山本元帥胸像
新潟で戦争と言えば、ちょっと前までは「戊辰戦争(北越戦争)」をさす事が多かった。山本元帥の生地長岡は激戦地となり、1868年、長岡城は落城し市街地は焼失、藩兵にも多くの死傷者を出す深刻な打撃を受けた。元帥は戊辰戦争で官軍に敗れた長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれ、のちに断絶した名門・山本家を相続。元帥の祖父は戊辰戦争で戦死、父定吉も負傷している。その後、会津への補給路を断つため新潟港を占領せんと政府軍は新潟市を艦砲射撃、市内は焦土と化した。長岡、新潟とも犠牲者の埋葬を官軍が禁じ、ご遺体は放置させられたそうです。亡くなった方に罪はありません、埋葬すら許さないというのは、非道としかいいようがない仕打ちです。
明治政府になっても、旧敵藩の新潟は徹底的に干され、政府から冷遇を受けてきた。そのため、新潟では「長州から嫁はもらうな」とか、新政府に対する恨み反骨は根深いものがありました。山本元帥は反骨心をばねに立身し、戊辰戦争後初めて世に出た新潟人とも言えます。
不幸にも、大戦末期には再び、長岡は大空襲で焦土と化し、再度の復興に取り組みます。有名な長岡の花火大会も本来は空襲の慰霊のためのものでした。多くの苦難にもへこたれない長岡の人々には、脈々と不屈の気骨が受け継がれている気がします。

駐米武官だった頃の山本元帥、なかなかのイケメンです。 
トランプの「ブリッジ」では自分が東洋一だと豪語するほどの腕前だったとか…
中折れハットもなかなか、おしゃれです。
戊辰戦争の繋がりからか、旧会津藩士族の三橋康守の三女禮子と結婚
昭和18年(1943)ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜されて戦死。死後、元帥府に列せられた。
昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現。
元帥着座のシート
ご遺体は機体の傍に放り出されていた座席に着座し、右手で軍刀を握ったまま、泰然としていたそうです。 開戦にはあくまでも反対だった元帥、「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心を強く保っていたからこそである。だが、その意に反し連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮をとった。 昭和18年(1943)ブーゲンビル島で戦死。激動の世紀に、しなやかかつ強い心で生きた山本五十六の人間性を、21世紀に語り伝えたいと願う。
戦争と山本元帥の関りはともかくも、その格言からは学ぶところが多く、自分なりに、かくあるべきと努力してきたつもりです。
少なくとも自分にできないことを部下に命じた事はありませんし、泥は自分がかぶってきました。どんな仕事でも自分にできないことを部下に丸投げ、しくじったら部下を責めるのは、人としてどうか?と思います。半年の間、雪に閉じ込められ、じっと春を待つ事になれているのか?基本、新潟人は文句を言いません、じっと我慢の人が多いです。
「やってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」
「苦しいこともあるだろう 言い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう
腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう
これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である」
Posted at 2026/02/01 12:45:31 | |
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