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2014年05月11日 イイね!

恐れ多くも ダーウイン先生の”進化論”について 読書感想文 178

おおはようう どんがらす  雲一つないド晴天 みなさんいかがお過ごしかね 今日は日曜日明日は月曜日 ずっと続くといつ終わるのかおらは知らん。

すでに言い尽くされているかもしれないが ”種の起源” について考えてみる。

多くの議論が巻き起こされている種として じが蜂さんの生体特に 卵を産み付け帰るまでの姿がきわめて印象的だね。

ダーウインさんはこの様子を一生懸命観察し ”このシステムが神の計画だとはとても思えない” と キリスト教万能の世の中で悩んだみたい。

じが蜂さんはなんとかマイマイ蛾(ええ加減ですいません) とにかく蝶ではなく蛾だ の幼虫にに卵を産みつける。幼虫はいわゆるでっかい芋虫でまあカブトムシの幼虫さんのお仲間みたいなもんかな。産み付けられた卵はやがて孵化し幼生となる。ウジ虫さんのお友達かな。こいつはまず自分の周囲にある豊富な栄養である芋虫さんを食べて成長する。食べられるほうの芋虫さんは生きているそうだ。生まれたてのウジ虫さんはまず芋虫さんの神経系を食べに行く。一部の神経系を食べられた芋虫さんは行動が遅くなり動きにくくなる。苦痛に身もだえしにくくなるともいえる。そしてうごきにくくなった芋虫さんをウジ虫さんは食べていくわけね。

しばらくすると芋虫さんは行動できないから自ら小さくなってゆくと同時に食べられながらも小さくなってゆくので死んではいないようでときどきびくっとするんだとか。そしていつかじが蜂さんは羽が生えて大空に飛び立つ。旅立ちのシーンだ。そこには 死んだ芋虫さんが残される。しかしいっぱいかんさつしていると 飛び立ってぼろぼろの体なのにぴくっとうごく芋虫さんがいたそうな。さらにいっぱい探して見つけた中には 上半身だけさなぎになってお尻のあたりは食べられたけど羽根がはえていない芋虫のさなぎに変態したのとかが見つかりこいつは動いていたりする。だいたいわかってきたかな。

 ひとつの命が生まれるために別の命が使われるのだけど新鮮な餌としての芋虫さんは新鮮さを保つために生きながら食われることになる。こんなシステムを考えて作った奴がいたらそれも神の御業と言えるのかなってことみたいね。

ダーウインの進化論には神が創造した設計図は出てこない。

科学だから。宗教じゃないし。

でもダーウインも神の子。神の洗礼を受け聖書とともに育った賢い子供時代があったんだね。

このギミックはいろんなSF映画につかわえていると思うけど おいらに印象深いのはやっぱりエイリアン。最初の奴。

エイリアンがなにものかはちゃんとわからんけど どっかの異性の偉い人が作った生物兵器じゃないという見方もあった。映画ではエイリアンの卵は人間の体に入って成長する。宇宙服だって溶かす強酸と再構成されるシリコン樹脂高分子体をもっているけどそれ以外にもいろいろあるのは何かわからない。最初のエイリアンではこの成長の過程が描かれ リプリーさんは闘いそして一人逃げるのだがそのからだになにかあるかもしれないみたいなおわりかた、、、。
エイリアンIIでは別の星で連絡が途絶えた移植者たちを救いに行くかっこいい戦闘部隊の話となる。そしてエイリアンの巣に入った隊員たちは壁のあちこちに埋められた人間を発見し その中に瀕死の女性にわずかに息をしている。彼女はゆっくりそっとさけぶ

 ころして

その瞬間から大きな音。別の隊員がやはり壁に埋め込まれたように休眠していた大人のエイリアンたちがうごめいて銃を放ち始めたのだ。音を引き金にそれまで壁だと思われた巣のあちこちからエイリアンさんたちが起き上がる。状況を察知した隊長は一気に後退を叫ぶが、、、、。


エイリアンはたぶん3,4までつくられ その後プレデタさんとの戦いはどんどん娯楽化していった。

リドリースコット監督にはもともとの最初の人類とエイリアンが遭遇した異性の宇宙船がどのようにその住協になったのかという物語があったのだけれど それは最近30年くらいたってようやく映画として描かれた。最新のSFX技術で

 プロメテウス ってやつだ

プロメテウスさんはゼウスさん?に逆らって ひとに道具の使い方や作り方を教えた神さん?みたいだけど それは今様なら技術の神さん。科学的な知識技能をさずけたこまりもののおっさんでゼウスに破門?させられたやつだ。

超知性が進化の重要な場面でひとに知恵を授けたという フィクション(作り話)は 2001年宇宙の旅のスターチャイルドやモノリスとして描かれたのが最初だと思う(映画でだけど)。しかしこの概念だけなら昔からあり それはたとえば西洋の神さんだけど 繰り返されて現代にいたる。

ずっとつづくキリスト教原理主義者と科学との戦いは1990年代の 創造科学論争とか 2000年以降のID(インテリジェントデザイン)と科学者との戦いなんかに見られ いつでもあるようだ。カール セーガンさんが書いてた。

だからこういう一連の流れのやり方を踏襲している 幸福の科学は科学でなく宗教でなんら新しい発明でも何でもないのだけれど 面白いことは面白い。
 
 科学とは何かというと 反証可能性を残すものとか 絶対なものは何もないのだとする とか表現される。その表現のスキを対抗しようとするものはつくのだ。

 世界が真と偽だけでできていたら 反証は不可能なんだけど 最低でも決定不能な問題が作れる(真でも偽でもないわからないという命題(問題))ことは 自然数を扱う程度に複雑なシステムでは可能だとゲーデルさんは証明してしまったし、、、。

 まとめ

(1)ダーウインさんの進化論のなかで彼が最も悩んだじが蜂さんとその幼生および生きながら食べられていく芋虫さんというシステムは 神の所業とはとても思えないし むしろ悪魔の所業みたいにみえるし 

(2)進化論(科学) 原理主義者(宗教)の主張の表面的対立の構図は鼬ごっこになってるってこと

(3)超知性が進化を加速させたりしたというギミックはフィクションでそんな証拠はないけど当然のようにそれがあるとする根拠もないので 創造科学や幸福の科学は科学じゃないってこと IDも

(4)よのなかのこととか万物は あるかないかだけではなくて わからないというもんがいっぱいありむしろその方が多いとおもう。その中には歩かないかがはっきりするものと 決定できないものと さらにはそのどちらでもないもの(この中身はおいらにはわからんほどいろいろきっとある) があるんじゃない。そしてあらゆる大きさであらゆる時間であらゆることがぜんぶわかるわけじゃない。もしわかったらそれは神さんだけど じゃあ神さんはどうやって現れたのかと問いたくなる。

 問題を自分で解けなくして その回答を求められても 前提を変えなはれとか言えん みたいなことを 養老猛さんなら いっとたいな。

Posted at 2014/05/11 08:34:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | 趣味
2014年05月10日 イイね!

鏡に映る私は左右が反対になり上下はそのまま 176

今日は明るい土曜日 日差しがまぶしいあさのひととき みなさまいかがお過ごしでしょうか?

 表題の問題は私が小学生3年の時に鏡のとくせいとして学んだことだがなぜそうなるのかその時はわからなかった。大学生のころこの問題は認識論の問題なのだと分かったがひとにうまくせつめいすることはできなかった。というわけで 30年ぶりくらいにこの問題にいま果敢に挑む一人の戦士がいた。 その名は どんがら    信性のバカだ

 確かに鏡に映った私の右手はその中のひとの左手だ。しかし 頭は中の人にとっても頭なのでやぱり頭は反対にはならない。そういう意味でこれは対称性の問題だと分かるけど そんなことを小学生に行っても理解してくれるはずはない。

 小学生は 左手と右手をどうやって認識しているのか?

 お茶碗を持つ手が左手で 橋を持つのが右手 (ぎっちょのひとには逆に教えんといかん)

 じゃあぎっちょのひとの気持になってかんがえてみるとわかるのかというと全然わからない。ぎっ丁の人はお箸を持つ手を左手とおもっているけど 鏡に映る自分の姿でお箸を持ってる自分は経験でご飯を食べているときにはおちゃわんをもつほうなので 確かに逆になっており そして頭はう、、、。

 循環論法ってやつにおちいると系から抜け出せない。

 こんな議論を次々に考えてもらちが明かないので 言語を定義するところまでさかのぼらないとわけわかめ。

 今かりに2つの目がついている方向を ”左右” それに直角の方向を ”上下” ということにする。

(あまりにあたりまえすぎてなきたくなる。)

 ここで 目が縦についている人のことを考えてみる。
 するとそのひとにとって 目がついている方向はわれわれにとっての上下だけど 彼にとっては左右だ。

(あたまぐるぐる)

 彼は鏡に映った自分をこういうんじゃないかと思う。

 ”鏡に映った私の姿は左右がそのままで上下が逆になっている”

 
証明終わり

 われわれは左右という概念をどうとらえているのだろうか?我々にまずわかりやすいのは重さがかかる方向 重力の方向 リンゴが落ちる方向(てへ) 。これをきっと上下と呼ぶようになったんだ。すると リンゴが落ちない方向 直角の方向 力を加えないとかってには動かない方向を さゆうとよんだんだね きっとだけど。

 最初に生じた基準軸とその相対として直角軸とそれぞれに対応する概念とことば は 自発的に系の非対称性を誘発し そのうちの一方の軸だけが反転するような対称性を生じるように感じる変換(かがみにはんしゃすること)をもともとの概念から自発的にその一意性をどちらかの概念だけに賞かせしむる。

 横から見たら鏡に映る自分の姿と自分は一対一に対応しているけどそこにそれを見ている人には上下で起こっていることと左右で起こっていることに差が生じない。

 違う見方をすると 鏡に映った自分とそれを見ている自分を 背後から見ているものにはこれらの系で起こっていることがわかりやすい。

 だんだんいいたいことがわかってきたねんのねん。

 2Dの変換を3Dで見ているひとにはいろんな見方ができると同時に2Dのなかのひとにはわからないことがいっぱいわかるということね。



 そして話は一気に進む。では 

 3Dの私たちを4Dから見ている人には何がわかるのか?

 その4Dのひとをみている5Dのひとには?

すでに私ごときにはとても何とも言えないほどの複雑怪奇な世界がそこにはありそれをりかいできるやつはきっととてつもなく頭がいいのだ。

 もし 次元が無限にあって それ思俯瞰している奴がいたら きっとそれは神さんさね

 逆に言えば たぶん3Dのわれわれを瞬時に理解できる4Dの知性はとてもわれわれには及ばないような頭のいい人で このひとと先の神さんを我々が識別することはきっと不可能だ。

 さらに逆の逆に言えば鏡の中の住人(2D)にはわれわれ(3D)のひとがわかることはきっとわからない。



 先の神さんの概念の源流は プラトンのイデアのお話を源流としている。

 我々が見ている現実の世界はそれを俯瞰してみている神様には真の世界のひとびとに見えているものは 我々には決して見えない可能性が高い。

 こないだ養老猛先生の バカの壁をまた読んでみた

 そこには医学部の学生に出産のビデオを見せると 一様に女子学生は大変勉強になったというが 男子学生は教科書に載っていることしか出てこなかったのでみんな知っていることだというという。

 先生の観察によれば そのさは視点の差 見ているところの違い もっと奥にある男性と女性の違いからくる切実感みたいなものとの差というわけだね。女性は出産をわがことのように思うので その苦しむ母の表情やそのライブ感からどこがどう反応してどれほどいたいのかそのとき体をどう動かしてその痛みから逃れようとしているのかを詳細に観察しているのかもしれない。
 ところがきっと男子大学生(かしこい)にはこどもが小さな子宮から外部への経路を通るときに発する痛みは筆舌に語りつくせずほど痛いのだけど自分の人生で体験したもっとも強い痛みよりどれほどいたいのかわからないし さらに言えば それを自分は経験するわけではないので そんなに切迫して考える必要もなく それゆえにビデオをみるときの気合もぜんぜん違う次元にあるので 細かいところなんか見ていないというわけだ。

 ここでこの問題を 宗教と科学の立場でそれぞれ見ると 立場が逆転してしまう。

 その差は すべてを見通せる神様に絶対的に服従することからはじまるそれと
 神様にはなれなくとも少しでもそれに近づきたいという人間の思い(エゴ)との差なのかもしれない。

 キリスト教やイスラム教などの一神教では 神に服従することが前提だけど
 仏教では修行によって最後は瞑想によって仏となることができる。だって ごーたまシッタルダさんは王族の息子で お金持ちのドラ息子だったけど ついに最後はブッダに 仏陀に お釈迦様になっちゃたから。56億7千万年後に再度こられるみたいだけど 私が生きているうちは会える可能性はプランク定数よりちいさそうだね。
 われわれの太陽系ができて48億年くらいだとか誰かが言ってた。いま宇宙の年齢は138億7千万年だとハッブル定数を一生懸命観測から出そうとした人たちは言っている。太陽が燃え尽きるまで(できてから)110億年くらいとかどっかに書いてあったような。

 110 ー 48 = 62 億年

62億年という数字と56億7千万年という数字はちかいのか?

 ハッブル定数から導かれた138億7千万年という数字は1990年代にハッブル宇宙望遠鏡や遠くの銀河のせふぁいど変光星とかそれまでおおくの天文観測によって認められていた天球のなかの位置に正確な(その当時の)値を計測せしめた結果 それまで 50-200億年とさまざまな説があってよくわからなかったハッブル定数の値を一気に 138億7千万年という数字に収束されている。その後差がどれくらいなのか私は知らないけど その値はガウスさんの分布の延長で評価した場合2シグマとかできっと数億年内外だと推測できるね。

 さてお話は尽きないのでまとめにはいる。

 神の絶対性を前提とした宗教の世界 と 自然の法則を探索するための方法論に過ぎない科学には確かに一見すると表裏の関係のようなところがあるけど それぞれの視点からの広がりはけっしてまじりあわないわけではなく 視点によって 見解が分かれるけど その矛盾点はそれぞれの高いレベルにある人たちには疑問でも何でもなく 妥協点ですらない 別の側面だと 高位の宗教者(ばちかんのえらいひと)と宇宙論学者とかは分かり合えるのだそうだけど 進化論と宗教との戦いはそれが提出されたころより延々と続く終わりのない戦いになってしまっている。かなしいことだ。

 イスラム原理主義者のなかの過激派組織が行う悪行がメディアで報道されるたびに 世界の業の罪深さを 人間たちの愚かさを 思うと涙が止まらない。対立は決してなくならないと思うけど できれば少なくなってほしいけど それができるが 神なのか 仏なのか は 私ごときでは分からない。

 願わくば 神と仏がなかよくしている社会が きっと 楽しいのかな なんて 柄にもなく。。


人類に明るい未来を!

 そして私の直地点は 笑い かな?

 笑わせてやるぜ! 笑われるのはまっぴらだから!


どほんがら

 
Posted at 2014/05/10 10:04:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | 趣味
2014年05月08日 イイね!

ZERO GRAVITY ふたたび 175

https://minkara.carview.co.jp/userid/1702280/blog/31900573/

上記は表題の映画が公開されたとき映画館で見た感想だった。

昨日 TSUTAYAに言ったらビデオがあったんで借りてきてみてみた。

まあ 家の32インチだと映画館の3Dの迫力はなくなるけどそれはそれなりに冷静に見えたりもした。

もう 映画も上映終了したし アカデミー賞も取ったしで ふたたび


ーーーねたばれ ねたばれ ねたばれ 注意  中位  注意 ----
































今回見ていて印象に残った最大のシーンは ジョージクルーニーがサンドラブロックから切り離される(みづから切り離す)シーンから、、、。

彼の命を見捨てられないサンドラをひとりでも生き残る可能性が高いほうを選んで水から助かる可能性をほとんど0にしても離れていく判断をするクルーニー。それはそれでその状況でも楽観的であるクルーニーさんはそれなりにすごいのだけれどあるいみ感情を抜いたクリフハンガーの冒頭のシーンと対比できる。落ちたものは叫びながら谷底に落ちてゆく。それは主人公であるランボー男の決断でなく滑って落ちたのだが その原因をめぐって森が足りは展開する。

当然のように落ちたものはもうドラマに戻っては来ない。

クルーニーさんは離れてゆく際にもサンドラを励まし楽観的に話し続ける。そう訓練されているからで それは通信が途絶えたかどうかのテストをずっと続けていることでもありミッションを成功に導くために 可能性を高めるための方法論として最適な方法なのだろう。

その後はサンドラの独り舞台。一人で訓練を思い出しそれを言葉にして自らをはげましつづけながらとまらないようにあきらめないように 振り回されさまざまな物体に翻弄されながら 動き続ける。動き続けて変化する状況の中で変化したミッションの目的 自らが生き残ることを目的とする行動をとり続ける。

そこに突然クルーにーの声。彼はいったん声が途絶えた後も楽観的にしゃべりつづけていたのだ。なぜ通信が回復したのかはわからない。位置取りがうまくいって 地球のどこかで反射するようになったのかもしれないし どこかの衛星で反射してつながるようになったのかもしれないが 助かる見込みがなくなってもクルーニーは訓練道りしゃべりつづけていたというわけだ。彼の言葉に反応するサンドラ。それに反応したクルーニーはすぐに訓練どおり彼女を励ましにかかる。すごいことだ。

これは結局こころ折れそうになって 中国の宇宙船の中で眠ってしまったサンドラの中に幻のクルーニーが登場することへの伏線なのだ。おそらくNASAのミッションプログラムにはそれまでの帰還した宇宙飛行士の経験から心理学的に解析した結果 疲れきって眠ってしまったサンドラの中に 夢の中にすら クルーにーの楽観的な姿が現れる可能性をも高める方法として訓練プログラムjが作られていたのかもしれない?

一瞬先はやみだとか 一瞬の油断が死を招く とかいろいろ言われるが 訓練の先に 判断の速さの重要性がいかに重要化を再確認させられる。もちろん これまでNASAのミッションで死んでいった宇宙飛行士はたくさんいるが彼らも帰ってこなければその経験を次の飛行士に伝えることができない。

ハッピーエンドか悲劇なのかはここで書くことはできない。いくらなんでもそれはこれから見る人には失礼だから。



しかし2001年宇宙のたびが論争の種を深く見たものに提示したという意味で偉大だという手法がスタンリーキューブリックのクラークの演出そのものだとしたら ある意味まったく反対側から描いた最新のテクノロジの進歩を色濃く組み込んで描いたという意味で この映画がアカデミー賞は当然なのだと思う。

てなわけで それぞれの視点でそれぞれの思い込めてそれぞれの人がそれぞれ考える基点として この映画は意味あるものだと思うので


見なはれ
Posted at 2014/05/08 17:23:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | 趣味
2014年05月07日 イイね!

モバイルパソコンは使いやすいのか? 174

おっはよ どんがらです

今朝久しぶりにスタバの市原店に来てみたら ここでWiFiがつながらなくなった。この壁を超えるのが現在常に私の前に降りかかる。まだスタンドアロンのPCを使っているだけだったころ 座って電源入れたらシステムが立ち上がりすぐに仕事が始まれば高い効率で仕事ができるので有効だった。ところが立ち上げてネットにつながらなければ仕事にならないように徐々に会社のシステムが移行してきたのでパソコン立ち上げてもネットにつながらないと意味がなくなってきた。いつものように朝会社に来ていつものように立ち上げたのに問題が発生した場合ネット管理者に連絡して状況を説明してもなかなか問題が解決しないで1時間もすれば 当初の予定が全然くるってしまう。効率化のために立ち上げたツールが思うように動かないということはそれまで予定していなかったことが起こることでありそれを防止するために必要なことは その技術にたけたものが必要になるということなのだが それを一般にネット管理者とか言うことになる。

しかし常にユーザーの立場でいて仕事の締め切り時間が迫っていると焦らない人はいない。そこでそのいらいらをネット管理者にぶちまけるあほうとか若者責任論を語りだす奴にはすぐに周囲が納めさせることになる。何が問題か。ネットストレスとかいうやつか?じゃあ使わないほうがいいのか?そこで論理を進めてはならないのだが焦った若者にはその自制が聞かない。使わんと仕事にならない、、、、。

本音をぶつけ合うことは確かに必要で全然やらないとストレスはどんどんどこかにたまってゆく。たまったストレスは個人の中でそれぞれがそれぞれの方法で消化することを要求されるのだが その辺のことが若者にはわからない場合が多く 平等論とか公正さを時始まるともう これ以上やるとなぐるぞということになる。

問題はどこにあるのか?

いろんなところに終着点を作ることができるが より根源的な議論のためにはまさに親が子を静かに諭すような態度が重要だけれど それが何度も繰り返されると いい加減親も頭にくる。日ごろから職場や家庭 コミュニテーとか村 部落 なんかが楽しい雰囲気でいることが大切だというところに決着させるのが わたしは すきだ。

わたしが入社したとき 会社の技術開発の現場には われわれのチーム(室)とおとなりさんの室 そして別系統(社長系統 われわれは会長系統)の現場開発部隊が共存していた。さらに言えばその場所は親会社の中央研究所の敷地の端に作られていた。そして すべての社員はまず独身寮に税イン叩き込まれる。いわゆるたこ部屋だが、、、。

それをどう感じどう生かしてゆくかは個人に帰せられても 人のそれぞれのメンバーの中に内在するものの中にたまったストレスは はけ口を探して右往左往することになり それはとくに憎悪のどろどろした塊となってはけ口を探す。

新入社員として入社した私(そういう意味では大学院を出るまで実家だったので過保護だ)はそこで新任の開発室長と話をすることになる。

室長は開口一番 どんがらくん 不可能は不可能だよね!

なにがいいたいのだ?

以下かなり脚色する

なになにさんはこうおっしゃる "ほれほれ" べつべつさんはこうおっしゃる "はれはれ"、、、

そこで室長の発言が止まる。会話のルールから言ったら私が何か言うことになる?

それをうけてあなたはどう思うんですか?

びくっとしてその人は答える。 僕もそう思う。

沈黙が流れた。

そんな答えを聞きたいわけではないのだが、、、

別の日こちらから話して見る?

あなたはどんな哲学が好きですか?

何々さんのようになりたいと思ったけどぼくにはできないなあ?

しらんがな?

わたしはニーチェが好きだ!あなたが好きなのは???

沈黙

ヘーゲル? カント? ソクラテス? アリストテレス? 弘法大師? 孔子? 孟子?、、、、

沈黙

だめだおいらの負けだ。何も情報が引き出せなかった。

そのうち本社へ毎週月曜日に室長が訪ねて部長と話をすると いつも怒られまくっているという情報が裏から伝わる。何を意味しているかは大まかには分かるが 詳しいことは分からないしそんなものには興味がない。おっさんはそんな私に話しかける?

ぼくはあきらめが早いのかなあ?

(はい そのとおりでございます) とは言えないので そうなのかもしれませんねえ と答える。

そして次の面接の機会にことは起こった。

一方的に話をはじめ論理を展開してゆく室長。なにも聞いていない私。なんかおかしいと気づいた彼はいった?

どうして何もしゃべらないのかね?

しゃべったら殴りたくなるからです。

いやいやいやいやいや ひとをなぐっちゃいけないでしょう。

わかっとるからだまっとるんやろが!

面談は終了。憎悪だけが増幅されたわけだ。

ミスターイエスマンには状況は理解できないようだ。

こちらの武器は研究。ごちゃごちゃ言わせないための一撃を仕事で見せつけてやるには結果を出すしかない。しかしそのためには室長の承認が必要なこともいろいろありそのたびに下げたくない頭を下げてハンコをもらっているのだ。人間関係が悪化すればするほどこのストレスは機械ごとに増幅しいかりは頂点へと向かう。これをぎりぎりの段階で押しとどめるものが コミュニティとかいうやつで ぎりぎりまで精神を絞って仕事に集中しぎりぎりの段階で思わず何か言ってしまったら周囲が納めにかかる。その怒りは会社そのものをつぶしてやろかとかてめえ殺してやろかというところまで来るのだが 多くの場合じぶんがかわいくなるので 適当な妥協点へと収束する。コミュニティは多いほどいいし わかりあえる友達はいつも必要なのだが だからこそひとはそれを大事にするのだが 閉鎖された部落にいきなり叩き込まれたものにとっては そのやり用は分からない。

もがきあがく中にしか答えはないのに それをするためにもっともうっとうしいやつの承認を得ないといけないわけだ。

これが あほガキの心理。 一方しか見ていないもののあるいはその傾向が強いものの心理。

ほどなく最初の研究報告書を書いた。それを読んだ室長は みなに どんがらくんの報告書はすごいといいはじめた。いつしか仲間の先輩がそんなこと言っとるよと私に言い始める。何がそんなにすごいのかこちらは分からない。私の部隊は バイオ開発室 というなで 大部分のひとは生物系 理学部生物 農学部農芸化学 水産学部 薬学部 といったところだが わたしは応用化学科分析化学。その研究方法は明らかい異なる。それは 複雑性の差 研究対象に対するアプローチの仕方が異なるのだ。ある意味原理から出発しても 分析化学では回答に個人で到達しやすい。べつの言い方を変えれば 環境を整備して系を単純化しやすいのだが それゆえに回答に到達するのもたやすい。しかし 生き物のことはそういう観点でいえばほとんど何もわかっていないので まずたくさん実験し 統計的に有利かどうかという方向で解析を行うので これらを同時にできない。実験技術にたけたものはプレート(培地を入れたプラスチックのシャーレ)に一日1000枚とかの異なった条件の菌株を蒔いて外から別の菌が混入しないように注意しなければならない。いわゆるテクニシャンなのだ。
他方 分析化学を行うものも 多くは実際に実験するときノートに書いて 何を何倍に薄めて検量線を作るのだからということで電卓たたきてそれにひつようなメスフラスコを用意しビュレットでとって希釈する。しかしこれをどんどん効率化してゆくと そんなことをいちいちノートに書かなくてもできるようになる。なぜならわたしは暗算一級だから。小学6年生のころに身に着けた能力は 会社に入ったころ5級くらいにおちていたが それでも他を圧倒する実力を備えていた。私は質問があれば そのつど頭で計算し それだと 11.5468%ぐらいになるからとか平然と言って議論を進めるのだが あいてはおどろくことになる。そして遊び半分で先輩が電卓をもって質問する 1245x35は 43575。一応検算をもう一回している。同時に電卓をたたき始めた人が あってるはとかいう。それを横で見ていた女の子が2回しとったでしょとかいう。

マンマシンインターフェースの重要性が確認される時だ。



あいかわらずの大風呂敷 広げたのでたたんでみる

(1)最初のスタバの話は まずそれ以前で マンマシンインターフェースの立ち上げに苦労するようになるなら それじたい使う意味がなくなり それをフォローするためにはコンピュータシステムの変化に自分で勉強してついてゆくということが必要になってゆくということで そこを目標により使いやすいマンマシンインターフェースを重要視し開発の方向性として推し進めるのがアップルのやり方だ。
他方 マイクロソフト帝国の変遷はまずデフェトスタンダードとなること。APPLE IIやMICROSOFTのBASICが社会に投げ出されたころからその思想は常に微妙な差として進展してゆくことになる。ハードウエアとソフトウエアのつながりについてもっとも重要な提起をしたのは 間違いなくアランチューリングだ。そこにはテープに記録した計算の手順を彼の提案するハードウエア(電子回路)に読み込ませるという自由度をもたせることで さまざまな異なる計算( 3x5や1284÷12とか)をえろえろとおこないせしめた。

私がはじめてコンピュータを買ったのは大学一年の終わり NECのPC8801だ。

カセットテープに記録したソフトウエアをハードウエアで読み解いて実用的なそれを作る。しかしこの方法はハードディスクの低廉化によって一気に開発環境を一変させ それを手に入れることができるものとそうでないものとの差となって表れる。以下パソコン開発氏みたいになってゆくのでやめ。

(2)次のパラグラフで言いたかったことは 目的をどこにおいて行動するか?ということだ。いきなり入った職場では当時売上7000000/年だったのに10年後には20000000000/年 になってることになっていたのだ??? じゃあどうすればいいのか?おいらにはわからないがおいらはそういうときあがくのだが室長はあきらめるのさ。笑うぜ!真のミスターイエスマンなら部長の言うこと聞いてみづから事業計画を立案して提案しろよ。それがあんたの仕事じゃろ!ということだ。

(3)マンマシンインターフェースの話はひととひととのつながりとか関係とか界面(インターフェース)の問題とある意味対比できる。テクノロジの発展はそのつど若者にあらたなツールを提供しその優れた対応を加速させるとき 老人とは異なる新しい道具の使い方を身に着けた彼らには 老害は決して勝てない。そこをまっすぐつきすすんでとまらないものには それを押しとどめようとすること自体が問題を提示することになり ひとびとに脅威と響く。どう扱っていいのかわからなくなるとき それを抑え込んででもいうこと聞かせるという方策は相手が納得するまで行わないと教育にはならない。しかし しばらくするとそれができないと思ったときから自主性とか言う話になった瞬間あほがきはじゃああんたの立場であんたの仕事でそれを見せてみよということになる。、、、、

そして われわれの組織は私が入社後解体される直前の6年間でとなりの部長曰く 仲良しクラブに見える というものになったのだ。わたしから見ればその部長が率いたお隣さんの部隊は大型コンピュータの開発の方策に似ているような気がした。理詰めでビジネスを展開するために部長は部下にその実力を見せつけ 彼らには一種信仰心のような心が芽生え頑張ることができる。おいらの動機と若いころ話した話なら なんのために君は頑張るのかと問えば 彼はなになに部長の夢をかなえるためだという。うらやましかったね。

明日も天気になあれ!

どぼんがら 自分のばかさかげんを痛感する今日この頃であった

ドン・キホーテって なんで風車に向かって 戦いを挑んでいたのだっけ?

何でも売ってる安売り王のドン・キホーテはなぜドン・キホーテって名前にしたのかな?
Posted at 2014/05/07 10:22:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | パソコン/インターネット
2014年05月06日 イイね!

お仕事の思い出 173

最近自分のブログを見てみて 結論に到達する前に力尽きていることを痛感したので まとまった文章に戻すべく?なんか書いてみる。

 ときに平成8年某月某日 新しい電子顕微鏡の設置の日 朝から準備して待っていたが一向に門から到着したという連絡がない。おかしいので9時5分ころ業者に電話したら 門まで来たのだが入れてくれないとのこと 何が起こっているのかわけわかめなので 総務課の設備担当のところに走って 状況を説明 このひとは元装置の係長で現場や警防に顔が利くのだが ふたりで門まで走った。私が何か言おうとしたらいきなりこの人がほえた。

 ”どういうことだ! これは運んでいただくという仕事だ。なにをしとるんじゃ!”

すごい剣幕。警防の人たちは直立不動で状況を説明 すばやく指示があり 系防湿の控え室にビデオ上映装置が設置されそこで20分ばかりの安全教育ビデオが流された。どう考えても相手のほうがプロなのだが新入社員が見るようなビデオをいまさら見せないといけないのは ルールがあり それに四角四面で対応したからなのだが 門を守るものとしての指名からいってわからんでもないのだが 、、、、。

 電子顕微鏡(高さ約2m 重さ 推定2トン以上)をどうやって実験室に運び込むかというと 人力なのだ。およ っとも思ったが 外とかはタイヤのついた運び車に載せてガラガラ移動させる もちろんトラックをできるかぎり入り口に近いところにつけるけど。
 
 棟内はまあちょっと廊下の広い公民館みたいなもので 入り口から何台もの機械が設置されていて そこを少しづつ縦横無尽によけながら 目的のところまで20mあまりを人力で運び込んだ。

 8人くらいの人で運んでいたがその指揮するものとそれに従うもののコンビネーションはいろんな意味で勉強になった。同じことはできないけど。

 先日 新幹線を製作工場から操車場までトラックで運ぶ姿がニュースで流れた。計算しつくされた運送は夜中に始まり 朝の喧騒が始まるまでに仕上げねばならない。ニュースはキャッチーな場面をきょうちょうしてほうえいしていることをさっぴいても陸橋と数センチの間隔で移動させる新幹線車両をみて つくづくプロの技を見せ付けられた気がした。

 もちろん微妙だと思われるところは事前に図っておいたりもするのだろうが どことどこを図っておかないといけないかの判断はその経験とあいまってその業者の技術そのもので それは技であって テクノロジとは違うものなのだ。

 山中先生がiPS細胞の発見(発明?)で有名となりそのひととなりや生きてきた道が報道されたり番組で放映されたり本になったりした。最初は外科医を目指したが 手術が上手にできず 先輩から じゃまなか と呼ばれていたそうだ。外科医にはもちろんテクノロジを理解し応用する能力も高いレベルが要求されるとも実際の手術で微妙なメス捌きや早さ正確さが要求され それは芸術のレベルを要求し探求に終わりはないのだろう。それには実用的な時間内で技を習得しさらにオリジナルな方法を独自に編み出して向上させてゆかなければならないのだろう。そしてその失敗は患者の死につながるし よりうまいひとがより最小限の部位を切り取ることによる回復の速さと 残った部位に幹部の鯨飲となった元を残さないという意味での正確さをはかりにかけて 勝負に出なければならない。さらに そこには不安があっても患者に見せられないという高い精神性を維持しながら 患者を救う目的で殺してしまうリスクとの戦いでもあるのかもしれない。外科医が手術とは何かを問われたとき 患者を何人殺したかということばの奥にある苦痛と回復した患者の喜びの顔を考えたとき その印象は圧倒的に殺したことによる罪の意識のそれがきっと大きいのだろう。それでもなお若い知性は常にその時代にヒポクラテスの近いとともにそこへ果敢と挑んでいるのだ、、、。

 アメリカでは日本に比べ実験的な手術が多く行われる。テクノロジの粋たるものとしては カテーテル治療があるとおもう。脳の特定の部位を切除するためのカテーテルにいれられた極小のはさみはガードワイヤに押し出され 患者の内太ももから挿入されさまざまな臓器をぬって首筋から脳の下から上方へとはいりこみ そこでX線CTのライブ画像を見ながら ちょきんと一回ははさみが入れられ はさみのよこの小さな管からの吸い込み圧で切り取られた患部は固定されて 来た道を逆に進む。さまざまなことが考えられさまざまな予備実験のもとにその計画 患部を一回ちょっきんはおこなわれたのだが これはもう芸術の域に限りなく近い。テクノロジと巣来るの融合による 一種の芸術なのだろう。

 似たようなもので よりテクノロジの勝利に近いものとして低温での心臓手術がある。患者を麻酔で眠らせた後 10℃程度に冷却するための外部循環系にぺリス他ポンプで血液が環流される。ほどなく患者の心臓は停止し 一気に高速で手術が行われる。30分を目標に執刀医とその周りの人たちは全力を尽くす。最高の緊張感を維持し 一気に切除された組織が銀のさらに置かれて基本山場が終了する。縫合され血液があたらめられ 十分な温度30度くらいかに急速に暖められた状態で 心臓に電気ショックが浴びせられ そして心臓がピクリと動き出し 安定した一定のリズムを刻んだとき 全員に安堵のため息が漏れるとともに勝利の喚起にもにた雰囲気が一気に部屋中に充満する。至福のときか! 事態は突然急変する。リズムが変化する。だれかがさけぶ 心室細動だ! リドカインの静注! エピ(エピネフリン アドレナリンの合成物)の集中投与! どらまならその後いろいろなことがいろいろと放映されるが 現実はライブのものたちはそれぞれのたちばでそれぞれの対応を余儀なくされるようだ、、、、、、。

 ちからとわざの風車が回るのは 仮面ライダーV3だが 技術と技の風車が回るそれぞれの立場でそれぞれの仕事でひとびとは異なる次元で悩み苦しみどんどんその技術を芸術の域へと高める努力の途上にあるのかもしれない。

 自然科学はある意味簡単だ。答えは自然の中にあるのだから。どんなに権謀術策にたけたひとでも 自然の現象の前には その影響力で黒いものを白いものとすることはできない。他方 人間社会では 誘導し成功し勝利することもできる。弁護士は依頼者のために働き 白いものでも黒いと証明するのが仕事だとも言う。そういう意味で戦いは続く。それは時代の進歩と社会の変化にそのつど対応することになるけど テクノロジがどんどんすすんで人間についてより深く理解し応用できるようになったとき 弁護士はそのテクノロジをも駆使して 世論を誘導から決定に近いほどに制御することに炊けたものへと変貌するのか?

 最初と最後が肝心という話はよくある。

 終わりよければすべてよしともいう。

 相手が満足し納得した結論に到達するようにさまざまな方策を行う。そのためにいずれ 拷問による洗脳と 説得の間の境界線の問題が社会に答えを求めるのかもしれない?そのとき わたしはどうすべきか? 洗脳と誘導と教育にはどういう違いがあるのか?誰か教えてほしいけど そういうことも私の甘えなのかもしれない?

 どほんがら ややこしい用語の羅列は 結局自分でよくわかっていないのかと再認識されるので おもしろいどほん


どhhっほおおおおんがら
Posted at 2014/05/06 10:51:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 雨の土曜日 | 趣味

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1247kgで1750bhp 何じゃこの数字は?

飛行機より H2よりすごい馬力荷重じゃあない?

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何シテル?   08/28 11:52
dongara1963です。よろしくお願いします。  元企業研究員。専門は分析化学。大学では 固定化酵素電極センサーの開発を担当  早期リタイア中。...
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