
おこんばんこ どんがらどす
大阪の宝 やしきたかじんさんがお亡くなりになって1日余り 大阪の街は悲しみにくれながらも いつものように どんちゃんさわぎしとるのでしょう。長く番組の相方であった 元プロボクサ 日本ミドル級1位の 顔の大きなお笑い芸人さんも たかじんさんの思い出に ひたりながら みんなでどんちゃんさわぎしてるんじゃないかと 勝手に思っときます。
よく このひとは こども とか この対応は おとなとかいいますが その意味は何なのか?
ひとつは 純粋にまっすぐ考えていると詰まってしまうような問題にあたった時 それを真正面から受け止めて何とかしようとしても 何ともならないと悟った場合 主観と客観を考慮して 悪徳を考え 周囲に対する 行動を抑制する。これが 大人の対応とか言うものの一つ。
他方 子供とよばれるひとは 自分の保身ばかりに注力するあまり 周囲に迷惑をかけていることに気づかない。自分は純粋で素晴らしい人間だということに酔ってしまい 最悪の場合 弱い者 奥さんとかこどもとかを殴ったりする。べつに殴ることすべてが悪いとは思わないけど 自分のフラストレーションのはけ口として殴るのは最悪さいな。殴ってもいいのは 愛のむちの時だけ。しかし それを判定する場合はそのひとびとによって いろいろな考え方になる。世間知らずのPTAの活動的なおばはんにはこの辺のことが理解できていないと思う。もちろん こんなことを指摘したら 火に油を注いだようになるので だんなは大概黙っているのだが それはそれで おばはんには不満で 対応はいよいよエスカレートしてゆき 殴られたことがないちんぴらが多くなってくる。どんなやつでも それなりに 痛い目を見てきていないと 社会は厳しいので しっぺ返しを食らうことになる。そのときそいつがどういう行動に出るのかで その男の真価が試されるような気がするのだが、、、。
かっこいい髪形をして 肩で風切って 上司に偉そうなことばかりほざいているバカガキは 説得しようそして話しかけても にべもなく しまいには怒って おいらの肩にどんとぶつかりやがったので 瞬間的に 顔に掌底してしまった。あちゃーと思って わるいわるい と言って声をかけたら 涙流して もうしわけありませんとか 生まれて初めて殴られたのでとてもうれしいとか 支離滅裂なことをいいやがる。その後 仕事でいろいろと会うたびに そいつはおいらに珈琲とかお茶とかをすぐにもってきてくれるようになった。別にそんなこと戦でもええノニと思っているのだが そんな気分になるようだ。
どうようにコンピュータすきのとなりの部屋の先輩はやさしいひとで おいらも好きだったのでいろいろ遊んでいたのだが おおきなシステム開発をした後 会社を辞めた。何でやめるのか聞いたら この会社ではどれだけ働いても報酬が変わらないのが気に入らなかったそうだ。そして 地元に帰ってやとわれプログラマになった。会社を辞めてから2年くらいネットで話をしてたら一回遊びに来いというので 松山まで行ったけど いろいろ接待してくれてたのに 道後温泉で 一緒に風呂入ってたら 何が気に入らなかったのか知らんけど 先に出ていなくなってしまった。どうしようかと思ったが 次に飯食うところが予約されていたので その時間にゆっくりと店を探していくと その人が待っていた。
コンピュータ屋さんはある意味 一人作業。とことんまで自分を追い込んで仕事をする時が多い。あるいはそういう性格があっていたりもする。もちろん 積極的に先輩に聞いていくやつもいるけど 先輩はもっと忙しいので 普通は自分で何とかしようとするものだ。
コンピュータはある意味非常に正直で まちがった 構文を描くと 動かない。高級言語だとエラーがメッセージとして帰ってくるけど 同じようなメッセージがいっぱいあるので 簡単には原因を突き止められない場合も多い。だから はたから見たら楽しそうに仕事していたのに突然 怒りだしたりする。思った通り動かなかったとき それは自分が悪い場合が多いのだけれど 他人のせいにしたくなるもの。だから フラストレーションたまりまくりで 切れてしまうようだ。
これは こどもなのか?
従来 大人と呼ばれる人にも誰しも子供の部分があり その部分を制御して生きていると言えなくもない。しかし 自己暗示とかマインドコントロールとか呼ばれる領域の技術は それ自体で演じている自分を演出してもいるので そういう フラストレーションがたまる。これをどうやって 昇華するかというと 肉体的においつめて 脳を真っ白にするのが けっこういいようだ。人間が高度な知能タイではなく 肉欲の塊であることを再認識させてくれるということは それ自体で 自分らしいともいえる。
よく ねたきりのおじいさんとかおばあさんは ほとんど あかちゃんのように 純真に見えるようだ。 もう うごけないし 死を待つだけだけど そんなこともどうでもよくなり かんびょうしてくれる 嫁や娘に対しても なんのしがらみもなく すなおに接することができるようになったとき そこには あかちゃんのように なんの気兼ねもなく 素直に欲望に従って生きることになるのだろうと思う。
これは一種の悟りの領域。死の恐怖をも凌駕した人だけが望みうる高見なのだと思う。
うちの親父は60歳で死んだけど 長くがんで苦しんで半狂乱にもなったけど 死に顔は おだやかだったと おかんはいう。あれだけ苦しんで周囲に迷惑かけまくったのに 最後はおだやかに静かに入寂したのだから それはそれでよかったのだろうという感想なのだが、、、、、。
この世に未練を残して死んだ人は成仏できずに 天界から人の世を見ていろいろするのだという思想が日本にはあり それをベースとしたドラマとか映画とかいろいろ描かれるけど じょうぶつしたひとはどうなるのか? あらたな 生命の息吹のもととなるべく分解して いっしゅの巨大な遺伝子プールみたいなものに 魂を還元するという考えもある。個人の死は個人のものだけど 生物進化の連綿の中では 真価が進む方向?に貢献できれば それは死でなく 輪廻とか言うものになってゆくのだろう。
おいらが死んだあと うまれかわることができるのか?
今度生まれ変わったら やっぱり 人間なのか?
人間の痛みや苦しみは もう いいや って 気分。
こんどは わんこになりたい自分と イルカのように自由に遊んでいたい という じぶんがあるのだけど 神様は全能で 圧倒的におとうさまで おとなだから もう一回 にんげんやれといわれるかもしれんなあ?
でも おいらは反骨ものだから 人間に戻されるくらいなら かぶとむしにしてくれっていいそうな、、、、、
じぶんがおこわ
おこわめし たこ
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Posted at
2014/01/12 22:57:42