両陛下、傘差さずに供花…宮城「千年希望の丘」
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>両陛下は冷たい雨が降る中、傘も差さずに慰霊碑の前に進み、白菊の花を供えられた。
>その後、天皇陛下は仙台市のホテルで、同会議で来日したトルクメニスタンの
>ベルドイムハメドフ大統領と会見された。
>陛下が皇居の外で外国の元首と会見されるのは初めて。
>東京で日程の調整がつかなかったためだという。
第3回国連防災世界会議の出席というご公務があったから、という理由だけでは
皇居外で外国の元首と会見(しかも初めて!)、とはならないですよね。
国民の事を第一に考えていらっしゃるから復興状況の視察を優先された結果として、
大統領との会見は皇居外の仙台になった、という事でしょう(・_・;
で、いつもの
メルマガ転載です。ちょっと長いけど(^^;
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No.888 国史百景(11):仁徳天皇の「民のかまど」 ~『山鹿素行「中朝事実」を読む』より
<< 作成日時 : 2015/02/22 08:06 >>
宋の太宗は、日本の天皇の万世一系を知り、「これ蓋(けだ)し古の道なり」と嘆息した。
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■1.日本の万世一系に驚いた宋の太宗
984年に宋に渡った東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は第二代太宗に謁見し、
筆談で日本の国情を語るうちに、話が皇統の歴史に及んで、
初代・神武天皇から64代の円融天皇に至るまでの事績を記した「王年代記」を示した。
太宗は、日本で一系の天皇が続き、臣下も代々世襲であることに驚き、
「これ蓋(けだ)し古の道なり」「これ朕の心なり」と嘆息した。[1]
そもそも宋は907年の唐の滅亡後、五代十国の戦乱の中で
960年に軍人だった趙匡胤(ちょうきょういん)が建てた国で、その子が第2代の太祖である。
この時点では建国後24年に過ぎない。
そんな成り上がり皇帝は、64代も続いていた日本の皇室の足元にも及ばない存在だった。
それから千年以上経った。太宗の嘆息も空しく、宋は143年後の1127年には
北の金に圧迫されて南に逃れて南宋となり、その南宋も1276年、元に滅ぼされる。
元の後も明、清、中華民国、中華人民共和国とめまぐるしく王朝・政権交代が続く。
現在の共産党政府も建国わずか66年で、はや亡国の兆しが見える。
それに比べて、我が国は今上陛下で125代。世界最古の王室である事は歴史的事実だ。
■2.「万世一系」の史実
この史実を踏まえて、支那を世界の中心とし周辺諸国はすべて野蛮であるとする
「中華思想」から日本人を覚醒させたのが、山鹿素行の『中朝事実』である。
この書は吉田松陰など幕末の志士に影響を与え、明治維新の思想的原動力となった。
そこでは『日本書紀』などを引用しながら、その意味を論じているが、
『日本書紀』も素行の論考も漢文のため、現代人には近寄りがたい。
しかし最近、出版された『山鹿素行「中朝事実」を読む』[2]では読み下し文がついており、
我々にも読めるようになった。
たとえば、「万世一系」について素行は次のように中国や朝鮮と比較している。
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そもそも外朝支那は、易姓革命が30回近くおこり、そのうえ夷狄(周辺諸民族)の
侵入王朝も数世に及んでいる。
春秋時代240余年の間、臣下が国の君主を弑(ころ)した例もまだ25回に及んでいる。
ましてやその先後の乱臣賊子の数は、いちいち挙げて数えることもできないほど多い。
朝鮮も、箕子が王となった後、4王朝が交替した。
国が滅びて支那の郡県(直轄領)となったり、あるいは、高氏絶滅する事2世、
あの李氏28年の間に王を弑すること4度であった。
ましてやその先後の乱逆のさまは、まるで禽獣が傷つけ合うようであった。[2,p78]
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それに比べて我が国では、天皇が殺される「弑逆の乱」は指で数えるほどしかなく、
また武士の世になっても、一部に心得違いの者はいたが、
「王室を貴んで君臣の義は存続した」。[2,p78]
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世界は大きく、諸外国が広くとも、中洲たるわが国の天皇統治の成果に匹敵する国は
見当たらない。[2,p79]
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■3.「天皇統治の成果」
世界でも希な皇室の継続性は、わが国の長い歴史の中で
国民が安定した平和な生活を送ってきたことの証左でもある。
中国のように、王朝が次々と倒れるのは、過酷な搾取で民の支持を失ったからであり、
しかも王朝交代時には、しばしば大規模な内戦が起こって民が犠牲となる。
国家を家庭に喩えれば、国土が広大で人口が多く、経済や文明も発達してる国は、
大きな屋敷を構えた豊かな家ということだろう。
しかし、そういう家の内では、財産をめぐって親子喧嘩・兄弟喧嘩が絶えず、
親が追い出されたり、子どもが家出をするような状態が続いていたら、
それは他家が目指すべき、理想の家庭と言えるだろうか?
逆に家は小さく、生活は慎ましくとも、祖父母は大切にされ、夫婦は相和し、
子どもは厳しくとも愛情を持って育てられている家の方が、はるかに幸福であり、
他家が見習うべき模範的な家庭と言えるだろう。
後者のような国柄を築いてきたのが「天皇統治の成果」であって、
それは現在の日本国民が先人たちの誇るべき事績であり、子孫たちに継承すべき財産である。
しかし、その国柄は先人の努力の結果であり、
それがどのように実現されてきたのかを知らなければ、その継承もできない。
この点を史実を通じて説いたのが素行の『中朝事実』である。
■4.「民が富めば君が富んだことになる」
「天皇統治」の理想を現した逸話の一つとして、仁徳天皇の
「民のかまど」を素行は引用している。
日本書紀の記事を弊誌なりに要約すると、次のようになる。
天皇が高台から遠くをご覧になられて
「民のかまどから煙がたちのぼっていない。思うに、貧しくて炊事もままならないのではないか。
不作で民が窮乏しているのだろう」
と仰せられ、
「向こう三年、税を免じ、百姓の苦を安んじよ」
と詔(みことのり)された。
それからは、天皇は衣服や靴も破れるまで使い、宮垣が崩れ、
茅葦屋根が破れても修理されず、そのため風雨が衣を濡らし、
星の光が破れた隙間から見えるという有様だった。
しかし、やがて天候も安定して、豊作となった。
三年が経って、天皇が高台から遠くを望むと、炊煙が盛んに立っていた。
そして皇后に「朕はすでに富んだ」と言われた。
皇后は「宮垣が崩れ、屋根が破れて、衣服も濡れるのに、
どうして富んだと言われるのですか」と訊ねた。
「天が君を立てるのは、百姓(民)の為だ。君は民を本とする。
だから古の聖の君は、一人でも餓え凍える時は、省みて自分を責めた。
民が貧しければ君も貧しい。民が富めば君が富んだことになる。」
そのころ、諸国より「三年も課税を許されて、宮殿は朽ち破れているのに、
民は富んでいます。もしこの時に、税を献じ、宮殿を修理させていただかないと、
かえって天罰を蒙ります」との申し出が盛んに寄せられた。
それでも、天皇はさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。
六年の歳月がすぎ、天皇はようやく宮殿の修理をお許しになった。
民は督促もされないのに、老人を助け幼児を連れて、材木を運び、土を入れた篭を背負い、
日夜をいとわず力を尽くして作業をした。これにより瞬く間に宮殿が完成した。
それ故に聖帝(ひじりのみかど)と褒め称えられてきた。
■5.親の真心
この「民のかまど」の記事に関して、素行はこう解説する。
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御自身は倹素にされて、民の家を豊かにし、民の貧富は天子の貧富にほかならないとされ、
天が君を立てるのは、民、百姓の為であるともいう。
その上、君は百姓を以て本と為すという詔こそ、実に人君は民を養育せねばならないとする
教えの至戒ということができる。[2,p160]
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「人君は民を養育せねばならない」というのが、我が皇室の伝統的な教えであった。
再び、家庭に喩えれば、親が自分のことなど差し置いて、
ひたすらに子どもたちの養育を考えるのと同じである。そこにあるのは、無私の真心である。
そんな親に育てられれば、当然、子どもは感謝し、親のために何かしなければならない、
と考えるのが、子の真心である。
宮殿の造営に、人々がこぞって参加したのは、その真心からであった。
「天皇統治」の本質は、ひたすらに国民の幸福を念ずる天皇の無私の至誠から始まり、
それに応えようと民が真心をもって国のために尽くす所にあった。
■6.「人民は、親を助けようとする子のように進んで協力し」
仁徳天皇の事績は、課税を控えたことだけではない。
『日本書紀』巻11の記事から、素行はこう述べる。
__________
仁徳天皇は、人民の生活生業を最重視したまい、河水の流れを良くし、
堤防を築いて河水の横流を防いだので、その土木工事のために、人民は、
親を助けようとする子のように進んで協力し、天佑神助も得られたのであった。
そのため、堤防の岸が崩れることもなく、水源が涸れることもなかった。
土砂がたまって流れをさまたげることもなく、田のあぜや境が流失することもなかったのである。
仁徳天皇の人君としての徳の何と偉大であったことか。
その後も、水路の開発に尽力したまい、その恩恵によって人民百姓は、
豊かで余裕が生じ、凶作の年の憂患がなかった。
ましてその上に、橋や路を造成して人民に利便をもたらし、果ては、氷室を以て、
陰陽寒暑を調整するなど、政の在り方を常に規制し改善して、
天神が、この国を授けたまうた恩恵に応答したまうのである。[2,p168]
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水利事業に尽くされたのは仁徳天皇に限らない。
5代前の第11代垂仁天皇が諸国に貯水池を作られ、
第12代景行天皇も事業を継承して尽力された、との記事もある。[1,p165]
天皇が子どもを養う親のように努めたので、人民も
「親を助けようとする子のように進んで協力」したのである。
親が真心を持って子どもに接すれば、子どももそれを感じとって、
親に真心を尽くすようになる。
それが人間の本性である。
「天皇統治」とは、この至誠という人間の本性を目覚めさせる政治なのである。
■7.鏡の神勅
前節の文中にある「天神が、この国を授けたまうた恩恵」とは、
天照大神(あまてらすおおみかみ)が孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)に、
葦原の中つ国(日本)に降りて統治を命じた際に、三種の神器を授けた事を指しているのだろう。
三種の神器は勾玉(心寛い思いやり)、鏡(知)、剣(勇気ある決断)である。
天照大神は特にこの鏡について、以下の神勅を与えた。
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吾(あ)が児(みこ)この宝鏡(たからのかがみ)を視まさんこと、
当に吾(あ)れを視るがごとくすべし、與(とも)に床(みゆか)を同じくし
殿(みあらか)を共にして、以て齋鏡(いはひのかがみ)と為すべし
(天孫よ、この宝鏡を視るのは大神を視ることに他ならない。
常に同じ住居に一緒に在ることで、そのように努めなさい)[2, 88]
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子が鏡を見れば、そこに映るのは子自身の顔である。
しかし、そこに親である自分の顔を見よ、とは、どういう事か。
天照大神は稲や麦、粟(あわ)、稗(ひえ)などを見つけたとき、
「是の物は、顕見(うつし)しき蒼生(あをひとくさ)の、食(くら)ひて活くべきものなり」
(これらのものは現実世界に生きている民が食べて生きていくべきものだ」と喜んだ。
そして自ら、稲を天狭田(あまのさなだ)及び長田(ながた)に殖(う)えた。
すなわち、歴代の天皇は常に鏡を見て、天照大神の民への思いを思いだし、
自分がそれを継承しているのかを自省しなければならないのである。
民の家から炊煙が見えないのを悲しみ、また順調に稲を得られるよう水利事業を行った
仁徳天皇の統治は、まさしく天照大神の民への思いを継承したものであった。
神代ながらに今も皇居でのお田植えは続く
■8.「お米は大丈夫ですか」
この『中朝事実』を幼き裕仁親王(後の昭和天皇)に贈ったのが、乃木希典大将だった。
崩御された明治天皇の後を追って乃木大将は自刃したが、
学習院院長として養育を任されていた皇孫殿下・裕仁親王に最後のお別れとして、
この書を手渡したのだった。[a]
「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」と言われていた
昭和天皇は、この『中朝事実』を丹念に読まれたのではないか。
昭和天皇は崩御の少し前、病床においても、長雨が続いているのに
「お米は大丈夫ですか」と心配された。
ご自身の病状のことよりも、米の出来を心配されるお気持ちは、
天照大神が稲などを見つけて「蒼生の食ひて活くべきもの」と喜び、
仁徳天皇が民のかまどを心配したのと同じ無私の真心である。
万世一系とは血筋の一系のみではなく、民の幸せを祈る無私の精神が
一筋に継承されてきた事も意味するのだろう。
そういう国柄である事を明らかにしたのが『中朝事実』であり、
その国柄を継承・発展させようとした先人たちが、わが国の平和と安定を築いてきたのである。
(文責:伊勢雅臣)
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ちなみに仁徳天皇の「民のかまど」のエピソードが書かれているのは
「まんが日本むかしばなし」とかではなく「日本書紀」。
日本書紀は古事記と同じく、当時の政権がプロジェクトを組んで作らせた「正史」です。
つまり政府の公文書!(@_@)
当時すでに「皇室=民の幸せを祈る存在」だったんですね~