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dongara1963のブログ一覧

2014年05月08日 イイね!

ZERO GRAVITY ふたたび 175

https://minkara.carview.co.jp/userid/1702280/blog/31900573/

上記は表題の映画が公開されたとき映画館で見た感想だった。

昨日 TSUTAYAに言ったらビデオがあったんで借りてきてみてみた。

まあ 家の32インチだと映画館の3Dの迫力はなくなるけどそれはそれなりに冷静に見えたりもした。

もう 映画も上映終了したし アカデミー賞も取ったしで ふたたび


ーーーねたばれ ねたばれ ねたばれ 注意  中位  注意 ----
































今回見ていて印象に残った最大のシーンは ジョージクルーニーがサンドラブロックから切り離される(みづから切り離す)シーンから、、、。

彼の命を見捨てられないサンドラをひとりでも生き残る可能性が高いほうを選んで水から助かる可能性をほとんど0にしても離れていく判断をするクルーニー。それはそれでその状況でも楽観的であるクルーニーさんはそれなりにすごいのだけれどあるいみ感情を抜いたクリフハンガーの冒頭のシーンと対比できる。落ちたものは叫びながら谷底に落ちてゆく。それは主人公であるランボー男の決断でなく滑って落ちたのだが その原因をめぐって森が足りは展開する。

当然のように落ちたものはもうドラマに戻っては来ない。

クルーニーさんは離れてゆく際にもサンドラを励まし楽観的に話し続ける。そう訓練されているからで それは通信が途絶えたかどうかのテストをずっと続けていることでもありミッションを成功に導くために 可能性を高めるための方法論として最適な方法なのだろう。

その後はサンドラの独り舞台。一人で訓練を思い出しそれを言葉にして自らをはげましつづけながらとまらないようにあきらめないように 振り回されさまざまな物体に翻弄されながら 動き続ける。動き続けて変化する状況の中で変化したミッションの目的 自らが生き残ることを目的とする行動をとり続ける。

そこに突然クルーにーの声。彼はいったん声が途絶えた後も楽観的にしゃべりつづけていたのだ。なぜ通信が回復したのかはわからない。位置取りがうまくいって 地球のどこかで反射するようになったのかもしれないし どこかの衛星で反射してつながるようになったのかもしれないが 助かる見込みがなくなってもクルーニーは訓練道りしゃべりつづけていたというわけだ。彼の言葉に反応するサンドラ。それに反応したクルーニーはすぐに訓練どおり彼女を励ましにかかる。すごいことだ。

これは結局こころ折れそうになって 中国の宇宙船の中で眠ってしまったサンドラの中に幻のクルーニーが登場することへの伏線なのだ。おそらくNASAのミッションプログラムにはそれまでの帰還した宇宙飛行士の経験から心理学的に解析した結果 疲れきって眠ってしまったサンドラの中に 夢の中にすら クルーにーの楽観的な姿が現れる可能性をも高める方法として訓練プログラムjが作られていたのかもしれない?

一瞬先はやみだとか 一瞬の油断が死を招く とかいろいろ言われるが 訓練の先に 判断の速さの重要性がいかに重要化を再確認させられる。もちろん これまでNASAのミッションで死んでいった宇宙飛行士はたくさんいるが彼らも帰ってこなければその経験を次の飛行士に伝えることができない。

ハッピーエンドか悲劇なのかはここで書くことはできない。いくらなんでもそれはこれから見る人には失礼だから。



しかし2001年宇宙のたびが論争の種を深く見たものに提示したという意味で偉大だという手法がスタンリーキューブリックのクラークの演出そのものだとしたら ある意味まったく反対側から描いた最新のテクノロジの進歩を色濃く組み込んで描いたという意味で この映画がアカデミー賞は当然なのだと思う。

てなわけで それぞれの視点でそれぞれの思い込めてそれぞれの人がそれぞれ考える基点として この映画は意味あるものだと思うので


見なはれ
Posted at 2014/05/08 17:23:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | 趣味
2014年05月07日 イイね!

モバイルパソコンは使いやすいのか? 174

おっはよ どんがらです

今朝久しぶりにスタバの市原店に来てみたら ここでWiFiがつながらなくなった。この壁を超えるのが現在常に私の前に降りかかる。まだスタンドアロンのPCを使っているだけだったころ 座って電源入れたらシステムが立ち上がりすぐに仕事が始まれば高い効率で仕事ができるので有効だった。ところが立ち上げてネットにつながらなければ仕事にならないように徐々に会社のシステムが移行してきたのでパソコン立ち上げてもネットにつながらないと意味がなくなってきた。いつものように朝会社に来ていつものように立ち上げたのに問題が発生した場合ネット管理者に連絡して状況を説明してもなかなか問題が解決しないで1時間もすれば 当初の予定が全然くるってしまう。効率化のために立ち上げたツールが思うように動かないということはそれまで予定していなかったことが起こることでありそれを防止するために必要なことは その技術にたけたものが必要になるということなのだが それを一般にネット管理者とか言うことになる。

しかし常にユーザーの立場でいて仕事の締め切り時間が迫っていると焦らない人はいない。そこでそのいらいらをネット管理者にぶちまけるあほうとか若者責任論を語りだす奴にはすぐに周囲が納めさせることになる。何が問題か。ネットストレスとかいうやつか?じゃあ使わないほうがいいのか?そこで論理を進めてはならないのだが焦った若者にはその自制が聞かない。使わんと仕事にならない、、、、。

本音をぶつけ合うことは確かに必要で全然やらないとストレスはどんどんどこかにたまってゆく。たまったストレスは個人の中でそれぞれがそれぞれの方法で消化することを要求されるのだが その辺のことが若者にはわからない場合が多く 平等論とか公正さを時始まるともう これ以上やるとなぐるぞということになる。

問題はどこにあるのか?

いろんなところに終着点を作ることができるが より根源的な議論のためにはまさに親が子を静かに諭すような態度が重要だけれど それが何度も繰り返されると いい加減親も頭にくる。日ごろから職場や家庭 コミュニテーとか村 部落 なんかが楽しい雰囲気でいることが大切だというところに決着させるのが わたしは すきだ。

わたしが入社したとき 会社の技術開発の現場には われわれのチーム(室)とおとなりさんの室 そして別系統(社長系統 われわれは会長系統)の現場開発部隊が共存していた。さらに言えばその場所は親会社の中央研究所の敷地の端に作られていた。そして すべての社員はまず独身寮に税イン叩き込まれる。いわゆるたこ部屋だが、、、。

それをどう感じどう生かしてゆくかは個人に帰せられても 人のそれぞれのメンバーの中に内在するものの中にたまったストレスは はけ口を探して右往左往することになり それはとくに憎悪のどろどろした塊となってはけ口を探す。

新入社員として入社した私(そういう意味では大学院を出るまで実家だったので過保護だ)はそこで新任の開発室長と話をすることになる。

室長は開口一番 どんがらくん 不可能は不可能だよね!

なにがいいたいのだ?

以下かなり脚色する

なになにさんはこうおっしゃる "ほれほれ" べつべつさんはこうおっしゃる "はれはれ"、、、

そこで室長の発言が止まる。会話のルールから言ったら私が何か言うことになる?

それをうけてあなたはどう思うんですか?

びくっとしてその人は答える。 僕もそう思う。

沈黙が流れた。

そんな答えを聞きたいわけではないのだが、、、

別の日こちらから話して見る?

あなたはどんな哲学が好きですか?

何々さんのようになりたいと思ったけどぼくにはできないなあ?

しらんがな?

わたしはニーチェが好きだ!あなたが好きなのは???

沈黙

ヘーゲル? カント? ソクラテス? アリストテレス? 弘法大師? 孔子? 孟子?、、、、

沈黙

だめだおいらの負けだ。何も情報が引き出せなかった。

そのうち本社へ毎週月曜日に室長が訪ねて部長と話をすると いつも怒られまくっているという情報が裏から伝わる。何を意味しているかは大まかには分かるが 詳しいことは分からないしそんなものには興味がない。おっさんはそんな私に話しかける?

ぼくはあきらめが早いのかなあ?

(はい そのとおりでございます) とは言えないので そうなのかもしれませんねえ と答える。

そして次の面接の機会にことは起こった。

一方的に話をはじめ論理を展開してゆく室長。なにも聞いていない私。なんかおかしいと気づいた彼はいった?

どうして何もしゃべらないのかね?

しゃべったら殴りたくなるからです。

いやいやいやいやいや ひとをなぐっちゃいけないでしょう。

わかっとるからだまっとるんやろが!

面談は終了。憎悪だけが増幅されたわけだ。

ミスターイエスマンには状況は理解できないようだ。

こちらの武器は研究。ごちゃごちゃ言わせないための一撃を仕事で見せつけてやるには結果を出すしかない。しかしそのためには室長の承認が必要なこともいろいろありそのたびに下げたくない頭を下げてハンコをもらっているのだ。人間関係が悪化すればするほどこのストレスは機械ごとに増幅しいかりは頂点へと向かう。これをぎりぎりの段階で押しとどめるものが コミュニティとかいうやつで ぎりぎりまで精神を絞って仕事に集中しぎりぎりの段階で思わず何か言ってしまったら周囲が納めにかかる。その怒りは会社そのものをつぶしてやろかとかてめえ殺してやろかというところまで来るのだが 多くの場合じぶんがかわいくなるので 適当な妥協点へと収束する。コミュニティは多いほどいいし わかりあえる友達はいつも必要なのだが だからこそひとはそれを大事にするのだが 閉鎖された部落にいきなり叩き込まれたものにとっては そのやり用は分からない。

もがきあがく中にしか答えはないのに それをするためにもっともうっとうしいやつの承認を得ないといけないわけだ。

これが あほガキの心理。 一方しか見ていないもののあるいはその傾向が強いものの心理。

ほどなく最初の研究報告書を書いた。それを読んだ室長は みなに どんがらくんの報告書はすごいといいはじめた。いつしか仲間の先輩がそんなこと言っとるよと私に言い始める。何がそんなにすごいのかこちらは分からない。私の部隊は バイオ開発室 というなで 大部分のひとは生物系 理学部生物 農学部農芸化学 水産学部 薬学部 といったところだが わたしは応用化学科分析化学。その研究方法は明らかい異なる。それは 複雑性の差 研究対象に対するアプローチの仕方が異なるのだ。ある意味原理から出発しても 分析化学では回答に個人で到達しやすい。べつの言い方を変えれば 環境を整備して系を単純化しやすいのだが それゆえに回答に到達するのもたやすい。しかし 生き物のことはそういう観点でいえばほとんど何もわかっていないので まずたくさん実験し 統計的に有利かどうかという方向で解析を行うので これらを同時にできない。実験技術にたけたものはプレート(培地を入れたプラスチックのシャーレ)に一日1000枚とかの異なった条件の菌株を蒔いて外から別の菌が混入しないように注意しなければならない。いわゆるテクニシャンなのだ。
他方 分析化学を行うものも 多くは実際に実験するときノートに書いて 何を何倍に薄めて検量線を作るのだからということで電卓たたきてそれにひつようなメスフラスコを用意しビュレットでとって希釈する。しかしこれをどんどん効率化してゆくと そんなことをいちいちノートに書かなくてもできるようになる。なぜならわたしは暗算一級だから。小学6年生のころに身に着けた能力は 会社に入ったころ5級くらいにおちていたが それでも他を圧倒する実力を備えていた。私は質問があれば そのつど頭で計算し それだと 11.5468%ぐらいになるからとか平然と言って議論を進めるのだが あいてはおどろくことになる。そして遊び半分で先輩が電卓をもって質問する 1245x35は 43575。一応検算をもう一回している。同時に電卓をたたき始めた人が あってるはとかいう。それを横で見ていた女の子が2回しとったでしょとかいう。

マンマシンインターフェースの重要性が確認される時だ。



あいかわらずの大風呂敷 広げたのでたたんでみる

(1)最初のスタバの話は まずそれ以前で マンマシンインターフェースの立ち上げに苦労するようになるなら それじたい使う意味がなくなり それをフォローするためにはコンピュータシステムの変化に自分で勉強してついてゆくということが必要になってゆくということで そこを目標により使いやすいマンマシンインターフェースを重要視し開発の方向性として推し進めるのがアップルのやり方だ。
他方 マイクロソフト帝国の変遷はまずデフェトスタンダードとなること。APPLE IIやMICROSOFTのBASICが社会に投げ出されたころからその思想は常に微妙な差として進展してゆくことになる。ハードウエアとソフトウエアのつながりについてもっとも重要な提起をしたのは 間違いなくアランチューリングだ。そこにはテープに記録した計算の手順を彼の提案するハードウエア(電子回路)に読み込ませるという自由度をもたせることで さまざまな異なる計算( 3x5や1284÷12とか)をえろえろとおこないせしめた。

私がはじめてコンピュータを買ったのは大学一年の終わり NECのPC8801だ。

カセットテープに記録したソフトウエアをハードウエアで読み解いて実用的なそれを作る。しかしこの方法はハードディスクの低廉化によって一気に開発環境を一変させ それを手に入れることができるものとそうでないものとの差となって表れる。以下パソコン開発氏みたいになってゆくのでやめ。

(2)次のパラグラフで言いたかったことは 目的をどこにおいて行動するか?ということだ。いきなり入った職場では当時売上7000000/年だったのに10年後には20000000000/年 になってることになっていたのだ??? じゃあどうすればいいのか?おいらにはわからないがおいらはそういうときあがくのだが室長はあきらめるのさ。笑うぜ!真のミスターイエスマンなら部長の言うこと聞いてみづから事業計画を立案して提案しろよ。それがあんたの仕事じゃろ!ということだ。

(3)マンマシンインターフェースの話はひととひととのつながりとか関係とか界面(インターフェース)の問題とある意味対比できる。テクノロジの発展はそのつど若者にあらたなツールを提供しその優れた対応を加速させるとき 老人とは異なる新しい道具の使い方を身に着けた彼らには 老害は決して勝てない。そこをまっすぐつきすすんでとまらないものには それを押しとどめようとすること自体が問題を提示することになり ひとびとに脅威と響く。どう扱っていいのかわからなくなるとき それを抑え込んででもいうこと聞かせるという方策は相手が納得するまで行わないと教育にはならない。しかし しばらくするとそれができないと思ったときから自主性とか言う話になった瞬間あほがきはじゃああんたの立場であんたの仕事でそれを見せてみよということになる。、、、、

そして われわれの組織は私が入社後解体される直前の6年間でとなりの部長曰く 仲良しクラブに見える というものになったのだ。わたしから見ればその部長が率いたお隣さんの部隊は大型コンピュータの開発の方策に似ているような気がした。理詰めでビジネスを展開するために部長は部下にその実力を見せつけ 彼らには一種信仰心のような心が芽生え頑張ることができる。おいらの動機と若いころ話した話なら なんのために君は頑張るのかと問えば 彼はなになに部長の夢をかなえるためだという。うらやましかったね。

明日も天気になあれ!

どぼんがら 自分のばかさかげんを痛感する今日この頃であった

ドン・キホーテって なんで風車に向かって 戦いを挑んでいたのだっけ?

何でも売ってる安売り王のドン・キホーテはなぜドン・キホーテって名前にしたのかな?
Posted at 2014/05/07 10:22:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | パソコン/インターネット
2014年05月06日 イイね!

お仕事の思い出 173

最近自分のブログを見てみて 結論に到達する前に力尽きていることを痛感したので まとまった文章に戻すべく?なんか書いてみる。

 ときに平成8年某月某日 新しい電子顕微鏡の設置の日 朝から準備して待っていたが一向に門から到着したという連絡がない。おかしいので9時5分ころ業者に電話したら 門まで来たのだが入れてくれないとのこと 何が起こっているのかわけわかめなので 総務課の設備担当のところに走って 状況を説明 このひとは元装置の係長で現場や警防に顔が利くのだが ふたりで門まで走った。私が何か言おうとしたらいきなりこの人がほえた。

 ”どういうことだ! これは運んでいただくという仕事だ。なにをしとるんじゃ!”

すごい剣幕。警防の人たちは直立不動で状況を説明 すばやく指示があり 系防湿の控え室にビデオ上映装置が設置されそこで20分ばかりの安全教育ビデオが流された。どう考えても相手のほうがプロなのだが新入社員が見るようなビデオをいまさら見せないといけないのは ルールがあり それに四角四面で対応したからなのだが 門を守るものとしての指名からいってわからんでもないのだが 、、、、。

 電子顕微鏡(高さ約2m 重さ 推定2トン以上)をどうやって実験室に運び込むかというと 人力なのだ。およ っとも思ったが 外とかはタイヤのついた運び車に載せてガラガラ移動させる もちろんトラックをできるかぎり入り口に近いところにつけるけど。
 
 棟内はまあちょっと廊下の広い公民館みたいなもので 入り口から何台もの機械が設置されていて そこを少しづつ縦横無尽によけながら 目的のところまで20mあまりを人力で運び込んだ。

 8人くらいの人で運んでいたがその指揮するものとそれに従うもののコンビネーションはいろんな意味で勉強になった。同じことはできないけど。

 先日 新幹線を製作工場から操車場までトラックで運ぶ姿がニュースで流れた。計算しつくされた運送は夜中に始まり 朝の喧騒が始まるまでに仕上げねばならない。ニュースはキャッチーな場面をきょうちょうしてほうえいしていることをさっぴいても陸橋と数センチの間隔で移動させる新幹線車両をみて つくづくプロの技を見せ付けられた気がした。

 もちろん微妙だと思われるところは事前に図っておいたりもするのだろうが どことどこを図っておかないといけないかの判断はその経験とあいまってその業者の技術そのもので それは技であって テクノロジとは違うものなのだ。

 山中先生がiPS細胞の発見(発明?)で有名となりそのひととなりや生きてきた道が報道されたり番組で放映されたり本になったりした。最初は外科医を目指したが 手術が上手にできず 先輩から じゃまなか と呼ばれていたそうだ。外科医にはもちろんテクノロジを理解し応用する能力も高いレベルが要求されるとも実際の手術で微妙なメス捌きや早さ正確さが要求され それは芸術のレベルを要求し探求に終わりはないのだろう。それには実用的な時間内で技を習得しさらにオリジナルな方法を独自に編み出して向上させてゆかなければならないのだろう。そしてその失敗は患者の死につながるし よりうまいひとがより最小限の部位を切り取ることによる回復の速さと 残った部位に幹部の鯨飲となった元を残さないという意味での正確さをはかりにかけて 勝負に出なければならない。さらに そこには不安があっても患者に見せられないという高い精神性を維持しながら 患者を救う目的で殺してしまうリスクとの戦いでもあるのかもしれない。外科医が手術とは何かを問われたとき 患者を何人殺したかということばの奥にある苦痛と回復した患者の喜びの顔を考えたとき その印象は圧倒的に殺したことによる罪の意識のそれがきっと大きいのだろう。それでもなお若い知性は常にその時代にヒポクラテスの近いとともにそこへ果敢と挑んでいるのだ、、、。

 アメリカでは日本に比べ実験的な手術が多く行われる。テクノロジの粋たるものとしては カテーテル治療があるとおもう。脳の特定の部位を切除するためのカテーテルにいれられた極小のはさみはガードワイヤに押し出され 患者の内太ももから挿入されさまざまな臓器をぬって首筋から脳の下から上方へとはいりこみ そこでX線CTのライブ画像を見ながら ちょきんと一回ははさみが入れられ はさみのよこの小さな管からの吸い込み圧で切り取られた患部は固定されて 来た道を逆に進む。さまざまなことが考えられさまざまな予備実験のもとにその計画 患部を一回ちょっきんはおこなわれたのだが これはもう芸術の域に限りなく近い。テクノロジと巣来るの融合による 一種の芸術なのだろう。

 似たようなもので よりテクノロジの勝利に近いものとして低温での心臓手術がある。患者を麻酔で眠らせた後 10℃程度に冷却するための外部循環系にぺリス他ポンプで血液が環流される。ほどなく患者の心臓は停止し 一気に高速で手術が行われる。30分を目標に執刀医とその周りの人たちは全力を尽くす。最高の緊張感を維持し 一気に切除された組織が銀のさらに置かれて基本山場が終了する。縫合され血液があたらめられ 十分な温度30度くらいかに急速に暖められた状態で 心臓に電気ショックが浴びせられ そして心臓がピクリと動き出し 安定した一定のリズムを刻んだとき 全員に安堵のため息が漏れるとともに勝利の喚起にもにた雰囲気が一気に部屋中に充満する。至福のときか! 事態は突然急変する。リズムが変化する。だれかがさけぶ 心室細動だ! リドカインの静注! エピ(エピネフリン アドレナリンの合成物)の集中投与! どらまならその後いろいろなことがいろいろと放映されるが 現実はライブのものたちはそれぞれのたちばでそれぞれの対応を余儀なくされるようだ、、、、、、。

 ちからとわざの風車が回るのは 仮面ライダーV3だが 技術と技の風車が回るそれぞれの立場でそれぞれの仕事でひとびとは異なる次元で悩み苦しみどんどんその技術を芸術の域へと高める努力の途上にあるのかもしれない。

 自然科学はある意味簡単だ。答えは自然の中にあるのだから。どんなに権謀術策にたけたひとでも 自然の現象の前には その影響力で黒いものを白いものとすることはできない。他方 人間社会では 誘導し成功し勝利することもできる。弁護士は依頼者のために働き 白いものでも黒いと証明するのが仕事だとも言う。そういう意味で戦いは続く。それは時代の進歩と社会の変化にそのつど対応することになるけど テクノロジがどんどんすすんで人間についてより深く理解し応用できるようになったとき 弁護士はそのテクノロジをも駆使して 世論を誘導から決定に近いほどに制御することに炊けたものへと変貌するのか?

 最初と最後が肝心という話はよくある。

 終わりよければすべてよしともいう。

 相手が満足し納得した結論に到達するようにさまざまな方策を行う。そのためにいずれ 拷問による洗脳と 説得の間の境界線の問題が社会に答えを求めるのかもしれない?そのとき わたしはどうすべきか? 洗脳と誘導と教育にはどういう違いがあるのか?誰か教えてほしいけど そういうことも私の甘えなのかもしれない?

 どほんがら ややこしい用語の羅列は 結局自分でよくわかっていないのかと再認識されるので おもしろいどほん


どhhっほおおおおんがら
Posted at 2014/05/06 10:51:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | 趣味
2014年05月04日 イイね!

最初に結論あり気の議論 何らかの目的を持つ報告と単なる連絡にはちがいがあるのか 172

おっはよおおおす どんがらです

 昨日の自分のブログを読み返してみて もちろん最初言いたいことがあったのだが 途中から忘れてしまって 結論が導けなかった。まあ よくある 目的のために手段をえらばず さらに手段に夢中になるあまり目的を見失う といったことなのだが、、。

 というわけで 議論の際 その意図が報告者 発表者の資料の中に できるだけ多くの人に伝わりやすいようになっているかどうかが結構重要なようだ。しかしそれはどうやってよりよくなっているのかということを頭の中で想像し考えているだけでは いつまでたってもわからない。実践して生じる問題点を実施で検証し修正を加え 方法論を磨いてゆく。自分で考え自分でブラッシュアップしてその方法を実践するのはときに信頼していない人の前でやるのは苦痛を伴う。そういうときのこころのよりどころは 目的意識とかいうものになるのだが その目的意識を言葉で表現すると聞いているものには不快に聞こえ 本来の目的どうりにならない。そうなると本人の思惑とは別の方向に行動は進むのだが本人にはそれがよくわからない。どんどん暴走することになり 結果なぜか自分は嫌われているような木がするということになるのだが それは容易に改善されるどころか方針を変えないとどんどん傷口はひろがってゆき それが10年とかつづくと どんな人でも この間にはまり始める。どんなに優秀な人でも 大勢の前でこういう質疑応答にあるいはその技術の向上を要求され続けると いつのまにかその対応自体が目的となり 本来の目的からはずれてしまう。そして気づいたとき私は何をしているのだろうかと思い悩むことになる。若者にもこの構造に気づく人はいてどんどんそれに対する対応を向上させてゆく。しかしそのつどその行動の先に本来の自分がやりたかったことが見失われてしまうわけだ。

 先日 35歳でラーメン屋さんの修行に入った人の話があった。そのひとは自分より若いリーダーや先生にそれこそこれでもかというほどの苦しい厳しい修行を短期間でこなさねば 卒業できなければ のれんわけしてはもらえないのだが ぼろぼろになって家に戻ったとき とても耐えられないとの思いとここでできなければ自分には生きる価値もないのかという疑問にさいなまれるようだ。それいこうも彼はっ困難に立ち向かい目的のためにがんばるのだが 結果としてのれんわけを受け多くのものを得て 自分の店を開くことを決意し そして屋台を手に入れる。結論が出た話をマスコミが報道するから わかりやすいのだが それはまあ 劇場型とかいうやつか?

 われわれの時代に子供のころ何かに取り付かれてがんばる部分は確かにあった。だれもが自分でやりたいことをやるために努力するのだが当然のように同年代のものと比較しながら考えるのが簡単だしわかりやすい。そこで倫理のたがの問題にいきわたる。答えはどんどん根源論に消化され 問題点は自分ではなく社会や親に向けられそれとともに時代へと向けられた要請を増してゆくことになるのだが どんなに突き進んでも 永遠に答えには到達しない。問題点はどこにあるのか?

 それはひとつのマイルストーンとか一里塚とかしるしとか言うものを提示するのなら

 すべてのことどもは 諸行無常 とかいうもののひとつのあらわれなのだ。

 もろもろの すべてのことどもは 行動も言動も考えも 常なるものはない のだよ。状況によって 時の流れの中で、、、、、、。

 もちろん言語ですら完璧ではないので この文章そのものにも やまのようにふかんぜんなぶぶんはあるわけで それゆえに完全性を高く求めると答えは必然的に得られない。

 ニュートンの体系はきわめて完成度か高くほとんど完璧に近いのだが 当然のように問題点があるところもある。それは時間と空間という視点での相対性の議論に昇華され その回答はアインシュタインによって導かれ 同時に光子や電子といった量子の世界では量子力学の解釈問題として議論された。アインシュタインの言葉を借りれば

 ”神はさいころを振らない”

 ということになるようだが 統計力学を端とする原理とする理論しか人間にはわからないのだという認識のはて そのさらに内に潜む原理があるはずだという直感はもう新年と呼ぶべきものなのだ。信念がなぜ生じるかとひとは思うときアインシュタインの生い立ちをつぶさに調べそれじたいに納得できる一連の思考体系を構築できれば それは本になったりして ひとびとに広く読まれたりして ミームとなるのだが それを短絡的におかあさんはこどもにするべき方法論として提示してもこどもがそれをやりたがるどころかどんどん無気力になっていったり 最近はするようだ。何かしてやりたいがどうしたらわからないときひとはなにをすべきか?
 ふたたび最初のお話 そのひとの所業にたいする対応としての思考と行動が袋故事に入ってしまったらそれ以上先には進まないので さらに異なる方策を考えるために 別の本を読んだり人に話を聞いたりするわけだ、、、。これはやろうと思えば永遠にできるけど 効果のない方法ではやるいみがない,

先日 養老猛先生がアウトデラックスにでていたTVの話を書いた。友達の先生(生物学者 名前忘れた さんまのなんでかってTVにでているひと)と10日間も東南アジアにいって 虫取りをしてきたそうだ。先生は箱根に虫の標本を保管するたてや かっこいいペンションみたいな建物を持っていて そこにはいっぱい標本がある。
 日々の生活の話ではうろおぼえだけど 朝研究室に行っていた時間におきて 着替えて好きなことを好きなようにして すごし よく食べよく遊ぶのだ。これを矢部君(99)が

 小学生の夏休みみたいだ

とひょうしていた。苦笑いのような照れ笑いのような表情を見せる先生。

 そう まさにそのとおりで あるいみ視聴者の多くがやりたいような生活をしているわけだが それはどうすればできるかが知りたいのだが そこに先生は天才だからということになるらしい。ポイントはきっと時間にあるのだ。誰にでもそれはおなじ思い欲求があるがそのためにはいろんな用件がいる。きわめて重要なものはお金。お金を稼がねばならないのだがそのためには社会に貢献しなければならない。そして日本にはわかりやすい線路がひかれていて その上に載ればいいのだが 初等教育でその壁に当たったら 実際数で行けばそういうひとのほうがほとんど当たらない人に比べて圧倒的に多いから問題は社会に還流し、、、、。

 現在のシステムを若者は批判したくなり批判する権利がありそれに挑戦するだけのパワーとか言うものにあふれている。どこも怪我してないと怪我している人(年をとるとそういうひとはおおくなってゆくがそのひとたちが24時間それを気にしながら生きているという感覚が当然わかものにはわからない)の気持ちや方法論がわからないのだ。

 さていつものように設定を始めて自由論争を適当に展開して きた。

 ここで短絡的な結論に飛びつく際に 意思とくに悪意がからむと それは詐欺とかにつながるのだ。

 結局お話の最初の問いで言いたかったことは

 多くの議論や報告には目的があるということ そこにお金をだましとってやろうという閾値下の意志がある場合それは詐欺師の手法で 同じ構造で議論の結論がいきなり飛んで感想でしかなくなった場合が似非科学とかいうやつとか 危険な新興宗教とかいうやつなのだろう。もちろんこれがすべてではない。そういう意味で幸福の科学は科学でないことがわかりやすくて面白い。

 最近出版される 大川りゅうほしの著作には

”小保方晴子さんの守護霊  に聞いた(インタビュー 対談) STAP細胞は存在する”

 その最初のところに守護霊とは何かそれとの対談とは何かそれはどうやってやるのか さらにそれは大川氏にはできるのだという まあ 公理みたいなものが書かれている。

 表現の自由が保障されている世の中では別にいいのだがまあ こんなもんを信じる人もいるのかと思うとなんか楽しくなる。楽観的な世の中だなあ。いいじだいだなあ。

 公理の正当性を証明するのは結構難しい。それは多くの人が多くの方法で検証しときとともにより精密化して一般化することによって評価されるのだが だからといって 霊の世界をいきなり定義されて始まっても まあ 納得できるのか?しかし 多くの悩む人々にはその差がわからなかったりするみたいだが まあ 多くの人は実用上の問題解決に利用して解決すればそれぞれいいけど まあ お金が絡みだしたら注意が必要なので まあ いいたいことはそれぐらいだ。

てなわけで いつものようにおおくのひろげたふろしきを少しだけたたんで終わりかな?

 どうやらわたしはおかたずけできないひとのようだ。こどものころからおかんにしてきされてきたように 今でも家はひっくり返りまくり、いろんなものが68.79m2の独身親父の部屋に散乱している。

 こどもの教育ってだいじね


どほんがら ほへ

 

Posted at 2014/05/04 12:08:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | 趣味
2014年05月03日 イイね!

最近のコンピュータに適応できない老害のおもい 171

おおごぶさたぶりんこ どんがらどす

 すっかり春が深まり 靴下はかんで 草履でであるけるようになって 爽快な季節となりました。

 数日前 20140428くらいか から インターネットエクスプロ―ラーの脆弱性問題がマスコミに流布されあじゃぱということになった。いろんな公的機関や民間の会社でつかわんようにしよう しばらく みたいなああ 報道。というようなわけで おいらは基本あんまり使わんかったので IEの使い方を知らないが まあ 職場なんかではコンピュータの扱いに強いということになっとるのでいろんなひとがどうしたらいいと聞いてくるので 報道の通り使わんほうがいいんじゃない とか 会社の情報システムから使わんようにせよとかいうから やったらいいんじゃないと軽く言ってたら 何時までに取引先の何々さんに連絡せんといかんのだけど というと 電話したらいいでしょと答えると 電話番号知らんという。名刺に書いてあるんじゃないと聞くと どこかにあると思うんだけど どこにあるかわからんという。ほいじゃということでわたしが普段から使っている いくつかのブラウザを紹介したら インストールのやり方がわからんという。そこまでいくともう私じゃなくて情報システムに電話してどうしたらいいか聞けばいいんじゃないということになるのだが 電話つながらんという。さあ ここでわたしはどうすべきか?

 彼の理屈によれば彼の仕事は会社のマストだから 今つながってる私のコンピュータを貸せということになる。するとわたしは仕事できなくなるんだけどというが優先順位は彼の仕事が高いのだという理屈だそうだ。なんでそうなるのというと当然だというのだがはたして、、、。

 まあ 普段からそれなりに仲の良い人でそれなりにいい人だと思っていたら まあしゃーないなということで 貸したげることにもなるのだが そこまでするのはわたしのしごとのMUSTを超えるというとかりだすあほがいて そのまま立ち去ってしまう。

 さて 問題点はどこにあるのか?

 わたしが彼にこの点を指摘するということはできない。対策はいろいろで
(1)彼が自分で問題を解決できるようになるべきという視点からは わたしのように会社の方針に従ってブラウザはIEを使うというルールを曲げてでも 普段からほかのブラウザも使っておくのが良いと思うのだが まあ 当然のように彼にはそれは却下される可能性が高い。
(2)すると 名刺の整理をして日頃から万一の時はその顧客の電話番号が自分の努力の範囲で独力で探し当てられるようにしたらいいんだと思うという話をすると まあそうだ 今回の件でこのことに痛感したのでやるよという。がたぶん再び問題が起こったらやっていないことは明白だ。
(3)ならば コンピュータを配布して仕事を効率化しようとしている 情報システムに こんな人がある程度どの職場にもいると思うんですがという話をしたら オンライン教育システムがあるのでそれをMUSTとしているのだから知らないというのは言語道断だという話になる

 まあ ほかにもいくらでもいろいろ考えられるのだが それを考える時間コストとかが面倒なのでやめにして気にしないと まあ多くはないがあいつは冷たいとかたのんでも助けてくれないとかいう話になることもあるようだ。ふーーーん という感じ。まあ 人がどう思おうが結構どうでもよいのだが たまに あほみたいなボスを仰がねばならないときもあり そういうときに職場の問題点として一方的に主張するものからだけ意見を聞いて わたしにそういうときは丁寧に対応するのが社会人としての務めだというようなことを言ってくるくずがいると 殺したくなる。

 さて わたしはどうすべきなのか?

 まあ ワンパターン法でいけば 自分の権利と義務論からのやりたいことをやろう的発想になる。

 多重対応型の方法論をとるなら 相談してきたやつといろいろ話をして説得し やらせるようにもっていってやらせるということもできるけど まあ ひとりやふたりこうすると 何人もきたらとても対応できないので これもすぐに破たんする。

 結局 ミッション によって対応は変わるのだが 自分のためにはどうすべきかということを推し進めると動かないのが良いという結論はすぐに得られそういうスタンスでいるひとはたくさんいる。

 テーゼに対してはつねにアンチテーゼが提起されるように 二項対立の先に答えはない。問題はどんどん根源論に還元され そもそもシステムの完全性はどうなのかという問いにはゲーデルが答えを提示している。無駄な努力に終わるわけだ。

 では そこで停止するのか?停止することを非難するつもりはないが どうしたらいいかわからないときは とりあえず行動するのだ。わからんとこをいくら考えてもわからんし 問題が自動的に答えを決定不能にしているのなら考えるだけ無駄なので まあ考えないでいるのが正解だけど すると暇になったりするので 運動するのだよ。行動するのだよ。

 2-3日前 アウトデラックスというダウンタウンの矢部君と巨漢マツコ・デラックスさんが司会をするバラエティに養老猛先生がでていた。そこではアウト君とかいうひとがいるらしく まあ 悩む若者の象徴として番組に出ているみたいだったけど 彼の悩み相談を先生がするわけだ。その青年はいろいろ話をして問題点をあげると一瞬のうちに的確なアドバイスを楽しそうにする先生。いくつかの疑問に対して答えるとともにその論理構成の問題点を提示したり その解決の具体例としてじぶんのようにしたらいいんじゃない と答えるわけだ。2-3の質疑応答ののち 最後に解決不能の問題を提示したアウト君に先生は自分で問題を解けなくしてるのだから前提としている望み何かをあきらめないといけないよというと 彼は 丸め込まれているような気がする といって カーテンが閉められた。

 すでにマスメディア(TV)が広まって50年とかもっと長い時間が過ぎさり 議論は進行し 社会は進歩または変化してきた。その中で取るべき対応にみな苦慮している。若者の悩みはつねにその時代の要請と合致しないし それに適応できないものからみれば 問題を提示することになり事故で完結することが求められるが その解決はない。何が悪いのか?

 まあ 初等教育から高等教育へと変化するあたり 高校生から大学生あたりでの変化を若者がどう考えるかというところがポイントなのかもしれない。

 権利ばかりを主張し義務を果たさない

 種をまかずに収穫だけを得ようとするな

 権利(収穫)ばかりを一方的に得ることだけを欲するのではなく 種(義務)をまけ(はたせ)

とかどっかに書いてあったなあああ。

 この意味が若いころにはよくわからないのは 簡単に言えば過保護とか言うことになるのだが どうなんしょ?過保護は母親の愛情の裏返しで 本質的な欲求だったりするので それを抑制することはストレスを蔓延させることになる。専業主婦の問題なのだが 独立した女性像を垂範する風潮にはどうしたものかという思いもある。積極的に男性社会に踏み出そうというムーブメントに動かされたひとびとは働くことで社会に進出し義務を果たして収穫を独自にえて 権利を主張する。そこでは 働くことによって 結婚しにくくなることの対策や 子供を産んで育てることを押しとどめる圧力が働くようで そのための対策を政府は とくにそういう女性の権利問題を中心として活動する議員は推し進めることになるのだが 。働いている間 こどもは施設に預けられる 預けるところを政府が高いコストをかけても実行すべきが男女平等参画社会とかいうものには必要だという意見はもっともだと思う。しかし 現実問題としてはお金がない。じゃあ稼げばということになり ( ここから一気に展開は暴論化してゆくので注意 ) 安倍首相の経済活動の推進の方策としての三本の柱論から科学技術振興政策へとつながる。あたかも この二つの政策方策を同時に解決した象徴的答えとして STAP細胞問題があるのかもしれない?

 意図しない結果にたいする責任はどこにあるのか?それは社会にあり 政治にあり 権利の主張にあり そして平等性に対する答えにあるのだ。男女は平等であることが確かに重要なのだけれど それは 何の前に?法の前に?神の前に? 、、、。

 ならわれわれはどうすればいいのか?

 まったく別の話としてマンションの管理人のおばちゃん このひとはおいらのファンであるときすごい勢いで迫ってきて 

 ”STAP細胞はあるのかないのか?”

と質問された。

 だんだん面倒になってきたので この話の続きは、、、、、。


 なすがまま きゅうりがぱぱ


どほんがら おあとがよろしくない すんまそん
Posted at 2014/05/03 10:46:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | パソコン/インターネット

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1247kgで1750bhp 何じゃこの数字は?

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何シテル?   08/28 11:52
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