「長州藩京都屋敷跡」&「桂小五郎像」&「明治天皇行幸所勤業場」-京都市
「長州藩屋敷跡」案内板より↓
『高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯は、江戸時代初期に長州藩毛利氏の藩邸が置かれた所で、幕末維新期の重要な政治的拠点となった。
藩邸は、初め南北二か所に分かれ、北側屋敷は表口三十九間(約70m)、裏行三十一間(約56m)、南側屋敷は表口三十間(約54m)、裏行八間(約14m)に及んだ。
元治元年(1864)の蛤御門の変(禁門の変)で会津、薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち、京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたって燃え続けたという。
明治維新後、この藩邸跡は官有となり、明治初年には府下産業の振興を図るため、勧業場が設立され、後に常盤ホテル(京都ホテルの前身)が建てられた。』
「桂小五郎像」案内板↓
『明治維新を成し遂げ近代日本の礎を築いた桂小五郎(木戸孝允1833~1877)は長州藩士、吉田松陰門下生。
長州屋敷跡の当所にその像を建立し、事績を顕彰する。』
「明治天皇行幸所勧業場阯」↓
『明治10(1877)年,明治天皇の関西行幸が行われました。この行幸は西南戦争勃発のため京都には長期滞在となり勧業場を視察。勧業場とは,遷都後の産業振興をはかるため,明治4(1871)年、府が長州藩邸跡に設置した産業振興の中枢機関でした。そして欧米各国の先進技術を導入した各種の生産施設が設けられました。』
住所: 京都市中京区御池通河原町東入 (京都ホテルオークラ前)
タグ
関連コンテンツ( 史跡 の関連コンテンツ )
地図
関連情報