
曇天の中 降らない雨をある意味望んでいるのはわたしだけ? 昔はなんやかんやでいろんなひとが自分の家の前に散水していたものだ。やけたアスファルトを冷却し、輻射熱を押さえ、湿度を部分的に瞬間的に向上させ、しぶきで涼をとり、そしていまならきっと”マイナスイオン”が発生しているとか言うのだろう。コンクリートジャングルがはびこる現代日本ではこの焼け石に水の行為は時とともに失われてきた。無駄なことをしないのは理にかなっているのだが、それだけがすべてじゃない。無駄なことから生まれるものに芸術が宿るのだ。若いころからよく、大いなる無駄 都会宇野が好きで、パチンコしに言って負けたら叫んでいたし、お店で飲んでかねなくなったらやはり行っていたものだ。これらはとても高尚とは言えない動機なのであんまり褒められたものではないのだが、不思議なのは、日々500円ランチを食することを希望する奥さんが、一晩で1万円飲んできたり、パチンコで負けてきたりしても、文句言わないことなのだ?まあ、そういうひとをだんなに持ったのだから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、これは遊興費であって生活費ではないと経理をやってた女の子なんかは思うようだ。おとんはよくおかんのことを大蔵大臣とか言っていた。いまなら財務相か?一応、家の金のことは全部任せていると言うサインなのだが、退職して迷彩(明細)を始めて持って帰って、悪寒は怒り心頭。20年以上も手当てを使い込んできたおやじのことがばれてしまったのだ。こどもごごろに、べつにおとんが稼いだ金なんだから別にいいじゃないかと思っていたのだが、、、、、。
ときは現代。いろんな銀行とか証券会社とか行くと、NISAの看板が目に付く。Nは日本。日本版アイエスエーのことだが、政府が作ったルールによれば、課税額が減額されるのは、ひと口座のみ。取り締まりきれないからだろうが、もうちょっとユーザーフレンドリーにやってもいいとも思う。
日本人は戦後、一生懸命働けば自然に所得は右肩上がりで進んでゆき、わずかなお金もすこしづつ貯金してゆけば自然に5-6%もの年利率で増えてゆくようになっていた。だから、投資などという手間も係り試算を失うリスクを犯すひとはほとんどいなかった。大衆の中には。。。。
現代は政府が指導して一般大衆に投資を促す時代。それはもちろん政治的にもう所得倍増計画は発動できないし、日銀との強調をいくら進めても大衆の財布を膨らませるたすけにもならないからなのだが?国債の利率は10年以上あずけても1%強、2%にもとどかない。昔6%で銀行にお金をア付けていた人にとってこんな仕打ちは我慢ならない。
"You may dream! "鮎川さんがギターを弾く 彼のバンドの歌だ。夢はいつも心の中にある。大人になったらなくなったと思っている人もみんな心の中に、その奥底には 夢を抱いている。子供のころの夢は、わかいときはこどもの稚拙な願望だと思うものなのだが、歳とともにその形や精密さ、バックボーンの知識などは変化するが、総体は綱におなじであるのだ。だれもがこころのなかにこれを持っているのに、それを実行することはできない。趣味に走るというやり方もある。それもまたよい。しかし、いくつになっても子供のころの夢を実社会で実現しようとする心は大切だ。自分はちいさいときバスの運転手になりたかったこともある。誰もが描く姿かもしれないが、どんがらは興味津々、バスに乗ったらすぐに運転手の左のタイヤハウジングの上の高い席に着く。運転手がどうやって運転するのかを一生懸命見る。大きなハンドルを横いっぱいに大きく回しながら、左右のやまほどあるバックミラー、サイドミラーに目をやりつつ、クラッチを操作してゆっくり旋回する。大型2種免許の業だ。右のパネルにはボタンがずらり。適当なところでボタンを一つ押す。逐次的にテープレコーダーが回り、つぎのバス停を案内し、ひばりの声で
”おおりのかたは バタンでお知らせください!”
なんて言っている。こいつは一回間違えると元に戻すのは容易でないので、運転手はどの位置でボタンを押すかを覚えているのだろう。決まったルートを決まった時刻で通過し、目的地に安全に確実に到着する。それが バスドライバーなのだな。時代は移り、路線バスもオートマチックになった。読み上げのコールもコンピュータの音声合成なのだろう。間違ったときに修正が容易だ。
歩いていると速い速度で脇を通過するうるさいバイクをうっとうしいと思い。
バイクに乗ると、でかいづうたいして道をふさぐ車を憎み。
車に乗ると巨大な遅いバスにいらいらする。
でも、乗客としてバスに乗ると、異論ことが見えてくる。バイクの運転手はちょろちょろと狭い内側を通過しようとしている。このままの速度でやり過ごすのが肝要だ、安全だ。軽には気を付ける。おばちゃんのうんてんかもしれないから。停留所ではうしろの車に注意する。複数の反射鏡に バッグモニターもくわえて後ろの奴の動きを観察する。
ホンダドリーム。直列4気筒DOHC750cc4サイクルエンジンを搭載する 車重200kgの怪物が産声を上げた。1960年代後半?。 72馬力にも達した?その最高出力は重い車体を○00km/hにまで引っ張られるという。この速度では小石踏んだだけで転倒だと やったこともないやつが叫ぶ。しかし、CB750Fは倒れたりはしない。そんなに不安定じゃない。重いエンジンはできるだけ低い位置に搭載され、盤区画を稼ぐために、ヘッド部分から逆三角形のような3D構造でミッションをぶらさげているのだから。人々の夢を乗せて50万円くらいしたこのバイクは日本の単車メーカーのフラッグシップとなる。多くの若者がなけなしの銭をはたいて、ローンを組んでまでフォアを買ったものだ。ほどなく、他社も追随する。川崎は人気。海外仕様のZ1をディチューンしてZ2を販売する。スズキやヤマハも黙っちゃいない。750cc市場は一気に主役に躍り出る。世間に大型バイクが闊歩し始め、警察との戦争がはじまる。ほどなく、免許制度に規制がかかる。自動車の免許を取れば自動的についてきた2輪の免許が独立したものとなる。その後、大型と中型と小型に再分類されてしまう。それでも、どうしても大型に乗りたい奴は苦労しても大型2輪を取って、でかいのにのる。ハーレーが好きなものもいるし、BMWの水平対向エンジンにあこがれるものもいる。びもーたの美しいフレームを200万円かけて買うやつも出てくる。
CB750Fの系譜はその後、暴走族のあこがれのマシン CB400Fへとつながる。4インツー1の集合管は改造しなくとも最初からついている。
そして70年代。ホンダと川崎の人気は不動。両社は老舗と若者の関係のようだ。とにかくカワサキはスリムで速い。速さこそバイクの命なのだから。ヤマハはモーターサイクルを売る。リアの一本サスの先駆け、トレーリングアームさすでオフロードでは無敵のマシンを投入する。このころモトクロスではヤマハの天下だた。後れを取ったスズキはまずレースで人気を取りに行く。スクエア4の500cc2サイクルエンジンは単車のエンジンとしては理想的なコンパクトさを示し、機動性をユウキする。そして、石川岩男にもマシンを提供する。ケニー(YAMAHA)の3連覇ののち、絶対王者不明のWGPでスズキは5年連続でチャンピオンを輩出する。毎年ライダーが変わるところがみそだ。そう、マシンが良いのだ。誰が乗っても速く走れるマシンなのだ。RG500.RGA➡RGB➡ そして アールz-ガンマと名付けられた。この名前は現代にもつながっている。レーサーレプリカの基本の一つなのだ。この時代の前後、YAMAHAはRZ250を市場に投入した。いわずとしれた市販レーサーTZ250のディチューン版なのだが、その戦闘力はすさまじく、うまいやつは峠で750を簡単にぶち抜きおいて行ってしまったものだ。その漆黒の水冷2気筒エンジンは車体の小ささ軽さをも加えて加速する。当時4速からでもアクセル一発でういりーできたとも伝えられた怪物。一般のライダーにレーサーとはこんな感じなのだと実感させてくれるマシンだったのだ。そして、ホンダもRS250へのけいふをはじめることとなる。全日本にRS250が多数投入される。YAMAHA一辺倒だった全日本のレースに赤いホンダが多数なだれ込んだのだ。ヤマハは王座の地位を確固足るものとするためついにワークスにYZを呼び戻す。市販レーサーとは明らかに違う世界戦用のマシンは反則とも思われるが、菅生ではほぼ無敵、ここで作られているのだから当然だが。鈴鹿が勝負なのだが、その前に筑波でホンダをあっ等しなければならない。そして、シーズン終盤、チャンピオン争いは激烈を極める。ホンダ対ヤマハの意地をかけた、誇りをかけた、企業同士の戦闘。なりふりかまわぬYAMAHAについにホンダが怒りを見せる。こちらもNS250を持ち込む。WGPの再現は最終戦鈴鹿に託されるのだ。結果に命を懸けた技術者たちの、誇りをかけたライダーの 将来を見据えた若手の思いが鈴鹿に注入される。結果は、、、、、、、。
鈴鹿8時間耐久レースはすでにある意味日本の最高峰のレースとなる。そう、自動車で言うルマン、デイトナ24時間、スパフランコルシャン、、、、、。レースが8時間であるところがみそなのだ。24時間ではなく、スプリントとしては長すぎる。1980年ころはまだ穏やかな時代だった。そして ヨシムラ の優勝。ワークスでない 日本トップのポップヨシムラのチームが優勝してしまった。事件だったのだ。レース好きのライダーたちはこぞってヨシムラの集合管をとりつけた。独特のサウンドがこだまする。森脇はヨシムラのところのスタッフ。ほどなく、自分の会社を興す。モリワキはヨシムラとならぶチューンショップとなり集合管が売れる。モリワキはポップの娘婿でもあった。
時代は進み、いろんなチームがいろんな意味でこのレースに1年をかけて参加する。印象にのこったWGPライダーは山ほどいる。
W。ガードナー 、 W,レイニー、 F.スペンサー。平忠彦、K.keni-?、R.マモーラ???、ケニーのひぞっこチャンピオン(米国)、K.シュワンツ、原田哲也、加藤大二郎(故人)、ノリック(阿部光雄の息子 故人)、坂田和人?、ぜっけん34無敵のチャンピオン、アメリカの若僧(当時 ドカ)、オーストラリアの速い奴(2輪ドリフト)、3兄弟(真ん中は事故で下半身付随)、、、、、
島田紳助だって一時期チームを立てていた。仙石さんを走らせるために、、、、。清水(あのねのね)も参加した。
お祭りの様相が強くなってゆくこのレースの展開は独特。スタートするとGPライダーが速さを見せつける。スプリント並みのペースの耐久レースとして始まる。最初の1時間で大まかな配置が来まる。先行するのはWGPライダーの2人組。狂ったようなペースは衰えない。彼らのマイペースだから。本来の耐久屋は3秒遅れでラップを重ねる。そういう作戦だから。レースの進行とともに、脱落者が出始める。転倒するものは仕方がない。アスファルトからの輻射と暑いエンジンを抱きかかえているのだ、真夏の鈴鹿でもあほほどあついらしい。いまほど機能性に富んだつなぎはまだない。灼熱の中何リットルも汗を流して45-50分走行しなければならないのだから。4時間を過ぎたころからぽつぽつエンジンが怒れるやつらが出てくる。ミッションを痛めたへたくそもリタイアを余儀なくされる。それでも、ピットまでたどり着いたマシンはまだ幸福。エンジンおろして、全バラして部品とっかえて始動すればレースに戻れる。まだ4時間あるのだから???
ライト点灯。昼に始まったレースに暗闇が迫る。全車ライトオンの指示が下る。つかないととめられてしまう。オレンジボールか?そして快調にぶっとばしてきた 平忠彦のテック21はのこり30分くらいで停止してしまう。もう大丈夫だと思ったのもつかのま、マシンを乱オフエリアに止める平。盟友チャンポンがぴっとから見守るが 画面に大写しになった 平忠彦はやりようがない様子。リタイアなのだ。翌年、平は別のパートナーとふたたび灼熱の鈴鹿に立つ。完璧な速さは前年の経験に裏打ちされ、リベンジに燃える平を止めるものは誰もいない。そして、かれの伝説が一つ出来上がったのだ、、、、、。
4耐にはもっと違うドラマがある。まさに売り出し中のノービスライダーはペースなんか関係なく、とにかく全開。だれもおえない速さを見せる。問題はパートナー。相棒は早いし証明されてしまっている。自分の役割はこのポジションを最低のタイムロスで安全に45分走らせること。無理にレッドゾーンまで回さないために、いろんな車のスリップに前の奴の負担にならに用につける。そしてブレーキングで一気に並びかけ抜いてゆく。タイムロスを抑え、マシンをいたわりながらの 安全はパッシング。多少うしろにつめられてもkまわないのだ。そして、3時間15分を経過したとき、1位と2位の差は3秒。エースを投入し最後のスプリントにかける。すでに、40%以上走った2ンドライダーはつなぎを脱ぐ。暑いから。そして、チームの作戦により最終ライダーとなったエースが給油にもどってくる。ライダー交代はなし。相手チームは交代している。もちろん敵のエースが出てくる。
そして、コース上で最後のスプリントが繰り広げられる。今までの苦労をライダーばかりでなくメカニックやスポンサー監督たちのすべての思いを乗せて トライアンフ のために 自分の体力も顧みず 圧倒的な集中力で バトル開始。しろうとにはここまできてなぜリスクを犯すのか? 2位でも十分じゃないか? と思うやつもいる。しかし、ここで勝負しなければレースに出てくる資格はないのだ。自らの持てる力を120%発揮し、やれたマシンに道を入れて前を行くやつをぶち抜きに行く。そして、漆黒の午後8時 ライトに照らされたマシンが戻ってくる。勝ったのは誰なんだ>>>>>
ライダーやレーサーやパイロットは純粋な速さを追及しているとき珠玉の精神状態に突入する。最高の精神状態で操られるマシンはときにその限界をも超える。やれたタイヤで予選を上回るタイムが出る。
これが彼らの夢なのかもしれない。理想の状態は、ランナーズハイをこえる快感だろう。
どおおんがら
Posted at 2013/08/21 14:44:27 | |
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