
今回もたいそうなタイトルに反応し、ブログを覗かれた方には、あらかじめお断り申し上げますが、
内容は大した事ありません。
何度も言いますが、大阪と言えども、かなり広域で、あくまで当時、自分が生息していたエリア、
またその中での当時の交友関係の中で経験した『狭~い』範囲のみが記載内容となりますので、ご了承下さいませ。
また、内容に関しては一部不適切な表現もあると思われますが、あくまで個人のブログであり、
架空の作り話? 等と、軽く流して頂ければ幸いです。
このシリーズはあの時代を駆け抜けた世代の方々と、当時の思い出を共有したいとの思いで書いています。
経験した人ならわかると思いますが、当時と同じ事は今の時代に絶対できませんから・・・
当時の思い出等、色々コメントを頂けると嬉しいです。
その地域や時代によっていろんなドラマがあったと思いますので・・・
またまた前置きが長くなりましたが、今回の話は自分がサイバーCRXに乗り始めて8ヶ月。。。
自損事故も経験し、その後は足回りにエナペタルの車高調、ブレーキにはエンドレスを入れ、タイヤはSタイヤと、ヤマ(峠)を攻めるには十分な仕様で毎晩の様に箕面を攻めていました。
時代は今から25年前の昭和63年9月・・・
その時期は車にも慣れ、走る事が1番楽しかった時期でした。
しかし、思い返せば、『恐怖』と言う言葉を知らなかっただけの無謀さ故の『楽しさ』でした。
とにかく、1番嬉しがって走りまくった時期だったので、無茶な運転をしていました。
CRXに入れていた直巻サスのレートは前後14キロだったので、コーナー侵入のアクセルを抜いた
状態でステアリングを操作すると簡単にテールがスパッ♪と流れる仕様だったんです・・・
箕面のコース上に3箇所あるヘアピンでは、ほぼフルカンターでテールのスライドを止めないと
ダメなぐらい流れました。
けど、そんな半分スピンしてる様な無駄な走り方でも、派手な走りの方がカッコ良いと思い込んで
嬉しがって走り回っていました。
(そんな曲がり方、遅くなるだけなんですが・・・)
いくらテールがスライドしても、自分には止める事が出来るって変な自信があった時期です。。。(笑)
テールが止まるのはテクニックでは無く、Sタイヤの性能と、速度域の低いタイトコーナだったからなんですけどね・・・(汗)
天罰が下るまで、それほど時間はかかりませんでした。
昭和63年9月のある日、深夜12時・・・
一般車両通行禁止の時間帯でしたが、祝日前で箕面ドライブウェイ猿天の駐車場は満車状態でした。
その頃の自分は、この箕面ドライブウェイでCRXの横に乗せて欲しいと頼まれる事が多く、
その日も仲間が1人の見知らぬ男性を連れてきました。
男性は『ぜひ、横に乗せて欲しい・・・』と頼んできます。
毎度の事ながら自分は嬉しくなって、即OKを出し、その男性を乗せて仲間が見守る
猿天の駐車場をアクセル全開で飛び出しました。
祭日前って事で、ギャラリーコーナーはすごい人数です・・・
その時は50名ぐらいのギャラリーが山側斜面から自分のCRXの接近を注目していました。
その日はいつもより気合を入れて加速した為、かなり速度が乗っています。。。
またギャラリーの多さにテンションはMAX♪でした・・・
一瞬のブレーキと同時にシフトを3速から2速へダウンし、ステアリングを右に切り込みます。
後輪が横断歩道のペイントを踏んだ瞬間、いつも以上に、テールがスパッ♪と流れました・・・
助手席で見知らぬ男性が『すげ~っ』とつぶやきます・・・
その瞬間でした。。。
普段はアクセルオンで止まるはずのテールスライドが止まりません。。。
その時に慌ててカウンターを強めに当てたので、一気にオツリが返ってきました。。。
一瞬で右テールがガードレールに強く打ちつけられます・・・(汗)
車体に伝わってきた衝撃の大きさから右のリア・フェンダ-部が大破した事はすぐわかりました。
またその衝撃で右のテールランプが後方へ飛んでいきます・・・
その時、自分は判断を誤りました。。。
何も考えず、フルブレーキングをするべきだったんです。(大汗)
しかし、自分が考えた事は、
『こんな大勢のギャラリーの前で恥はかけない・・・』
『FFやからアクセルONでテールのスライドが止まり、このまま抜けれるハズ・・・』
そんな馬鹿な判断で、アクセルを一気に床まで踏み込みました
しかし・・・
車の進路はトンネルの入り口には向かず、無情にも側壁に向けて突進を始めたのです。
目の前にトンネル左側サイドのコンクリート壁が急接近します・・・
アクセルは床までベタ踏み状態・・・
もうアカンと思った時には、パニックで右足が固まり、ブレーキを踏む事すらできませんでした。
その2秒後・・・
『ダーン!』と言う大きな音と衝撃。
その直後から『キーン』と大きな耳鳴りがして止まりません。。。
更に下半身がしびれて足は動かしても何の反応も無く、顔に濡れたような感覚・・・
横からは苦しそうな、うめき声・・・
助手席の見知らぬ男性は、純正シートベルトで肋骨を圧迫されたようで、
うまく呼吸が出来ていない感じでした。
そうです・・・
やってしまったんです。
事故後、まず、車から出ようと思っても、足が全く動きません。
良く見るとエンジン類が室内にメリ込んで足を直撃し、自分は挟まって出れない状況でした。
助手席側のダメージが少なかったのは不幸中の幸いでした。
その頃にはギャラリー達が猿天駐車場にいてる仲間を呼びに行った為、車の回りには仲間が一気に集まります。
その時の仲間の顔を見た瞬間、ヤバイ?と思いました。。。
皆、普段見せない深刻な表情をしてたんです。
自分の顔の濡れた感触は、ハンドルのホーンボタン付近で眉間を強く打った為、
顔の一部が陥没し、大量に出血した為でした・・・
そんな事故の場合、普通はすぐ救急車を呼んで、車から出してもらい、病院へ運んでもらうのですが、自分達はその前にすべき大切な事があるんです・・・(汗)
交通事故で救急車を呼べば、同時に警察が来るので、その前にチームのステッカーを剥がさないとダメなんです。
万一、ステッカーをそのままにして、警察を呼ぶと、病院で有難く無い取調べが待ってますからね。
当時のメンバーの中にはテンプラ車両で無茶してた人がいましたから・・・(汗)
しかし、この時はフロントガラスに貼ってたステッカーの糊が固着して、なかなか剥がれませんでした。
意識が薄れゆく中で見た光景は、仲間が3人ほどボンネットの上で必死にステッカーを剥がしているシーン・・・
彼らは『後半分や・・・』等と言いながら、必死にシールを剥がしていました。
しかし、彼らが必死に剥がそうとしてる、残り半分の部分は『RACING』の文字・・・
僕は最後の力を振り絞り、叫びました。。。
『そんな部分は剥がさんでもエエから、はよ救急車呼んでくれや!』と・・・(笑)
そんな流れで、やっと救急車を呼んでもらえたんです。
同時に自分の仲間達が、助手席の見知らぬ男性を引きずる様に車から無理やり降ろします。
彼は強い胸の痛みを訴えていましたが、救急車には自分の仲間達が乗せませんでした。
理由は、人身事故になるからです・・・
このあたりの対応は当時の走り屋の世界では常識でした。
もちろん、生死にかかわるような状態なら救急車で病院へ行かせますが、肋骨の骨折程度なら基本的に横乗りの人間は我慢させましたね。
結局、彼は仲間の車で別の病院へ行ったんですけど。。。
少し余談ですが、実はこの事故の1週間前も仲間がトンネルの中で事故を起したんです。
その時は買ったばかりのKPが全損になりました。
赤白の派手な環状カラーに全塗装したサイドマフラーのKPだったんですが・・・
トンネル内で横向き2回転を食らった為、ロールバーで頭を打って大量出血してたんですが、その時もステッカー剥がすのに苦労したんです。
誰もシール剥がしなんか持ち歩いてないですからね・・・(笑)
あれは素手で爪を立ててコリコリしても、簡単に剥がれないもんなんですよ。。。
結局、その時も救急車を呼ぶのに15分ぐらい時間かかったんですが、ツレは搬送先の箕面市立病院で頭を縫ってもらい、2~3日で猿天へ復帰できたんです。
しかし、今回の自分の場合は深刻でしたネ。。。
ツレが先週運ばれたのと同じ箕面市立病院へ搬送され、3ヶ月以上入院する事になりました。。。
先週もツレの事故で救急外来に来てたので、病院の看護婦さん達には呆れられました・・・
事故の翌日、病院での検診時に左膝の間接がバラバラになったので、一生、歩く事は出来ないかも?と医者から言われたんです・・・(汗)
免許が無くなるとか、仕事がクビになる・・・ぐらいなら良いですが、
一生、歩けないのは困ります。
無謀な運転の代償とはこんなモンなんですね。。。(大汗)
ただ、少し嬉しい事もありました。
横に乗せてた見知らぬ男性が自分が入院し、2週間ぐらい経った頃に見舞いに来てくれたんです。
肋骨が折れていたけど、大した怪我ではなく本当に良かったと思いました。
もし、大怪我が彼の方なら・・・(大汗)
これがその事故車両の写真です。
サベルトの4点してなかったら、確実にフロントガラスを突き破って顔面からコンクリート壁へ激突ですわ・・・
脳みそ散乱って感じでしょうか・・・(汗)
しかし、当時のホンダ車って・・・衝突安全性能が低いんですよ(笑)
これがフロントガラスのステッカー剥がし跡です。
その他、別角度から・・・
ココまできたら、修理は難しく、廃車ですね。
助手席側はダメージ少なかったんです・・・
この大クラッシュにより、仲間の間では自分が走るのを止めるとの噂が広まってました。。。
まぁ 治っても一生、普通に歩行できないと言われていたので、箕面走ってる場合では無いですからね・・・
けど、奇跡的に怪我がある程度回復したんです。
※傷跡を見たい方は遠慮なく、申し出て下さい(笑)
昭和63年12月・・・
また聖地、箕面への戦線復帰する日がやってきます。。。
しかも派手なグランドシビックに乗り換えて・・・
若い頃は、夢中になると止めれない事があるんです。
こんな大怪我しても・・・(汗)
事故によって走るのが怖くなり、ビビって止めた・・・等と思われたく無い!
って気持ちでしょうか???
今になって考えれば、アホな事なんですが、当時はそんな考え無いですからね。
シビックでの戦線復帰ぐらから平成元年の春あたりまでが自分的には最大ピークと考えています。
大阪のアツい夜は続きます。。。
そのあたりの話は次回以降に・・・
今回もダラダラとした長文を読んで頂き、ありがとう御座います。