城址散歩シリーズ・・・「飯羽間城址」
投稿日 : 2013年04月24日
1
今回は恵那市岩村方面の山に行く途中通る県道のT字交差点から丘を見上げると大きな「飯羽間城」の看板有る飯羽間城に登る、この看板下麓に城址碑が有りその脇にジグザグに踏み跡が見える。
近くに行くと道が崩れ危険なので30mほど西に回りこんだ所に大手道有るから、其処から登る様に矢印と指示が書かれた看板有る。
指示方面に向かい田んぼの畦道を30mほど行ったが、登り口らしい所は無く水路にも阻まれた。渡って渡れない事も無いが先ほどのジグザグの踏み跡を登る事にし引き返した。
2
城址碑の横から踏み跡に従い登ると草は生えているが曲輪跡らしい3段ある広い所に出た。良く見るとと言うよりも畑跡に見える。跡で調べてみると本当に曲輪跡で城址の曲輪跡は後世に成って畑として利用されていた様です。
3
天守跡らしい所まで行き全体を見渡すが明瞭な遺構は残っていない様です。頂上には飯羽間城諸将士三界萬霊塔が建立されて祀られているが他ぬはベンチ一つ無い。
此れなら飯羽間城諸将士三界萬霊塔の広場以外は昔の様に畑として使った方が荒れなくて良いと思う。
周りには高い樹木も無いので見晴らしも悪くないので、ベンチでも設置して寛げる場所にすると訪れるハイカーや近所の人達の寛ぎの場所として良いのでは無いでしょうか。
この付近は史跡も多い、飯羽間城址の北側1Kmの所の徳祥寺言う寺には岩村城に有った土岐門が移築されて居る様ですし、飯羽間の集落西側には信城が有るようです。機会があれば訪れて見たいと思います。
4
此処で飯羽間城の歴史!少し調べて見ました。飯羽間城、別名 飯峡城(いいはざまじょう)は女城主で有名な岩村城を本城とした岩村遠山氏の支城群である遠山十八支城のひとつです。
現地説明板には鎌倉末期の築城とありましたが、資料では岩村遠山氏の景任の弟の景広または子の友勝が築城あるいは居城としていた様です。友勝は織田信長に属しその命により中津川の苗木城に移り、飯羽間城は子の友忠が城主となります。友忠も阿寺城に移ると友忠の子の友信が城主になりました。天正二年(1574年)に武田勝頼の攻撃を受け落城したという記録があるようですが定かでは無いようです。天正三年(1575年)の勝頼による明知城攻めの際に遠山友信が武田方に付いて甲斐に赴いた様で城主不在と成り、この頃飯羽間城は廃城になった様です。
飯羽間遠山氏は友勝=友忠が苗木城主として続き、友忠の子の友政が川尻氏の支城と成っていた苗木城を奪還して、江戸期を通じて大名として続いて行った様です。
5
帰りは大手道を辿って行って見る事しました。かなり竹薮に成ってしまった様ですが、何処の城址も小城は竹に悩まされている所が多い様だが何故だろう。
最近まで山中が竹薮状態だった様だが、大々的に伐採されて見晴らしも良くなっている、整備も大変で有ったろう。
6
切り開かれた大手道を辿り下って行くと、地元の老人クラブ製作設置の手書きの説明版が、所々に設置されていて書かれている歴史を拝見しながら下った。かなり痛んでいるのが残念で有る、後を継ぐ若者は居無いのだろうか?
7
下るのは看板を見ながら下ったが、10分程度で降りて来てしまいました。
でもこの大手道を綺麗に整備して曲輪にも寛げる設備をおすると、ちょっとした地元の交流スペースになるしハイカーや城フェチの休憩スペースにも成る、荒らして置くならちょっと整備して有効活用すると良いと思います。
でも中々面倒見るのは大変かな~!
8
大手道の入り口に着きました。出た場所は西側の農道沿いの水路に橋が架かり農道に鉄製の赤いペンキの塗られた灯篭?が入り口がありました。
水路を無理やり飛び越えて、田んぼの畦道を歩き城山を眺めながら行くと、最初に来た水路にぶつかった、飛び越えアドレス君の待つ駐輪場所に向かった。案内板の30mはちょっと計測間違いでしたね、実際は100mは在りそうでした。
余り散歩に成るほどの距離は無かったが、時々通っていた県道から見えていて気に成っていた飯羽間城でしたので、満足した登城でした。
この後は向かいに有る山で、ナビにも載ってる武並山へ登ってみる事にしてアドレス君で移動します。
関連リンク
[PR]Yahoo!ショッピング