2006年02月16日
私は人よりたくさん転職しているかな?
最初は工業デザインの専門学校時代、
学校とはまるで関係なく、
当時アルバイトしていた居酒屋で靴屋の問屋を紹介され、
そのまま入社。時代はD.C.ブランドブーム。
雨後のタケノコのようにブランドが乱立している頃、
そのアパレルとはまるで関係ない堅い問屋も時代はデザインとばかりに私のような若造をデザイナーとして採用したのですが、
志の低いバイト上がりのニーちゃんに出来ることと言えば
棚卸の手伝いくらいでしたから、1年でクビに。
そこから私自身も「時代はアパレル」と思い、
アパレルで革製品に強い?ことをアピールして何社も面接に行き、
原宿の某ブランドに紛れ込むことに成功。
「新たにMEN’Sブランドを立ち上げる」
というのにMEN’Sの靴の工場が判らない
と言うことで私の入社は大変ありがたがられ、
うまくいってました。(でも給料は15万)
ところが、MEN’Sは女性物ほど回転しないのと、
思ったほど利益率も良くないので、
あっけなくMEN’Sブランド閉鎖。
私もクビに。
そんな時、
「ちゃんと工場に入って靴をもっと知りたい」
と言う珍しく純粋な心から前から声が掛かっていた、
工場にデザイナーとして入社。
木型の種類を覚え、皮の種類を覚え、
紙型を覚え、まではよかったのですが、
外注先(夫婦で内職さん)を覚え、原チャリで通い、
発注、引き取り、発注、引き取り....。
そんな中、時代はバブル。
靴工場の社長と言えどもお金は天から降ってくるらしく、
フェラーリテッサロッサにランボルギーニカウンタックアニバーサリーと言う判り易いラインナップを靴の在庫がうずたかく積み上げられた倉庫に1台、
後は税金対策なのか?自動車商プレートをどうにか手に入れ
こんな下町に不釣合いの黒いフェラーリが一台だけ飾ってあるショップを作りました。
そんな折、いつものように発注、引き取りの仕事のため原チャリ
で出かけようとしたとき、前の黒いセドリックが急ブレーキ。
こちらは停まりきれず、セドリックのリアバンパーの下に原チャリのノーズを食い込ませました。
おりてきたのはヤの付く人で
近所の交番からおまわりさんがやってきても
ワカゾーを一人置いてさっさと行ってしまいました。
こちらは社長を交番まで呼んで
そのワカゾーとおまわりさんとで交渉だと思ったら、
「50でいいだろ」
とワカゾーが切り出した。
それはこちらに50万払えと言う意味だった。
靴屋の社長もおまわりさんも異論は無かった。
書類に書くワカゾーの字が妙に綺麗だった。
「○○一家」
交番を出て、信号待ちで靴屋の社長は私のケツを蹴飛ばした。
そしてこう言った。
「50万は立て替えてやるから、ちゃんと払えよ」
毎月5万づつ(月20万の給料)きっちり払って
完済後、すぐ退社。
あんな世界はいやだと、違う職種を考える。
(毎月5万払いながら面接も行く)
今度は建設関係だ。
とはいっても、博物館やモーターショーなどの
パネルや鉄骨などの鉄、ステンレスの製作会社。
やっと、専門学校の「工業デザイン」という
のに近いかな?と思ったけど実際は、
全然役に立つことは無かった。
でも自分にあってるのか、楽しかった。
ただ、現場作業や、徹夜が何日も続くのだけはいやだった。
そんな中、バブル崩壊と言う波が一番に押し寄せるこの業界。
半年以上、暇な時期が続いた。
自社工場(お客さんの借り物)を手放し、
来る仕事も変わってきた。道路工事的なものまでやり始めた。
そんな時公的な事業で目黒川に
「川の博物館」とやらを作ると言う仕事が出てきた。
なんと今までのお客さんと競争入札で取ってきてしまったようなのだ。
それがとどめだった様で負債を膨らましていった。
私は、その雰囲気と30歳になるのにまだ20万しかもらえていない実情を部長に話し、退社したいともちかけた。
25万くらいは何とかすると言われたが、年齢万円は欲しいと告げて1ヵ月ご退社した。
それから、すぐ「倒産した」と言う話しが聞こえてきた。
つぎは取付け職人の紹介でまた同じような仕事の会社だったので、
私は即戦力だった。
去年までの会社です。
と言っても社長と若いニーちゃんと私しか居ない会社である。
給料は希望を受けてくれた。
社長は、当時実際にはある会社から依頼されて東京で仕事をしている支店と言う扱いだったので、支店長だった。
だけど我々には名前で○○さんと呼ばせていた。
本当に独立して、名実ともに社長になった8年前も
変わらず名前で呼ばせていた。
CAD購入を社長に願い、指定の機種を導入。
自由に仕事をさせてもらえた。
小さい会社の割りに鹿島と言うスーパーゼネコンと直に取引し、
小回りが効くので重宝だったのかたいした営業もなしに
仕事があった。忙しかった。
しかし社長の考えから無理な仕事はしない。という姿勢は貫かれていた。
社長が亡くなる1年前までは。
辛かったんだろうと思います。
ゼネコン以外の仕事も取る様になり、
また運悪く、そのお客さんが金を払わず、逃げたり、
計画倒産だったり。
頼りのゼネコンからも今までに無い値引き(50%オフなど)
を突きつけられて精神的に病を早めていたのかもしれないと思います。
覚えてる最後の言葉が
「請求書持ってきたか?」
と肺に転移して、息もちゃんとできない状態でも
そんなことを言ってました。
丸10年のお付き合いでした。お世話になりました。
Posted at 2006/02/16 00:29:41 | |
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生きることと仕事 | 日記
2006年02月15日
私は人よりたくさん会社を替わってるのかな?
今までは自発的なものや、ブランド閉鎖に付きお前はクビ
というものでしたが、今回は違っていました。
去年(2005年)の今頃は大変でした。
(長文になります)
社長が年明けすぐに入院して、
12月からずっと3千万クラスの現場を3現場一人で回さなくてはなりませんでした。
今話題の成田空港と千葉袖ヶ浦の工場新築と三鷹の小学校新築でした。
(もちろん設計、工場発注、取付け職人手配、運送手配、現場打ち合わせが私の仕事になるわけですが、それに見積書、納品書、請求書と言う今まだやってこなかった分野を急にやらなければなりませんでした。)
しかもどれも3月一杯で収めなければならない仕事。
工場や職人のがんばりのおかげで何とか収まりましたが、
社長は末期の肝臓がんで2月の末日で急逝しました。
葬儀の際も私に皆さんから
「あとが大変だけど協力するからがんばろうな」
と励まされ、私もやる気で居ましたが、
あとから判る会社の負債と無理に無理を重ねた見積りで
とってきた仕事の清算とさらに悪いことに社長の生命保険が
資金繰りの厳しさから解約されていたことで
決定的となり、会社を清算(解散)することになりました。
そこからがまた大変で、
当然今までがんばってもらった所にはその分100%払えないわけで、全員を何度と無く集めて、
話し合い(一方的に攻められる)をもちました。
税理士さんの紹介の弁護士にお願いすることにしたとき
ゼネコンから直接「取付け職人だけ」に支払いをする。
というおかしなこと(業界では常識)になったので
弁護士は「にげ護士」になり、結局、全社和解に持ち込むまで私一人が窓口で対応しました。
(銀行の負債は公的な機関のものでしたから泣いて貰いましたが。)
結局、大体終わったのが6月下旬。
そこから燃え尽き症候群じゃないけどしばらくは何もする気が起きなかったんです。
しかし、無理やり起こしてくれる人が居まして、
要は、まだ会社化していない私(個人)に仕事をさせてくれると。
7月から1ヶ月それも夜から明け方と言うローテーションのお仕事でした。
今思えばコレがあったので完全な引きこもりにならずに済んだのでしょう。
しかし、それからたいした仕事もせず、
就職することもせず、アルバイトもせず、
何とか生きて来れました。
(もうすぐ社長の命日です)
それは、何人かの前の会社でお付き合いのあった方に
私はココに居ますと言う事を告げて、
それに答えて何件かの見積りを依頼してくれたこと。
そして、ほんの数日の仕事でも今までの工場の内の数社、
また、人情の厚い取付け職人の人たちが動いてくれたので、
このままどこにも属さずに自分で起業しても
なんとか食べていけるかもしれないと思い始めている所です。
Posted at 2006/02/15 22:55:36 | |
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生きることと仕事 | 日記