時は江戸末期。東北を旅していた吉田松陰は、城下から奥州街道を一里ほど南下した地で賑わう遊郭街を嘆いたといいます。松陰が見た遊郭街とは、二期あった時代の後期にあたります。現在でいえば、北は都会的な雰囲気のカフェチェーン店から始まり、南側は外国製電気自動車ディーラーが見える辺りまでを、松陰も実際に歩いたのです。
遊郭街は数年で廃止され、地元出身の経営者以外はこの地を離れて、ほとんどの建物は田畑に戻ったそうです。戦後まもなく米軍が撮影した空中写真でも、その面影はまったく見られません。遊郭としての役割を失った後も、北上川の河口から盛岡へと貨客船が遡上していた頃には、乗組員の休息地として一定の賑わいを保っていたといいます。しかし鉄道の開通とともに、舟運は急速に衰退し、その賑わいもわずか数年のことだったようです。
そんな場所の古くからの名物といえば「津志田芋の子」、つまり里芋です。県内では今や「二子さといも」の方が有名ですが、あちらはネットリ系。こちらはホクホクしているのが特徴といわれています。
秋には「芋の子食い」と称して、今よりもずっと狭い当時の盛岡市から徒歩でやって来て、津志田芋の子を味わうのが市民の楽しみだったとか。
川久保一里塚を越えた場所ですから、小一時間ほど歩いて食べに来たのでしょう。かといって飲食店があるわけではなく、農家の大座敷に団体で訪れて飲み食いするというスタイルだったようです。一人二十~五十銭程度。市内から歩いて来るのですから、それだけでも腹が減って、さぞ美味しかったことでしょう。ただ、また歩いて帰ることを考えたら・・・・・・。
そんなことを思いつつ、先日は地元の正統な芋の子汁の作り方を学んできました。十の町内会の交流の場として、運動会がてら芋の子汁を食べましょうという恒例企画です。その調理指示役は各町内会が持ち回りで担当しており、来年は我が町内会の順番。記録係は多い方がよかろうと、参加してみたのです。
材料はすべて主催者側が用意してくれるので、あとはひたすら材料を切り、鶏肉に軽く火を入れ、こんにゃくを千切ります。三十人ほどで調理までに二時間も掛かる量は、山形の芋煮会フェスティバルには遠く及ばないものの、なかなか目にする機会のない規模です。ちなみに、里芋の皮むきは別の五十人ほどの人たちが担当したそうです。伝聞形なのは、その見学をしている暇もないほど忙しかったからです。
運動会後の昼食として作るわけですが、今年は前日の雨で早々に中止が決定していました。出来上がった芋の子汁は、運動会の開催に関係なく、各町内会が自分たちの公民館に持ち帰って食べるそうです。しかし来年は調理場の片付けもしっかり済ませないと帰れません。
と、このままでは食道楽の話で終わってしまいますが、さにあらず。
今回は会場の駐車場が狭いと聞いていたので徒歩で向かい、愛車はガレージで留守番です。
しかしこれはチャンス。途中の「岩手菱和自動車(→岩手三菱自動車)株式会社盛岡営業所」跡を、外側だけですがじっくり見学することができました。「自動車ガイドブック」で確認できる限り、1957年頃にはすでに営業していたようですから、もうすぐ古希の建物です。その後は岩手菱和創設時の出資企業の本社営業所として長年使われていました。営業所と整備工場が棟続きで、コンパクトながら使い勝手が良さそうな造り。でも、見学時にはすでにその本社も移転しており、近いうちに更地になりそうな気配でした。
そうなると、この近辺で最古の自動車ディーラー社屋は、岩手Mツダの本社だけになりますか。ここがまた、大変風情がありまして・・・・・・。
閑話休題。
早朝から水分だけで手作業を続け、公民館に戻って食べた芋の子汁のお味は・・・・・・うーん、まあまあ。家人は汁を啜って一言、「不味い!」。
ええ、原因はわかっています。せっかく鶏ガラで出汁を取ったというのに、合わせたうま味だしが「ハイミー」だけ。この組み合わせについてChatGPT、Copilot、Geminiに聞いてみたところ、三者そろって「それは不味くて当然」と口を揃えたような答えでした。鶏ガラ出汁と同じ成分構成のために出汁の幅が広がらず、ただ厚みを増しただけ。
空腹であればこそ「まあまあ」で済みますが、あんなに苦労したのにこの味はないよなー、というのが正直なところです。里芋は出汁の染み込んでいて本当に美味しいというのに、実に勿体ない味付けです。
ん-、これはつまり。
味ではなく、作る過程こそが地域の記憶として受け継がれているのかもしれません。
美味しさの追求ではなく、手間と時間が生む記憶の味。名物って、まさにそんなものなのかもしれませんね。
Posted at 2025/10/13 20:00:37 | |
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