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2014年10月13日 イイね!

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・ 『漫画ちゃうねん』編

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・ 『漫画ちゃうねん』編今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、内容は大した事ありません。


何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。


また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。


このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。

さて、今回は久しぶりの番外編と言う事で、当時の思い出を少し書いてみたいと思います。

しかしながら、かなりの年月が経っており、本当に記憶があいまいな部分も御座いますが、先程書きました様に、全てフィクションとして読んでいただければ幸いです。


時代は29年前の1985年・・・


大阪では『走り屋』が全盛期を迎えつつありました。

自分の感覚的には全盛期は二輪、四輪も含めて、1985年~1989年だと思っています。

それ以降は、取締りがキツくなり、とても走れる状況では無かったと記憶しています。


もちろん、私は大阪の事情しか知りませんが、他府県でも同時期に走り屋のブームはあったと思います。


しかしながら、大阪と他の地域とは、流行り方が少し異なっていたと思います。


そのあたりの部分を漫画を切り口に、考えてみたいと思います。
※漫画に興味がある訳では無いので、内容の深い話は出来ません


当時、四輪の場合、全国的に流行っていたのは、漫画、『頭文字D』の様な感じであったと思われます。
※これは自分の目で見た訳では無いので、単なる憶測です



しかし、当時(全盛期)の大阪に関しては、『頭文字D』の様な物語は非常に無理があります。


漫画の話を実話と仮定して、大阪に当てはめると、中学生が親の車を運転して、(豆腐の配達?)峠をウロウロしてる時点で、確実に誰かにカラまれ、『的』になります。

主人公は運転が上手いから逃げれる・・・と言っても、それは運転の回数をこなし、成長した後の話であって、未熟な時期にカラまれたら逃げる事は不可能。

そして、お前、どこのチームや?等と言われながら、車を囲まれ、
お決まりの一言、『その車、少し運転さしてくれよ・・・』で、全て終わりです。

恐らく、貸した車はまともに戻ってきません。
クラッチを壊されるか、どこかに刺さって、走行不能になった時点で、車のキーのみ返却されるでしょう。。。

当然、積荷の『豆腐』はフロアマットの上でグチャグチャ・・・。(爆)

最悪は、車ごとパクられ、派手に全塗装された後、ナンバー無しの環状マシンとして生まれ変わります。


文句を言うにしても、自分1人では何も出来ない世界・・・
相手は組織で動いていますからネ。


警察に訴えるにしても、豆腐を配達している自分自身も無免許運転ですし・・・
カラんで来た奴のナンバーを必死に覚えても、悪い事をする車は、まず天ぷらナンバーですので無意味。

けど、これは、『頭文字D』に限った事ではありません。



バイクの世界でも同じ事が言えました。

当時流行したバイク漫画、『バリバリ伝説』。
 
これも、その時代の大阪事情と比較すれば、けっこう無理があります。

高校生ライダーが限定解除の単車で走るって設定も、少し疑問・・・。(汗)


バイクで走れる場所は確かに存在していましたよ・・・。

六甲では、船坂、芦有・・・
北摂では茨木サニータウン、逢坂、るり渓。
大阪では清滝等もありましたネ・・・。
 
けど、当時(レプリカバイクの全盛期)の頃をテーマとするならば、阪奈道路は欠かせません。



阪奈は車の世界の『環状』に匹敵するほど別格でした。

その阪奈を舞台に漫画を描けば・・・

ナニワトモアレ的なバリバリ伝説になってたでしょうネ。
その場合、主人公、巨摩 郡(こま ぐん)は大学進学どころが、確実に高校中退ですけど。。。(爆)

それに、漫画の登場人物の髪型が爽やかすぎます。
サラサラヘアじゃないですか!



良く描きすぎですわ・・・

当時は、ヘルメットかぶるので、外した時に、髪が『ペタっ・・・』と寝ない様、キツ目にパーマを当てるのが、基本スタイルです。

よって、当時は、普通、こんなモンですよ。

写真は阪奈帰りの清滝近辺にて撮影・・・
※16歳の時の私
 



拡大すると。。。







正直、申し上げてバリ伝って言うより、湘爆に近いような感じもしますが。。。
 




阪奈道路・・・

日曜日の早朝、ラブホテル『夜間飛行』の下に集結するバイクは数百台規模。
正確に数えた訳では無いですが、最低でも300台は走ってました。
多い日は、500台近くのバイクが大阪各地より集結していました。


パトカーが数台来るレベルでは、どうにもならず、過激さも他の峠と比較し、群を抜いていました。
※過激と言うのは、純粋な『走り』以外の部分も含みます




参考として、当時に近い?阪奈事情を特集している映像を見つけましたので、UPしておきますネ。

この放送は自分達がバイクを降りて数年後ですので、阪奈全盛期ではありません。



それに、私が現役の頃は、この動画に出てくる検問ネットみたいなモノはありませんでした。


機動隊が乗るバスを2台横にして道路を封鎖してましたけどね。

しかし、これを見ると台数も非常に少ない為、淋しい感じです。

たった数台かぁ・・・?

しかし、最後まであきらめず、逃げる精神は全盛期の頃と変わって無いとは思いますけど。。。

私の経験上、ココで検挙された後、どうなるのか解説しますと、バイクは四条畷警察に没収され、皮ツナギを来たまま、電車で家に帰る事になります。
※運が良ければ、バイクに乗って帰れます

それ以上に厄介なのは、ココ(阪奈)で検挙されると、自分の居住地の警察署・少年課の警官から、毎月、1回、家に電話が入るんですよネ。(汗)

『おい! もう阪奈とか行ってへんやろなぁ!?・・・』
『親に心配かけるなよ!・・・』
等、色々と説教をされる訳です。

そして、その電話は1年ぐらい続きますからね。

もうおわかりと思いますが、大阪が舞台ではバリ伝の様な、スマートな漫画にはなりません。(爆)


何度も書いてます様に、スポーツカーが好き・・・ 純粋にバイクが好き・・・
との理由だけで、誰もが走り屋になれた時代では無かったんです。


色んな意味で、リスクを負える人間のみが、踏み込める世界でした。


その最たる場所が、『環状』だったと思います。
 



私はその敷居の高さ故に、本格的に環状を走り込んでいませんでしたが、
ツレに誘われた時は、細々と参加していました。(笑)

本当に、たしなむ程度ですが・・・。


せっかくの機会ですので、当時の状況を具体的に少し・・・。

ある日、150キロ前後の速度で走行中、一般車にバンパーを接触させながらも、
キレた走りを続ける、サイドマフラー仕様の派手なKP61に追いつきました・・・

確か、某有名チームだったと記憶しています。

一瞬の併走で、ドライバーをチラッと確認♪

確認は一瞬で終わらせる必要があるんです。。。 
長いと、メンチ切ったとの理由で後からモメますネ・・・
 
その時、缶を片手に走行している姿が確認できました。。。

これ、コーヒー飲みながら走行してるんじゃないですよねぇ。(汗)

『チャンスリ』なんですわ。(いわゆる、シンナー吸引)

こんな事は当時、当たり前の光景でした。。。

環状とは、そんな状況でも、ためらう事無くアクセルを踏めるような人間のみ参加できる世界だったのです。


それに、実際の走行では極力トラブルが起こらない様に注意する必要がありました。

もちろん、何があっても自分で解決する能力があれば別ですよ・・・


調子にのった走り方をすると、えらい目に合う場合もありますからネ。


トラブル回避と言えば、髪型も重要なポイントでした。


実は、この漫画でも、少し表現してますよねぇ・・・

『司場 一太郎 ・ シバ イタロウ』です。(爆)
 





見た目(髪型等)である程度、人を判断してたのが、この時代。
よって、この漫画に描かれている事は、架空の話ではあるが、当時は十分ありえた話なんですよネ。(笑)

まぁ これは極端な例ですが。。。

 特に環状方面は、パーマヘアが多かったんです。
当時、クリクリのパーマなんか、大阪でも全く流行ってませんでしたよ・・・
どっちかと言えば、一般的な流行はこんな感じ。
 

 
 
  しかし、環状はパーマヘアが多かったんです。

環状を専門に走っていない、私でさえ、少し『おしゃれ』なパーマヘアをしていました。
ヘタレな髪形だと、必要以上に虐められますからね・・・



今回は特別サービスとして、当時の髪型が良くわかる写真を披露させて頂きます。
 



まぁ 今の時代・・・

この髪型にしてくれと言っても、対応が可能な散髪屋は限られると思いますね・・・

って言うか・・・

もう、このパーマ・ロッドの巻きテンションに、私の毛根が耐えられないと思います。(爆)


って事で・・・


ダラダラと書いているうちに、話の方向性が見えなくなってきました。

つまり、大阪の走り屋文化は、他のエリアと少し違う・・・って事です。


それと、皆さん現役引退が早かったんですよ。

私も20歳に引退しました。
成人した後も長く続けるには、あまりにもリスクが高い世界でしたので・・・


まぁ そんな世界なんですよ。


古き良き、大阪走り屋文化って言うのは。。。(笑)

最後に一言。


確かに昔の方が刺激はありますが、今の時代の方が良い事も沢山ありますよ。



◆お気に入りの写真♪

Posted at 2014/10/13 14:18:55 | コメント(21) | トラックバック(0) | 【大阪】「走り屋伝説 | 日記
2014年05月12日 イイね!

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・ 『箕面の暗黒面』

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・ 『箕面の暗黒面』今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、内容は大した事ありません。
 

何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。

 
また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。


このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。

 
さて、今回のテーマですが、走り屋伝説と言いながら、『走り』に関しては一切記載が御座いませんので、予めお断り申し上げます。

 
内容に関しては、走り屋の聖地【箕面】の知らざれる側面をご紹介したいと思います。

時代は今から約26年前の昭和63年春。。。
 

このシリーズを初めから読んで頂いている方々には十分伝わっているとは思いますが、当時の箕面ドライブウェイは連日連夜、エキサイテイングな車が各地より集結し、深夜に至るまでサーキットの様な爆音が周囲の山々にこだましている状況でした。

当時は走り屋ブームであった為、全国各地の峠でも、程度の差こそあれ、同じような現象があったと思われます。

しかし、ここ【箕面】は全国の他の峠と比べると、少し違った部分があった様に思います。


その部分って言うのが、私が何度も過去のブログに書いてきました、
『車が好き・・・と言うだけでは、誰もが走り屋になれなかった時代・・・』 に結び付く訳です。


今でも鮮明に覚えている、当時の出来事を1つ紹介します。

 
ある平日の深夜1時頃、いつもの箕面ドライブウェイの猿天駐車場で、仲間とダベっていると、目の前の道路を塞ぐように、大きな車が2台、派手なスキール音を立てて急停車しました。

車を見ると、ココ(箕面)で良く見るお車・・・

 
真っ白なボディにフルスモークガラス装備の【メルセデス・ベンツ 560SEL】が2台♪



 

※写真に関してはイメージです
  車種・グレード等、文中の車両とは一切関係ありません

その瞬間、お隣チームのメンバー達が、OBへの挨拶の為、車(白の560)に一斉に駆け寄ります。
※実は、こんな感じの事は箕面では見慣れた光景でした

 
メルセデスベンツ560SEL・・・


当時、自分達が1番憧れた車でもありました。

 
あの何とも言えない『威圧感』。。。



 

走り屋とは無縁な方でしたが、身近な先輩が560を所有していた為、特に憧れが強かった様に思えます。


当時の相場は、リスクがある事件モンで200万・・・


高い車ですね。
※当時、市販の中古車相場は知りません

しかし、560は同時期の国産車には無い『オーラ』が漂う車でした。

その時代は確かセルシオが発売前だったので、トヨタであれば、V8クラウンが筆頭・・・

ニッサンではシーマが発売直後・・・?Y31のグランツが出てたかなぁ? Y30の時代か? 

まぁ 国産車がいくら頑張っても560の貫禄には勝てませんでした。

すいません。。。

かなり話しがソレました。(汗)

 
続きの話しをします。

 
深夜の箕面に登場した白の560SEL。

 
そして、後部ドアが開き、降りてきたのは・・・

10代と思われる少女2名。(汗)

 
その後、彼女達は『おしっこぉ・・・』等と言いながら、フラフラと道路を徘徊します。。。

 
トイレを探してる様なんですが、目の前の公衆便所すらわからない状況・・・

当時あった食堂の自販機の灯りで、かすかに映し出された彼女達の顔を見たら、完全に目が・・・(汗)

結局、彼女達は道路の真ん中で・・・(大汗)

まぁ 普通じゃないですよね。

その後、彼女達は、また560に乗せられて山を上がっていきました。
その時、『お前らも来いよ!』とお誘いを受けましたが、丁重にお断りしました。

この後で彼女達にどんな運命が待っていたのか??? 

もちろん、自分は一切、聞かされていないので、そのあたりは想像するしかありませんが・・・

けど、万一 危険な状況に陥っていた場合、彼女達を救出できたのか???


それは・・・・

 
申し訳無いですが、そんな勇気ありませんでした。

 
漫画ちゃうんですよ。。。

 
現実の世界では、そんな事したら、確実に車ごと南港に沈められますからね(汗)
だから、当時はトラブルを避ける為にも、詳しい事情を聞く事もせず、自分は走りに徹していました。


まぁ こんな感じで当時の箕面には、走り屋の世界と別にもう一つの『世界』があったんです。


そして、その世界への扉は猿天駐車場より1キロ上にある、この道。
 

 

今は入口が完全に施錠されていますが、当時は開放されていました。

この道路・・・

当時の呼び名が 『お〇こ道』

入口から200メートルぐらい進むと右手に車を10台ほど停めれる広場があるんです。

そして、その広場には、深夜でも車が数台は停まっており、その中の数台は激しく上下に揺れている事が多くありました。


この『お〇こ道』は、樹木が道路を覆う様に茂っており、勿論、街灯みたいな照明設備は一切ありません。

 
まさに山奥の真っ暗闇・・・


どんな大声を出して騒ごうが、誰にも聞こえません。。。

 
そして、この道の出口が山荘横の坂道なんです。
 

当時は、この付近で深夜に何処かで拉致され、捨てられたのか?って感じの、はだしで歩く女性の山を1人で降りてくる姿が目撃されていました。
 


当時は幽霊ちゃうか?との説もありましたが、目撃されたのが、本当に拉致された被害者なのか?あるいは幽霊なのか?って事に関しても、事実関係はわかりません。 


あくまで、『噂』なんです。


走り屋の聖地【箕面】

 
大阪の中心部である、ナビオ前から信号無しの高架道路、新御堂筋で約20分の場所に位置している為、走り屋以外の様々な人が集まる場所でもありました。


 


純粋に車でのスポーツ走行を楽しむ訳でも無く、単に騒ぎたい・・・って若者も多く集まってたんです。


当時は本当にトラブルが多い場所だったんですよネ。


『走り屋』。。。



当時の大阪に限って言うならば、いろんなトラブルに巻き込まれる事を覚悟していないとダメでした。


それ故、車が好きでも、その覚悟が無ければ、走らない方が良かった時代であったと思います。
Posted at 2014/05/12 23:24:01 | コメント(10) | トラックバック(0) | 【大阪】「走り屋伝説 | 日記
2014年02月26日 イイね!

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・  コミュニケーション編

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・  コミュニケーション編
今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、内容は大した事ありません。


何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭~い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。

 
また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。


このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。

経験した人ならわかると思いますが、当時と同じ事は今の時代に絶対できませんから・・・


当時の思い出等、色々コメントを頂けると嬉しいです。

 
その地域や時代によっていろんなドラマがあったと思いますので・・・


またまた前置きが長くなりました。


一旦完結した【大阪】走り屋伝説ですが、昔の思い出が蘇った時には、番外編として、軽く書いてみたいと思います。
 
 
今回のテーマは【コミュニケーション編】と題し、当時の走り屋の世界では常識であった、『あおり方』を中心に紹介したいと思います。

 
時代は約26年前の昭和63年。。。

 
今の様にインターネットが無い時代ですから、見ず知らずの人とSNSで知り合う事も無く、スマホどころか、携帯電話も無く、ポケベルもナンバーディスプレイタイプが出た直後って感じの時代背景・・・


外出先で唯一、ダイレクトに仲間と連絡が取れたのが、当時流行の『パーソナル無線』。

 
『メリット5~♪』ってヤツですネ。

しかし、走り屋車両へのパーソナル無線の装着率は低く、またパーソナル無線は走り屋の世界以上に、気軽に入れる世界では無く・・・

 
そこには『表向きのみ』無線クラブと称する【組織】が存在した為、無所属の人間が変なチャンネルで会話すれば、えらい目にあうんですよね。。。


当時の無線の世界(浪速管内)はチャンネル争いが盛んで、それが背後に持つ団体の争いに発展し、門真の中環沿いにある某ファミレスにフルスモークのベントレーや560SEL、それに街宣車のバスが集結した事もありました。。。
※私は当時、パーソナル無線の世界にも漬かってたんですけどね


少し話しはソレましたが、人と人のコミュニケーションは直接出会う以外の方法が少ない時代だったんです。


当時、自分が良く遊んでいた箕面の猿天でも、新たな出会い♪は毎週?毎日?のようにありました。


けど、仲良くなれるのは、全体の1割程度だったと思います・・・


まず、知らない者同士が接触するきっかけですが、初めて見る車が元気良く走ってるシーンが自分達の目に留まる事から始まります。


そして、いつも仲間の誰かがつぶやきます。。。。


『あいつ・・・ どこの誰か知らんけど、えらい調子のっとるやんけ・・・』等と。。。(爆)


そんな時に白羽の矢が立つのが、当時、下っ端の自分でした・・・・。


先輩の『軽くイワして来んかい!』の号令?の下、元気良くコース上を走ってるターゲット車が、猿天駐車場へ戻るのを、この場所でライトを消して待ちます。


 
※当時は駐車場より上を走る人は無く、基本は駐車場から山荘方面がコースになってました


そして、ターゲット車が駐車場に進入すると、ライトを点等させ、ケツにべったり付けます。。。


けど、まだこの時点では、アオったりしません。


あくまで、静かに後ろに付くだけです。


何故、すぐにアオらないのか?


それは、当時はそんな行動を起す前に、絶対にしておかないとダメな事があったからなのです。


何やと思いますか?


今の時代には無い事ですので、若い方には理解が難しいと思いますが・・・


それは・・・


ターゲット車に貼ってる『ステッカー』の確認なんです。


ステッカーって言うても色々ありますよね?


TRDやNISMOの類・・・
また、オイルのメーカーや部品メーカー、SHOPのステッカー・・・


けど、そんなステッカーはどうでもいいんですよ!


極端な話、FET極東が、FET極道って書いてても、全く問題ありません。(爆)

 
 
重要なのは所属団体を示すステッカーなんです。


そこを良く確認しないと、相手よっては、こっちが半殺しにされるリスクがありますからね・・・


リアウンド、バンパー等、ターゲット車の隅々まで慎重にチェックします。。。


まぁ 一人で来てる車の大半は無所属だったので、リスクはありませんでしたけどね。


それに、CARBOY等のステッカーを張ってたら、ドライバーの攻撃性が低いケースが多く、かなり安全な分類に入りました(笑)
 

その一瞬の間にステッカー確認作業を終わらせ、問題が無ければ、ターゲット車の後方10センチぐらいにベタ付けして、アクセルをふかし、強制的に駐車場からコースに出るように仕向けます。


ちょうど、この場所あたりです(当時は車道との間に塀は無かったんです)
 

 


  ↓  同じ場所で25年前に撮影した写真

 



 
※当時は深夜でもサーキット並みの爆音が絶えず響き渡っていました
※路面に落ちてるオイル染みの多さで当時の【異常な】状況がわかると思います
 
 


そんな私の懸命な『アオり』を受けても、ターゲット車が気が弱い人?の場合、駐車場で固まったまま、車をコースに出さないんですよね・・・


そんな時はどうするか?


容赦なく、クラクションを鳴らしまくるんです。(笑)
クラクションって言うても、装備してたのは、当時流行のフェラーリホーン♪


すると、猿天駐車場にフェラーリホーンの甲高い音が響きわたり、周囲の皆が一斉に注目します♪


しかし、それでも動かない場合は・・・
 
 
普段、この場所あたりで集まってる自分の仲間達がゾロゾロとターゲット車へ寄って来るんです。






台数が少ない平日でも、自分達は常に10台程度は集まってましたからね・・・
 

この時点で必死に駐車場から出ずに停まってる車も100%動き出しました。(爆)


その急発進した車を追い回すのが自分の役割♪




 

追撃の結果、


90%の車はUターンする事無く、下山。。。
5%の車はコース途中で自損事故。。。
けど、残りの5%は頑張ってUターンして猿天の駐車場まで戻ってきました。


今、思えば、その駐車場まで戻ってきた約5%の人とは仲良くなれる事が多かったと思います。


その頃はCRXに乗ってたので、箕面のコースを考えると車のスペックは当時最強の分類でした。


エナペタルの車高調にダンロップ・フォーミュラR76Jを履いてた時代ですね・・・
 

 

このCRX時代が1番、無謀な運転をしていた時期だったのです。

 
今の現役さんは猿天をどれぐらいの速度で走ってるのか全く知りませんが、
当時は速度警告のチャイムが3回(ホンダはブザー音でしたけど)鳴ってたので、
上り、下り共にメーター読みで110程度は楽勝に出してましたネ。

 
もちろん、対向車線も含めた2車線をフルに使わないと出せない速度です。
よって、対向車とのスレ違いは命がけでした。(汗)


当時は悪い事とは思ったんですが、実は自分にも必死でアオらないとダメな理由があったんです。


それは、自分が負けると、次は自分のCRXを所属団体の代表に貸さないとダメなんです。


メンツがあるので、負けのまま終わらせる訳にはいかないとの事らしく・・・(汗)



そんなバトルはどうでも良かったのですが、とにかく自分の大切な車を彼に貸す事だけは避けたかったんです。


その理由は以前のシリーズで書きましたよね?


貸したら最後・・・

間違いなく、半クラをガンガン使われて、駐車場に戻ってきた時には自分の愛車が壊れてますよ(汗)

どうせ、弁償もしてくれないですし・・・


だから、『お前じゃ遅いからダメやわ! 俺がやるから、車を貸せ!』って言われない様に必死で追いかけました。


つまり、アオる側もそれなりの理由があったって事です。(爆)


どうですか? 今の時代には無いコミュニケーション方法でしょ?


当時はいろんな意味で刺激に満ち溢れていました。


 


 

最近、早朝に箕面をドライブする機会が多く、忘れかけていた昔の記憶が蘇ってくるんです。


懐かしいなぁと思う気持ちもありますが、申し訳なかったと思う気持ちも少しだけあります。


けど、大昔の事なので、アオられた人はもう忘れてますよねぇ?(爆)


このへんの話は、当時、『全盛期の箕面』を経験されている人にとっては懐かしい話かと思います。


今の現役さん達もそんな事してるのでしょうか???
復活してからも夜の箕面に上がる事は無いので、実態を全く知らないんです。


夜ってねぇ・・・
22時以降は車両通行禁止ですし、そんな場所で遊んでる方々って。。。


不良が多そうな感じじゃないですか!?


そんな場所に遊びに行って、カツアゲされたら困るし・・・(爆)



最後に・・・



おまけ写真を1枚♪



当時の写真です。



 
 
この頃は体に有害な物質を好んで吸引していた時期なので、かなり痩せています(爆)

 
このジーパン(今で言う、デニム)のブランドは『ランセル』です。

 昔はリーバイス等のジーパンなんかを履いてたら、ヘタレと思われるので、高いのに無理してトラサルディやGMV(ジャン・マルコ・ベンチューリー)等のジーパンを履いてました。
 
多分、このあたりのファッションも当時の最先端?の【大阪文化】かと思われます。(笑)
 
当時ですから・・・・
トレーナーの着こなしは当然、『シャツIN♪』ですよ(爆)。


髪型も、当時の阪神高速・環状♪方面での流行を、積極的に取り入れていたので、
非常にオシャレ♪です。
 
 

以上で、大阪・走り屋伝説 番外編は終了です。
 
  

最近、色々とブログを書いてるので、【大阪・走り屋伝説】本編はかなり下の方に逝ってしまいましたよネ(笑)
Posted at 2014/02/26 11:19:36 | コメント(21) | トラックバック(0) | 【大阪】「走り屋伝説 | 日記
2013年11月12日 イイね!

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・ 究極のコーナリング

【大阪】走り屋伝説 番外編 ・ 究極のコーナリング今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、
内容は大した事ありません。

何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、
またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭~い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。



また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、
架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。


このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。

経験した人ならわかると思いますが、当時と同じ事は今の時代に絶対できませんから・・・


当時の思い出等、色々コメントを頂けると嬉しいです。

その地域や時代によっていろんなドラマがあったと思いますので・・・


またまた前置きが長くなりました。


一旦完結した【大阪】走り屋伝説ですが、昔の思い出が蘇った時には、番外編として、軽く書いてみたいと思います。


今回のテーマは『究極のコーナリングです』

こんなテーマ・・・

どこにでもありますよね?(笑)

わざわざ番外編として書く必要があるの?って感じですが・・・


この手の話は、昔から単行本や雑誌・・・ 等々、
色々な方々が語られていますから、素人の私が能書きを言える訳が無いのですが、
当時の時代背景がわかるエピソードを思い出したので、ご紹介させて頂きたいと思います。

時代は25年前の昭和63年。。。

大阪の箕面ドライブウェイは連日連夜、走り屋達で激しく盛り上がっていました。





そんな中で自分達の仲間が発案?した究極のコーナリング(立ち上がり)方法があったんです。

コーナーを早く抜ける為には立ち上がりの速度って重要ですよね?

当時はそれを簡単に上げる方法があったんです。
※多分 今の時代に同じ事をするのは無理ですネ

ターボやスーパーチャージャー装着とかでは無いですよ。

基本的には車に対する初期コストはゼロ♪です。

少し興味ありますか? 

はい!

では、説明します。

早く走ろうと思っても、コーナーの立ち上がり時に必ずしもエンジン回転がパワーバンドに入ってるとは限りませんよね?

低すぎて、立ち上がりにモタ付く事なんかも多いはず・・・

そんな時のテクニックです。

当時、箕面では流行ってました。

クラッチを蹴る? いやいや・・・  違いますネ。(笑)

そんなん、誰でもやってます。。。



答えは・・・



『半クラで立ち上がるんですよ。


単車の世界では常識的なテクニックですよね。


今、これを読んだ大半の人が、失笑されたと思います・・・

そんな事、できる訳が無いと思ったハズですから・・・(笑)


それを、しっかりやってたのが、当時の箕面♪


しかし、この究極の技には最大の欠点があったんです。

欠点とは。。。

『自分の車で出来ない』って事でした。


その理由は。。。

当然、クラッチが壊れるからです! 

それならば、どうやってそのコーナリングを実践したのか・・・

その技は、基本的に他人の車で使うんです。。。(爆)

実は・・・

この私も箕面を走り始めたばかりのCRX時代にその餌食になった事がありました・・・(泣)

当時、所属団体の代表さんから、『車(CRX)を運転させてくれや・・・』
って声をかけられました。

その方は自分の車では絶対に本気で走らない人だったんですが、人の車では鬼の様に早い人だったんです。

少し嫌な予感はしましたが、自分は助手席に移動し、運転を交代しました。。。

代表さんはその頃、すでに箕面では6年ほど走ってた人なんで、流石に上手かったんですよね・・・

CRXで、速度を上げて、ガンガンとコーナーを攻めます。。。
そして、彼はタイトコーナーの立ち上がり時が異常に早いんです。

本当にグングン加速していきます。。。

しかし、何故かエンジンは常時、唸りまくり・・・(汗)

シフトは2速・・・
回転数は常時7000をキープ♪

代表さんの運転を良く見ると、半クラで立ち上がってるでは無いですか・・・(汗)

当然・・・・

車内にはクラッチの焼ける匂いが充満・・・(大汗)

しかし、代表さんは、止める気配が全くありません・・・
半クラを使いまくりながら、前の車をアオります。。。

そして、わずか1往復で、クラッチが死にかけた為、勘弁してもらう事ができました。

彼は車を降りる時に一言・・・
『クラッチは強化しといた方がええぞぉ・・・』

どう思います? 滅茶苦茶でしょ?(爆)

まぁ 自分の場合は運良く壊れるまではいかなかったのですが、当時は車を壊された犠牲者が
多数出ましたからね・・・(汗)

猿天から帰ろうと思っても、クラッチが滑って走行不能とか・・・(笑)
あれだけ常時、半クラ使ったら、強化してても壊れますよ・・・

究極は、見ず知らずの人の車を強引に借りて、半クラ走行です・・・
もちろん、クラッチが焼けて壊れても、弁償する気は一切ありません(爆)
『お前の車、壊れてるぞぉ』・・・の一言で終わりです。

それに更に酷い場合は、『少し車を貸してくれや!』・・・と言われて、1ヶ月ぐらい返してもらえない奴もいましたからね。。。

戻ってきた時は何もかもボロボロですわ。。。

そんな事態を避ける方法は、『車を運転させろ?』と言われない様、下っ端のうちは猿天の駐車場に停まらずに、走り続けるしかなかったのです・・・(爆)


今の時代では考えられない事ですが、当時は流行した行為でした。。。


昔は車が好きって事だけで、誰もが走り屋になれなかった理由の一つかもしれませんね・・・


それに比べて、今の時代は平和です♪
普通に走りに行っても車を取られて壊される事なんか無いですからねぇ(笑)

どうですか?

昔は刺激があって良い時代だった。。。
今の時代は楽しく無い。。。

等と言われる事もありますが、当時には今の時代には無い『気苦労』もあったんですよ(笑)


【大阪】走り屋伝説 番外編 ・ 究極のコーナリング・・・

多分、何がコーナリングや!
アホな事を書きやがって・・・と思われていると思いますが。。。(爆)


くだらない内容で申し訳なかったのですが、当時のエピソードとして語ってみました。


ではまた次回。
Posted at 2013/11/12 18:53:09 | コメント(12) | トラックバック(0) | 【大阪】「走り屋伝説 | 日記
2013年10月30日 イイね!

【大阪】走り屋伝説 Part15 ・ 最終回 引退編

【大阪】走り屋伝説 Part15 ・ 最終回 引退編今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、内容は大した事ありません。

何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭~い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。

また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。


このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。

経験した人ならわかると思いますが、当時と同じ事は今の時代に絶対できませんから・・・


当時の思い出等、色々コメントを頂けると嬉しいです。

その地域や時代によっていろんなドラマがあったと思いますので・・・


最後まで前置きが長くなりましたが、前回のPart14では愛車『グランド・シビック』で
箕面や茨木サニータウン、環状だけで無く、中山サーキットの走行会にも行くようになり、更に充実した日々を過ごしていた時期の話をさせて頂きました。


最終回である今回は現役引退についての話をさせて頂きます。


まず、この時点で走り屋を止めるきっかけですが、大きな理由があった訳ではありません。

多分、細かな理由が重なり合って決意したんだと思います。

その理由は・・・

・昼間に車が使えない(捕まる)為、日常生活に支障が出る
・大きな事故を克服した様に思えるが、大きくテールがスライドした瞬間に恐怖が蘇る
・タイヤ代金や、ガソリン代金が続かない
・女性がらみのトラブル等にまき込まれる事がある(爆)
・交友関係が増えれば増えるほど、対人トラブルも急激に増えていく・・・

まぁ そんな感じでしょうか。。。

しかし、その頃は走り屋の数が更に増加した時期だったんです。

例えば、自分の中学の同級生でも、単車や走る車に全く興味が無かったヤツらが急に目覚めて車高調を入れたシビックを買いだしたり・・・

環状ブームの影響でシビック等を買っても、何処にも走りに行かない、見た目だけの走り屋が急に増えた時期でしたね。

街乗りしかしないのに、車高調にピロアッパーつけて、ロールバーとか・・・(笑)

もう少し続けても良かったのですが、そろそろ潮時かと思い、平成元年5月に引退を決意します。

その時点ではバイク時代から考えると3年半の期間、スピードに酔いしれる遊びを続けてきた訳なので、もう十分満足していたのです。

今の感覚で考えると、引退が早すぎる感じがしますが、あの時代は、みんな本当に毎晩走りに行ってたんですよ。

だから中身は超濃厚なんです。

しかし、この3年半の経験は自分の人生の中で貴重な経験となりました。

また、当時の走り屋の特徴として、個人が個別にモータースポーツを楽しむって感覚では無く、それぞれ団体に所属し、そして集団で行動し、そのメンバーの間で時には助け合い・・・
また場合によっては、仲間内であっても、容赦なく意図的に陥れ・・・(爆)
そして、団体行動ゆえに、更に余計なトラブルに巻き込まれる事も多くありました。

それに、人間って集団になれば気が大きくなりますからね。。。(汗)

それが良い事か悪い事かは、あえて書かなくても分かるとは思いますが、
当時の大阪はそんな傾向があった様に思えました。

集団と関わらず、個人として自由気ままに走りを楽しむ事が出来た時代であれば、もっと長く楽しめたのかもしれません・・・

けど、あの時代は個人で堂々と走れる時代では無かったんですよね。。。

特に環状なんか、何のつながりも無い人が自由に走り回れる場所でも無かったし、仮に頑張って走ってても、少し いちびった走り方をしただけで、カラまれますからね・・・(笑)

だから、真面目に車が好きで、健全なスポーツドライブが好きって人は、今の時代が合ってると思います。

昔は普通に走ってるだけでもシバかれる事があった時代でしたから・・・

確かにアツい時代でしたが、車好きの誰もが走り屋になれた訳では無く、それなりの覚悟がなければ走り続ける事が出来なかったんです。

そのへんは大阪だけの文化だったのかもしれませんけど・・・(汗)

さっきも書きましたが、平成元年に入り、新しく走り始めた人が増えたのですが、同時に止めた人も多かったんです。

自分が引退後、1年ぐらいで仲間の半数はヤメましたからね・・・

取り締まりが急にキツくなり、走りたくても走れない環境・・・
また、クラッシュして全損になったり。。。

良い思い出も、悪い思い出も多数ありましたが、この時点で走り屋の引退を決意し、グランドシビックを降りる事にしました。

もう少し続けていたら、運転が上手くなっていた可能性はありますが、
事故で死亡や大怪我をするリスクもありました。。。

そう言う意味でも、良いタイミングだったと思います。

以上で自分が知ってる『走り屋』の世界は全て終了です。

 
そして、引退後はこの世界から離れましたので、全く状況がわかりません・・・
(2年後にAW11やSW20に少し乗った時期もあったのですが、街乗り程度です)

 
また、当時の仲間も20年以上会ってませんので、その後の情報もありません。。。

ただ、風の便りによると、仲間の一人が走り屋時代の血の気の多さと運転技術が認められ、デリヘルの送迎運転手にスカウトされたとの事でしたが・・・(爆)

 
もし、この後の大阪・走り屋文化はどんな風になったのか・・・

その辺に興味がある方は、この漫画とか参考になりそうですよ。。。
ただし、漫画は自分が引退した後の話ですけどね。


 


 
自分がシビックを降りたのが平成元年の5月 この漫画のストーリーが始まる設定が平成元年の春ですので、時期的には見事にシンクロしますので、時代の流れは上手くつかめると思います。

 

 


但し、漫画の舞台は大阪南部の泉州方面、自分は北摂なので、大阪の端と端ですから、漫画には箕面とか全く出てきませんけどね。。。(笑)






 このブログを書き始めたきっかけですが、20数年ぶりに、少し走れる車に乗る事になり、昔を懐かしみながら走りに行く機会も増えてきました。。。

そんな中で感じた事は、自分の経験した時代と、現在とでは感覚的な違いがあるって事でした。

もし、自分があの全盛期の頃から継続して、サーキット等で遊んでいたのであれば、これほどの違和感は感じ無かったと思います。

恐らく、あの時期にキッパリやめたので、平成元年で時代が止まってしまってるんですよね・・・

言い換えれば、自分にとっては、昭和末期の時代が全てなんです・・・(笑)
※浦島太郎みたいな感じですよ

そんな中で自分が過去に経験した事をブログにしてみよう・・・ って思ったんです。 ただそれだけ。。。


もう最後なので、具体的にどんな違和感を覚えたのか、一例をあげておきます。
※今の若い方の感覚を批判している訳では無いですから、誤解なさらないでくださいネ

例・・・

『リアガラスの着色フィルム』

これは自分が現役の頃にはありえない行為でした・・・
最近はスポーツカーでもフィルム貼ってるのを見ますネ。。。

昔はセダン系の車ではフルスモークが基本でしたが、走り屋系の車に着色フィルムはダメでした。

理由は??? 

夜に外が見にくいから???   いやいや・・・

ちがいますよ!

車内を見て欲しいのに、フィルムなんか貼ったら、中が見えないじゃないですか!(笑)
見て欲しいが故に、ロールゲージを黄色や白や青に塗ってアピールしてるんですよ!

それと、当時の走り屋にとって1番大切な事は、いかに無用なトラブルを避けるかって事だったんです。

例えば、ガチガチの足回りの車が路面のギャップを拾い、車体が揺れた時、バケットシート上部から見え隠れする『パンチパーマ』のヘア♪は後方の車両に対し、最大の威嚇効果を発揮するんです!

だから、ガラスにフィルムなんて貼ってしもたら、威嚇効果ゼロなんですわ。。。(笑)

それに、リヤに貼るだけでも全体的に車内が暗くなって外から見えにくくなりますよね・・・

そんなん・・・

メンチ切っても相手に見えへんがな!(爆)


まぁ 違和感って言うても、この程度のしょうもないジェネレーションギャップですね。

え?

やっぱり、私の考えの方が変ですか?(笑)

すいません、浦島太郎状態になっている年寄りの戯れ言です・・・
寛大な心で接して下さいませ。。。(汗)


今回でこの走り屋伝説シリーズはこれで終了しますが、昔の思い出は書ききれない程、多数あります。

その辺は、今後も日常のブログにて、随時、語っていきたいと思います。

今まで、読んで頂き、ありがとう御座いました!


<平成元年 初春 最高の愛車 グランドシビックと共に・・・>
 

 

最後に、走り屋引退後の進路について、軽く書かせて頂きます。

 
興味が無い方はスルーして下さいね。
※走り屋とは全く関係ありません

自分は平成元年の5月に走り屋を引退し、セダンに乗る事になります。

 
もうすぐ20歳を迎えるので、今後の活動も視野に入れて、アダルトで落ち着いた雰囲気の車を選びました。

 
そして、服装もトラサルディやベンチューリー等のブランドから、先輩達が愛用していたPIA・SPORTS等のブランドに移行していきました。
※もちろん、腰にポケベル装備は必須です

 
当時、服装と自分が選んだ車(クラウン)は見事にマッチしていたと思いました。


 

 

このクラウン・・・

 
車の外見から上品さが滲み出ている為、対向車から良く道を譲って頂ける名車でした。
 

しかし、残念な事に、グランドシビック以上にナンパが難しい車でした。
こんな上品な車なのに、妙に警戒されるんですよね・・・(爆)



そして、自分自身の行動としては、今までの活動ステージであった箕面や環状から、完全に決別し、魅惑と欲望が渦巻く、夜の街 ミナミ(難波)へ本格的に進出する事になります。


 
 

 

そこには走り屋の世界と比べると数倍・・・

いや!

 
数十倍の刺激が待っていました。。。



平成元年 5月

当時、19歳・・・

 
走り屋時代に培った、行動力を武器に・・・

 
簡単に後戻りが出来ない『ダークサイド』へ向けて・・・

 
フルスロットル♪で突入して行く事になります。

 
 


 
【大阪】走り屋伝説   
Posted at 2013/10/30 14:35:00 | コメント(26) | トラックバック(0) | 【大阪】「走り屋伝説 | 日記

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