
先ずは東日本大震災でお亡くなりになった方々、被災された方々に慎んでお悔やみ、お見舞い申し上げます。
震災から一カ月以上を経た先週の事ですが、地震発生直後から気になっていた実家の親の様子と被害状況を確認する為、休みを取り高速バスで帰省しました。
新幹線、高速道路とも当時不通であったのをはじめ、行く手段と休みが取れなかった事から実現まで一カ月以上も掛かり、とてももどかしい日々を過ごしました。
実家は仙台市街地より南側、海岸からは5kmちょっとの場所にあり、TVでも何度も出てきた仙台空港からも程近いので、地震発生当初には連絡が取れず気を揉みました。
発生から数時間後に連絡が取れ、無事が確認できホッとしました。
家の損傷も、屋根瓦が一部崩れ落ちたり食器棚本棚が滅茶苦茶になりはしたものの家屋自体には大きなダメージもなく不幸中の幸いでした。
ライフラインは停電・断水に見舞われましたが、LPガスの為ガスだけは止まることなく、買い置きの水で当日から少しですが温かい食事が取れたのが幸いだったと言っていました。ただ情報が殆ど入ってこなかったらしく、巨大津波が沿岸部を襲ったのが当初なかなか信じられない様子でした。
後で確認したら津波の先端から自宅までは約800mだったようです。
このように辛うじて実家は最小限ともいえる被災で済んだものの、車で5分も走るとそこは別世界でした。
沿岸部を襲った巨大な津波は分け隔てなく、満遍なく、そして無慈悲に家屋や家財道具、車など生活の基本となるものや、仕事場、田畑などいわば産業の根幹を洗いざらい文字通り洗い浚って行きました。
被災地はTV等で映像としてはどのような状況か把握はしていたものの、実際にそこに立つと、視覚・聴覚・嗅覚・触覚などに360度全方向から強烈に訴えかけて来るのです。
至極当たり前なのですが、見るだけのそれとは比較にならない圧倒的な空気で、自分の全身・五感を打ちのめして来ます。
百聞は一見に如かずといいますが、あの光景を初めて目の当たりにした瞬間、自分の脳みそはその機能が止まり、己が見たものをにわかには信じる事が出来ませんでした。
戦争を体験した事はありませんが破壊し尽くされた建物を見ると、似たものを探すとすれば写真で見た焼け野原の首都や原爆投下後の広島・長崎を想像するしかありません。
そして次の瞬間には例えようもない虚無感に陥り、ただ呆然と立ち尽くしてしまいました。
実際に行ってみたのは実家から車で5分ほど先です。いわば走りなれた道なのですが、そこで道に迷ってしまいました。
目印にしている建物がそこにはなく、どこもかしこも瓦礫の洪水であり、悪夢に眩暈がするような同じ光景なのです。
ガードレールや電柱や鉄塔などはへし曲がり、防潮林であるはずの松林は根っこから流され横倒しになり、大量の海水や砂や材木片に田んぼは覆われ、その真ん中には原形をとどめない種類も分からないような車が置かれ・・・と筆舌にはとても尽くせない異様な光景が眼前に広がります。
それと同時に土と油と埃とその他様々な臭いが混じりあった、とても得体の知れないような空気が鼻腔を刺激します。
大変不謹慎ですが、興味から被災地を見ようとここまで来てしまった自分を激しく呪いました。
実際に被災された方の心境を考えてもとても思い計り知れず、自分が被害にあったとしたら現状を果たして正視出来るのか、精神は正常に保てるのか甚だ自信が持てません。
そんな中でとても感動したのは、土煙と汗にまみれながら黙々と復旧作業に従事されていた自衛隊の方々、警察の方々の姿でした。
特に自衛隊員の方々は素晴らしかった。
以前某政権与党の左巻き元官房長官が自衛隊に対して「暴力装置」などとバカな事を言っていましたがとんでもない!
世界最高レベルの災害復旧活動能力は名ばかりではありません、手際の良さとスピードはやはり流石でした。頭が下がります。
帰省中に一日だけですが復旧ボランティアに参加しました。作業は山となった瓦礫の撤去や飲料水・食料の運搬などです。
避難所の方々はやはり疲労していました。気持ちの持ちようにも温度差も感じました。
ニュースでもやっていましたが、亡くなった方や全壊した家屋の九割以上が地震そのものではなく津波が原因だそうです。
避難所でお年寄りの誰かが言っていました、海が憎いと。波が来なければこんな事にはならなかったと。
お年寄りは将来がやはり不安であり希望が持てないと仰っていました。
が、若い方々は気持ちを切り替えていらっしゃる方が増えてきたような気がします。
絶望の淵から気持ちを前向きに持っていくのは並大抵な事ではないですが皆さんには本当に気持ちを強く持っていただきたいです。
帰省から戻って思ったのは、とかく忘れっぽい日本人、マスコミの報道ももはや視聴率が取れないのか熱が冷めて来て、被災地以外では今まで通りの電波垂れ流しのバカ番組にシフトして来ています。それはそれで仕方がないのですが、被災地はもう過去のものではなく、既に立ち直っている訳でもない、寧ろこれからが本番です。
福島の沿岸部の方々などは更に深刻で、今現在も目に見えない恐怖に苛まれて毎日を過ごしています。今すぐに原発が放射性物質の発生を止められたとしても、これから何年も同じ状況は続く訳でしょう。
被災地を見てきた自分は、正直この先何年も復興には時間が掛かるだろうと感じました。同時に今後も継続して支援をしなければ、と強く思いました。瞬発的な力より継続的な力を。
やっとこれから先を向けるようになって来た方々を決して忘れてはならない。
復興は今、始まったばかり。
そして被災者にとっては1からでも0からでもなくマイナスからのスタートであり、行く先は棘の道に違いないでしょう。
被災者の方々の事を忘れてはならないと思います。
いつもじゃなくても、時々思い出して行こうと。
これから我々が出来る事は、某バカ都知事が言っていたような自粛(或いは強制された自粛www)ではなく、よく働き、(※注)東北産の食料を食べ、酒を飲むことではなかろうかと。
そして高速道路1000円制度撤廃にも負ける事なく被災地へ足を運び、地場の名産品を購入し現地の状況を多くの方にその目で是非見てもらいたいと思います。
物見遊山でも構わない、被災地がどんな状況かを肌で感じる事は貴重な体験ではないでしょうか。
例えば感受性の強い中高生の修学旅行も、無駄に韓国あたりに行くよりは、はるかに東北の方が勉強になるような気がします。そして現地にお金も落ちる訳で、怪しい義援金よりよほど現地の方々の支援になると思います。
我々が元気に経済を回さないと被災された方々は元気にはならないでしょう。
彼らは今更頑張れなどといわれなくてもいつも最大限に頑張っています。
自分はあの震災を忘れない。そして彼らに負けられません。
最後に、
負げねっぞ宮城!
共に立ち上がろう東北!
頑張ろう日本!!
長々と稚拙な文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
※画像は瓦礫の山となったかつての水田。原形を留めない車などの先に仙台空港の管制塔が見えます。
※注
10/1加筆
福島第一原子力発電所からの放射能漏れにより深刻な汚染が広がっている事が明らかになっている現在、東北産の食品に関する私の考えは基本的には変わっていませんが、食する事については今更ですがお奨めは致しません。大変残念ではありますが個人のご判断でお願い致します。