2014年05月04日
おっはよおおおす どんがらです
昨日の自分のブログを読み返してみて もちろん最初言いたいことがあったのだが 途中から忘れてしまって 結論が導けなかった。まあ よくある 目的のために手段をえらばず さらに手段に夢中になるあまり目的を見失う といったことなのだが、、。
というわけで 議論の際 その意図が報告者 発表者の資料の中に できるだけ多くの人に伝わりやすいようになっているかどうかが結構重要なようだ。しかしそれはどうやってよりよくなっているのかということを頭の中で想像し考えているだけでは いつまでたってもわからない。実践して生じる問題点を実施で検証し修正を加え 方法論を磨いてゆく。自分で考え自分でブラッシュアップしてその方法を実践するのはときに信頼していない人の前でやるのは苦痛を伴う。そういうときのこころのよりどころは 目的意識とかいうものになるのだが その目的意識を言葉で表現すると聞いているものには不快に聞こえ 本来の目的どうりにならない。そうなると本人の思惑とは別の方向に行動は進むのだが本人にはそれがよくわからない。どんどん暴走することになり 結果なぜか自分は嫌われているような木がするということになるのだが それは容易に改善されるどころか方針を変えないとどんどん傷口はひろがってゆき それが10年とかつづくと どんな人でも この間にはまり始める。どんなに優秀な人でも 大勢の前でこういう質疑応答にあるいはその技術の向上を要求され続けると いつのまにかその対応自体が目的となり 本来の目的からはずれてしまう。そして気づいたとき私は何をしているのだろうかと思い悩むことになる。若者にもこの構造に気づく人はいてどんどんそれに対する対応を向上させてゆく。しかしそのつどその行動の先に本来の自分がやりたかったことが見失われてしまうわけだ。
先日 35歳でラーメン屋さんの修行に入った人の話があった。そのひとは自分より若いリーダーや先生にそれこそこれでもかというほどの苦しい厳しい修行を短期間でこなさねば 卒業できなければ のれんわけしてはもらえないのだが ぼろぼろになって家に戻ったとき とても耐えられないとの思いとここでできなければ自分には生きる価値もないのかという疑問にさいなまれるようだ。それいこうも彼はっ困難に立ち向かい目的のためにがんばるのだが 結果としてのれんわけを受け多くのものを得て 自分の店を開くことを決意し そして屋台を手に入れる。結論が出た話をマスコミが報道するから わかりやすいのだが それはまあ 劇場型とかいうやつか?
われわれの時代に子供のころ何かに取り付かれてがんばる部分は確かにあった。だれもが自分でやりたいことをやるために努力するのだが当然のように同年代のものと比較しながら考えるのが簡単だしわかりやすい。そこで倫理のたがの問題にいきわたる。答えはどんどん根源論に消化され 問題点は自分ではなく社会や親に向けられそれとともに時代へと向けられた要請を増してゆくことになるのだが どんなに突き進んでも 永遠に答えには到達しない。問題点はどこにあるのか?
それはひとつのマイルストーンとか一里塚とかしるしとか言うものを提示するのなら
すべてのことどもは 諸行無常 とかいうもののひとつのあらわれなのだ。
もろもろの すべてのことどもは 行動も言動も考えも 常なるものはない のだよ。状況によって 時の流れの中で、、、、、、。
もちろん言語ですら完璧ではないので この文章そのものにも やまのようにふかんぜんなぶぶんはあるわけで それゆえに完全性を高く求めると答えは必然的に得られない。
ニュートンの体系はきわめて完成度か高くほとんど完璧に近いのだが 当然のように問題点があるところもある。それは時間と空間という視点での相対性の議論に昇華され その回答はアインシュタインによって導かれ 同時に光子や電子といった量子の世界では量子力学の解釈問題として議論された。アインシュタインの言葉を借りれば
”神はさいころを振らない”
ということになるようだが 統計力学を端とする原理とする理論しか人間にはわからないのだという認識のはて そのさらに内に潜む原理があるはずだという直感はもう新年と呼ぶべきものなのだ。信念がなぜ生じるかとひとは思うときアインシュタインの生い立ちをつぶさに調べそれじたいに納得できる一連の思考体系を構築できれば それは本になったりして ひとびとに広く読まれたりして ミームとなるのだが それを短絡的におかあさんはこどもにするべき方法論として提示してもこどもがそれをやりたがるどころかどんどん無気力になっていったり 最近はするようだ。何かしてやりたいがどうしたらわからないときひとはなにをすべきか?
ふたたび最初のお話 そのひとの所業にたいする対応としての思考と行動が袋故事に入ってしまったらそれ以上先には進まないので さらに異なる方策を考えるために 別の本を読んだり人に話を聞いたりするわけだ、、、。これはやろうと思えば永遠にできるけど 効果のない方法ではやるいみがない,
先日 養老猛先生がアウトデラックスにでていたTVの話を書いた。友達の先生(生物学者 名前忘れた さんまのなんでかってTVにでているひと)と10日間も東南アジアにいって 虫取りをしてきたそうだ。先生は箱根に虫の標本を保管するたてや かっこいいペンションみたいな建物を持っていて そこにはいっぱい標本がある。
日々の生活の話ではうろおぼえだけど 朝研究室に行っていた時間におきて 着替えて好きなことを好きなようにして すごし よく食べよく遊ぶのだ。これを矢部君(99)が
小学生の夏休みみたいだ
とひょうしていた。苦笑いのような照れ笑いのような表情を見せる先生。
そう まさにそのとおりで あるいみ視聴者の多くがやりたいような生活をしているわけだが それはどうすればできるかが知りたいのだが そこに先生は天才だからということになるらしい。ポイントはきっと時間にあるのだ。誰にでもそれはおなじ思い欲求があるがそのためにはいろんな用件がいる。きわめて重要なものはお金。お金を稼がねばならないのだがそのためには社会に貢献しなければならない。そして日本にはわかりやすい線路がひかれていて その上に載ればいいのだが 初等教育でその壁に当たったら 実際数で行けばそういうひとのほうがほとんど当たらない人に比べて圧倒的に多いから問題は社会に還流し、、、、。
現在のシステムを若者は批判したくなり批判する権利がありそれに挑戦するだけのパワーとか言うものにあふれている。どこも怪我してないと怪我している人(年をとるとそういうひとはおおくなってゆくがそのひとたちが24時間それを気にしながら生きているという感覚が当然わかものにはわからない)の気持ちや方法論がわからないのだ。
さていつものように設定を始めて自由論争を適当に展開して きた。
ここで短絡的な結論に飛びつく際に 意思とくに悪意がからむと それは詐欺とかにつながるのだ。
結局お話の最初の問いで言いたかったことは
多くの議論や報告には目的があるということ そこにお金をだましとってやろうという閾値下の意志がある場合それは詐欺師の手法で 同じ構造で議論の結論がいきなり飛んで感想でしかなくなった場合が似非科学とかいうやつとか 危険な新興宗教とかいうやつなのだろう。もちろんこれがすべてではない。そういう意味で幸福の科学は科学でないことがわかりやすくて面白い。
最近出版される 大川りゅうほしの著作には
”小保方晴子さんの守護霊 に聞いた(インタビュー 対談) STAP細胞は存在する”
その最初のところに守護霊とは何かそれとの対談とは何かそれはどうやってやるのか さらにそれは大川氏にはできるのだという まあ 公理みたいなものが書かれている。
表現の自由が保障されている世の中では別にいいのだがまあ こんなもんを信じる人もいるのかと思うとなんか楽しくなる。楽観的な世の中だなあ。いいじだいだなあ。
公理の正当性を証明するのは結構難しい。それは多くの人が多くの方法で検証しときとともにより精密化して一般化することによって評価されるのだが だからといって 霊の世界をいきなり定義されて始まっても まあ 納得できるのか?しかし 多くの悩む人々にはその差がわからなかったりするみたいだが まあ 多くの人は実用上の問題解決に利用して解決すればそれぞれいいけど まあ お金が絡みだしたら注意が必要なので まあ いいたいことはそれぐらいだ。
てなわけで いつものようにおおくのひろげたふろしきを少しだけたたんで終わりかな?
どうやらわたしはおかたずけできないひとのようだ。こどものころからおかんにしてきされてきたように 今でも家はひっくり返りまくり、いろんなものが68.79m2の独身親父の部屋に散乱している。
こどもの教育ってだいじね
どほんがら ほへ
Posted at 2014/05/04 12:08:07 | |
トラックバック(0) |
雨の土曜日 | 趣味