
今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、内容は大した事ありません。
何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。
また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。
このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。
さて、今回は久しぶりの番外編と言う事で、当時の思い出を少し書いてみたいと思います。
しかしながら、かなりの年月が経っており、本当に記憶があいまいな部分も御座いますが、先程書きました様に、全てフィクションとして読んでいただければ幸いです。
時代は29年前の1985年・・・
大阪では『走り屋』が全盛期を迎えつつありました。
自分の感覚的には全盛期は二輪、四輪も含めて、1985年~1989年だと思っています。
それ以降は、取締りがキツくなり、とても走れる状況では無かったと記憶しています。
もちろん、私は大阪の事情しか知りませんが、他府県でも同時期に走り屋のブームはあったと思います。
しかしながら、大阪と他の地域とは、流行り方が少し異なっていたと思います。
そのあたりの部分を漫画を切り口に、考えてみたいと思います。
※漫画に興味がある訳では無いので、内容の深い話は出来ません
当時、四輪の場合、全国的に流行っていたのは、漫画、『頭文字D』の様な感じであったと思われます。
※これは自分の目で見た訳では無いので、単なる憶測です
しかし、当時(全盛期)の大阪に関しては、『頭文字D』の様な物語は非常に無理があります。
漫画の話を実話と仮定して、大阪に当てはめると、中学生が親の車を運転して、(豆腐の配達?)峠をウロウロしてる時点で、確実に誰かにカラまれ、『的』になります。
主人公は運転が上手いから逃げれる・・・と言っても、それは運転の回数をこなし、成長した後の話であって、未熟な時期にカラまれたら逃げる事は不可能。
そして、お前、どこのチームや?等と言われながら、車を囲まれ、
お決まりの一言、『その車、少し運転さしてくれよ・・・』で、全て終わりです。
恐らく、貸した車はまともに戻ってきません。
クラッチを壊されるか、どこかに刺さって、走行不能になった時点で、車のキーのみ返却されるでしょう。。。
当然、積荷の『豆腐』はフロアマットの上でグチャグチャ・・・。(爆)
最悪は、車ごとパクられ、派手に全塗装された後、ナンバー無しの環状マシンとして生まれ変わります。
文句を言うにしても、自分1人では何も出来ない世界・・・
相手は組織で動いていますからネ。
警察に訴えるにしても、豆腐を配達している自分自身も無免許運転ですし・・・
カラんで来た奴のナンバーを必死に覚えても、悪い事をする車は、まず天ぷらナンバーですので無意味。
けど、これは、『頭文字D』に限った事ではありません。
バイクの世界でも同じ事が言えました。
当時流行したバイク漫画、『バリバリ伝説』。
これも、その時代の大阪事情と比較すれば、けっこう無理があります。
高校生ライダーが限定解除の単車で走るって設定も、少し疑問・・・。(汗)
バイクで走れる場所は確かに存在していましたよ・・・。
六甲では、船坂、芦有・・・
北摂では茨木サニータウン、逢坂、るり渓。
大阪では清滝等もありましたネ・・・。
けど、当時(レプリカバイクの全盛期)の頃をテーマとするならば、阪奈道路は欠かせません。
阪奈は車の世界の『環状』に匹敵するほど別格でした。
その阪奈を舞台に漫画を描けば・・・
ナニワトモアレ的なバリバリ伝説になってたでしょうネ。
その場合、主人公、巨摩 郡(こま ぐん)は大学進学どころが、確実に高校中退ですけど。。。(爆)
それに、漫画の登場人物の髪型が爽やかすぎます。
サラサラヘアじゃないですか!
良く描きすぎですわ・・・
当時は、ヘルメットかぶるので、外した時に、髪が『ペタっ・・・』と寝ない様、キツ目にパーマを当てるのが、基本スタイルです。
よって、当時は、普通、こんなモンですよ。
写真は阪奈帰りの清滝近辺にて撮影・・・
※16歳の時の私
拡大すると。。。
正直、申し上げてバリ伝って言うより、湘爆に近いような感じもしますが。。。
阪奈道路・・・
日曜日の早朝、ラブホテル『夜間飛行』の下に集結するバイクは数百台規模。
正確に数えた訳では無いですが、最低でも300台は走ってました。
多い日は、500台近くのバイクが大阪各地より集結していました。
パトカーが数台来るレベルでは、どうにもならず、過激さも他の峠と比較し、群を抜いていました。
※過激と言うのは、純粋な『走り』以外の部分も含みます
参考として、当時に近い?阪奈事情を特集している映像を見つけましたので、UPしておきますネ。
この放送は自分達がバイクを降りて数年後ですので、阪奈全盛期ではありません。
それに、私が現役の頃は、この動画に出てくる検問ネットみたいなモノはありませんでした。
機動隊が乗るバスを2台横にして道路を封鎖してましたけどね。
しかし、これを見ると台数も非常に少ない為、淋しい感じです。
たった数台かぁ・・・?
しかし、最後まであきらめず、逃げる精神は全盛期の頃と変わって無いとは思いますけど。。。
私の経験上、ココで検挙された後、どうなるのか解説しますと、バイクは四条畷警察に没収され、皮ツナギを来たまま、電車で家に帰る事になります。
※運が良ければ、バイクに乗って帰れます
それ以上に厄介なのは、ココ(阪奈)で検挙されると、自分の居住地の警察署・少年課の警官から、毎月、1回、家に電話が入るんですよネ。(汗)
『おい! もう阪奈とか行ってへんやろなぁ!?・・・』
『親に心配かけるなよ!・・・』
等、色々と説教をされる訳です。
そして、その電話は1年ぐらい続きますからね。
もうおわかりと思いますが、大阪が舞台ではバリ伝の様な、スマートな漫画にはなりません。(爆)
何度も書いてます様に、スポーツカーが好き・・・ 純粋にバイクが好き・・・
との理由だけで、誰もが走り屋になれた時代では無かったんです。
色んな意味で、リスクを負える人間のみが、踏み込める世界でした。
その最たる場所が、『環状』だったと思います。
私はその敷居の高さ故に、本格的に環状を走り込んでいませんでしたが、
ツレに誘われた時は、細々と参加していました。(笑)
本当に、たしなむ程度ですが・・・。
せっかくの機会ですので、当時の状況を具体的に少し・・・。
ある日、150キロ前後の速度で走行中、一般車にバンパーを接触させながらも、
キレた走りを続ける、サイドマフラー仕様の派手なKP61に追いつきました・・・
確か、某有名チームだったと記憶しています。
一瞬の併走で、ドライバーをチラッと確認♪
確認は一瞬で終わらせる必要があるんです。。。
長いと、メンチ切ったとの理由で後からモメますネ・・・
その時、缶を片手に走行している姿が確認できました。。。
これ、コーヒー飲みながら走行してるんじゃないですよねぇ。(汗)
『チャンスリ』なんですわ。(いわゆる、シンナー吸引)
こんな事は当時、当たり前の光景でした。。。
環状とは、そんな状況でも、ためらう事無くアクセルを踏めるような人間のみ参加できる世界だったのです。
それに、実際の走行では極力トラブルが起こらない様に注意する必要がありました。
もちろん、何があっても自分で解決する能力があれば別ですよ・・・
調子にのった走り方をすると、えらい目に合う場合もありますからネ。
トラブル回避と言えば、髪型も重要なポイントでした。
実は、この漫画でも、少し表現してますよねぇ・・・
『司場 一太郎 ・ シバ イタロウ』です。(爆)
見た目(髪型等)である程度、人を判断してたのが、この時代。
よって、この漫画に描かれている事は、架空の話ではあるが、当時は十分ありえた話なんですよネ。(笑)
まぁ これは極端な例ですが。。。
特に環状方面は、パーマヘアが多かったんです。
当時、クリクリのパーマなんか、大阪でも全く流行ってませんでしたよ・・・
どっちかと言えば、一般的な流行はこんな感じ。
しかし、環状はパーマヘアが多かったんです。
環状を専門に走っていない、私でさえ、少し『おしゃれ』なパーマヘアをしていました。
ヘタレな髪形だと、必要以上に虐められますからね・・・
今回は特別サービスとして、当時の髪型が良くわかる写真を披露させて頂きます。
まぁ 今の時代・・・
この髪型にしてくれと言っても、対応が可能な散髪屋は限られると思いますね・・・
って言うか・・・
もう、このパーマ・ロッドの巻きテンションに、私の毛根が耐えられないと思います。(爆)
って事で・・・
ダラダラと書いているうちに、話の方向性が見えなくなってきました。
つまり、大阪の走り屋文化は、他のエリアと少し違う・・・って事です。
それと、皆さん現役引退が早かったんですよ。
私も20歳に引退しました。
成人した後も長く続けるには、あまりにもリスクが高い世界でしたので・・・
まぁ そんな世界なんですよ。
古き良き、大阪走り屋文化って言うのは。。。(笑)
最後に一言。
確かに昔の方が刺激はありますが、今の時代の方が良い事も沢山ありますよ。
◆お気に入りの写真♪