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2020年08月02日 イイね!

久しぶりに時刻表を買いました

手軽にインターネットが出来ない頃までは結構お世話になっていた時刻表ですが、簡単に調べられるようになってからではたぶん初めて時刻表を買いました。

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バリバリの鉄ちゃんではありませんからこの大きさを携行するはずもなく、今回の購入目的は・・・

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この「特別付録」でした。

終戦直前の昭和20年7月改正時刻表です。

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広げるとかなりの大きさで、全国を網羅しています。

さすがだなって思ったのは、運賃も記載されているところ。
上野から仙台が10円50銭、盛岡まで15円、青森まで20円だったそうな。

例えば、上野を午前5時10分に発車した第125列車は、盛岡発が翌日の1時28分だそうですから、ゆうに20時間以上揺られなきゃ盛岡に着かなかったんですね。今でこそ通常深夜に動いているのは貨物列車だけみたいなものですが、この時代は平気で真夜中に乗ったり降りたりしなきゃいけなかったみたいです。
24時間営業のコンビニに慣れきってしまうと、この頃の移動はもはや想像すら出来ません。それにしても、大変な時期にさしかかっていたなずなのに意外と長距離の列車があったもんだと感心します。

あ、でも・・・。
国鉄時代は、盛岡駅にも広い待合室があったものでした。
イスさえあれば、時間を何とかやり過ごせたのでしょうね。

ところで、当時の時刻表って見てみたくありませんか?
この特別付録を載せるわけにはいきませんが、もう少し前の昭和19年10月11日改正の時刻表だったらインターネットでたどれば見ることが出来るんです。

「国立公文書館アジア歴史資料館センター」のホームページで、「週報 第416号」を検索して下さい。
4ページに渡って主な列車に限られますが見ることが出来ます。

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こんな感じです。


さて。
2020年8月号には計画していた小旅行で乗るバスの時刻も載っています。

ということは、遡って古い時刻表を見れば、例の路線の変遷も分かるということですね。
そっかそっか・・・。

Posted at 2020/08/02 23:20:39 | コメント(1) | トラックバック(0) | 戦後70年以上が経過して | 旅行/地域
2015年06月14日 イイね!

本日6月15日は…

本日6月15日は…明治三陸大津波から119年目なのですね。
津波は怖い。このことは長く伝えていかなければなりません。

さて、趣味である地元の近現代史考察から、69年前の今日が絡むことを少々…。

岩手県盛岡市みたけ地区は、1970年の岩手国体を機に住宅地に変貌して今日に至ります。しかしそれ以前は開拓地であり、大平洋戦争が終わるまでは陸軍の観武ヶ原練兵場でした。

1945年8月の敗戦後、所沢陸軍航空整備学校盛岡分屯隊長を中心に、十数名の復員軍人が練兵場と工兵作業場の跡地を開拓し農民として暮らすことを志しました。

1946年3月に岩手県から入植の許可を得て、いよいよ本格的な開墾を始める矢先の6月15日、進駐軍から開墾中止命令が出たのです。

「元々軍用地であったのだからこれからは米軍が使わせてもらう。お前たち農民は悪くない。悪いのは許可した役人だから役人を連れて来い」というのが進駐軍の言い分。でも県の役人は震え上がり、入植は一時頓挫しました。
それでも開拓者達は理解を得るために進駐軍の軍人を招いて何度もパーティーを開いたりしたそうで、その甲斐もあって1947年3月に岩手軍政部から正式に入植が許可されました。

ところで、米軍は練兵場跡地を何に利用するつもりだったのでしょう。開拓民の証言によると、臼砲の対撃(射撃?)試験場にしたかったのだとか。
しかし第二次世界大戦後は臼砲は使われなくなり、より効率的な兵器に取って代わられました。つまり、臼砲の価値が失われて盛岡市郊外に軍用地が残らずに済んだのです。

もしこの地が軍用地として10年でも残っていたならば花巻空港は作られず、ここが盛岡空港になっていたかも知れません。
米軍がここに延長1500メートルの滑走路を計画し、再び入植を認めるまでに小型機ならば離発着が可能なくらいに整備されていたことが国土地理院のHPから閲覧可能な当時の空中写真でわかります。

その計画滑走路跡は戦後直後の農民知事の名を取って、現在は「国分通り」と呼ばれています。練兵場の西隣に彼の農場があったことからの命名でしょう。

ちなみに、進駐軍は連絡用セスナ機の滑走路として、1945年9月に現在の盛岡市見前地区の国道4号線上を拡張整備しており、そちらは1954年11月5日まで使われた記録が残っています。

画像は1948年5月15日撮影「USA-R1431-108」の一部です。斜め左上に向かう道が現在の国分通りです。
Posted at 2015/06/15 19:30:21 | コメント(2) | トラックバック(0) | 戦後70年以上が経過して | モブログ
2015年05月09日 イイね!

色々な人と話が出来た!完結編

色々な人と話が出来た!完結編旧陸軍飛行場の模型やタイヤを眺めているうちに何組かの観覧者もやってきました。
先程まで新聞を読んでいた係の方はさすがに読み飽きたのか、後から来た観覧者と会話しているようです。

私なりにここで疑問に思ったことを聞いてみたいところでしたが、別の展示スペースに居たのでわざわざそっちに出向くのがシャクでした。
ですから、自分なりに疑問を解決すべく、更に詳しく模型を眺めていました。

そこに展示館関係者らしき方がいらっしゃって…。なんと、今眺めている模型を実際に製作した方でした。
1ヶ月後に専門家を招いて行われる講演会の準備会立ち上げの前に資料を取りに立ち寄ったとのこと。

模型を製作していて初めて気がついた管理施設の配置の妙など、模型をただ眺めていただけではわからない話が沢山うかがえました。
飛行機については全く疎いので、この機会にとばかりに色々な質問・疑問をぶつけてみましたが、快く答えていただきました。

それを聞いて、大正時代から終戦まで盛岡市内に存在した「滑走路」の位置が地元新聞社発行の書物に書いてある位置ではなく、私が推測している位置で間違いないことを確信しました。

そんなわけで、丸一日、真剣に趣味のことだけを考えたり納得できたので、とても有意義に過ごせた気がしたのでした。


終わり
Posted at 2015/05/09 00:00:52 | コメント(2) | トラックバック(0) | 戦後70年以上が経過して | クルマ
2015年05月08日 イイね!

色々な人と話が出来た!その2

色々な人と話が出来た!その2間が空いてしまいましたが5月6日の出来事の続きです。

ナビに頼るほど急ぎもしなかったので北上市内から国道107号線を西に向かって進みました。
道路は広くて交通量がほとんどありません。初めての道なのでのんびり走れてありがたかったですけれど何かヘンです。この先の通行止めにより一部無料化された秋田自動車道にクルマが集中したためだったようです。

さて、向かう先の目標物は後藤野工業団地です。そここそが旧岩手陸軍飛行場の成れの果てです。
ですが、あまりにも工業団地化していて現地には見るべきものが無かったので、早々に平和記念展示館に向かいました。
ナビには出てくれるものの意外とクネクネ行くなと思ったら、展示館は地元公民館に併設されていたんですね。

私が着いた時には他にスリッパに履き替えた跡も無く、係の方が事務所よりも日当たりの良い展示スペースの窓際で新聞を読んでいました。
ここには近くの遺跡出土品や満州派遣時に持ち帰った古銭などの展示コーナーもありますが、そこは足早に通り過ぎて目的のものを探します。

ありました。
久しく展示されっ放しなのが一目でわかる中にあって、ひときわ新しく見える旧岩手陸軍飛行場の模型です。

プレートを見ると、なるほど建築設計事務所の方が作ったそうで。
メインは当時の管理施設の再現で、滑走路自体はほんの一部だけです。それも致し方ありません、だって延長1750メートルの滑走路がT字形に2本あったのですから。
地元に軍飛行場を誘致したいと当時の村長以下一丸となり、学生に勤労奉仕させて1938年6月から5ヶ月間で完成させたそうです。

実はその脇にも興味深い展示物を見つけました。ここだけはクルマ的趣味からの興味です。

それは、戦後全機破壊された後も残っていたらしい練習用飛行機の前輪です。
微かに残るサイドレターには「630×17 5」というサイズと常用空気圧(今風の表記ならば450kPa)、そしてメーカー名・製造年が刻まれていました。
とはいえ、70年以上前のシロモノですからメーカー名が潰れていてなかなか読み取ることが出来ません。しかし、サンズイヘンとウカンムリが見えたことから横濱護謨製造株式會社、現在の横浜ゴムであることがわかりました。
製造年については、メモしてくるのをすっかり忘れていました。

…というところで、タイトルの意味にたどり着くことなく文字数制限に達しましたので、もう1回だけ続きます。
Posted at 2015/05/08 20:00:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | 戦後70年以上が経過して | クルマ
2015年03月06日 イイね!

Target No.1074

Target No.1074さっそくの近代史関連ネタですが、来週9日(月曜日)夜21時から、太平洋戦争時に米軍戦闘機の翼などに取り付けたカメラが撮影した映像を紹介する番組が放送されます。

その番組宣伝を見て、珍しいことに今回は番組のホームページを見てみたいと思いました。
そして驚きました。

カラーで盛岡駅構内を攻撃するシーンが紹介されているのです。

私が驚いたのはその映像の存在よりも、むしろカメラ(=戦闘機)の向きでした。

それは「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能な、「Records of the U.S. Strategic Bombing Survey」という全国各地の攻撃目標を記した米国戦略爆撃調査団文書の中の「No.1074 MORIOKA RR Yard and Repair Shops.」の写真で示された向きとほとんど変わらなかったのです。

その文書の33ページによると、当時盛岡駅南方に存在した火力発電所の煙突を攻撃目標として紹介しています。

上下2枚の写真のうち下方が雫石川側から東向きに盛岡駅南方を写したものです。
デジタル可に当たって写真はかなり潰れていますが、それでも攻撃目標が記入されていることがわかります。

昨年夏に放送されたドキュメントで、ノルマンディー上陸作戦実行前の綿密な偵察について取り上げていましたが、日本の軍事関連施設についても米軍が詳細に把握していたことがうかがえます。

戦時中発行の地元の地図では「防諜」と称して現在の岩手県営体育館周辺に存在した軍用地が黒塗りされたものがありましたが、そんなものは全く効果が無かったのではないでしょうか。
実は、米軍は全国の戦前の詳細な地図を入手していて、地名をローマ字化したものを発行していました。
※そのローマ字地図は米国テキサス大学のホームページで閲覧・ダウンロードできます。

さて、興味を抱いてもし冒頭に触れたホームページや本放送をご覧になるのでしたら、当時のカラー映像としてもう一点注目して欲しいことがあります。
それは、盛岡駅の東側を流れる北上川が真っ茶色だってことです。

今でこそ中和処理されて北上川は澄んだ水になりましたが、当時は松尾鉱山の鉱毒水が垂れ流し状態で濁っていたそうです。
それが映っていると思われるのです。


当日の放送では実際のところ何秒間放映されるかわかりませんが、当時の貴重なカラー映像であることに間違いありません。
Posted at 2015/03/06 00:00:06 | コメント(5) | トラックバック(0) | 戦後70年以上が経過して | 趣味

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