
そとはまだ暗いけど おはようございます どんがらどす
昨日、ちゃりで夜の闇の中を走った。昔の主要道は自転車専用レーンがないので危険だから出きるだけ避け、新しくよく整備された大きな道路を進んだ。ほどなくあるお店の前にさしかかると、細い部分で前方の黒い大きなセダンがいきなり下がってきた。前方を防がれた形のどんがらは回避すべく急制動。左足をつこうとしたら、先がない?そお、高くなっている歩道と車道の間が急激なスロープとなっていたのだ。左足が接地したときには、バイスクルは左版区画の限界を超える。 転倒 。そのままもんどりうって車道に出てしまう。運良く車道はカラ。立ち上がって、茶りんこの元へ。体の痛みをチャック。ダウンしたボクサーのようだ。前方の壁はなおすこし後方に推移した。このあほ、見ときやがれ と思うが 運転手の老人には何も見えていないようだ。転倒したことすら気づいていない。 ほどなく 後方から車道に出たセダンは加速しいなくなった。車を運転しているときはおいらだって気づかぬうちにこんなことをし取るんだ謳歌と思った。中尉が肝要だが、恐らく、逆向けに停車してしまうことが中尉を散漫にさせるのだろう。
ひとのふりみてわがふりなおせ。
ヒトとヒトとの関係も相対的な関係のひとつだ。1対1対応。しかし、その状況に持ち込むこと自体がなかなか困難を極める。もちこんだらこちらのものなのだが、そうなると根性がなくなってしまう?若いころ、会社の寮のまえに銀行のキャッシュディスペンサー?があった。会社の帰りとか晩飯のときとかにここによって、1万円下ろす。いっぺんにいっぱいおろすと使ってしまうので、1万円づつ下ろす。事実上のお財布なのだが。
みんなここでおろすので、5時半ー6時くらいは結構混んでいる。並んでいるとうしろに顔見知りの女の子が私服で並んでいたりする。制服や作業着でない女の子はちょっと新鮮でちょっと普段より魅力的だ。
”こんちわ”
”こんにちわーーー(はーと)”
”遊びにゆくんけ!”
”そうじゃないですよおおおおお”
てな感じで自分の番が来るまで楽しく会話。あるとき、ひとつ入社ねんどの後輩のきれいな女の子が私の後ろにいた。なんか悩んでいるようなことを言ってきたので、めんどくさいから そら ”何々 な だけじゃなーーい!” とか適当なことを言っておく。突然満面の笑みに変わる彼女。かわいいいい!答えは ”そうかもしれません”。まあ、こんなものだ。その後その裏がわかるが、めんどくさいのでここでは割愛。そう、3日後 彼女は少女を卒業したのだ。そして 数年後 先輩とゴールイン。先輩いわく
”ちち ちいさいぜ!”
もう、おのろけはどちらの側からも十分だぜ!
こどものころからなぜかドンガラは人気者。中学生のころはチョコレートもらって真剣に目を見て告白されたりもした。当然逃げてしまったが、、、、、。この正確は他人には特に結婚前の若い女の子達にはミステリアスに見えるようだ(岩田行雄)。入社3年目のころ、職場の花だったFさんと先輩Tさんおよび後輩だが同い年のKと4人でTさんのところに飲みに行くことになった。わなだったんだが、、、。
程なく、奥さんが実家に戻っているTさんが自慢の日本酒をあける。うまい。そこで、追い込みがかかる。Fさんがいろいろ聞いてくる。酔っ払ってるので正直に答える。
”どんがらさんはおんなのこにはらがたったらどうするの?”
”そら、こいつ どついたろか と思うよ!”
すかさずKがかぶせた。
”そして、殴るんでしょ!”
”そんなことはせんよ。雄にゃごのこなぐったらいかんよ。殴ったろかの気合で あほんだら っていってやるのさ”
翌日、実験室でじゅんびしてたら、Fさんが若い女の子と話していた。
”どんがらさんはけっして女の子をなぐったりしないから、安心していいよ!”
なんの請っちゃト思うが、仕事があるので無視して実験へ向かう。まあ、こんな感じですこしづつおねえちゃんネットワークに情報がアップロードされてゆく。おねえちゃんネットワークの伝達速度は光の速さを超える。事務所で話したことが、その50m先の研究棟の自分の実験室についたらもう周りの女の子はみんな知っていた。恐ろしいことだ。監視社会か???
なーんてね
原理は単純で、技術は複雑さを極め それでいてひとにはやさしい そんな技術が社会で生き残る。言葉にするのは簡単だが これを実践するのは困難を極める。結局、既存の製品とどのように良いと感じられるのか? それが問われる。きっかけだけなら 理屈で何とでもなるのだが 長くお使いいただくには本質的なマンフレンドリーな性能が問われてしまう。既存の製品だって、かつてはこの厳しい門をくづってきているので、敵の性能は半端ではない。だからといって、立ち往生するもの、絶望するものには未来は開けない 開かない 開いてくれない。闇の中を一歩づく確実に歩みをすすめるように、深くシスかに潜行し そして 浮上するのだ。
晴れているのか くもっているのか それが 問題だが 気象庁の長期予報によれば きっと 晴れだ! 個人的にはよくわからない。だって、ずっと潜航していたんじゃ きしょうのことなんかわかるわけないから、、、。さあ、書を捨て 町に出よう。うん 雨降ってきたか??? ⇒最近こればっかりのどんがらどした。
(追記)
相対性理論は、特殊と一般に分かれる。特殊相対性理論の原点となった ”電磁体の運動に関する理論?”が書かれた1904年は アインシュタイン奇跡の年。アインシュタインの書く方程式は基本的に判りやすく ひとにやさしい。もちろん、その意味するところを考えるのは困難を極めるが、、、。アインシュタイン方程式が簡単に見えるのは、彼が本格的に高等数学を学ばなかったことによると言う評論かもいる。まあ、間違ってはいないが、彼の真の力は その圧倒的な直観力、持続力、挑戦意欲 にあると思う。そういう意味では20世紀に現れた 最後の直感的天才なのかもしれない。ニュートン以来だ。
現代の最先端の理論を展開するすべての物理学者はほぼ間違いなく、量子論と相対論を同時に満足させる方程式を自分の定義した仮定した領域に持ち込まざる終えない。これらの統一はその総体としてアインシュタイン自信から現代まで111年続けられているが、一般解放はいまだ人類にその姿を示さない。
宇宙論の先端では、もちろん主要な流れとしてウイッテンの跡継ぎ達が日夜 M理論を 万物理論を 統一理論を 絶対理論を 追い求めている。彼らもそんなに単純ではないので、閉ざされた自分の閉鎖系の中で最大限のパフォーマンスを狙う。そして、ちょっと逸脱してみる。そう、アインシュタインの領域からその外を眺めたくなるのだ。4次元時空連続体に新しい軸を設定する。とりあえず 論文にするためには 目的と解法が必要だ。話題の一つはセルンにある。世界最大の陽子加速器が稼動し始めている。ヒッグスのしっぽはみつかったか?副次的に何かが起こるか?信じられないほどの高エネルギー密度はマメブラックホールを作るか?どんな性質のどんな大きさのそして何が観測されるのか、現在の検出器構成で、、、。これらの初期条件をときに各装置の境界条件として、量子論と相対論に展開し、無矛盾仲居を導出することを試みる。このときの理論物理学者は ほとんど数学者なのだ。数学が気づいてきたありとあらゆる手法を活用し、必要なら知らないものを勉強し、どうしてもなければ新しい小売形の元での数学すら構築すれば 最終的に一定の条件の下での 統一理論が得られるかもしれないからだ。もちろん、議論をどんどん精密化してゆくと、いろんなことがみえてきて、境界条件をより密にしたり、初期条件にフィードバックしたりもするが、最終的には統一解を得ることが目的だ。多くの場合この問題は解けない。難解な量子論ではなく、単純な相対論の非線形性がネックとなる。みんな知ってるから、系に望む前に前もってこの壁を突破するアイデアを考えておく人もいるだろう。しかし、数学が自然科学と、結びつくとき そこには自然の複雑性が取り込まれるので もう 数学は応用数学となり 美しい調べを示さない。単純明快で一部のすきもないきれいな数学体系などくそくらえ。現実は甘くはないのだ。
かの美人理論物理学者は、5つ目の次元としてすでに一般的となった 超ひもからの派生物であるメンブレンを定義する。そして、量子論ばかりでなく相対論からも解を得る。発表し、インタビュアーがつぎつぎに質問を浴びせる。彼女はその美しい容姿にたいするこめんとをしない。そんなものはききあきたし、物理学者としての自分の業績とはなんら関係ないからだが、それによってマスコミばかりでなく学会も自分を注視していることは知っているのだ。彼女の理論が予言することには、ス^パ^コライダー で5つ目の次元の存在を証明できる放射が観測されるはずだと言うことになるようだ。結果をどんがらはよくしらない。どちらにかけろかといわれれば、だめだというほうにしたほうが期待値は高いだろう。
学校に適応できない子供はつねにいた。そして、画一化の時代をへて、不確実性の時代をむかえ、ひとびとに不安が広がる。 ”不確実性” は その語源を間違いなく ハイゼンベルグ に帰結する。そう、彼はこの理論で ”観測精度に本質的な限界が内在している” ことを方程式で示してしまったのだ。
Δx ・ Δt < hc
位置と時間を同時に測定するとき その片方の精度を高めてゆくと反対側の精度には限界があると言う風に見えるこの定式は 恐るべき事実を示している。つまり、科学には限界が存在することということである。そのことは、さらに翻って、より単純な系である 人間社会にもどうようにそれ以下の複雑性であっても やはり 限界があることを暗示しているのでもある。この点をついたいろんな似非社会学者の理論があるが 変な定式を書いてあるやつは全部うそだ。この意味を社会に適用するのは本質的には言葉ではできないが、数式でもやはりできないのだ。社会は複雑性の第三段階。人間などと言う狭い了見のものに定式化できるほど単純でももちろん簡単でもないのだから、、、。
それでも、その形骸をなんとか社会学的理論に昇華させる努力は社会学者の使命でもある。そして、1980年代-1990年代 ”不確実性の時代” が執筆され 多くのひとびとにこの概念の社会適応性を説いて見せたのである。その手法は 褒めすぎかもしれないが アリストテレス エト メタフィジカ (形而上学) に通鶴ほどだといっても良いと思う。ガルブレイス博士の概念はほとんどその題名に昇華されているので 多くを語らないが 一つだけ指摘しておこう。
上述のハイゼンベルグの定式にもどる。
オーダーだけを少し考えてみる。hはプランク定数。そのオーダーは標準系で10のマイナス34乗。いま、直径12000kmの地球で1mの精度でxを測定したとすると Δxは1/(12000*1000)=約8.333x10^-8、 1年後のこの地球を1秒の精度で観測しようとすると Δtは1/(365*24*60*60)=約3.1*10^-8
すなわち Δx ・ Δt = 約2.58x10^-17 でしかない。光速を考慮しても3*10^10m/s だから 大小関係を比較するhに対する評価値は 9.1*10^-28、、、。そう、プランク定数より6桁も小さいのだ。100万分の一のオーダー。地球の直径のオーダーを1mの精度で1年で1秒の誤差で観測してもこの限界に到達するには100万倍の余裕があるのだ。100万倍をどう評価するかが問題なのだが、これをどんがらは安心と捉える。そう、まだこの程度の精度なら 自然は不確実性を示さないのだ。このオーダーのままバライアティを複雑化すればその多様性は無限に近い。ようはやりよう、考えようなのだ。ひとの知恵でまっすぐ精度だけを追い求めなければ、多様性で不確実性を回避できると言うことだと思っている。安心してください 不確実性は注意すれば回避できるのです。
この精度までくると、先に顔を出すのは 不完全性 なのかもしれない。形式的数論より複雑な系にはゲーデルの魔が忍び寄る。その系すなわち社会システムは本質的に不完全なのだ。同時に言語系は完全なのだが、、、。数えること自体、簡単に翻訳すれば 整数 が系に取り込まれただけで それは不完全となってしまうらしい。 そのことは 数を数えることであり もちろん 四則演算(足す、引く、かける、割る)すら受け入れてはくれない。定量化は拒否するしかないのだ。だからきっと ハイゼンベルグの不確実性より ゲーデルの不完全性のほうが 社会に速く牙をむくはずだ。
現代はガルブレイスのいう 不確実性の時代ではなく 不完全性の時代 と言ったほうがきっとただしいのだ。
なーんてね!
どんがら