
ブログが後先になりましたが、父が亡くなってもう6年になりました。
私は小さいころから車好きで、覚えているのは昭和42年製プリンススカイライン1500DXが最初でした。
父はそれを中古で買ったらしく、仕事に出る前近所を一回りして市電で仕事に出かけていました。
シガレットライターで煙草に火をつけるのを見ていた私は、真似をして煙草でなく、左ほっぺに「じゅ~」。
今でもプリンススカイライン1500DXのシガーライターの跡が残っています。
昭和40年当時は車の故障も多く、修理代も高かったようでバッテリー上がりやノッキング、ベンツでさえオーバーヒートしてました。
昭和46年のある日、スカイラインで宮崎にドライブに行ったとき、ノッキングが始まりました。
要は「ポイントコンタクトに髭が出でたのです・・・私も20年後同じはめに」。
でも、父は修理工場に行くでもなく、スタンドによるでもなく。
「肩たたきみたいだね~」と笑っておりました。
一日、ノッキングでドライブすると家族みんな疲れて、「ガクガクしない車にしてよ!」
と言った覚えがあります。
そして昭和47年「あのポンコツは(スカイライン)は工業高校の教材に寄付したよ」と言って、手放しました。
その2,3日後、父は夜行で大阪で研修に行ってしまいました。

そして、1週間後駐車場に新しい車が停まってい
ました。
左のS45年製日産チェリースタンダードスポーツ
4F 988cc OHV58ps/6000rpm
マーチのお爺さんです。
私の本籍は広島で、父は親戚が広島プリンスに
居たらしく、展示車を買って2号線から3号線10
号線を運転して帰ってきたらしいのです。
父は疲れて寝ておりました。
起きた時「この車どうしたの?」と聞くと、「ガクガクしない車を買ってきたよ」とにこり。
このエンジンは独特の唸り音がして、新鮮に感じたものです。

日産初のFF4輪独乗りごごちは今一つでしたが、ノッキングがない分まし(ディストリビュータのポイントコンタクトは使ってるんですけどね)。
ただ、2ドアで後ろの換気がガラスをヒンジで開けるんで、ナツは暑かった。
ハッチバックでなくトランクだったんで室内は結構狭く感じました。
(自分の成長とともに)
オーディオはラジオだけ(その後に8トラ
カセットをつけ、ドライブの時はドリフター
ズのカセットを聞いてました。
時に父が交換し忘れた”エッチな曲”が
ありました)。
エアコンはこの時代ダッシュボードエアコ
ンで馬力が足りずつけられません。
下のエアフィンは要は扇風機。
エアミックスが十分でなく暖房は暑い
か、寒いかでした(一応、冷却水の流入量で温度調整するコックが奥についていました)。
ラジオも感度が悪く、私の住んでいた田舎ではNHKしかノイズで聞けませんでした。
この車が来てから1年後第1次石油ショックが来ました。
そして、排ガス規制(旧車は点火時期を調整して車検を通し、また元に戻してましてね)。
その時、登場したのがホンダシビック確か20Km/L以上の燃費と排ガス規制クリアが売り。
父に、「シビックにしようよ燃費がいいよ!」
父「うちの方がもっといいよ、25Kmは走るよ」・・・そりゃそうだ、エンジン軽いし装備無いし。
この当時、車庫証明はいらなかったのかな?
廃車にするまで広島ナンバーでした 広島55 な79-78(なくなや:貧乏家族にぴったし)
当時鹿児島ではまだ、鹿5でした
時代は過ぎ、車も痛みはじめ錆は出るは、ワイパーモータは焼き切れるは、三角窓がないんで暑くて、ドライブの時父が不機嫌になると皆で、うちわであおぐ始末。
結局、昭和55年セドリック2000㏄SGLの中古に換えることになりました。
この時、私、悲しくて隠れて泣いたものです。
我が家で一番長く乗った車でした。
今でも、後部座席のマットを私の乗った歴代の車に敷いてきました。
もちろん、サンバーもです。
サンバーでは全部広げてもまだ車体の幅の方が長い(軽自動車の規格が大きくなったんですね)。
またまた、長くなりましたが。
父を偲んで。
Posted at 2014/04/05 11:03:44 | |
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