以前からおかしいと思ってたけどここまでとは・・・
※東京新聞=中日新聞の関東地区での呼称です。
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【長谷川幸洋独占手記】異論を封じる東京新聞と私は断固闘う
東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)の「ニュース女子」騒動とは何だったのか。
番組を制作するDHCシアター(現DHCテレビジョン)が沖縄問題を再検証した続編を
ネットで公開して以来、騒ぎは沈静化した格好だ。
だが、今回の騒動はマスコミとジャーナリズムについて深刻な問題を提起している。
それは事実確認よりも政治的スタンスを優先する左派ジャーナリズム、言論の自由をめぐる
組織と個人の対立、さらにはネットと既存マスコミの乖離(かいり)といった問題である。
ここでは、それらを深掘りしてみる。
ニュース女子問題自体はすでにあちこちで報じられ、私自身も「現代ビジネス」の連載コラム
(《1》、
《2》)のほか「月刊Hanada」5月号にも長文の総括記事を寄稿したので、ここでは簡単にする。
問題になった1月2日放送の沖縄特集は沖縄・高江のヘリパッド反対運動を取り上げた。
市民団体が5万円を支給して「特派員」を募集していた件や反対派が高齢者の動員を呼びかけ、
一部は日当を受け取っていた可能性を伝えた。
地元住民は「反対派が救急車の通行も妨害した」と証言した。これらが反対派の逆鱗に触れた。
なかでも、反対派が格好の攻撃材料にしたのは「救急車妨害問題」である。
たとえば、朝日新聞は地元消防本部が「そのような事実はない」と答えた、と報じた(1月18日付)。
消防の否定発言などを根拠に毎日新聞や東京新聞なども「番組はデマ」と批判した。
ところが、あらためて番組スタッフが消防に取材すると、妨害はやはり本当だった。
現地の消防署長は最初「妨害はなかった」と言いながら、質問を続けると
「抗議活動側から邪魔されてるって見方も…なきにしもあらずですね」と認めたのだ。
反対派はヘリパッド建設現場につながる道路に多数の車を縱横に停車させて、一般車両が
通行できないように妨害していた。だから、救急車も現場に急行できなかった。
署長が「邪魔されてる」と言ったのは、そういう状況である。
なぜ、実態が間違って伝わったのか。検証番組はその点も消防署長に確かめた。
番組スタッフが「他のメディアにも同じように答えていたのか」と質問すると、
署長は「そう細かくは回答していない」「(質問は)妨害があったかどうかストレートに聞いて、
あるかないかだけ答えてます」と言った。
さらに「それ以上の質問はなかったということか」と確認すると
「ほとんど質問はないですね」という返事が返ってきた。
つまり、批判記事を書いた記者たちは消防が「妨害はなかった」と答えるとすっかり満足して、
それ以上の質問はしなかったのだ。
署長からしてみれば、反対派と賛成派が入り交じる現地で、片方に肩入れするような発言は
避けたかっただろう。だからこそ、取材には細心の注意が必要だった。
これは最初にストーリーありき、で取材する記者が陥りがちな問題である。
批判する記者たちは「妨害があったのか、なかったのか」だけに関心を集中させて、
できれば「なかった」という話を引き出したい。
事実の究明よりも、最初に自分の思惑がある。
だから「なかった」の一言が得られたら、それ以上は突っ込んで聞かなかったのだ。
2万円の日当問題についても、検証番組は「日当をもらった人がいる」という複数の
住民の声を紹介した。
「もらった」と言われた本人は取材を拒否したが、もらった人をかつて取材したジャーナリストの
大高未貴氏のスタジオ証言も合わせて考えれば、反対派の一部にであれ、日当が支払われてい
たとみる蓋然(がいぜん)性は十分にある。
それでも現場の記者たちは取材しているだけ、まだましだ。お粗末なのは論説委員たちである。
たとえば朝日新聞は社説で「事実に基づかず、特定の人々への差別と偏見を生むような番組を
テレビで垂れ流す」と書いた(1月28日付)。
毎日新聞はどうかといえば、与良正男・専門編集委員(元・論説副委員長)が
「問題の本質は…『ニュース女子』は、明らかに虚偽の内容が含まれ、特定の人々への偏見を
助長した点にある」と自身のコラムに書いている(2月15日付)。
東京新聞は番組とは関係がないのに、深田実・論説主幹が私の出演を
「重く受け止め、対処します」という奇妙な反省文を載せた(2月2日付)。
その中で、やはり同じように「事実に基づかない論評が含まれて」いると書いた。
以上の3紙に共通するのは、いずれも「事実に基づかない」と指摘しておきながら、
肝心のどの部分が基づかないのか、明示していない点である。
論説委員たちは事実をきちんと取材したのだろうか。私は大いに疑問を持っている。
東京新聞の深田主幹には、その点を確かめた。すると「それは特報部がやっている」と答えた。
特報部は反省文より前に番組を批判する記事を掲載しているので、それらの記事を信用したのだろう。
だが、結果的には日当問題にせよ、救急車問題にせよ取材が十分だったとはいえない。
そもそも論説主幹が自分で取材せずに「反省文」を書いた姿勢自体が怠慢ではないか。
事実関係の究明より前に自分の主張を優先する。
これは朝日新聞の慰安婦報道批判で、さんざん指摘された「ストーリーありきの報道」と共通している。
事態がいっそう深刻なのは、問題が「言論の自由」に関わるレベルでも「ストーリーありきの論説」と
なっている点である。
当初のニュース女子自体に取材不足だった面があるのは、私も認める。
ただし、それは番組の問題だ。私は番組の司会者であり、取材者ではない。
ここが新聞との違いである。新聞は基本的に取材者が記事を書く。
これに対して、テレビはチームであり番組と取材者は同じではない。
新聞に「司会者も責任を免れない」とコメントした識者もいる。
そんなことを言えば、司会者は出演者の発言にも責任を持って、自分がすべて裏取りをしなければ
ならなくなる。私はメディア問題の識者なる人たちのデタラメさを見た思いがした。
彼らは現場を知らないで、モノを言う無責任な人種である。
ニュース女子騒動は言論の自由をめぐって「組織と個人の対立」問題も提起した。
私は東京新聞の報道や社説が反対派にいくら心情を寄せていようと、
私個人がそれと異なっていても何ら問題はないと考える。
それが、私の「言論の自由」にほかならないからだ。
ところが、世の中にはそう考えない人々がいる。
深田主幹が反省文で私に「対処する」と世間に公言し、実際に私を論説副主幹から
ヒラの論説委員に降格したのは「副主幹という立場で出演したのが問題」という理由からだった。
論説副主幹は東京新聞の論調に縛られなくてはいけないのか。
もしそうであれば、副主幹はいつでもどこでも東京新聞の論調に沿って書いたり、喋らなければ
ならなくなる。
「社の意見が違うことがあってはならない」というなら、東京新聞は北朝鮮と同じだ。
私は2014年秋まで社内の論説会議でも大方の論調と違う論を語っていた。
ところが、そのころを境に会議には出席せず、意見も言わなくなった。なぜか。
この際、はっきり言おう。当時の論説主幹から「もう君には社説を書かせない」と通告されたからだ。
そのとき以来、それまでは2カ月に一度くらいのペースで順番が回ってきていた日曜付大型社説の
執筆当番からも外された。
私は「おかしい」と思ったので、社の最高幹部に事情を訴え「どうしたらいいか」と尋ねた。
最高幹部は「論調が違う君の主張だって、他の委員と順番で書けばいい」と言ってくれた。
だが、ヒラ取締役の論説主幹は「いくら最高幹部だって、それはオレが絶対に許さない」と私に
断言した。
私は唖然(あぜん)としたが、言い争うことはしなかった。以来、会議には出席していない。
つまり、東京新聞は今回の騒動が起きるずっと前から、私の社説執筆を許さず
社内で異論を封じてきたのだ。
異論をどう扱うべきかについて、東京新聞は何度も興味深い社説を書いている。
たとえば、自民党結成60周年をテーマにした社説(2015年11月15日付)だ。
総裁選で野田聖子衆院議員が推薦人を集められず立候補断念に追い込まれた件で、
こう主張していた。
「議論を自由に戦わせるよりも、異論を認めず『一枚岩』のほうが得策という党内の空気である」
「国民の間に存する多様な意見に謙虚に耳を傾ける。それこそが自民党が国民政党として
再生するための王道である」
もう1つ、安倍改造内閣の発足ではこう書いた(2014年9月4日付)。
「安倍政権の面々には、国民の声に耳を傾ける謙虚さを持ってほしい」
「自らの主張のみ正しいと思い込み、国民の中にある異論を十分にくみ取って、
不安に思いをめぐらせたと言えるのだろうか」
「異論封じが強まる気配すら感じる」
自民党には「異論を尊重せよ」と上から目線で訴えながら、自分たち自身はどうなのか。
まったくチャンチャラおかしい。
こういうダブルスタンダードが左派マスコミの典型である。
「自らの主張のみ正しいと思い込む」という言葉は、そっくりそのままお返ししよう。
それでも社外のメディアに執筆するコラムやテレビ、ラジオその他で、私は完全に自分の
「言論の自由」を確保してきた。東京新聞に対する批判を含めて、である。
会社もそういう私のスタンスを容認していた。
それどころか「東京新聞論説副主幹」の肩書でテレビに出るのを望んでいたのは、むしろ会社側なのだ。
首都圏でマイナーな東京新聞の宣伝になるからだ。
そういう事情で、これまで私は会社から注意も叱責もされず、論説副主幹の肩書で
外の仕事を続けてきた。
「論調が違うなら会社の肩書を使うのはやめてほしい」とネットで公言している東京新聞記者もいる。
それは会社に言うべきだ。
今回の騒動でも、なぜ論説委員への降格にとどまっているかといえば、そんな事情で会社は私を
真正面から処分するつもりがないからである。
ただし、会社がどう考えようと、肩書は私の重要な個人情報であり、それをどう扱うかは私が決める。
他人が私の肩書にあれこれ言うのは、余計なお世話だ。
一記者にすぎない自分の考えが東京新聞の論調と勘違いしているなら、思い上がりというものだろう。
そもそも今回の私の人事は、会社の規定で言えば「処分」でもなんでもない。通常の人事だ。
むしろ定年を過ぎているのに、7年間も副主幹を務めているほうが異例だった。
だが、社外的には「対処する」と公言して「処分」の体裁をとった。
つまり、社内向けと社外向けで使い分けている人事なのだ。なぜ、そうなのか。
社外には処分の形にしないと、反対派の手前、格好がつかないとみたからである。
これは、まったくサラリーマンの事なかれ主義そのものだ。
言い換えれば、形だけ反対派に迎合したにすぎない。
私は、そういう信念のなさ、事なかれ主義こそが言論の自由を危うくすると思っている。
だいたい主幹は「そこは阿吽(あうん)の呼吸で」とか「大人の対応で…」としか言えなかったのだ。
見識も何もあったものではない。
「言論の自由」は、それを脅かす者たちから戦い取るものだ。戦いはいつでも、どこでもある。
右であれ左であれ、安易な迎合主義こそが言論の自由を奪っていく。
そんな自由の本質を深田主幹と、反省文の掲載を認めてしまった東京新聞はまるで分かっていない。
「東京新聞と意見が違うなら、会社を辞めて出ていくべきだ」という主張もある。
私はそういう考えにもくみしない。異論こそが議論の健全さを担保すると思うからだ。
社内の会議に出ていなくても、私のコラムや発言は社内で広く読まれ、知られている。
辞めてしまうのは簡単だが、私が辞めていれば、そもそも今回の騒動も違った形になっていただろう。
ニュース女子騒動がジャーナリズムの問題を洗い出したと思えば、つくづく辞めずに良かったと思う。
私には、いつかこういう事態が起きるという予感もあった。今後も私から辞めることはない。
こう言うと「結局、会社にしがみついているのか」と言う人もいる。
それには「まったく世間知らずですね(笑)」の一言だ。他に言葉はない。
ついでに一言、加えよう。
与良正男・毎日新聞専門編集委員は先のコラムで「どうしても納得できない正反対な社説が掲載さ
れる事態になったら、論説委員を辞するくらいの覚悟はある」と書いている。
これには「まあ、ご立派な覚悟だこと」と感心するほかない(笑)。
同時に、私は「こういう大層な台詞を吐く輩に限って、まったく信用ならない」と思っている。
これは本当に戦った経験のある人間にしか、分からない直感だ。
「まずは戦ってみてから言ってくれ」と申し上げる。
さて、最後にネットとマスメディアの乖離についても書いておこう。
ネットの世界では、ニュース女子が伝えたような問題はとっくに知られていた。
一例を挙げれば、取材の妨害だ。ジャーナリストの青木理氏は「サンデー毎日」の連載コラムで
「高江は反対運動が激化し、危険でメディア取材ができない」という問題についても
「完全なデマ」と書いている。
青木氏はネットで「高江、暴力」と検索してみるべきだ。
すると反対派が取材者を威嚇し嫌がらせしたり、一般人の車両を勝手に検問する映像が
いくつも出てくる。この一例をもってしても、青木氏の指摘のデタラメさが分かる。
新聞やテレビが報じないから、青木氏は知らなかっただけかもしれない。
そうだとすれば、ジャーナリストとして、まったくお粗末だ。
沖縄問題に関心がある人はみんなネットで知っていた。
それほどネットとマスメディアの情報が乖離している。
左派メディアは綺麗事(きれいごと)と建前が大好きだ。
沖縄についても、反対派は口を開けば「人間の尊厳をかけた戦い」などと言う。
左派メディアがそういう綺麗事ばかりを報じてきたから、ニュース女子がちょっと疑問を呈したら、
反対派がすっかり逆上してしまった。
その意味で左派メディアの罪は重い。反対派に迎合して、都合の悪いことは報じない。
そういう姿勢では、やがて左派メディア自身が読者、視聴者の信頼を失っていくに違いない。
いや、もうとっくに失い始めているのだ。
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