清水谷公園と紀尾井坂の変
投稿日 : 2024年04月29日
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皆様いつもご覧頂きありがとうございます(○・v・)
前回、首相の暗殺を取り上げましたが
ほとんど実質最初の首相と言っていい
大久保利通の暗殺について、今回も暗い話をしていきたいと思います←
※今回も非常にショッキングな表現が出てきますので苦手な方はスルー推奨致します(><) あらかじめご了承ください。
★★★★★★★\(^o^)/
画像は赤坂見附を越えた弁慶橋から撮影しています!
ここは以前取り上げたホテルニューオータニのある紀尾井町エリアになります。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1845399/car/3513806/5214431/photo.aspx
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弁慶橋から紀尾井坂までの途中に清水谷公園があります。
まさにこの場所で1878年(明治11年)に明治政府の内務卿(実質上の首相)である大久保利通が不平士族6名により暗殺された事件、紀尾井坂の変が起きました( ノД`)
現代は公園には長閑な池と美しい桜。
道路の向かいには日本を代表するホテルニューオータニがあり閑静な場所となっています(○・v・)
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この公園には、事件から10年後に建立された
贈右大臣大久保公哀悼碑が立っています。
反対車線側からでも分かるくらいの大きさです。
台座も含めるとなんと6m以上もある立派な碑です。
実際に見るとびっくりするほど大きいです!
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暗殺事件が起こったのは1878年で、明治維新が始まって約10年後のことです。
明治維新は、主に長州藩と薩摩藩と土佐藩が中心となり、江戸幕府を倒して始まります。
こうした経過から、明治政府の中心はこの3藩出身の者たちでした。大久保利通は薩摩藩出身で西郷隆盛とは学友でした。
明治維新後、大久保は明治政府の内務卿となり、学校制度や地租改正、徴兵令などを実施していきます。
当時の大久保を知る人物は、寡黙で冷静、威厳のある人物と評され、理論家でもあり大久保に理論で太刀打ちできるものはなかったと言われます。
そのイメージからか人気絶大な西郷隆盛とは真逆の評価が与えられることが多かったのです。
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維新後、身分制度が変わったことで今まで支配階級であった武士は、それまでの特権をすべて失います。
こうした明治政府の政策に不満を持つ士族たちを不平士族と呼びます。
萩の乱、神風連の乱、秋月の乱といった不平士族の乱が立て続けに起こり、そして1877年には不平士族の最大の乱と言われる西南戦争が起こります。
西南戦争は盟友だった西郷隆盛の自害により、大久保利通率いる政府軍の勝利で終わります。
それを最後に士族の反乱は鎮まりますが、不満が消えたわけではありませんでした。
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翌年、5月14日、午前8時ごろ。
大久保は霞ヶ関の自邸を出発しました。
明治天皇に謁見するため、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かったのです。
同行していたのは御者の中村太郎と従者の芳松でした。
ところが、午前8時30分ごろに紀尾井町清水谷において
石川県の不平士族、島田一良ら6名が大久保の乗る馬車を襲撃します。
当時はこの道は森の中で馬車が1台通るのがやっとでした。
逃げ道はありませんでした。
まず馬丁の芳松が襲われました。背中を切られますが、なんとか逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めました。
※画像は実際に大久保利通が襲われた時に乗っていた馬車。
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※ここから非常にショッキングな表現がございますのであらかじめご了承ください…
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
さらに日本刀で馬の足を切った後、馬車から飛び降りて立ち向かった丸腰の中村太郎を一太刀で刺殺します。
馬車の中で書類に目を通していた大久保は異変に気付き馬車から出ようとしましたが、島田らは両方の扉を塞ぎ、大久保を馬車から引きずり降ろしました。
大久保は島田らに対して「無礼者」と一喝しますが、護身のための武装をしていなかったことが仇となり、なす術もなく斬殺されたのです。享年49歳(数え年)でした。
大久保は無残にもメッタ刺しにされていました。
額に約15cmという深い切り傷を負い、頭部右側面にはさらに深い約18cmの切り傷を受けて頭蓋骨が切断されていました。後頭部も同様に18cmの切り傷を2カ所も負っています。
加えて、頸部には約6cmの刺し傷を負っています。
最も深い傷は右肩で、約20cm刺されて肋骨を貫通しているほどでした。
そのほか、鼻の右側、下顎の左側なども斬りつけられていました。介錯として首に突き刺された刀は地面にまで達していました。
事件直後に駆けつけて大久保の遺体を見た前島密が「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現しています。
その時、前島は大久保が見たという夢のことを思い出していました。その夢とは、大久保が西郷とともに格闘して、そのまま崖の上から落下。頭蓋骨が割れて、自分の脳が微動するのを大久保は見たというのです。
まさに夢のシーンが現実になったことになったのですが、大久保がそう前島に話したのがわずか数日前のことでした。
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事件に衝撃を受けたのが、大警視(初代警視総監)の川路利良でした。西南戦争でも大久保の指揮のもと抜刀隊を編成するなど関係は深く、刺客から守り切れなかった責任を痛感します。
実は、彼らの暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップである大警視川路利良の耳にも入っていたのです。しかし川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかったのです…( ノД`)
以来、大臣などの往来には警察官を帯同させるなど対策を強化し、要人警護の礎を築きましたが…
その後も要人の暗殺は現代に至るまで続いていくことになります( ノД`)
かつて倒幕に向けて共に歩んだ西郷隆盛とは別々の道を進み、やがて最後には正面切って対決することになりました。
しかしそこに憎しみはありませんでした。
暗殺された大久保利通の懐からは血で染まった手紙が2通発見されています。
大久保は家族にも秘密で、いつも生前の西郷から送られた手紙を入れた袋を肌身離さず持ち歩いていたのでした。
本日も暗い話に最後までお付き合い頂きまして
ありがとうございました━━ヽ(*´∀`*)ノ━━☆
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