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GEN@GK3のブログ一覧

2015年08月12日 イイね!

【再掲】 No.861 大英帝国を崩壊させた大東亜戦争

昨年のブログの再掲です。
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■■ Japan On the Globe(861) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

地球史探訪: 大英帝国を崩壊させた大東亜戦争

 日本との戦いで植民地を失い、大英帝国は崩壊に追い込まれた。

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■1.イギリスの田舎に現れたアメリカ戦車

26歳にしてイギリスの「ファイナンシャル・タイムズ」紙の初代東京支局長となり、
現在も東京の外国人特派員協会の最古参として健筆をふるっているヘンリー・ストークス氏は、
幼い頃、イギリスの片田舎で、アメリカ軍の戦車を見た時の事をこう記している。

__________
 ・・・ある日、妹の手をとって幼稚園へ向かって歩いていたら、雷のような音がした。
・・・何かが道路の曲がりかどの向こうから、近づいていきた。なんと、それは戦車だった。

 戦車が視界に入ってくると、轟音はますます激しくなった。
戦車の側面には大きな白色の星が描かれ、アメリカ軍であることを示していた。
それが、次々と10輛(りょう)ほど連なって来る姿に、
いまにもわれわれに向かって撃ってくるのではないかと恐怖を感じた。[1,p18]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 戦車隊はドーバー海峡を渡って、フランスのノルマンディに上陸する作戦に参加するために、
この田舎町を通ったようだ。

 先頭の戦車に乗っているアメリカ兵は、手を振りながら、「ハーイ」などと言って、
二人に何か小さな物を放り投げた。
それはストークス少年が生まれて初めて手にするチューインガムだった。
彼は嬉しいというより、複雑な気持ちを抱いた。

__________
 年端もいかなかったが、私は1944年6月にアメリカの世界支配の時代が来ることを、直感した。[1,p22]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 米英は連合軍として戦ったが、第2次大戦の持つ意味はそれぞれに違う。
アメリカから見れば「太平洋戦争」で日本を打ち破り、
中国・アジアへの門戸を広げた戦いであったが、
英国にとってはアジアでの植民地を失い、世界の覇権を米国に奪われた戦いであった。


■2.英国の受けた衝撃

 英国にとって、日本との戦いは衝撃をもって始まった。

__________
 もっとも衝撃的だったのは、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』という
大英帝国海軍が誇る2隻の戦艦が、日本の航空攻撃によって、
わずか4時間で撃沈されてしまったことだった。
それまで航空攻撃で、外洋を疾走する戦艦が撃沈された前例がなかった。

 ・・・イギリスの誇りは陸軍ではなく、海軍にあった。
その誇りが、一瞬にして貶(おとし)められた。[1,p42]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 12月8日の真珠湾攻撃のわずか3日後の事であった[a]。
陸上戦でも、英国民にとっての衝撃は続いた。

__________
 日本軍が突然、マレー半島に上陸し、まったく次元の違った戦いが始まった。
チャーチル首相も、面食らった。

 シンガポール防衛軍のパーシバル司令官は、金縛りにでもあったかのように、
まったく戦うこともせずに、戦意を喪失し、降伏した。
・・・大英帝国にとってシンガポールは、香港や、上海につぐ重要な拠点だった。
シンガポール陥落はイギリスにとって、植民地支配の終わりを象徴していた。[1,p44]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 シンガポール陥落は、昭和17(1942)年2月15日、開戦から2ヶ月余りしか経っていなかった。[b]


■3.「日本軍は大英帝国を崩壊させた」

 日本から受けた衝撃を、英国民はどのように受けとめたのか。

__________
 日本軍は、大英帝国を崩壊させた。
イギリス国民の誰一人として、そのようなことが現実に起ころうなどとは、夢にも思っていなかった。それが現実であると知った時の衝撃と、屈辱は察して余りある。[1,p44]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
 イギリスは数百年間にわたって、負けを知らなかった。
大英帝国を建設する過程における侵略戦争は、連戦連勝だった。
私はイギリスは戦えば必ず勝つと思っていたし、学校でそのように教えられた。
私は一面がピンクだった地球儀によって、教育を受けた。
イギリスの領土がピンク色で、示されていた。

 ところが、第二次大戦が終わると、植民地が次々と独立して、
ピンク色だった世界が、さまざまな色に塗り替えられてしまった。

 大英帝国は植民地を徹底的に搾取することで、栄華を保っていた。
お人好しの日本人が、台湾、朝鮮の経営に巨大な投資を行って、
本国から壮大な持ち出しをしたのと、まったく違っていた。
どうして、イギリスが植民地支配なしで、栄華を維持できたことだろう。

日本の手によって、戦争に必ず勝つはずだったイギリスが、大英帝国の版図をすべて失った。[1,p46]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


■4.『猿の惑星』

 英国人の感じた「衝撃」と「屈辱」には人種偏見も潜んでいる。

__________
 当時、私は『ロンドン・タイムズ』東京支店長だったが、白人社会では戦後一貫して、
日本への憤りが蔓延していた。そこには怨念があった。
イギリスは何百年も続いた植民地から、一瞬にして駆逐された。
戦闘に敗れたというだけではない。栄華を極めた大英帝国の広大な植民地が、
一瞬にして消えたのだ。この屈辱は、そう簡単に忘れられるものではない。

 イギリスは1066年にノルマン人の侵略を受け、国土を占領されたが、
ナポレオンやヒトラーの侵略を斥けた。
だが、その帝国の植民地がなんと有色の日本人によって奪われた。
イギリス人にとって、有色人種に領土を奪われ、有色人種が次々と独立国をつくったことは、
想像を絶する悔しさだった。[1,p37]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
『猿の惑星』という映画があったが、まさにそれが現実となったような衝撃だった。・・・

 人間-西洋人-の真似をしていた猿が、人間の上に立つ。
それが現実となったら、どれくらいの衝撃か、想像できよう。[1,p45]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

『猿の惑星』とは例えではない。
原作者ピエール・ブールは、まず『戦場にかける橋』で、自ら日本軍の捕虜になったと称して、
残虐で無能な日本軍が英軍捕虜に強制労働させて、
タイのクワイ河に橋をかける物語を書いて、大ヒットさせた。

 次に、それをSF映画に発展させて、日本人を猿に見立て、
人間(白人)が支配されるというシナリオを仕立てたのである。[2] 
そんな悪意も露知らず、日本でもこの映画は大ヒットした。


■5.「侵略」か「解放」か

 しかし、ストークス氏は、日本には日本の見方がある事を知った。

__________
 私の親しい知人である加瀬英明氏をはじめとする保守派と呼ばれる人たちの立場は
「日本は侵略戦争をしていない」、アジアを「侵略した」のではなく、「解放した」というものだ。
これは日本人の立場に立った主張だ。

 私はイギリス人だから、イギリス側の見方に立って考える。
イギリス人からすると、「日本は侵略をしてきた」となる。
イギリスがアジアに保持していた植民地を、日本が「侵略」してきた。
イギリスにしてみれば、「日本は侵略国」だ。

 アメリカ側の見方は、また違ったものだろう。
私はアメリカ人ではないので、アメリカ側の視点とは異なる。
アメリカ人は、「日本人は明確なアメリカ領土のハワイを、攻撃したのだから、
日本がアメリカに侵略戦争を仕掛けた」と、主張するだろう。[1,p26]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 先の大戦は、日本にとっては、自らの自存自衛とアジア諸民族の独立のために戦った
「大東亜戦争」であったが、アメリカにとっては「太平洋戦争」だった。
アメリカが日本占領後に「大東亜戦争」という呼称を禁じ、「太平洋戦争」と呼ばせたのは、
アメリカ側の歴史観を強制するためだった。

 しかし、同盟国だったアメリカとイギリスでも、その歴史観は異なる。
日本によって植民地を奪われたイギリスからの視点に立てば、
その対極に「植民地解放」という、もう一つの視点があることが見えてくる。


■6.侵略は『文明化』か『罪』か

 植民地の「侵略」か「解放」か、については、さらに議論がありうる。

__________
 日本がアジアの植民地を侵略したのは、悪いことだったろうか。
侵略が悪いことなら、世界史で、アジア、アフリカ、オーストラリア、北米、南米を
侵略してきたのは、西洋諸国だ。
しかし、今日まで、西洋諸国がそうした侵略を謝罪したことはない。

 どうして、日本だけが欧米の植民地を侵略したことを、謝罪しなければならないのか。
東京裁判では、「世界で侵略戦争をしたのは、どちらだったか」ということに目を瞑(つむ)って、
日本を裁いた。
 それは侵略戦争が悪いからではなく、
「有色人種が、白人様の領地を侵略した」からだった。
白人が有色人種を侵略するのは『文明化』で、劣っている有色人種が白人を侵略するのは
「犯罪」であり、神の意向に逆らう『罪』であると、正当化した。
[1,p39]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 このように異なる歴史観の間でも、論理的な議論はありうる。
そこでの有力な武器は、「白人の侵略は良くて、日本人の侵略は悪」という
二重基準(ダブル・スタンダード)を突くことである。


■7.アジア侵略に荷担してきた中国

 ストークス氏は触れていないが、「植民地解放」という見方は、
中国の「日本帝国主義批判」という歴史攻撃に対しても有効である。

 そもそもかつての清国は満洲族による帝国であり、
漢族はその植民地として支配されていた一民族に過ぎない。
日清戦争は、その清国から韓国の独立を維持するための戦いであり、
さらに日本は旧態依然とした清朝では欧米からの侵略は防げないと、
孫文による革命を支援した。[c,d]

 しかし、孫文の後継者の中で、汪兆銘は日本とともに欧米諸国に立ち上がったが、
蒋介石は欧米と組んで日本と戦った。
毛沢東以下の中国共産党はソ連の手下として、日本と蒋介石政権を戦わせて、
両者共倒れを狙ったのである。

 マレーシアやインドネシアなどの英領植民地においては、
華僑は植民地政府の手先として現地人搾取に荷担し、
進攻してきた日本軍に現地人は協力したが、華僑は英軍と共に戦った。

 戦後、アジア諸国が独立すると、中国共産党は朝鮮戦争、
ベトナム戦争などアジアの共産化を狙って侵略の触手を伸ばした。
内陸部ではモンゴル、ウィグル、チベットなど植民地支配を広げ、
海洋では南シナ海、尖閣諸島など周辺海域に侵略の手を広げつつある。

 中国は戦前は英米やソ連の手先としてそのアジア侵略に荷担し、
戦後は自ら周辺諸国を侵略してきた。それと戦ったのが日本だった。
「植民地解放」の視点からは、こういう中国の実像が見えてくる。


■8.国民の義務、先人への責務

 以上のように日本には日本の歴史観があり、日本人はそれを国際社会で、
もっと強く発信すべきだと、ストークス氏は説く。

__________
 日本は相手の都合を慮(おもんばか)ったり、阿諛追従する必要はない。
アメリカはアメリカの立場で、中国は中国の立場でものを言う。
当然、それらは食い違う。
だが、それでいいのだ。世界とはそういうものである。
日本だけが物わかりのいい顔をしていたら、たちまちつけ込まれてしまう。[1,p4]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「思いやり」という日本人の民度の高さが、民度の低い国際社会においてはマイナスとして働く。
「思いやり」などという言葉を辞書に持たない国には、
それなりの対応をしないと、大変な事になる。

__________
 もう一つ私が声を大にして言いたいのは、「南京」にせよ「靖国参拝問題」にせよ
「慰安婦問題」にせよ、現在懸案になっている問題のほとんどは、
日本人の側から中国や韓国に嗾(けしか)けて、問題にしてもらったのが事実だということだ。
この問題をどうするか、それは日本人が自分で考えなければならない。[1,p5]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 弊誌でも取り上げてきたが[e]、近年、日本の一部マスコミが、
中朝韓の手先として反日報道をしている実態が明らかになってきた。

 まずは我々日本国民一人ひとりが、歴史を自分で勉強して、何が正しくて、
何がプロパガンダなのか、判断しうるだけの見識を積まなければならない。
そして、他国のためのプロパガンダを流すマスコミに対しては不買運動などで
批判の声を上げなければならない。

 それが我が国の自由民主主義社会を守るための国民の義務であり、
かつ子孫のために自らの生命、生涯を捧げてきた先人への責務である。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(270) もう一つの開戦 ~ マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog270.html

b. JOG(551) 山下奉文、使命に殉じた将軍
 シンガポール攻略の英雄は、使命に忠実にその後の悲運の人生を生き抜いた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/jog551.html

c. JOG(043) 孫文と日本の志士達
 中共、台湾の「国父」孫文の革命運動を多くの日本人志士が助けた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_1/jog043.html

d. JOG(319) 山田良政・純三郎兄弟 ~ 孫文革命に殉じた日本武士道
 清朝の圧政と列強の収奪に苦しむ民衆を見て、革命支援に立ち上がった二人の武士道精神。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog319.html

e. 国際派日本人養成講座「Media Watch」記事一覧
http://blog.jog-net.jp/theme/6658adcf2c.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. ヘンリー・S・ストークス『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』★★、祥伝社新書、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/439611351X/japanontheg01-22/

2. 高山正之(インタビュー)『米国はなぜ日本と戦争したかったのか』、「日本の息吹」H23.10


■編集長・伊勢雅臣より

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えー終戦記念日も近い事ですし少しだけ・・・。



先の大戦について「大東亜戦争」と書くとほぼもれなく「右翼」のレッテルを貼られます。

現実社会だと100%確実でしょうね~親しい人以外に思想は話さないから判らんけどw


「大東亜」という文字を見た雰囲気だけで
「大東亜」?・・・大日本帝国?・・・帝国主義?・・・軍国主義?戦争コワーイ!
と脊髄反射される方が大半だと思います。

そりゃまぁそうですよ。
そういう教育を受けてますし日本史のケツの近代史なんて
ほとんど授業でやらないし試験にも出ないから覚えないし
社会に出たらどのマスコミだって「太平洋戦争」としか書きませんし
もっと言うなら朝日や毎日は軍隊(自衛隊や米軍)に対するネガキャンを
長く続けてきましたからね。
(それは震災の発生や近年の中韓の暴走を機に解消されつつありますが)


政府やマスコミで「太平洋戦争」という呼び名が現在使われているのは、本文中にもある通り
GHQが戦後すぐに日本政府に対して"大東亜戦争"表記禁止を指令し、
1952年に失効するまで守らせた

という歴史をそのまま引きずっている部分が多い様ですが・・・

自国の歴史を伝えるのに、何で60年も前に他国から押し付けられた
不適切な呼称を使い続けるんでしょうかね?
「太平洋戦争」ってアメリカからの視点ですよ?
※もっと言えば何で教科が「国史」じゃなくて「日本史」なんでしょう?(^^;
(普通の国はどこでもNationalHistory="国史"だそうです)


いわゆる「従軍」慰安婦報道についてその火付け役だった朝日新聞が
・慰安婦を強制連行したとする「吉田証言」は虚偽だとして記事を取り消す
・女子挺身隊と慰安婦を同一視した記事の誤りを認める
・朝鮮や台湾で軍が人さらいの様に女性を強制連行した資料は見つかっていない事を認める

といった一部修正をしました(が、私は過失による誤報ではなく故意だったと思います)。

32年の間ウソが垂れ流しにされ、日本と日本人は根拠のない事で非難されています。
(そして朝日は未だに検証記事を日本語以外でリリースしていません!)
いわれ無き非難に対して明確に反論するためにも、
日本の正しい歴史について知ろうとする人が増えて欲しいですね~


※って最初に国の成り立ちを知るために古事記を読んだ方が良いですけどねw

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以下、今年2015年の追記です。
 
この1年の間に、「参考」で紹介されているヘンリー・S・ストークスの
『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』を買って読みました。

滞日暦50年のベテラン英国人ジャーナリストが書いた本ではありますが、
戦勝国側でもなく日本側でもない第三者の視点で検証された証拠に基づいて
主張されていて(特に不勉強で無知な私にも)非常に判り易い本でした。

理詰めで書いてある割に読みやすいのは書き手の文章力が高いからでしょうね。
アマゾンでも楽天でも買えますので興味のある方はどうぞ。


・・・さて、昨年は朝日が「従軍」慰安婦に関するとんでもない検証記事と記者会見を行って
たいそう批判されましたが、なんら反省することなくこんな記事を垂れ流しています。
この「安田優三さん(94)」はモナニュースによるといわゆる「プロ」の方ですね。

>50: ミドルキック(奈良県)@\(^o^)/ 2015/08/11(火) 14:38:27.40 ID:6VHrwh660.net
>>>1の安田優三とか言うジジィ、朝日新聞御用達のプロ市民じゃねーかw

>http://mimizun.com/log/2ch/korea/1116386531/758

>朝日新聞(8月3日付朝刊大阪版) 「声」
> 影を知らずに歴史に学べぬ
>無職 安田優三(兵庫県尼崎市84歳)

>一連の中山文科相の発言は、一国の教育の最高責任者の弁としては誠に寂しい限りである。

>当時使われなかった言葉が教科書に載っていたことで、
>あたかも実態も間違っていたかのごとく言うのは、真実を隠そうとする意図が見える。

> 私がいた中国の戦地での実体験を語れば、
>司令部などに「特殊慰安所」と呼ばれる施設があり、軍管轄のもと業者に営業させていた。

>私たちの中隊は最前線で何年も中国軍と対峙(たいじ)していた。
>24時間の戦闘態勢のため、後方の慰安所は利用できず、仮設の慰安所をつくって、
>軍の輸送と警備により、慰安婦たちが連れられて来たことがある。
>いつ銃弾が飛び交うか分からぬ辺境の地まで、だれが望んで来るだろうか。
>ほとんどが朝鮮人だった。
>影の部分を知らずして歴史に学ぶことは出来ない。


元慰安婦の李玉善さんと対面していますが・・・李玉善さんてこんな人です



私は朝日新聞の元購読者として何万回でも言いますが・・・
朝日新聞の読者のみなさーん!
あなた騙されてますよー!
とっとと解約した方がいいですよー!






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Posted at 2015/08/12 10:50:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | お勉強 | 日記
2015年08月09日 イイね!

国史百景(15): 終戦を支えた皇族たち

毎度おなじみ、購読中のメルマガの転載です。
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国史百景(15): 終戦を支えた皇族たち

789万人の陸海軍将兵に戈(ほこ)を収めさせるために、昭和天皇の大御心を説くべく、
皇族たちは戦地に向かった。
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■1.「不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿」

昭和20(1945)年8月12日、在京の皇族男子全員12人が宮中の御文庫付属室に呼ばれた。
空襲で宮殿も焼け落ち、分厚いコンクリートで覆われた暑く湿度の高い御文庫に、
両陛下は住まわれていた。

お出ましになった昭和天皇の憔悴されたお姿を目のあたりにして、
竹田宮恒徳(つねよし)王は「天皇陛下は今まで拝したことのない程に緊張された御様子」
「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と思った。

8月9日深夜の御前会議で、昭和天皇の御聖断の下に、最高戦争指導者会議と閣議で
ポツダム宣言受諾の政府決定がなされた。
しかし、このまま戦争を無事に収拾できるのか、降伏後の日本がどうなるのか、
については五里霧中の状態だった。[a]

集まった皇族方に、昭和天皇はこう話された。

__________
私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。
そこで自分は明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、
戦いを止める決心をした。
どうか私の心中を了解してくれ、そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい。[1,p170]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そのお姿に触れた時の思いを、竹田宮は後にこう記している。

__________
ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、この日本存亡の際にお示しになった、
不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

最年長の梨本宮が、皇族全員を代表して
「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」
と奉答した。


■2.「自分の心中をよく第一線の将兵に伝えて欲しい」

8月15日正午の玉音放送により、昭和天皇が直接、国民に終戦を告げられた。
その翌日、朝香宮(あさかのみや)鳩彦(やすひと)王、
東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦(なるひこ)王、竹田宮恒徳王、
開院宮(かんいんのみや)春仁(はるひと)王に、昭和天皇から突然の御召があった。

東久邇宮以外の3名が、まず昭和天皇の御前に案内された。
昭和天皇は14日と同様の緊張した面持ちで、こう話された。

__________
終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている我が第一線の軍隊が
本当にここで戈(ほこ)を収めてくれるという事だ。
蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて戦いを止めるという事は
本当に難かしいことだと思う。しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。

自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。
ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって自分の心中を
よく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。
急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。ご苦労だがあした早朝発ってくれ。[1,p173]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

当時、陸海軍合わせて789万人の将兵がおり、特攻に使える航空機も6千機は残っていた[b]。
特に中国大陸では、陸軍が国府軍を圧倒しており、突然、降伏を命ぜらたからと言って
素直に従ってくれるかどうかは、まったく不明だった。

もし、前線や日本本土で降伏を潔しとしない陸海軍将兵が戦い続けたら、終戦は有名無実となる。
イタリアのように内乱状態になるか、ドイツのように全土占領されるまで戦いが続くことになるか、
のどちらかだった。いずれにせよ、民の苦難は続く。

昭和天皇は、これを恐れて、三方の宮を御自身の代理として戦地に派遣して、
無事に戈を収めるよう説得しようとされたのだった。
朝香宮は支那派遣軍に、竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、そして開院宮は南方総軍に
それぞれ天皇の特使として終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。


■3.「満洲帝国皇帝の亡命を助けよ」

東久邇宮には、終戦決定の後に総辞職した鈴木貫太郎内閣の後を継いで、
組閣の大命効果があった。
誰も経験したことのない降伏後の混乱は、これまた昭和天皇の分身としての皇族内閣により
乗り切るしかない、という判断だった。

皇族が政府の長となるのは、明治政府が樹立された時に、
有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王が「総裁」の地位に就いて以来のことであった。

その日の午後、東久邇宮は組閣で忙しい中、竹田宮を呼び出して、東郷外相とともにこう依頼した。

__________
竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら薄儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、
皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい。
もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、
無理をしてまでとの依頼ではないのだが。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

竹田宮は、つい7月まで関東軍参謀として満洲帝国の首都・新京(長春)に赴任していたから、
ソ連軍と中国軍の進駐を目前に控えた現地の混乱ぶりは容易に想像できた。
果たして無事に帰れるかも分からないと思って、身辺の整理を始めた所に、さらにこの依頼である。


■4.「皇族の三人や五人は死ね」

明治天皇は「男子皇族は軍人となって政治に関与すべきではない」
との思召(おぼしめ)しを示され、竹田宮も軍人として生きてきた。

竹田宮恒徳王は昭和13(1938)年に陸軍大学校を卒業したが、軍の首脳部は宮を
あくまで安全な場所に配置しようとした。
皇族を戦死させては、という心配が軍の内部にはあったからだ。
しかし、竹田宮は、陸軍省の人事局局長と電話で激しく口論した末に、
中隊長として中国の前線に赴くことになった。

ただ、戦闘に加わる以上、皇族の身分を隠した方がよいということになって、
「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に代えて、「宮田武」とした。
以後、「宮田参謀」が皇族であることは、軍の中でもごく一部しか知らなかった。

後に、大本営勤務となった際に、南洋方面の戦略検討のために、
参謀次長と軍令部次長がラバウルの前線司令部に出向くことになった時も、
竹田宮は随行を願い出た。しかし、杉山参謀総長と東條陸軍大臣は頑として聞き入れない。
竹田宮は眼に涙を浮かべながら、上司の辻政信班長に嘆願した。

__________
班長さん、御願ひです。
私を、ラポール(ラバウル)にやるやう、総長、大臣に班長から是非もう一度、申上げて下さい。
私が皇族なるがため、当然なすべき仕事をさせて貰へないなら、
今すぐ大本営参謀をやめさせていたゞきます。
この大戦争に、もし、明治天皇様がお出になりましたなら、
きつと、皇族の三人や五人死ね!! と仰言るでせう。
[1,P197]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

竹田宮の迫力に押された辻班長は、杉山総長に宮の思いを伝えると、
「そうか、それほどの御決心か!」と涙を拭い、万一のことがあったら切腹する覚悟を固めて、
自ら東條大臣を説得した。東條大臣も涙ながらに、これを許したという。

竹田宮恒徳王の母親は、明治天皇の皇女・昌子内親王だけに気骨ある母親で、
「皇族の三人や五人は死ね」とはその母からの手紙の中の一節であった。



■5.聖旨伝達

竹田宮は8月17日朝、東京・立川から専用機で飛び立った。
到着した新京では、関東軍総司令官山田乙三大将以下の幕僚が、
司令部2階の広い総司令官室を埋め尽くした。

竹田宮は、昭和天皇が仰せられたお言葉を詳しく語って、御決意を伝えた。
「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と宮は後に書き記している。
厳粛な空気の中、山田大将は「謹んで聖旨に沿い奉ります」と奉答した。
誰もが目頭を熱くしていた。

翌18日朝、竹田宮を乗せた飛行機は奉天(瀋陽)に向かって飛び立ったが、
間もなく故障を生じて、新京に引き返した。
幸い、故障は1時間ほどで修理できて、再び、奉天に向かった。
翌19日にはソ連軍が進駐したので、もし修理が長引いて、新京にもう一泊していたら、
ソ連軍の捕虜としてシベリアに連行されていたろう。

奉天に着いた竹田宮は満洲南部で治安維持に当たっていた第3方面軍司令部で
同様に大御心を説き、さらにその日のうちに京城(ソウル)に飛んで、
朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。

竹田宮の搭乗した飛行機は、4機の戦闘機「隼(はやぶさ)」に護衛されていた。
いずれも若く優秀なパイロットで、竹田宮は京城に着いて、彼らと別れる際に、厚く礼を述べ、
固い握手を交わして「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、
日本の再興に尽くしてくれ」と言った。

しかし、4機が奉天に戻ると、飛行場にソ連機が並んでいる事を目撃し、
既にソ連軍に占拠されていることを知った。
4機は垂直に急上昇してから、編隊を組んだまま、真っ逆さまに飛行場中央に突っ込んで、
自爆した。


■6.皇帝溥儀の運命

もう一つの任務である満州国皇帝溥儀の救出に関しては、
溥儀は満洲と北朝鮮の国境にある通化(つうか)の山中にいることが判り、
17日に幸いにも電話がつながって、翌18日午後に京城で落ち合う約束をした。

しかし、その18日には、溥儀から
「小さな飛行機しかないので長白山脈が越えられないから、明日(19日)午後奉天に出る」
との電報が来た。

竹田宮は新京に赴任中、皇帝溥儀とは特に親しくしていた。
宮が転任で新京を去る時には、溥儀はお忍びで宮の官舎に見送りにきた程だった。

竹田宮は翌日再び、奉天に戻って、溥儀との再会を果たそうとした。
しかし、阿部・朝鮮総督と上月・朝鮮軍司令官が口を揃えて、
「あなたの主任務・聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、
御安心を頂かれるべきではありませんか」
と反対した。
この言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることとした。
竹田宮は再び、命拾いをした。

溥儀にとっては、京城に直接飛べなかった事が運命の分かれ道となった。
奉天飛行場に出ると、ソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリア送りとなった。


■7.「国内での不穏な動きを抑えよ」

竹田宮は8月20日、無事に帰国し、復命することができた。
同様に、サイゴン、シンガポールで南方軍に聖旨伝達した閑院宮、
支那派遣軍に伝えた朝香宮も、それぞれ任務を終えて、帰国した。

帰国して2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に3度目のお召しがあった。
昭和天皇は、占領軍の本土進駐に際して、反乱などがあってはならないと心配され、
不穏な動きが報告されていた福岡の陸軍航空部隊と、
広島県宇品(うじな)の陸軍船舶司令部に行って、
自重するよう聖旨の伝達を竹田宮に命ぜられた。
竹田宮はすぐに福岡と宇品に行き、それぞれ戈を収めさせた。

8月26日には、連合軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だったが、
そこを本拠とする相模原航空隊は進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。
海軍上層部はこれを抑えようとしたが、言うことを聞かない。
昭和天皇に差し遣わされた弟宮の高松宮が直接説得することで、
ようやく24日の夕方、強行派は厚木飛行場を明け渡した。

翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだので、
厚木飛行場の武装解除が半日遅れたら、戦闘状態になった可能性もあった。

こうして789万人もの将兵が、君主の号令一下、整然と戈を収めたのは史上でも例のない
見事な降伏ぶりであったが、その背景には、各皇族が昭和天皇の分身として、
自分の身はどうなっても良いから民を助けたい、という大御心を
内外の将兵に伝えたからであろう。


■8.歴代天皇陵への代拝

終戦の混乱も落ち着きかけた11月29日、7名の皇族をお召しになって、
123代に及ぶ歴代天皇の御陵に代拝を依頼された。

このような終戦は自分の不徳の致すところで、それを歴代天皇に謝り、
日本の今後の復興への御加護をお願いしたい。
神武天皇の畝傍陵、明治天皇の桃山陵、大正天皇の多摩陵は御自身で参拝するが、
残りは皇族で手分けして代参してくれ、との御聖旨だった。

竹田宮は四国と淡路島を担当した。
各皇族は全国に散って、代参をするかたわら、病院や行政機関などを訪問され、
多くの要人や民衆と交流した。後に昭和天皇は8年半をかけて、
沖縄を除く全都道府県を行幸され、数千万の国民と交流されたが[c]、
この皇族方の代参はその原型とも言えるものであった。

昭和22年10月、直宮(昭和天皇の弟宮である秩父宮、高松宮、三笠宮)を除くすべての皇族、
11宮家51人が臣籍降下した。皇室の力を弱めようという占領軍司令部の意向であった。

竹田宮恒徳王も竹田恒徳となったが、その後、スポーツを通じて青年のために奉仕できればと、
スケート、馬術などのスポーツ連盟の会長となり、
東京オリンピックや札幌冬季オリンピックの招致に貢献し、「スポーツの宮様」と呼ばれた。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
 終戦の聖断を引き出した老宰相。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog101.html

b. JOG(049) 終戦後の戦い
 日本はポツダム宣言の諸条件を承認して降伏したのに、いつのまにか、それらは骨抜きにされ、条件があった事すら、検閲により忘れさせられた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_2/jog049.html

c. JOG(136) 復興への3万3千キロ
 「石のひとつでも投げられりゃあいいんだ」占領軍の声をよそに、昭和天皇は民衆の中に入っていかれた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog136.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』★★★、小学館文庫、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4094085904/japanontheg01-22/
----------------------------------------
えーと、私は恥ずかしながら近代史をほぼ全く勉強していなかったので
「皇族も実際に戦地に行っていた」という事実をつい数年前まで知りませんでした。


何でお年寄りの大半が両陛下や皇族方に対して自然な敬意を持っているのか?

これも無知な私にはその理由がよく判らない事でしたが、
日本の皇室・皇族というものは欧米に見られるようなぽっと出の権力者じゃないんですよね。
実際に政治を行う者の権威付けはするんだけど自らは統治しない。

※権威と権力についてはこの方のブログが判り易いです。

両陛下や皇族方にとって国民は古来から「統治する対象」ではなくて「幸せを祈る対象」です。
だから国民も両陛下や皇族方が基本的に好きだし自然に敬意も抱くもんなんですね。


閑話休題。
新聞の広告を見ていると皇后陛下の事を美智子「さま」、佳子内親王殿下の事を佳子「さま」
なんて書いてる週刊誌(特に女性誌)が多いんですがこれ、実は相当失礼です。

正しい敬称があるのにあえて使わないし、佳子内親王殿下に至っては完全にアイドル扱い。
英国王室なんかとは歴史も格も存在意義も異なるわけですがそこはガン無視w
「親しき仲にも礼儀あり」って何それおいしいの?状態。下品極まりますね(・_・;


この手の週刊誌は「明らかに皇室をDISってるなぁ」と感じますが、
不思議な事に、判で押したようにアンチ安倍政権だし、
「安保法案は戦争法案である」とレッテル貼りをしていますw

同じ連中が同じ誌面でちょっと前まで毎回韓流押ししてたわけですから
つまりまぁそういう層が記事書き殴ってるんでしょうけどねw
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Posted at 2015/08/09 22:51:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | お勉強 | 日記
2015年08月03日 イイね!

JOG-Mag No.911「持てど使えぬ」集団的自衛権の怪

■■ Japan On the Globe(911) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

Common Sence: 「持てど使えぬ」集団的自衛権の怪

「集団的自衛権違憲」論の裏に潜む中国の影。

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■1.「これは武士道ではない。日本は臆病ものだ」

2004(平成16)年4月、ペルシャ湾で日本のタンカー「高鈴(たかすず)が
武装勢力に襲われたが、アメリカの海軍と沿岸警備隊が護ってくれた。
「高鈴」の乗組員は全員無事だったが、
米海軍2名、沿岸警備隊1名の合計3名の若者が命を落とした。

しかし、アメリカ側は
「同じ活動をやっている仲間を助けるのは当たり前だ」
と語った。
当時、陸上自衛隊がイラクで人道支援活動で展開[a]、航空自衛隊はクウェートから
イラクに支援物資などを空輸し、海上自衛隊がインド洋で同盟国の艦隊に
給油活動をしていたからだ。

しかし、その後、小沢民主党が「インド洋での給油は憲法違反」として
テロ対策特措法の延長に賛成しなかった
ため、給油活動を行っていた海自は
帰国を余儀なくされた。


その途端、日本に対する評価はガタ落ちとなった。
「日本の油を守るためにアメリカの若者が死んでいるのに、
日本人は国内の事情で帰るのか」

とアメリカは反発した。
イギリスのファイナンシャルタイムスは一面で
「これは武士道ではない。日本は臆病ものだ」
とまで書いた。[1]

「高鈴」の逆のケースを考えてみよう。
日本近海で米海軍の艦船が中国の軍艦に襲われた、とする。

救援依頼の電波を受信して、海上自衛隊の護衛艦が駆けつけたが、
国内法の事情から、海自は米国艦船を守るために中国の軍艦と戦うことがきない。


米海軍の艦船は日米同盟によって、日本近海で日本を守るために活動をしていた。
それを日本が助けないとは何事か、と米国民は激高するだろう。
その瞬間に、日米同盟は深刻な危機に陥る。
いくら条約があっても、米国民は身勝手な日本を守るために、米青年の血を流すことに猛反対するだろう。

日本を含む太平洋の西半分を自らの覇権下におこうとする中国にとって、
唯一の障碍は日米同盟だが、その同盟にクサビを打ち込む最も簡単な方法がこれである。



■2.「集団的自衛権は保有しているが行使できない」という詭弁

上述のケースで、海自護衛艦が米艦船を守るために戦えないのは、
我が国が「集団的自衛権」を行使できないという憲法解釈を政府がとってきたからである。

集団的自衛権とは
「ある国家が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国が協力して
共同で防衛を行う国際法上の権利」
と定義されている。

これに関して、昭和47(1972)年9月14日、社会党(当時)の質問主意書に対する答弁書
(以下、「47年答弁」と呼ぶ)として、「国際法上は集団的自衛権を保有」としながらも、
「その行使は違憲」とする次のような見解が出された。

__________
・・・わが憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、
わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、
したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする
いわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。[2,p132]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

現在、国会で議論されている平和安全法制は、限定的な集団的自衛権行使を含んでおり、
これを多くの憲法学者が違憲と指摘する根拠の一つが、この47年答弁である。

しかし、たとえば「あなたは投票権を持っているが、行使はできない」などと言われたら、
一般国民の常識では理解できない。
「持てど使えぬ」権利が世の中にあるだろうか?
こんな詭弁が、どうして出てきたのか?



■3.平和条約と国際連合憲章で保証された集団的自衛権

この詭弁的答弁が表明された昭和47(1972)年以前には、
我が国が集団的自衛権を持っていることは、自明の理だった。
我が国の戦後の独立は、昭和26(1951)年に締結されたサンフランシスコ平和条約によるが、
その第5条(C)では次のように謳われている。

__________
連合国としては日本国が主権国として国際連合憲章第51条に掲げる個別的又は
集団的自衛の固有の権利を有すること・・・を承認する。[
2,p145]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

その国際連合憲章51条は、こう定めている。

__________
第51条 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、
安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、
個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。
[2,p22]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

主権国ならば当然、自分の国を守る権利を持っており、それは個別的、
集団的の区別を問わない、というのが国際常識である。
大国に対して、小国が単独で自らを守れない場合は、他国との同盟関係を構築して
相互に防衛する権利を有するという集団的自衛権は、国家の固有の権利である、
と考えられていた。


我が国の「国際法上は集団的自衛権を保有」とは、このサンフランシスコ条約、
および、日本が昭和31(1956)年に加盟した国連憲章によって保証されているのである。



■4.実は行使されていた集団的自衛権

47年答弁は「憲法上、行使不可」というが、
現実には、集団的自衛権の行使を前提とした条約が結ばれてきた。
サンフランシスコ平和条約と同時に、昭和26(1951)年にアメリカとの間で結ばれた
安全保障条約(旧安保条約)では、前文に次のような一節がある。

__________
平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、
さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを
承認している。

これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、
日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近に
アメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「これらの権利の行使として」とは、その前節の「個別的及び集団的自衛の固有の権利」を指す。
すなわち、旧安保条約を結ぶこと自体が集団的自衛権の「行使」だったのである。

なお、その10年後の昭和35(1960)年に改訂され、現在も有効な安保条約でも、
「行使」の文字こそないものの、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は
集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」た上で、第5条で以下のように謳う。

__________
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、
自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、
自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

これは、集団的自衛権を行使するという宣言に他ならない。
もし、集団的自衛権の行使が違憲であるならば、
現在の日米安保条約そのものが違憲であると主張しなければ、筋が通らない。



■5.政府も最高裁も「集団的自衛権は合憲」

47年答弁の以前は、政府見解は「憲法上も保有、行使も合憲」を
きわめて明確に打ち出していた。
昭和29(1954)年に鳩山一郎内閣のもとで出された政府見解は次のようなものであった。

__________
戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、
「国際紛争を解決する手段としては」ということである。

他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、
自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。

従って、自国に対して武力攻撃が加えられた場合に国土を防衛する手段として
武力を行使することは、憲法に違反しない。[1,p203]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ここでは自衛権を「個別的」か「集団的」かの区別をしておらず、
両方とも自己防衛である限り、憲法は武力の行使を認めている、としている。
国連憲章にも、サンフランシスコ条約にも、日米安保条約にも整合する単純明快な見解である。

最高裁判所も同様の判断を下している。
自衛権について、最高裁判所が下した唯一の砂川判決(昭和34(1959)年)では、
国際連合憲章に基づいて
「すべての国が個別的および集団的自衛権の固有の権利を有することを承認している」
事を確認した上で、補足意見ではこう述べる。

__________
今や諸国民の間の相互連帯の関係は、一国民の危急存亡が必然的に他の諸国民のそれに
直接に影響を及ぼす程度に拡大深化されている。
従って一国の自衛も個別的にすなわちその国のみの立場から考察すべきでない。

・・・換言すれば、今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、
自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。
従って自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、
各国はこれについて義務を負担しているもの
と認められるのである。
[3]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「自衛はすなわち『他衛』、他衛はすなわち自衛」とは、集団的自衛権そのものである。
憲法解釈の最終の権威は最高裁にあり、その最高裁が、
自衛権について下した唯一の判決がこう述べているのである。
すなわち、政府も最高裁も
「集団的自衛権を国際法上も憲法上も保有しており、当然、行使も合憲」
という判断であった。



■6.自衛権行使違憲論に中国の陰

この常識的判断が、47年答弁によって突然、「国際法上保有、憲法上行使不可」
と変更されたのだ。
「解釈改憲」というべきは、こちらの方だろう。
どうしてこんな解釈が突然出てきたのか。

この答弁の出された昭和47(1972)10月の前月、田中角栄首相が訪中して、
毛沢東や周恩来と会談している。
この時、田中首相が何を話し合ったのかは、いまだ正式な外交文書が公開されていないので
不明である。

しかし、その前年の1971年7月と10月に訪中したアメリカのキッシンジャー大統領補佐官と
周恩来首相との会議録は公開されている。
そこでは周恩来が「台湾と朝鮮半島に対する(日本の)野望を放棄すること」を日本に望むと
述べている。
対するキッシンジャーは「我々は日本の軍備を日本の主要4島防衛の範囲に押しとどめることに
最善を尽くすつもりです」と応えた。

ここから中西輝政・京都大学名誉教授は次のように断言する。

__________
この二人の会談の翌年10月----しかもそれは田中訪中の翌月でもある----に出されたのが、
前述の集団的自衛権に関する政府・内閣法制局の新解釈なのである。
その背景要因として、朝鮮半島、台湾有事に自衛隊を関わらせたくないという米中両国、
特に中国側の意向が強く影響していたことは間違いない。[4]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■7.「社会党が言うから」

47年答弁は、社会党の参院議員・水口宏之の要求に応じる形で、
政府が参議院決算委員会に提出したものだった。
当時、官房長官であった宮澤喜一氏は、後に「集団的自衛権は違憲だという答弁は、
社会党が言うから防衛線を固く敷いてきた」と述べている。[5]

社会党の要求通りの「集団的自衛権行使不可」の政府答弁は、
いたく社会党の気に入ったので、珍しいことにこれに反対を唱えたことはついぞなかった。[5]

社会党は、かつてはソ連から資金援助を受けていたことが、
ソ連崩壊後に公開された秘密文書により公開された
が、
47年答弁の時期に同様に中国の代弁者として活動していたと推定しても不思議ではない。
中国側の指示を受けて社会党が参院で質問し、自民党はキッシンジャーの意向を受けて
新解釈を打ち出した、というのが真相のようだ。


■8.「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう」

日本の集団的自衛権行使を一番恐れているのが中国、
という構図は今も変わらない。

中国は集団的自衛権行使に反対しており、社民党や朝日新聞なども、
中国の意向を受けてであろう、「戦争への道」などとヒステリックに非難している。

しかし、南シナ海で軍事基地を作り、わが国の領海領空に侵犯を繰り返す中国の脅威には
言及しない。

他方、アメリカを始め、中国の脅威を受けているフィリピン、ベトナムなどの東南アジア諸国、
オーストラリア、インドは、集団的自衛権を含む安全平和法制を両手を挙げて歓迎している。


集団的自衛権の議論は、わが国とこれらの国々が中国の覇権に下り、
ウイグルやチベットのような隷従の道を歩むのか、それとも共産中国を封じ込めて、
自由と独立を守るかの分かれ道なのである。

日米欧はかつての冷戦において結束してソ連を打倒し、欧州側の多くの国家、
民族を解放した。しかし、アジアにおいては共産中国との冷戦はまだ続いている。[b]

「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている
国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」

という日本国憲法に従うならば、我々は米国・アジア・太平洋諸国と連帯して、
共産中国の「専制と隷従、圧迫と偏狭」から人類を救わねばならない。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(378 サマーワに架けた友情の架け橋
自衛隊のイラク支援活動によって得られた信頼と友情は「日本人の財産」
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog378.html

b. JOG(889) 対中戦略を対ソ冷戦の歴史から学ぶ
ソ連消滅はいかに実現されたのか。
http://blog.jog-net.jp/201503/article_1.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 佐藤正久『自衛官のリスクを政22]争の具にする勿れ』、「WiLL」H27.8

2.佐瀬昌盛、「集団的自衛権」★★、PHP新書、H13.5
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/456961616X/japanontheg01-22/

3. 潮匡人「集団的自衛権で錯乱する朝日新聞」、『正論』H26.6

4. 中西輝政「集団的自衛権の衝撃 日本を歪めてきた『日中友好』の闇は打ち砕かれた」、『正論』H26.9

5. 岡田邦宏「集団的自衛権 『行使違憲論』の正体」、『明日への選択』H26.6
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Posted at 2015/08/03 20:42:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | お勉強 | 日記
2015年07月26日 イイね!

JOG-Mag No.910 歴史教科書読み比べ(22): 北条氏の仁政

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JOG-Mag No.910 歴史教科書読み比べ(22): 北条氏の仁政
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歴史教科書読み比べ(22): 北条氏の仁政

 北条氏は「道理」と「合議」に基づく政治により、安定した社会を生み出した。
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■1.「社会が安定したため,農業生産が高まりました」

源頼朝の直系が滅びた後、鎌倉幕府は北条氏が執権となって支えていく。

東京書籍版の歴史教科書は、「民衆の動き」と題した一節で、
この時代の社会の発展をかなり好意的に描いている。

__________
社会が安定したため,農業生産が高まりました。
牛馬が利用され、鉄製の農具がいっそう普及し,草や木の灰が肥料として使われ,
米の裏作に麦をつくる二毛作も行われるようIこなりました。
開発も農民が中心になって行われるようになりました。

農村には,農具をつくる鍛冶屋や染物を行う紺屋などの手工業者が住みつき,
寺社の門前や交通の便利なところでは,定期市が開かれるようIごなりました。

このように生活が向上するなかで,しだいに村を中心に,民衆の団結を強める動きが見られ,
耕作する人の土地の権利も強化されていきました。[1,p55]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「農業生産の高まり」と農民の「権利の強化」を重視するあたりは、
マルクス主義的な唯物史観めいているが、経済史の記載としては妥当な所だろう。


■2.「社会の安定」をもたらしたのは、どんな政治だったのか?

ただ、疑問なのは「社会が安定したため」という部分で、
何がどうしたから社会が安定したのか、という記述がまるでない事だ。

しかも、その前のページには「武士と地頭」と題した節で、
次のような勢力争いが頻発したことを記している。

__________
農民は年貢を荘園や公領の領主におさめていましたが、
地頭となった武士が土地や農民を勝手に支配することが多く、
地頭と領主との間には、争いがしばしばおこりました。[1,p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

一方で地頭と領主との争いを説き、その後で、社会が安定して農業生産が高まったという
史実を説く。
階級闘争と経済発展を同時に説くので、何が歴史の真実だったのかが、よく理解できない。

しかも、その次の「武士の生活」では、こう記述している。

__________
武士は、つねに馬や弓矢の武芸によって心身を鍛えていました。
「弓矢の道」や「もののふの道」などと呼ばれる、名を重んじ、恥を知る態度などの、
武士らしい心構えが育って行きました。[1,p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

結局、東書版は「社会の安定と農業生産の高まり」「地頭と領主の争い」
「武士らしい心構え」の三点をバラバラに述べながらも、
それらがどのように互いに関連しているのか、を全く説いていないので、
いったいどんな時代だったのか、全体像が全く見えない記述となってしまっている。



■3.謡曲「鉢の木」の物語

一方、自由社版の歴史教科書には、「農業生産の高まり」も「地頭と領主の争い」も
出てこない。
そのかわりに「武士のおこりと鎌倉幕府」という2ページのコラムで、
特に鎌倉幕府と武士(御家人)が「御恩と奉公」の関係で結ばれていたとして、
謡曲「鉢の木」の物語を紹介している。

鎌倉武士の理想を説いた有名な物語なので、引用しておこう。

__________
5代目執権・北条時頼が、身分を隠して諸国の様子を観察していた時のことです。
上野国(こうづけのくに、群馬県)の佐野のあたりで突然の雪に降られ、
近くの民家を訪ねました。その家は、暖をとる薪(まき)も食べ物もない貧しさでした。

しかし、家の主人、佐野常世(さの・つねよ)は、時頼だとは知らぬまま、
こころよく迎え入れました。
常世は、見も知らぬ旅人を暖めるため、大切にしていた鉢植えの梅・松・桜を
囲炉裏(いろり)にくべて精一杯もてなしました。

「ご覧のとおりの貧しさですが、私はかつてはこのあたりの領主でした。
今は、領地を奪われ、この有様です。
しかし、私は武士です。幕府に一大事があって、いざ鎌倉というときは、
いつでも駆けつけられるように、馬と武具だけは手離しておりません。」

鎌倉に帰った後、時頼は関東の御家人に緊急の招集命令を出しました。
すると、常世は武具に身を固め、鎌倉に駆け参じてきました。
時頼は、常世の奉公、忠誠心を誉め、領地を取り戻してやり、
さらに「加賀梅田」「上野松井田」「越中桜井」を恩賞として授けました。[2,p85]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

東書版の説く「武士らしい心構え」をより具体的に理解できる物語であり、
これを知っておくことは、国民的教養として望ましい。

しかし、こういう鎌倉武士たちがどんな政治をしたのか、という点の記述が
歴史教科書としては欲しいところだ。


■4.北条泰時の仁政

北条氏の執権政治を確立したのは、源頼朝の妻・政子の弟である北条泰時(やすとき)である。
安田元久・学習院大学教授は『鎌倉武士』[3]の中で、次のように泰時を描写している。

__________
泰時は、父義時の気質をうけついで、幼い時から非常に聡明であった。
若いころから立派な見識を持ち、武士としての本分をわきまえ、
また理非曲直をはっきりさせる人物であった。

1201(建仁元)年秋、19歳の泰時が、将軍頼家(JOG注: 頼朝の嫡男、第2代将軍)の
怒りを受けて、北条氏の領地である伊豆の北条で謹慎していた時のことである。
その年この地方は不作のために、百姓たちが非常に疲れきっていた。
なかには、領主から貸し付けてもらった米の返済に困って、逃亡しようとする者すらあった。

泰時は、そのような百姓たちを集めて、証文を焼きすて、
返済の義務を免除したばかりでなく、かねて用意してあった酒や米をふるまった。
そして、農民の喜ぶ様子を見てから、泰時は安心して鎌倉に帰ったという。[3,p85]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

このような人物が40代にして第2代執権となったのである。

__________
かれは政治の根本を「撫民」ということにおき、しばしばそのことを主張した。
「撫民」とは、民衆に対する愛情にもとづく政治のことであったが、
泰時のこの政治方針は、とくに飢饉や災害のときにおおいに発揮された。[3,p98]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

たとえば、寛喜2(1230)年には初夏にも関東地方で雪が降り、
秋にはしばしば暴風雨に襲われた。
泰時は、租税の免除をし、また武家にも衣服の新調を禁じ、昼食を抜き、
酒宴をとりやめるよう勧めた。

翌年の大飢饉に際しては、富裕な人々に米を放出させ、返済能力のない農民には、
自分が代わって返済してやる事までした。
泰時の政治は、後の世までも優れた仁政と讃えられた。


■5.「道理」による統治

泰時が、こうした仁政の基盤として重視したのが、「道理」と「合議制」であった。
「道理」に関しては、たとえば鎌倉時代に一般人にも広く読まれた仏教説話集
「沙石(しゃせき)集」に、次のような逸話が収められている。[a]

ある時、下総国(千葉県北部が主)の地頭と領家(荘園領主)との間で
地代に関する争いが生じ、両者の話し合いでは決着がつかなかったので、
鎌倉幕府に裁定が持ち込まれた。

北条泰時が代官となって、両者とじっくり問答を行った際、
領家が肝心の道理を述べた時、地頭は手をはたと打って、泰時の方に向かって
「これは当方の負けなり」と言った。
同席した一同はわっと笑い出したが、泰時はうち頷いて、笑わずに言った。

__________
立派な負けっぷりである。泰時は長い間、代官として裁定を行ってきたが、
あきらかに道理で負けていると思われる側でも、なおも負けじと主張を続ける事はあっても、
自分から負けたと言う人はいなかった。

相手の方に道理があると分かったら、ただちに負けを認めたのは、
返す返す立派な態度である。正直な人柄が見て取れる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

と、涙ぐんで褒めた。
領家の方も、「今まで道理を理解していなかっただけで、故意ではない」として、
6年分の未納の地代を3年にまけてくれた。沙石集の作者は次のように、結論つけている。

__________
されば、人は道理を知りて、正直なるべき物なり。
咎を犯したる者も道理を知りて、我が僻事(ひがごと、間違い)と思いて
正直に咎(とが)をあらわし、おそれつつしめば、その咎ゆるさるる事なり。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

世の中には、心ある人間なら誰でも認める道理があるのであり、
それに基づいて社会を統治しようというのが泰時の考えであった。
富や権力に負けることなく、あくまで道理を通して生きる所に、武士の本分があった。



■6.「御成敗式目」

道理による政治を推し進めるために泰時が定めたのが「御成敗式目」であった。
これについて、自由社版は以下のように取り上げている。

__________
御成敗式目(ごせいばいしきもく) 執権となった北条泰時は、1232(貞永元)年、
武家社会の慣習に基づいて、初めて武家の独自の法律である御成敗式目(貞永式目)
を定めた。
これは、御家人に権利や義務、裁判の基準を分かりやすく示したもので、
その後の武士の法律の手本になった。[2,p83]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

東書版はやや短いが大同小異の表現である。
しかし、これだけでは御成敗式目の画期的な意義は伝わらない。


■7.「道理」に基づく政治

式目の末尾には、次のような一節があり、
この式目が「道理」に基づく政治を目指したものであることが明らかにされている。

__________
およそ評定の間、理非に於いては親疎あるべからず、好悪あるべからず。
ただ道理の推すところ、心中の存知、傍輩を憚(はばか)らず、権門を恐れず、
詞(ことば)を出すべきなり。

(裁判の場にあっては決して依怙贔屓(えこひいき)なく、専ら道理に基づいて、
傍の目、上なる権力者の意嚮(いこう)を恐れることなく信ずる所を言え)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

鎌倉時代は「武士が主君から領地を与えられて所有する」という形での封建社会が発達した。
「封建社会」というと、いかにも前近代的・非合理的に聞こえるが、
土地の私有を制度化するには、所有権を守るための法と裁判の整備が必要であり、
これらは近代社会発展のための不可欠の基盤なのである。

現代においても近代的な法治主義がきちんと定着しているのは、
封建制度を経験した西洋と日本だけであることを考えれば、この事は明らかだろう。

8百年近くも前に、泰時が道理に基づく政治、法、裁判の仕組みを作った史実の重要性は
ここにある。



■8.日本古来の伝統に基づく見識ある政治

道理を明らかにするには、複数の人々による議論が必要だと泰時は考えたようだ。
独裁制では自らの過ちに気がつかない恐れが出てくる。

泰時は執権に就くと直ちに、おじの時房を補佐役とした。
この地位は、公文書に執権と共に署名を加えることから、「連署(れんしょ)」と呼ばれた。
これにより、執権の独断に対するブレーキ役を果たせる。

嘉禄(かろく)元(1225)年には、政治的能力のある有力者11名を
評定衆(ひょうじょうしゅう)に任命した。
執権・連署とともに政治や訴訟に関する評定を行う。
重要な政務や、裁判の最終的な決定などは、すべて合議によって執り行われるようになった。
『御成敗式目』も、評定衆によって起草されたものだ。

我が国には、神話時代の「神集ひ」から聖徳太子の十七条憲法の
「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)」と、衆議公論を尊ぶ伝統が根強いが[c]、
それを政治制度として定着させたのが泰時であった。
この伝統があったればこそ、明治以降の議会制民主主義の導入も
スムーズにいったのである。[b]


『御成敗式目』の全51条は、憲法十七条を天・地・人で3倍した数字と言われている。
泰時以下、鎌倉幕府の評定衆は、聖徳太子など日本古来からの伝統的思想を踏まえた見識を
持っていたと思われる。
とすれば、その「撫民」は、皇室の民の安寧を祈る伝統精神を現実政治に生かそうと
したものだろう。

「社会が安定したため、農業生産が高まりました」という繁栄の基盤として、
我が国の伝統精神に基づく、北条氏の見識ある政治があったことを、
我が国の中学生には知っておいて貰いたいものだ。
(文責:伊勢雅臣)


■リンク■

a. JOG(752) 日本における道理の伝統
布教のためにやってきたフランシスコ・ザビエルは、
キリスト教の不合理な面をつく日本人に悩まされた。
http://blog.jog-net.jp/201206/article_2.html

b. JOG(082) 日本の民主主義は輸入品か?
 神話時代から、明治までにいたる衆議公論の伝統。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog082.html

c. JOG(287) 大御宝の理想を求めて ~ 国柄に根ざした人権思想を
 いかがわしい「人権」派から、「人権」の理想を取り戻すには。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog287.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

2.藤岡信勝『新しい歴史教科書─市販本 中学社会』★★★、自由社、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237613/japanontheg01-22/

3. 安田元久『日本の歴史文庫(7) 鎌倉武士』★★★、講談社
---------------------------------------
「道理」に基づいて民主的に執政するという考え方が昔の日本の中にもあった事が
よく分かるお話ですね~。

左巻きの方々は・・・
「民主主義はアメリカが憲法の形で日本に与えてくれたものだ」

「だから憲法を変える事は民主主義の否定につながる」

「憲法9条を守れ」

「戦争法案ハンターイ!徴兵制ハンターイ!」
・・・みたいな論理でもなんでもないものを声高に叫ばれますが
出発点からして間違ってるわけですからそれ以降も当然間違ってくるわけですね(^^;



余談ですが
我が国には、神話時代の「神集ひ」から聖徳太子の十七条憲法の
「上和らぎ、下睦びて事を論(あげつら)」と、衆議公論を尊ぶ伝統が根強いが[c]、
それを政治制度として定着させたのが泰時であった。
この伝統があったればこそ、明治以降の議会制民主主義の導入も
スムーズにいったのである。[b]

このくだり。
「極論すぎだろおいwww」と思った方、古事記を読んでみましょう。

日本を作ったとされる神々は実に人間くさくて、
結構間が抜けていてコミカルで(失礼)、
数多く失敗したり勘違い・誤った判断をやらかしています。
※一神教に現れる神が全知全能なのとは対照的です。

チョー有名なのが天岩戸(あまのいわと)のお話。

弟であるスサノオノミコトの乱暴狼藉にキレてしまったアマテラスオオミカミは
天岩戸という洞窟に隠れてしまいます。
で、この洞窟の出入り口の石戸、オートロックになっていて(いや呪力かw)
外からは開けられません。

アマテラスオオミカミって高天原(たかまがはら=天上界)の統治者で
なおかつ太陽をコントロールしている神ですから高天原は真っ暗。

んで、困った神々が集まって「どうするべ?」と会議している時に
思金神(おもいかねのかみ)という神様がピーン!と作戦を閃きます。

あとはご存知のとおり、天岩戸の前でかがり火を焚いて、皆で宴会を始めます。
外の賑やかな様子を不思議に思ったアマテラスが戸を少し開けて
「あんたたち何で真っ暗で(私抜きで)もりあがってんの?」と聞いたところ
「あなた様より尊い神様がいらしたからです」と返される。

「え?ホントに?」ともう少し戸を開けて出てきたところで、
木の枝に掛けられた鏡に自分の姿を写してしまいびっくり!
その瞬間、腕力の強い神様がアマテラスオオミカミの腕を引っ張って
外に出した、という話です。
(岩戸を腕力でこじ開けたというのは誤り。呪力で封印されてて開きません)

※この時の鏡が神代に最初に作られた鏡で三種の神器の一つ、
八咫鏡(やたのかがみ)なんだそうな。


天上界の統治者にして太陽神が弟にキレて勝手に引き篭もっちゃう上に
他の神様にころっと騙されて引っ張り出されちゃうんですから
これは到底「全知全能」じゃないですよね~
神様の割には随分と不完全な印象です。

で、日本人は皆その神々の子孫という設定なのでw
「お互いよく相談して、助け合って生活しましょうね」
という話にもなるのかなぁ、と。

一神教圏内の民族の様に、他の民族に侵略される心配をしなくてもいいし
基本的には山海の幸が豊富で食料をめぐって戦争が起きにくい
島国という恵まれた環境だってーのも大きな要因だと思いますけどね。
Posted at 2015/07/26 16:50:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | お勉強 | 日記
2015年07月05日 イイね!

JOG-Mag No.907 日本のテレビを歪めた韓流ゴリ押し

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Media Watch: 日本のテレビを歪めた韓流ゴリ押し

 日本のテレビは、どうして韓国ベッタリとなったのか。

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■1.NHK『あまちゃん』の不自然な韓国ネタ

一昨年、NHKの朝の連続テレビ小説『あまちゃん』が
20%を超える高視聴率で評判となった。
東京の女子高生が、母親の故郷である北三陸に行って、
祖母の後を継いで海女(あま)になる、というストーリーで、
ヒロイン役の能年玲奈(のうねん・れいな)の元気溌剌とした演技が人気を集めた。

しかし、この番組に傷をつけたのが、あちこちに顔を覗かせる韓国ネタだ。
たとえば、先輩海女の一人が年下の彼氏と駆け落ちして、
韓国のチェジュ島で海女をやっていた、というエピソードが出てくる。
「海女漁が行われているのは、世界中で、日本と韓国だけなんです!」
というセリフまで飛び出す。

日本人の海女が駆け落ちするのに、なぜ韓国まで行って、
海の向こうで海女をしなくてはならないのか。
テンポの良いストーリー展開に、突然、なんとも不自然なエピソードが飛び出したので、
その時の違和感をよく覚えている。


■2.「ステルス・マーケティング」

ネットでは、この『あまちゃん』の韓国ネタが話題となっていて、
東京で個人タクシー運転手をしている父親が乗っているのが見かけない車だと思ったら
現代自動車だったとか、スナックで写るボトルがいつも韓国焼酎「鏡月グリーン」だったなど、
いかにも不自然なシーンがいくつも指摘されている。[1]

これらは広告業界では「ステルス・マーケティング」、略して「ステマ」と呼ばれる手法である。
「ステルス」とは「ステルス戦闘機」と言うように「見えない」という意味だ。
従って「ステルス・マーケティング」とは
「消費者に宣伝と気づかれない形で宣伝を行うこと」である。

「あまちゃん」の不自然な韓国ネタは、視聴者に親韓感情を植えつけたり、
韓国製品をPRするステマそのものではないか。
日本国民が支払う受信料で成り立っているNHKが、こういうステマをするのは
公共放送として重大な問題である。


■3.「ファン8百人が羽田で歓迎」?

かつての韓流ブームでもステマが活用されていた。
代表的な事例として知られているのが、韓国人アイドル、チャン・グンソクが
平成23(2011)年に来日した時に、出迎えたファンが「8百人」と報道された一件である。

古谷ツネヒラ氏の『韓流、テレビ、ステマした』[2]によると、事の詳細は以下のようであった。
チャン・グンソク来日直後に芸能ニュースなどで著名なネットニュースサイト
「日刊サイゾー」で、『「ファン8百人が羽田で歓迎」のチャン・グンソク 
実際は「謝礼2千円」の応募者が百人』という記事が掲載された。

この記事には当日参加した女性が握りしめていたとされる
勧誘チラシの写真が掲載されていた。
『韓流スター来日イベント参加者募集」と大きく書かれたチラシには、
「応募資格は高校生から49歳までの女性に限定」など詳細が記載されており、
「報酬は2千円に軽食がつく」ことも明記されていた。

「有名人に会えて、軽食付きで二千円もらえるならたのしい」と感じたその女性は、
友人と二人で専用の送迎バスに乗り羽田空港に行った、と生々しい証言が掲載されていた。

フジテレビは「チャン・グンソク祭り」と称して、大宣伝攻勢を仕掛けていたのだが、
その過程でこのようなステマが行われていたのだった。
ちょうど、この時期に、フジテレビのあまりの韓流ゴリ押しに対して
1万2千人ものデモが仕掛けらている。[a]


■4.「ウチの局がこうして在日に乗っ取られてしまった経緯」

問題は、一体、誰がどうして、こんなステマをしているのか、という事だ。
テレビ局も企業組織である以上、一部の人間が暴走して、こんなステマをしても、
視聴者からの批判で、すぐに潰されてしまうだろう。

逆に言えば、このようなステマが繰り返されるという事は、
番組制作サイドにステマを作り出す人間がいて、また経営幹部にも、それを黙認するか、
後押ししている人間がいるはずだ。

そのヒントとなる記事が「TBS窓際放送局社員の独り言」として
「ウチの局がこうして在日に乗っ取られてしまった経緯」とのタイトルで、
ネットに掲示されている[3]。 それによると:

__________
(1)1960年代
・・・放送中のちょっとした言葉使いの問題(例えば「朝鮮民主主義人民共和国」を
"北朝鮮"と呼んでしまった、など)に対して、 朝鮮総連から会社及び
経営幹部の自宅に対して脅迫に近い抗議行動が繰り返される。

抗議行動に対する「手打ち」として、採用枠に"在日枠"が密かに設けられる。
総連幹部の子弟を中心に入社試験無し(カタチだけの面接)での採用が毎年続く。

(2)1970年代
在日社員の「反日番組」を「権力に対するペンの戦い」「調査報道
」と勘違いした経営幹部が社内で在日を積極登用。

「日本人社員と在日社員に昇進の差別があってはならない」などと
理想論を述べたのは良かったが、昇進差別をしなかったのは甘い日本人幹部だけで、
課長、部長と昇進した在日社員は、帰化した在日二世を
理不尽なまでに優遇する逆差別人事を徹底。

異を唱えた日本人社員は徹底的にマークされ、営業や総務など
番組制作の第一線から退けられる。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■5.「職員の募集時には国籍は不問としております」

この記事は、NHKでの韓国人・在日の登用ぶりと考え合わせると、信憑性が感じられる。
ネット上では韓国人・在日のディレクター4名が実名で紹介されている。[4]

朴元瑛源(えのもとえいげん)は、毎日新聞によると、
子会社「NHKエデュケーショナル」に出向中、女子高生に現金4万円を払って
わいせつな行為をしたとして、警視庁に逮捕され、NHKの調査でも犯行を認めたため、
懲戒免職処分となった。

もう一人の田容承(チョン・ヨンスン)氏はソウル出身の韓国人ディレクターで、
ETV特集: シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」を担当した模様だ。
NHKはなぜ韓国人ディレクターを使ったのかと、放送当時から疑問が呈されたようだ。

李紀彦氏も、NHKの「よみがえる海峡を越えた絆・朝鮮通信史400年」
という番組を担当したらしい。
韓国人をディレクターに使えば、得意な韓国ものの番組が多くなるのも当然である。

玄真行氏は在日韓国人2世。NHK職員ではなく、外注先の所属らしい。
「そして僕は日本で生まれ育った~在日コリアン・家族の100年~」等の韓国物のみならず、
「台湾万葉集~命のかぎり詠みゆかむ~」では
ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)ドキュメンタリー最優秀賞を受賞したりして、
実力派のディレクターのようだ。

玄真行氏のような実力あるディレクターを外注先として使うのは、
国籍にかかわらず、何ら問題はない。
問題はNHK内部で番組の編成に影響を与え得る地位に、
日本国籍を取っていない外国人がついている場合である。

国籍をとるという事は、その国を母国として忠誠を誓うということである。
逆に言えば、日本国籍をとらない職員をNHK内部で抱えているということは、
外国に忠誠を誓っている他国民が、公共の電波を使って、
日本国民の世論に影響を与えることができるということである。

こういう恐れから、欧米の公共放送は外国人は採用しないのが通常だが、
NHKは「国籍を理由とした差別的な取り扱いは職業安定法で禁止されておりますので
職員の募集時には国籍は不問としております」としている。
グローバル化というなら、こういう脇の甘さを是正して、国際標準に基づくべきだ。[5]


■6.日本のテレビ界を支配している電通の会長が韓国べったり

現場レベルで外国人が番組制作に入り込んでいる状況を助長しているのが、
テレビ局のトップレベルの韓国癒着だ。

弊誌812号「偏向マスコミへの公憤 ~ フジテレビデモ」[a]では、
フジテレビの日枝久(ひえだ・ひさし)・代表取締役会長が
李明博前大統領の出身校・高麗大学から名誉博士号を授与されたり、
本社ビルの中に韓国文化放送の日本支社を設けたり、など、韓国との癒着ぶりを指摘し、
フジテレビの突出した韓流ゴリ押しはこれが一因となっているのでは、という説を紹介した。

韓国とのさらに強力な癒着ぶりを示しているのが、電通の社長・会長を長年務めた
故・成田豊(なりた・ゆたか)氏である。
韓国が遅れて招致に乗り出した平成14(2002)年のサッカー・ワールドカップでは
日韓共同開催を主導した。
さらに2005年からは毎年ソウルで韓日サッカー大会を開催したり、
「日韓交流おまつり」の実行委員長を務めている。

こうした「30年間にわたる韓日文化交流事業を積極的に後援した功労」として、
2009年に韓国政府から外国人に授与する最高位の勲章である
修交勲章光化章を受章している。

電通と言えば、日本のテレビ広告費の総額約1兆7千億円のうち、
実に38パーセントを扱っており、広告収入に依存する民放は、
電通の支配下にあると言われている。
また電通はNHKの子会社であるNHKエンタープライズと共同出資して
番組制作会社綜合ビジョンを作り、NHK番組の制作まで担当している。[6]

日本のテレビ界を支配している電通の社長・会長を14年間にわたって務めた成田豊氏が、
韓国べったりの姿勢をとっていたのだから、テレビ界全体が韓国寄りに偏向してしまうのも、
当然と言えよう。


■7.成田豊氏の思い込み

成田豊氏の父親は日本統治時代に朝鮮総督府鉄道局に務めており、
成田氏も朝鮮で生まれ育った。
大東亜戦争の開戦間もない1942年に京城(現在のソウル)中学校に進学。
1945年2月、海軍兵学校予科練に合格して内地にわたり、そのまま終戦を迎えている。

こうした生い立ちが、成田氏の朝鮮・韓国観に影響を与えたのだろう。
たとえば、次のような発言をしている。

__________
・・・大都市である京城で、私はそれまで住んできた平穏な田舎町で見ることも
できなかったような光景を何度も目にすることになった。

植民地では、支配された側の人々の多くは貧しい。時に盗みを働く。
そうした人に日本人が殴るけるの冷たい仕打ちをする。
あるいは、普段からむやみに威張る。相手が一級下の人間であるかのように、
現地の人々に接する日本人の姿は、ショックだった。
(中略)同じ人間なのに、なぜ。そんな違和感が子供心に刻み込まれた。[2,p88]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

成田氏は朝鮮で生まれ育ったとはいえ、それは日本統治時代の末期である。
「それまで住んできた平穏な田舎町」は日本統治時代につくられたものであって、
李朝時代の農民が地主階級の差別と搾取で、
悲惨な生活を余儀なくされていた事実は見ていない。

日本国内でも高度成長期に多くの学生が、共産圏での悲惨な生活も知らされずに、
「資本家階級の搾取」打破を叫んでいたのと同様の思い込みが見てとれる。
そこから出てくるのが、月並みな贖罪史観である。

__________
我々は近代以降も一時期、不幸な時代を過ごした。
そしてその間に生じた不信や反発は、今も様々な形で我々に問題を投げかけている。
これを解決するためには、改めて中国や韓国との長い歴史的関係や文化について語り合い、
交流を深め、理解しあうことが重要だろう。(中略)

私自身、朝鮮半島で生まれ、終戦近くまでそこで育った。
これからはアジアに視野を広げた活動しなければならない、との思いでは、
人後に落ちないつもりでいる」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

こういう人物が日本のテレビ界を長年支配していたのであり、
そのもとで韓国・朝鮮人が各テレビ局で番組制作の実権を握ったのだから、
韓流ゴリ押し、はては韓流ステマまで行き着いたのも当然であろう。


■8.「日本人はとてもレベルが高いのに、テレビは低レベルだ」

古谷氏の著書[2]では、テレビ界の状況に対するインターネット調査の結果を分析しているが、
その結果が凄まじい。
「テレビ局における報道姿勢に憤慨している」77.9%、韓流ゴリ押しについては
「少し多すぎる」から「強い嫌悪感を感じる」までの否定派が96.3%、といった具合である。

近年、韓流ブームが雲散霧消してしまったのも、外交面での反感感情の盛り上がりとともに、
こうした韓流ゴリ押しに対する視聴者の反発が効いているのだろう。
韓流ゴり押しのトップランナーだったフジテレビは、業績の大幅落ち込みが続いている。

「日本人はとてもレベルが高いのに、テレビは低レベルだ」という欧米人の声もあった[2,p191]。
自らの工夫で質の高い番組を作る努力を怠り、安易な韓流番組の垂れ流しに頼ってきた
日本のテレビ界が、視聴者の反発に合っているのである。

自由市場経済においては、ダメな商品に対しては消費者が不買という形での
拒否権を持っている。
低品質のテレビ番組に対しては、見ない、広告主の商品を買わない、という形で、
拒否権を突きつけるべきだろう。それが日本のテレビの正常化への道である。

問題は自由市場経済から外れているNHKである。
国民から強制的に受信料を徴収しながら、国民の声を聞く必要のない、
唯我独尊的な経営形態をとっている。
国会でもNHK批判の声が上がり、また受信料支払い拒否も広がっているが、
この問題については、稿を改めて、取り上げたい。
(文責:伊勢雅臣)

__________
■週刊メール入門講座「国民欺く捏造報道」
http://bit.ly/1vSb8va
捏造・偏向報道は「従軍慰安婦」「原発」だけではない。捏造・偏
偏向報道は国民を誤った方向に導く。
国民一人ひとりがその実態と手口を学ぶことで、事実を見抜く力をつけよう。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■リンク■

a. JOG(812) 偏向マスコミへの公憤 ~ フジテレビデモ
 フジテレビデモは、国民がマスコミの「偽善、欺瞞、嘘」に対する公憤を表した戦後初めての行為だった。
http://blog.jog-net.jp/201308/article_5.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 「あまちゃん韓国ステマまだあった!朝鮮式(韓国式)お辞儀「コンス」・
総集編で発覚・NHKの悪意」、ブログ「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/47620678.html

2.古谷ツネヒラ『韓流、テレビ、ステマした-韓流ゴリ押しの真犯人はコイツだ! 』
★★、青林堂、H24
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4792604508/japanontheg01-22/

3. ななみん「ウチの局がこうして在日に乗っ取られてしまった経緯」
http://blog.goo.ne.jp/nanamin-lead-wink/e/03857aebb5f2e267a02603efe9b10723

4.ブログ「NHK解体!」
「NHKで幹部に昇進した在日が4人李紀彦・玄真行・田容承・朴元瑛源」?
http://nhkkaitai.seesaa.net/article/355914476.html

5. ブログ『さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」』、
輝かしい日本の発掘「NHKがやるべきは職員の国籍を正すことです。
なぜ外国人職員の”国籍”を示さないのか」
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/32467554.html

6. ブログ「金子吉晴(維新政党・新風)」
「NHKの体質的問題点は、やはり南北朝鮮への異常な肩入れでは? その2」
http://ccp58800.blog25.fc2.com/blog-entry-455.html
-------------------------------------
(・・・でも2.の古谷って先日TVタックルで的外れな発言しまくって
ホリエモンとひろゆきにボコボコにされてたヤツなんだよなぁw;)

あまちゃんの韓国ステマは有名ですよね~
ヒュンダイのタクシー、美術さんが作らされたんでしょうか。
ヤな仕事だなぁw
Posted at 2015/07/05 18:17:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | お勉強 | 日記

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