幸手権現堂堤と母娘の悲話 2024/4/12
投稿日 : 2024年04月20日
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皆様いつもご覧頂きありがとうございます(○・v・)
千本桜〜夜に紛れ〜♬
君が〜歌い〜僕は踊る〜!!!
ヽ(;´Д`ヽ)(ノ;´Д`)ノ←
埼玉県幸手市の桜の名所、権現堂堤の最終回です!
人口5万人を切った幸手市のこの桜の名所には年間200万人、桜まつりだけでも毎年100万人もの観光客が訪れます。
約1キロにわたる1,000本のソメイヨシノのトンネルと一面の菜の花のコントラストがとても美しいです!
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この権現堂堤のおよそ中央に、誰にも気に留められることもなくひっそりと「順礼母娘の供養塔」が建っています。
昭和11年に建てられたこの石碑には悲しい物語が秘められています。
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権現堂桜堤は、天正4年(1576年)頃に築かれたといわれています。
しかし、権現堂堤はすべてが同時期に築堤されたのではなく、河川流路の締め切りやそれに伴う築堤により部分的に作られていったものが後につながり、権現堂堤になったとされております。
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権現堂川は暴れ河川としても恐れられ、宝永元年(1704年)にはじめて権現堂堤が切れて以来幾度も決壊をしてきました。
その被害は遠く江戸にまでおよび、大江戸八百八町の半ばは水浸しになると言われ江戸を守る堤として大切に管理されておりました。
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天明6年(1786年)権現堂堤木立村の破堤により濁流に飲み込まれた村人は、銀杏の大木にすがり避難していました。
しかしそれも根こそぎ流され平野村須賀間に流れ着き無残にも75名という流死者が出てしまいました。このため、現在でも犠牲者の供養が行われております。
この後も幾度にも水害に襲われ、享和2年(1802年)にも、権現堂堤の月の輪堤部分が決壊をし、権現堂村では80軒の民家が流される被害が出ております。
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享和2年(1802年)。
長雨が続き堤が切れ、幾度修理しても大雨が降りだすと一夜のうちに切れてしまうというありさまでした。
ある時、堤奉行の指示で村人達は必死の改修工事をしていました。大被害と続く工事の疲れに口をきく元気さえも失っていました。
その時、夕霞のかかってきた堤の上に母娘の順礼が通りかかったのです。
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母順礼が堤の切れ口を覗きこんで
「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。人身御供(ひとみごくう)を立てなければなるまい。」と言いました。
そこで堤奉行は
「誰が人身御供に立つものはいないか。」
と人々を見渡しましたが、誰も顔を見合わせるだけで、進んで私がなるとういう者はありません。
すると重苦しい空気を破り誰ともなく
「教えたやつを立てろ。」という声があがりました。
母順礼はこの声を聞くと
「私が人柱になろう。」と念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせたのです。これを見た娘順礼もあっという間にその後を追いました。
すると不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来たといいます。
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先の石碑はこの順礼母娘を供養するためのものだったのですね。
その後も、東京を守る堤として権現堂堤の治水上の重要性は高まりますが、利根川改修工事で権現堂川が締め切られることが決定し、権現堂堤もその役目を終えることになりました。
このため大正9年(1920)に地域住民が立ち上がり保存会を組織し、由緒ある権現堂堤を保存するため桜を植樹し始め、成長と共に桜の名所へとなっていったのでした。
本日も長文に最後までお付き合いくださいまして
ありがとうございました━━ヽ(*´∀`*)ノ━━☆
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