだが、義務教育というのもちゃんとマスターすればかなりの知識量になる。
ただ、単体では実用性が薄い。故に軽視される。
そこの、知恵としての弱点を理解していてそれを解決するために折木に答えを求めた。
最終的に彼女が何をどうしたいのかは分からないが点を線にする能力が欲しいのだろう。
そんな事はどうでもいい人からすれば、「やる必要のない」事だし「習得する必要の無い技術」だ。
当然、彼女の真似をする必要性はゼロと言っていい。
クレバーにやらなければいけない決まりなどこの世にはない。
議論とディベート
似ているようでこの二つは全然違う性質を持つものだ。
議論は「真実を探求する行為」、ディベートは「ゲーム」だ。
議論にルールは無いがディベートには一応ある。
二択の問題に対してその二つに分かれ意見を出し合う。
例えば「道州制を導入するべきか否か」というお題だったとしよう。
まず、参加者は個人の主義主張と関係なく「導入するべき」「導入しないべき」の二つのグループに分けられる。
それぞれ一定の時間を与えられ、作戦会議をする。
このゲームの最終目的は「いかにオーディエンスを自分の主張が正しいように(賛同するように)見せるか」だ。
真実は実はどうでもいい。
某の経験上、作戦会議の内容は、自分が「主張しなくてはならない」内容の強み弱みの把握。
強みが固まればそれをいかに制限時間内にオーディエンスに伝えるか。
弱みがあれば、その弱みを突かれた場合に如何に論点をずらし如何に切り返すか。
と言う事が主眼になってくる。
それぞれ持ち時間数分づつで交互に「導入するべき」と「導入しないべき」が数回の主張を繰り返す。
1回目の主張はだいたい自分の主張の正当性、妥当性を主張し、時間があれば相手の主張の欠点を述べる展開になる。
2回目以降は作戦しだい。
自分の主張の正当性をさらに述べるもよし、相手の主張の問題点を言うもよし。
こちらの主張の弱点を突かれれば反論をするも良し、敢えて無視するのも場合によっては効果がある。
それがそのまま相手の主張の穴に直結する場合もあるからだ。
詭弁を使ってはいけないなどというルールはない。
そもそも詭弁の定義が曖昧だし、もって行き方では詭弁を正論に見せかける事もできる。
判断するのはオーディエンスだ。
最後にオーディエンスがどちらの主張が妥当性があるのか判定し、投票する。
得票数が多い方が勝ち。
「真実はオーディエンスが決定する」
民主主義の本質も無関係ではない。
議論に制限はない。
現在いる人間の全てが自身の持ちうる知識を出し合い整合性を求めてゆく。
見ているだけもありだ。
後に思わぬ勘違いや食い違いを発生させたくなければまずお互いがしている認識の確認から始める。
言葉が同じであれば、同じものを認識しているとは限らないからだ。
指している言葉に認識の違いがないか、とりあえず必要な範囲で確認しておく。
議論をしている最中に誰がどの主張だという立ち位置はあまり関係ない。
感情論に固執しなければ、自分が持っていない主張に出会った瞬間自分の立ち位置は揺らぐ。
他人の主張を聞いて自分の考えに疑問を持つ事など普通だ。
迷ったヤツをおいていくのか議論の主旨にするのかそれはメンツ次第。
詭弁を持ち出す人間が混ざっていればいずれ詭弁は淘汰されていくが、詭弁を詭弁と認識できなければそれまで。
それまでをどれまでなのか決定するのは参加している人間次第だ。
一時期学校教育で論理思考能力を養うためと称してディベートを多様した時期があった。
論理思考という物がどんなものか手っ取り早く手間かけずに教える方法として持ち出されたのだ。
諸刃の剣を保険無しで無造作に扱う挙に出た。
教育熱心な人達が、オランダからオルタナティブスクールという概念を持って来たいらしい。
従来の教育との一番の違いは「対話型」である事。
通常の義務教育は教師が生徒に教える、又は理解する事をサポートするというのが主な旨だ。
これに対しオルタナティブは教師と生徒が対話する形で理解を深めていく。
教師生徒間に優劣は無く立場は一緒。
何でもオランダの学生と話をしていると議論が深まりやすく、何でか?と考えてみたらそういう教育方針を採用しているからというのが発想の元であるらしい。
いかにも教育熱心な人が考えつきそうな話だ。
教育熱心な事は別に構わないが、その教育熱心な人達は自分が教育を受けている最中に、今の自分程熱心に勉強に励んだのだろうか。
励まなかったなら何故?
励んでいたのなら、励まない人間がいたのは何故?
とりあえずはっきりしている事は、教育環境を整えれば整えたなりに必ずしも子供が勉強するかと聞かれれば答えは否だ。
生徒が図書室に来ない、本を読まない、勉強しない。
では貴方が子供の頃勉強したのだろうか。
したというのなら何故?
しなかったというのなら何故?
その疑問をシステムを一新するだけで解消しようとしている。
最後に付け加える事があるとすれば、某も勉強は嫌いだ。
Posted at 2012/05/10 14:25:47 | |
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