今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、内容は大した事ありません。
何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭~い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。
また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。
このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。
経験した人ならわかると思いますが、当時と同じ事は今の時代に絶対できませんから・・・
当時の思い出等、色々コメントを頂けると嬉しいです。
その地域や時代によっていろんなドラマがあったと思いますので・・・
またまた前置きが長くなりました。
一旦完結した【大阪】走り屋伝説ですが、昔の思い出が蘇った時には、番外編として、軽く書いてみたいと思います。
今回のテーマは【コミュニケーション編】と題し、当時の走り屋の世界では常識であった、『あおり方』を中心に紹介したいと思います。
時代は約26年前の昭和63年。。。
今の様にインターネットが無い時代ですから、見ず知らずの人とSNSで知り合う事も無く、スマホどころか、携帯電話も無く、ポケベルもナンバーディスプレイタイプが出た直後って感じの時代背景・・・
外出先で唯一、ダイレクトに仲間と連絡が取れたのが、当時流行の『パーソナル無線』。
『メリット5~♪』ってヤツですネ。
しかし、走り屋車両へのパーソナル無線の装着率は低く、またパーソナル無線は走り屋の世界以上に、気軽に入れる世界では無く・・・
そこには『
表向きのみ』無線クラブと称する【組織】が存在した為、無所属の人間が変なチャンネルで会話すれば、えらい目にあうんですよね。。。
当時の無線の世界(浪速管内)はチャンネル争いが盛んで、それが背後に持つ団体の争いに発展し、門真の中環沿いにある某ファミレスにフルスモークのベントレーや560SEL、それに街宣車のバスが集結した事もありました。。。
※私は当時、パーソナル無線の世界にも漬かってたんですけどね
少し話しはソレましたが、人と人のコミュニケーションは直接出会う以外の方法が少ない時代だったんです。
当時、自分が良く遊んでいた箕面の猿天でも、新たな出会い♪は毎週?毎日?のようにありました。
けど、仲良くなれるのは、全体の1割程度だったと思います・・・
まず、知らない者同士が接触するきっかけですが、初めて見る車が元気良く走ってるシーンが自分達の目に留まる事から始まります。
そして、いつも仲間の誰かがつぶやきます。。。。
『あいつ・・・ どこの誰か知らんけど、
えらい調子のっとるやんけ・・・』等と。。。(爆)
そんな時に白羽の矢が立つのが、当時、下っ端の自分でした・・・・。
先輩の『軽くイワして来んかい!』の号令?の下、元気良くコース上を走ってるターゲット車が、猿天駐車場へ戻るのを、この場所でライトを消して待ちます。
※当時は駐車場より上を走る人は無く、基本は駐車場から山荘方面がコースになってました
そして、ターゲット車が駐車場に進入すると、ライトを点等させ、ケツにべったり付けます。。。
けど、まだこの時点では、アオったりしません。
あくまで、静かに後ろに付くだけです。
何故、すぐにアオらないのか?
それは、当時はそんな行動を起す前に、絶対にしておかないとダメな事があったからなのです。
何やと思いますか?
今の時代には無い事ですので、若い方には理解が難しいと思いますが・・・
それは・・・
ターゲット車に貼ってる
『ステッカー』の確認なんです。
ステッカーって言うても色々ありますよね?
TRDやNISMOの類・・・
また、オイルのメーカーや部品メーカー、SHOPのステッカー・・・
けど、そんなステッカーはどうでもいいんですよ!
極端な話、FET極東が、
FET極道って書いてても、全く問題ありません。(爆)
重要なのは所属団体を示すステッカーなんです。
そこを良く確認しないと、相手よっては、こっちが半殺しにされるリスクがありますからね・・・
リアウンド、バンパー等、ターゲット車の隅々まで慎重にチェックします。。。
まぁ 一人で来てる車の大半は無所属だったので、リスクはありませんでしたけどね。
それに、CARBOY等のステッカーを張ってたら、ドライバーの攻撃性が低いケースが多く、かなり安全な分類に入りました(笑)
その一瞬の間にステッカー確認作業を終わらせ、問題が無ければ、ターゲット車の後方10センチぐらいにベタ付けして、アクセルをふかし、強制的に駐車場からコースに出るように仕向けます。
ちょうど、この場所あたりです(当時は車道との間に塀は無かったんです)
↓ 同じ場所で25年前に撮影した写真
※当時は深夜でもサーキット並みの爆音が絶えず響き渡っていました
※路面に落ちてるオイル染みの多さで当時の【異常な】状況がわかると思います
そんな私の懸命な『
アオり』を受けても、ターゲット車が気が弱い人?の場合、駐車場で固まったまま、車をコースに出さないんですよね・・・
そんな時はどうするか?
容赦なく、クラクションを鳴らしまくるんです。(笑)
クラクションって言うても、装備してたのは、当時流行の
フェラーリホーン♪
すると、猿天駐車場にフェラーリホーンの甲高い音が響きわたり、周囲の皆が一斉に注目します♪
しかし、それでも動かない場合は・・・
普段、この場所あたりで集まってる自分の仲間達がゾロゾロとターゲット車へ寄って来るんです。
台数が少ない平日でも、自分達は常に10台程度は集まってましたからね・・・
この時点で必死に駐車場から出ずに停まってる車も100%動き出しました。(爆)
その急発進した車を追い回すのが自分の役割♪
追撃の結果、
90%の車はUターンする事無く、下山。。。
5%の車はコース途中で自損事故。。。
けど、残りの5%は頑張ってUターンして猿天の駐車場まで戻ってきました。
今、思えば、その駐車場まで戻ってきた約5%の人とは仲良くなれる事が多かったと思います。
その頃はCRXに乗ってたので、箕面のコースを考えると車のスペックは当時最強の分類でした。
エナペタルの車高調にダンロップ・フォーミュラR76Jを履いてた時代ですね・・・
このCRX時代が1番、無謀な運転をしていた時期だったのです。
今の現役さんは猿天をどれぐらいの速度で走ってるのか全く知りませんが、
当時は速度警告のチャイムが3回(ホンダはブザー音でしたけど)鳴ってたので、
上り、下り共にメーター読みで110程度は楽勝に出してましたネ。
もちろん、対向車線も含めた2車線をフルに使わないと出せない速度です。
よって、対向車とのスレ違いは命がけでした。(汗)
当時は悪い事とは思ったんですが、実は自分にも必死でアオらないとダメな理由があったんです。
それは、自分が負けると、次は自分のCRXを所属団体の代表に貸さないとダメなんです。
メンツがあるので、負けのまま終わらせる訳にはいかないとの事らしく・・・(汗)
そんなバトルはどうでも良かったのですが、とにかく自分の大切な車を彼に貸す事だけは避けたかったんです。
その理由は以前のシリーズで書きましたよね?
貸したら最後・・・
間違いなく、半クラをガンガン使われて、駐車場に戻ってきた時には自分の愛車が壊れてますよ(汗)
どうせ、弁償もしてくれないですし・・・
だから、『お前じゃ遅いからダメやわ! 俺がやるから、車を貸せ!』って言われない様に必死で追いかけました。
つまり、
アオる側もそれなりの理由があったって事です。(爆)
どうですか? 今の時代には無いコミュニケーション方法でしょ?
当時はいろんな意味で刺激に満ち溢れていました。
最近、早朝に箕面をドライブする機会が多く、忘れかけていた昔の記憶が蘇ってくるんです。
懐かしいなぁと思う気持ちもありますが、申し訳なかったと思う気持ちも少しだけあります。
けど、大昔の事なので、アオられた人はもう忘れてますよねぇ?(爆)
このへんの話は、当時、『全盛期の箕面』を経験されている人にとっては懐かしい話かと思います。
今の現役さん達もそんな事してるのでしょうか???
復活してからも夜の箕面に上がる事は無いので、実態を全く知らないんです。
夜ってねぇ・・・
22時以降は車両通行禁止ですし、そんな場所で遊んでる方々って。。。
不良が多そうな感じじゃないですか!?
そんな場所に遊びに行って、
カツアゲされたら困るし・・・(爆)
最後に・・・
おまけ写真を1枚♪
当時の写真です。
この頃は体に有害な物質を好んで吸引していた時期なので、かなり痩せています(爆)
このジーパン(今で言う、デニム)のブランドは『ランセル』です。
昔はリーバイス等のジーパンなんかを履いてたら、ヘタレと思われるので、高いのに無理してトラサルディやGMV(ジャン・マルコ・ベンチューリー)等のジーパンを履いてました。
多分、このあたりのファッションも当時の最先端?の【大阪文化】かと思われます。(笑)
当時ですから・・・・
トレーナーの着こなしは当然、『シャツIN♪』ですよ(爆)。
髪型も、当時の阪神高速・環状♪方面での流行を、積極的に取り入れていたので、
非常にオシャレ♪です。
以上で、大阪・走り屋伝説 番外編は終了です。
最近、色々とブログを書いてるので、【大阪・走り屋伝説】本編はかなり下の方に逝ってしまいましたよネ(笑)