
少し雨が落ちかけてきましたが
次々とセリカが入場してきます。
限定385台のブラックを先頭に
205や初代クーペもレザートップ
の個体です。

ちょうど北兵衛号の前にブラックLBが入って参りました(^^♪。
かっこいいです!

少し雨が降って参りましたが、

第14回東海セリカdayの開会式です。
続いて・・・・・
布垣直昭 トヨタ博物館 館長のセリカのお話を参加の皆さんで楽しく伺いました。(以下、お聴きした内容です。上手く聴き取れていないところ、表現はご容赦ください。)
『セリカ』は
トレンドの象徴であり続けたクルマなので開発に関わった人達は常に思い入れが格段に違いました。担当していないデザイナーもセリカのデザイン審査が始まるとどんなものが選ばれるだろうと常に気にしていたクルマになります。
初代は1970年発売なので私が入社するはるか前でした。
デザインを担当されたのは藤田昌雄さんでした。
トヨタはアドバンスドデザインを日本で最初に立ち上げた会社で、
当初の出世作が初代セリカになります。
ダルマセリカ(クーペ)の後にリフトバックが出て、あのスタイルになった事が
その後のリフトバック系の流れに繋がっていきました。
二代目は
口の悪い諸先輩からは『ゴキブリセリカ』と呼ばれていましたが、
リフトバック優先で作られたデザインでアメリカのCALTY(キャルティ:1973年にトヨタ自動車がアメリカに設立したデザインスタジオ)がオリジナルデザインを作りました。
CALTYは今でこそ色々な作品を担当していますが、当時はアメリカで初めて拠点を作った時に本当に役に立つのかとまだまだその知名度がなくて大丈夫なのかと言われていた時に二代目セリカの案が採用されたという事で、二代目セリカのおかげでしばらく飯が食えたと言うほど大事なクルマになりました。CALTYの礎を作ったのがこの二代目セリカだったのではないかと思っています。
三代目は
角型のパキパキ、ヒラメとも呼ばれた様なフロントのクルマですが、 このクルマが私が入社する1年前に作られました。
私が入社するときの新入社員を鍛える鬼の教官が三代目セリカのクーペを担当したセキドさんという方でした。パキパキセリカをやられただけの事はあってめちゃくちゃ直線に厳しかったです(笑)。新入社員が本当にちゃんと基礎ができているか見極める為に1cm幅位の中に5本以上15cmの長さで交わらずにフリーハンドで描けるまで家に帰らしてくれなかったです(汗)。それはどういうことかと言うと、どう考えても2mm以下の隙間で直線をフリーハンドで交わらない様に描かないといけないので結構精度がいるんです。その鬼の様な先輩に鍛えられたおかげで直線は誰でも描ける様になりました。本当に三代目のセリカというのは当時のトレンドをカタチにしました。
その後二代目XX(アメリカではスープラ)ではドアミラーの始まりの頃であったので、フェンダーラインからベルトラインに1段下がってキャビンに入るところでドアミラーがそのまま繋がるというのがホントにカッコ良く見えて、日本では初め残念ながら法規の関係でフェンダーミラーで作らざるを得なかったんですけども、みんなドアミラーが一体になったデザインに憧れていたので、勝手にアメリカ版のドアミラーに変えていたのが思い出です。リアコンビランプは当時はめちゃくちゃデカく見えていたのですが、直線でそのまま切り抜いた様なカタチで作られて本当に私もあの当時はカッコいいなぁと思って見ていたのを思い出します。
四代目は
初めて自分が提案側にまわって関わったのが流面形セリカです。
あの時は九段下の東京デザインにちょっと腕に覚えがありそうな生意気な数名のデザイナーが集められてやりました。四代目の案が採用されたのがカワズマサヒロさんという私の先輩のデザイナーです。 
当時ブリスターフェンダーというのは出っ張っていた時代でした。ブリスターフェンダーを提案される方は結構いたのですが、あの流面形セリカで斬新だったのがボディを造ってから、そこにフェンダーとして出っ張った部分をブリスター形で繋いで三日月状の見切り線が出てくるという従来の造り方ではなくて、ボディの平面プランビューが緩やかにS字に動くカタチがそのままボディ形状としてブリスターフェンダーになっているというものを三次曲面で滑らかにならした様なものを造って、初めてスケッチと5分の1モデルを見た時は本当にうっとりするくらい見惚れてこれは絶対採用されるなと東京デザインのメンバーは確信してましたがその通り採用されました。我々の想いとしたら本当はオリジナルの抑揚が強めに出てたデザインがいいなぁと思っていたのですが、製造上のいろんな制約があってちょっとだけ緩められたりしてましたけど、一般の人達から見たらどうでもいい位の感じかもしれませんが(笑)。でもセリカは常に製造技術との戦いというクルマでもあったんですね。
五代目は
エディ・マーフィーが宣伝してたクルマですけど、デザイナーってわりと一体になったボディをずっと絵では描いていたのですが、製造上も含めてどこからルーフでどこからピラーかわからないぐらいの接続線で造られていて普通はデザイン線図描く時にもルーフラインはルーフラインで一編整えて、後にピラー線を描いたものを接続アールで結んでいくという制作工程をずうっとやっていたのですが一本の淀みないラインで全部キャビンを造ってしまうという風な造り方に行ききったというのがあのクルマだったんじゃないかなと思います。オオシマさんという方が担当されてクレイの造形ルームで造られたんですが、結構みんなプランビューのどこからサイドでどこからフロントかわからないぐらい滑らかに繋がっているものってコンセプトカーでは見たことはあるけれど本当に量産車でこんなの出来るのかというのがやっちゃったなぁという感慨が当時のデザインの造形ルームの中でもすごくありましたし、私のイメージの中に塗装されていないクレイ粘土で造られたカタチがありましたけど、それが磨き込まれてピカピカになった時のあの茶色い塊が今でも鮮明に残っています。それぐらいインパクトがありました。宣伝が何でエディマーフィーなんだという違和感はありましたけれど、まあ有名人を使ったんだなと、別に有名人に頼らなくてもいいじゃないかという内部の反発は常にあるんですけど。我々はモノで勝負言いたいとこなんですけど、そういう思い出もありました。
六代目は
4灯丸目になったんですが、あの頃から造形トレンドであまりもの語れなくなってきたのかなと思います。私としては初めてセリカの中でちょっとノスタルジックなテイストが入ったのはないかなぁと思ったりもします。デザインされたのはひとつ上のオキさんいう大学も同じ先輩だったんですが結構思い入れのあるセリカです。ラリーにも出て活躍しました。
七代目は
CALTYのデザインの採用に戻りました。クルマとして非常に滑らかなラインにできて、採用されたデザイナーも米国人だったと思います。
セリカとは
トヨタのデザインにとって大事なクルマだったということは皆さんにお伝えしたかったです。
布垣館長はデザイナー視点でセリカを語っていただいて
小雨の中、セリカを愛するオーナーの皆さんは聴き惚れていました。

布垣館長に続いて、
増茂副館長が
今回のセリカ50周年の為にお台場からセリカを全部持ってきました!!
と言われて皆さん盛り上がりました。
いやぁ~ここまでしていただいて、さすが東海セリカdayですね。

記念写真にも入れていただいて恐縮です(^_^;)。
この後、後編へ続きます。
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セリカオフ会 | クルマ
Posted at
2020/11/19 20:26:25