東京裁判、正しくは極東国際軍事裁判で戦犯として起訴され、絞首刑となり、
主権回復後に名誉を回復されている東条英機さんら7人のお墓「殉国七士廟」が
愛知県南部の有料道路「三ヶ根山スカイライン」内にあります。
昭和35年のオープンとほぼ同時に建てられているそうです。
その建立に尽力された三浦さんという県会議員の方が当時「戦争犠牲者顕彰会」の
会長をされており、当時発行された印刷物が「殉国七士奉賛会」HPでPDFで
公開されています。
が、ちょっと読みづらいので私が勝手にOCRで読み込んでテキスト化してから
文字化けした部分をPDFを見ながら直し、難しい漢字や用語にはグーグルさんで
調べた内容をカッコを付けて補足してみました。
1.弁護人はどう争ったか
2.戦争はなぜ起きたか
3.戦争はこうして起きたのだ
4.真珠湾奇襲の真相
5.BC級戦犯
の5冊ですが「2.戦争はなぜ起きたか」は奉賛会HPのリンクが切れているので
手付かずです(^^;
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P1/P2
東京裁判研究
弁護人はどう争ったか
-清瀬氏の冒頭陳述-
P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”とか
”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたところ
で、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るものでも
ない。
戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探求して、その原因を除くように
努める他には方策はありえない。恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事より
もまず戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、
できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。
戦争犠牲者顕彰会
P4
はしがき
東京裁判における清瀬一郎弁護人の冒頭陳述は、弁護側がいかなる順序でいかなる証拠
を提出するかを略述したものである。
私は、検事側の立証が総論と満州関係とを終わった昭和二十一年初め、米人弁護人を築
地の金田中で慰労したが、その席で急性腎臓炎のために倒れ約半年を病床に■■した。
私の病状が小康を得た十一月初め、清瀬弁護人が大原信一弁護人を帯同して見舞に来ら
れた際に示された冒頭陳述の草案は、完膚なきまでに堂々たるものであった。
従って私は二、三の私見を述べただけで、全面的に賛成しておいたのである。
その後この草案は全弁護人によって検討せられ、討議された後、演出せられたのであ
るが、重要な部分がだいぶ骨抜きにされてしまっている。それは被告間の気持ちに割り
切れないものを残してはならない、との心遣いによる部分も多少はあると考えられるが
、事勿(なか)れ主義の弁護人の弱気がそうさせた、と思われるものもないではない。
しかし、私はこの会議に出席することができなかったのだから、それをとやかくと
言う資格はない。
P5
ただ草案の方が、はるかに優れていたことを特に申し添えておくにとどめる。
さりながら、この一文により弁護人らが、いかなる主張をし、いかなる立証をしよう
としたかだけは大凡(おおよそ)判って頂けるものと信じる。
キーナン検事の冒頭陳述は、日刊新聞のほとんど全部がその全文を掲載したので、
恰(あた)かも日本だけが戦争の原因を作ったかのような印象を全般に与えてしまった
らしい。
若(も)しも当時の日刊新聞が、弁護側の冒頭陳述をも亦(また)、その全文を掲載
していたならば、今日のごとく、戦争の真因を誤り伝えるものが充満する結果とはなっ
ていなかったであろう、と思えば、かえすがえすも残念でならない。
昭和三十五年六月
編者 林 逸郎
P6
冒頭陳述 清瀬一郎
裁判長閣下ならびに裁判官各位
起訴状記載の公訴事実ならびにこれを支持するために提出せられたる諸証拠に対し、防
御方法を提出するの時期に到達いたしました。
裁判所におかれては、過去数ケ月の間、周到なる注意をもって検察側の主張を聴取せら
れました。
裁判所は、その懐抱せらるるところの衡平と正義に合する訴訟手続きという概念の限界
内において、被告をしてこの訴訟の歴史的重要性にふさわしき態度をもって、その主張
を陳弁する事を得せしめられることは非常にありがたく存じます。
言う迄もなく、被告は今後の訴訟行為を御判断を受くべき争点に限局して、能(あた)
う限り迅速に事件を進行せしめようと考えております。
ただ、我々がなさねばならぬ事柄は重大で且(か)つ、新奇なる意義を含むものであ
りまするがため、万一我々が思わず自ら定めた標準を超え、また裁判所御裁定の法則
に外(は)づるる場合があろうとも御寛
P7(P2)
怒あらん事をあらかじめ要請しておきます。
昨年の五月六日、当裁判所の法廷において大川以外の各被告人は起訴事実に対し、
一斉に「無罪」とお答えを致しております。
被告等は右、全ての公訴事実を否定するための反証を挙げるでありましょう。
起訴に至る事実は五十五の訴因に分かれております。
尤(もっと)もその多くは、同一の基礎の事実を他の角度から観て別個の訴因として
表現したものであります。
これ等の訴因中のあるものは被告の全部に関係し、他のものは一部に関係しておりま
す。
この場合、被告の一人一人が個々別々に右ら多数の訴因につき反証を提出致しますると
きは、非常なる重複と、混乱を生じまするがために被告らおよび弁護人らは共通事項
については出来うる限り共通に証拠を挙げる事に協定致しました。
この協定の結果、共通事項として次の段階に区分して証拠が提出せられるでありましょ
う。
第一部は一般問題
第二部は満州及び満洲国に関する事項
第三部は中華民国に関する事項
第四部はソヴィエト連邦に関する事項
第五部は太平洋戦争に関する事項
であります。
P8(P3)
これらの各事項に関する証拠提出を終わりました後に、各被告人はその立場によって
個人的に関係ある事実を立証するのであります。
被告中ある者の間にはその利益、見解および行動において相反するものもありますか
ら、相反する証拠を提出する事もありうるのであります。
かくて各被告の立場によって前示第一部乃至(ないし)第五部に現われたる事実並びに
事実ならびに証拠につき除外例を求め、また個人固有の立場として、追加の証拠を提出
することもあります。
この段階を便宜上第六部「個人ケーセスまたは個人弁護」と称する事ができます。
以下暫(しばら)く第一部門において取り扱わるべき事実の中、主なものを表示して
これが立証方針を説明致します。
無論ここに陳述致しますことは、この部門で取り扱う事がこれで尽きるという意味では
ございませぬ。第二部門以下で陳述する事についても同様であります。
検察官は日本国政府が一九二八年すなわち昭和三年より一九四五年すなわち昭和二十
年の間に日本政府の採用した軍事措置が国際法廷から見てそれ自体犯罪行為であるとし
ておられます。
検察官は日本の政策が犯罪であると論ずるのみならず、もし国家が侵略的戦争または条
約違反の戦争を起こした場合に、偶(ぐう。偶然。たまたま)その局(局面?)にあた
り戦争遂行の決定に参加した個人は犯罪者としての責任を免れぬというのであります。
言い換えますれば本件においては被告を含む日本国家が検察官の指摘する十七ケ年の全
期間に亙(わた)って国際法的の犯罪を続行しておったという事が検察側の根本の主張
であるのであります。
P9(P4)
被告はまずこれを極力否定するものであります。
また弁護人の方では、主権ある国家が、主権の作用としてなした行為に関して、ある者
が当時国家の機関たりしとの故(ゆえ)をもって個人的に責任を負うというが如きは、
国際法の原理としては一九二八年においては無論のこと、その後においても成立して
いなかった事を上申するものであります。
この前例とても無き本件において日本国が一九二八年以来採り来たった防衛措置、
陸海軍の準備的措置が侵略の性質を帯びたりや否やという事が重大な問題であります。
各国の準備的措置は必ずや常に他の国の行動を眼中におきまして作成せられるもの
であることは特にここに申し上ぐる必要も無いほどに原則的な事柄であります。
この重要事を念頭に置かずして準備的措置に不正の目的があったか否かを判定する事は
できませぬ。
一国が常備軍を倍加したという事だけを聞きますると、その国は侵略者なるがごとく攻
撃せられるかもしれませんが、その後に至り、その隣邦が常備軍を三倍に致しておった
という事実が明白になりますれば、前者の行為は道理もあり尤(もっと)もなことであ
ると考えられます。
この事はありうるべき事でもあり、また歴史上、現に発生した事でもあります。
本件においては日本陸海軍の防備行動が裁かれるのでありまして、外国、わけても本
件に原告となっている一部の国家のそれは審判の対象でない事は、弁護人はよく理解し
ております。
しかし乍(ながら)
P10(P5)
日本の取りたる施策および措置の性質を決定する必要の限度においては、他国の同一行
動を簡単に証明する事は許されるであろうと予期いたしております。
さらに、起訴にかかる期間中の日本の対内、対外政策の本質を正当に理解していただ
くために必要な三つの重大事項について本劈頭(へきとう)陳述において略述せねばな
りませぬ。
この三点というのは、独立主権の拡張、人種差別の廃止、ならびに外交の原理、この三
つであります。
それは単にこの間の特定の内閣(それは随分多数でありましたが)が立てた方針でもな
く、また特定の党派の主張でもありませぬ。
それは一八五三年日本が外国と交際して以来、全国民に普通に抱かれていた国民的、永
続的且(か)つ確乎(かっこ)たる熱望であります。
言論、教育、信教の自由と同じ重要性を有しているものであります。
この国民的特徴の第一は、日本国民はこの国家を完全なる独立国家として保持して
いきたいという熾烈(しれつ)なる念願であります。
ペルリ(ペリー)提督と徳川将軍との間に結ばれましたかの安政条約は、一方において
は治外法権を認めて国家主権を傷害し、他方においては関税自主権を侵犯いたしました。
それゆえにこれは深刻なる国民の苦悩でありました。
明治時代を通じて、日本の有力指導者の念願は、この国の地位を向上進展せしめて
完全なる独立自主の国家たらしむるにあった(の)であります。
この理想は前大戦の後にウィルソン大統領によって唱導せられました主義とも相合
(あいあい)するものでありますから、その正当性について容易に当法廷の御承認を受
けえると思っております。
P11(P6)
弁護人の方ではこの考えが国民の間の普通の念願であり、待望であったことを
証明しようと期しております。
その二つは人種差別廃止の主張であります。
一体差別待遇はこれをなすものよりも受けるものの方に非常に強く響くものでありま
す。
差別待遇の廃止を成し遂ぐるためには、こちらの方で修養教養の水準を昂(たか)めね
ばなりませぬ。
日本朝野(ちょうや。官民、の意)はこの事の必要性につき盲目であったのではありま
せぬ。
道徳や慣習に改む(る)べきものがあったならば、快(こころよ)くこれを改める必要
を認め、且(か)つその改革を実行いたしております。
ただ世界の文化は唯一でなく、民族と人種の数に応じて多数であります。
各民族は各々その歴史と伝統を持っております。従って■に文化は発生し、且(かつ)
進化するのであります。
東亜には東亜固有の文化がありますから、これを保持し、醇化(じゅんか。手厚く教
え導くこと。)し東洋人全体の地位をいずれの点においても世界の他の人種、国民と
平等な水準にまで向上確保して、もって人種の進歩発展に貢献したいというのが日本
人の念願でありました。
人種平等の理想はただ日本人だけを欧米人と同一の地位に達せしめましても、その目的
は達しませぬ。
差別の完全撤廃のためには事の性質上、東亜全域の同胞の地位を高揚しなければなりま
せぬ。
ある少数の著者はこの理想の表現に誇張の言を用いた場合もあります。
然(しか)し斯(か)かる事は例外でありまして、日本人は東亜諸民族と共に欧米人と
対等の地位に進まなければならぬという事は国民の間における普遍的の念願でありまし
た。
このことも亦(また)日本
P12(P7)
人が人種的優越感を抱きたりとの意味の検察側主張の誤りなる事を明らかにするために
立証する事を期しているのであります。
我々は中国革命の父、孫逸仙博士、インドその他の地方の先覚者においても、
これに対して共鳴の思想を表示された事実をも、併せて明らかにするでありましょう。
もし、右に関する真意が正しく了解せらるれば、他の人民や他の国家との間に
反目は必ず消失したはずでありました。
第三の事柄は日本で「外交の要義」と名付けておったものであります。
明治時代この方、我が官民の間に外国との関係において普遍的に存在した理想は、
東洋の平和を維持し、これによって世界の康寧(こうねい。平穏無事である事)に
寄与するということであります。
これは公文書や御詔勅(ごしょうちょく。天皇が公務で行った意思表示)では
日本国交の要義と書かれております。
この意味は日本の外交を指導する根本的理念ということであります。
一八九四年から五年への清国との戦争、一九〇四年、五年の日露戦争も、
それがために戦われたのであります。
このことは右、開戦の詔勅にも明記されております。
当年の東亜の情勢から見ますれば、日本は欧米の文明を先に導入して、
完全なる近代国家としての資格を備えた唯一の国家でありました。
中国は地大物博の国ではありますが、当時は各国の勢力範囲に分割せらるる危機に
瀕しておりました。南方諸地域はすでに西洋各国の支配下に立つに至っております。
かかる状況の下(もと)において、日本人は心から我が国がいわゆる安定勢力たるの
使命を持つものと考えたのであ
P13(P8)
ります。これは被告らのみによって考えられたものではありませぬ。
それよりも二世代も前からの日本国民の基礎的主張であります。
この原則は世界の大国によって承認せられているものと了解しております。
何となれば日英同盟はこれを承認して結ばれ、また、更新されたものであることが立証
されます。
この使命遂行のために戦われた日露戦争には、米国の朝野(ちょうや。官民)を挙げて
好意を寄せられたことは、今日に至るわれわれ日本人の忘れざるところであります。
右の東亜安定の主張は決して侵略的のものではありませぬ。
一方においては東亜における政治的、経済的の混乱を防止し、他方においては
亜細亜種族の共通的発達を助け、これによって究極的には世界人類の進歩発展に寄与す
るのであります。
以上の観念に照らす事によってのみ日本と隣邦との関係が理解し得らるるのでありま
す。
日本の朝野(ちょうや。官民)は隣邦中国の自存と発展に対しては格別の同情を寄せて
参りました。
このことは明治以来のたびたびの公私の文書にもよく表現せられております。
当時中国と我が国との関係を表示するため比喩として用いられた「唇歯輔車」という
格言がありますが、これは唇が亡びれば歯は自ら寒きを感ずる、車の両輪は相互に
助け合うという意味であります。
さらに「同文同種」というのは両国が同じ文字を使い、同じ儒教の道徳を尊重する
同じ人種の国であることを表す格言であります。
一九〇〇年代の初め頃から我国は多数の中国留学生を招きました。
蒋(介石)主席もその中の一人であられました。
一九一一年すなわち辛亥の中国革命以来、我国朝野は孫文先生の志業に非常に好意を寄
せました。
我が
P14(P9)
参謀本部ならびに軍令部では年次作戦計画というものを作っておったことは検事指摘の
通りでありますが、ただ中国に対してはかくのごとき全面的な仮定的作戦計画さえも
立てたことはありませぬ。
以上の事柄の立証は起訴状に記載せられある数個の主張ならびに記録中の証拠を
否定するためにご判断の助けになりうることと思います。
起訴状訴因第五においては付属書Aの全体及び付属書のB、C条約及び保障を引用し
まして、
被告らは指導者、組織者、教唆者または共犯者としてドイツおよびイタリアと相結んで
全世界を支配する陰謀、コンスピラシー(共謀、陰謀)をなし、また実行したと糾弾し
ております。
これより大きな誤解は世の中にはありませぬ。
日本とドイツ、イタリアとの関係については防共協定、三国同盟を取り扱う段階におい
て我々の同僚より我々の主張を開陳するでありましょう。
私はここに一方において日本と、他方においてドイツ・イタリアと、この間の理念及び
願望の差違について一般的事項を取り扱おうとするものであります。
前期の誤解は多分に日独伊三国同盟の前文ならびにその締結の時に煥発(かんぱつ。
火の燃え出るように、美しく輝き現れ出ること。)せられました詔書の中に「八紘一宇
」の文句を使っているその解釈に基づくものと考えます。
我が国の公文書においては好んで荘重な古典的の辞句が引用されるのが慣例でありま
す。
これは文章に重みをつける効力はありますが、それがため我が国人自体においても
十分了解せられざる場合も生ずるのであります。
況(いわん)や言語を異(こと)にし、理念を同じくせざる外国の人々には尚更のこと
であります。
三国同盟締結の際、煥発せられた詔
P15(P10)
書は更に「八紘一宇」を分解 ―パラフレーズ― しまして「大義を八紘に宣揚(せん
よう。広く世の中にはっきりと示すこと。)し、坤輿(こんよ。地球、大地の意)を
一宇たらしむるは実に皇祖皇宗の大訓にして、朕が夙夜(しゅくや。一日中)拳々措
かざる所なり」とおっしゃられております。
ここに大義というのは普遍的の真理という意味であります。
宣揚すというのは世界に明らかにし表現するということであります。
「坤輿を一宇たらしむ」というのは、全世界人類が一家族中の兄弟姉妹と同一の心持を
もって、交際するという意味でございます。
前に述べました通り、我国の文化は欧米諸国のそれとは源流を異にしますから、
その表現の方法は必然的に違っており、また奇異にさえ感じられるものでありましょ
う。
一九四一年ハル長官と野村大使との間の交渉の基礎となった日米了解案には「八紘一
宇」は世界同胞主義ユニヴァーサル・ブラザフッドという翻訳がされております。
三国同盟条約の前文もこの正しき意味において解釈すべきであります。
この条約締結の際、ドイツ、イタリアにおいていかなる考えをもっておったにしても、
我国の当事者においてドイツ、イタリアと共同して世界を征服するなどという考えは
無かったのであります。さらに具体的に証明せられるでありましょう。
同条約第二条にはドイツ、イタリアは日本の大東亜における新秩序建設に関して
指導的地位を認めこれを尊重するという文字があります。
「東亜新秩序」または「大東亜共栄圏」という文字くらい大きな誤解の種を蒔いた字句
はその外(ほか)に類例はありませぬ。
検察官は新秩序は民主政治ならびにその基礎たる自由、人格
P16(P11)
尊重を破壊する思想であるとまで極言せられました。
これは日本の思想と他の国とにおける思想とを混同せられたものではなかろうかと思い
ます。
少なくとも日本の思想と他国のそれとを連想せられたための誤解ではなかろうか。
しかしここではただ当年我国において用いられた右の特殊な日本的な字句の含蓄ならび
にそれに関する日本的な思想のみが必要なのであります。
「東亜新秩序」という文字が公式に用いられたのは一九三八年十一月三日、同年の
十二月二十二日この両回の近衛声明であります。
この声明にあらわれた「東亜新秩序」の意味は書面自体が自らを証明しております。
すなわち善隣友好、共同防共、経済提携、この理想の下に日満支三国が相携(あいたず
さ)えて進むということであります。
また第三国との関係については、この声明は「日支経済関係について日本は何ら支那に
おいて経済独占を行わんとするものにあらず」と言っておるのであります。
すなわち機会均等の原則を排斥してはおりませぬ。ただ検事も御主張にに相成(あい
な)る通り、この当時は中日両国間には百万以上の兵を動かした大戦闘の行われてい
る最中であることを記憶せねばなりません。
この大争闘の間においては当事国の国民のみならず第三国人も自ら各種の制限を蒙(こ
うむ)ることは免れませぬ。
この点に関して一九三九年七月に有田外務大臣とクレイギー英国大使との共同声明を証
拠として提出いたします。
右、共同声明の一部においては「英国政府は大規模の戦闘行為進行中なる支那における
現実の事実を完全に承認し、又(また)斯(か)かる事態の存続する限り、支那におけ
る日本軍が自己の安全を確保し、そ
P17(P12)
の勢力下にある地域における治安を維持するために特殊の要求を有する事を承認す」と
あるのであります。
新秩序思想の内包的の意義は「皇道」であります。
皇道は時々インペリアル・ウェイとも翻訳せられております。
この皇道の本旨は仁愛、公正及び道徳的勇気であります。
それは更に礼儀と廉恥(れんち)を重んずるのであります。
各人をして各々本分を全うし本務を完遂することを得せしめるを理想と致しておりま
す。
またこれは治者と被治者が一心となることを予期しております。
国務は全国民の真実なる翼賛により行わるることを期しております。
これはそれゆえに軍国主義または専制主義の正反対であります。
これを他国の言語に表現する事は非常に困難であります。
しかし、人間の尊重ということについては、皇道とデモクラシーと、二つの思想の間に
本質的な差異はありませぬ。
裁判所の法廷においてかくのごとき無形の事柄を立証することは異常のことではありま
すが、本件においてはこれを実行しなければなりませぬ。
曽(かつ)て被告人の一人が帝国議会において我が皇道と独伊の全体主義との相違を
声明したことがありますから、これを証拠として提出致します。
我国にはドイツにおけるがごとき人種的優越感情は存在いたしませぬ。
寧(むし)ろこれとは反対に我が民族は常に自ら未だ及ばざることを認めて、東亜の同
胞と共に世界の水準にまで到達せんとの念願に燃えているのであります。
新秩序は各国の独立を尊重するのでありますから決して世界侵略というがごとき
P18(P13)
思想を含んでおりませぬ。また個人の自由を制限するがごとき思想でもありませぬ。
指導という用語は同等の者の間の先導者または案内者としてのイニシアチヴを採るとい
う意味にほかなりませぬ。
かくのごとき国民的根本思想は一つの条約または数個の条約の文字の用法の巧拙などに
よりて変化するものでは決してありませぬ。
その後、満州国、中国のみならずその他の東亜の諸国をも内包する「大東亜新秩序」
「大東亜共栄圏」という文字が用いられるようになりましたが、根本の考えは右と同一
であります。
一九四三年十一月、東京において開かれました大東亜会議における共同宣言中の
綱領五か条、これが大東亜新秩序の本旨を簡潔に表明しております。
いわく
一、大東亜各国は協同して大東亜の安全を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建
設す
二、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦(とんぼく)の実を挙げ、大東
亜の親和を確立す
三、大東亜各国は相互に伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢(しんちょう。伸ばす
事)し、大東亜の文化を昂揚す
四、大東亜各国は互恵の下、緊密に提携し、その経済の発展を図り、大東亜の繁栄を
増進す
五、大東亜各国は万邦(ばんぽう。あらゆる国)との交誼(こうぎ。心が通い合った
交流)を篤(あつ。熱心に打ち込む)うし、人種的差別を撤廃し、普(あまね)く文化
を交流し、進んで資源を開放し、世界の進運に貢献す
右の決議は右会議における各国代表の演説と共に証拠として提出いたします。
この決議は政治生
P19(P14)
活においては東亜の協力を必要とする一つの家族と考えておりますが、各国との交際、
資源の開発、文化の交流については、これを世界大に考えていることが認められます。
特にその第五条にご注意を願います。
当時考えられたことの一つはこの我等の世界-プラネット-は政治的単位としては
これを一つと見るにはあまりにも広きに過ぎる。
しかし経済的単位としてはこれを多数の単位に分かつにはあまりにも狭きに過ぎる、
こういう見方であります。
かくて我等のいう新秩序は世界征服の思想を含んでおらざることが証明せられます。
私が責任を持っていることは被告のケースにおいて提出すべき事実を解明することで
あります。
従って法律的論議はできる限りこれは避けます。
然(しか)し乍(なが)ら主席検察官も指摘されたごとく、本法廷憲章中の第一の犯罪
たる共同謀議―コンスピラシイ―という罪は法廷憲章中にその名称が挙げられている
のみで定義が下されておりませぬ。
共同謀議を処罰するチャーターの規定が適法であるかは別として、何か定義を下さなけ
れば検察官において犯罪であるとして主張せられる事実を定める事ができませぬ。
同時に被告側がいかなる証拠を提出せねばならぬかを知ることができませぬ。
検察側は合衆国の下級連邦裁判所の判例を引用して共同謀議を定義せんと試みられま
した。
しかしてかかる裁判所の判例には議論の余地がないと主張せらるるごとくであります。
この裁判所は国際裁判所であります。
また裁判官自身、既にこの裁判所がその地位に鑑(かんが)み、たとえ合衆国の憲法で
あって
P20(P15)
も当然これを適用するがごときことは考えておらぬとの意見を述べておられます。
従ってこの裁判所が米国憲法の規定の所産であるに過ぎない連邦下級裁判所の判例を
そのまま採用せらるるがごときことは益々もってあり得べからざる事と言わねばなりま
せぬ。
ある国において特殊なる歴史上の理由によって発展した法理をもって
直ちにこれを世界共通の一般論として当裁判所において適用せらるべしとすることは
適当でないと主張するものであります。
英米の法律組織におけるコンスピラシイの概念は実は他に類例のないものであって、
ローマ法系を承継した国においてこれに該当するものは発見しません。
英米法の主義を利用した国において英国または米国の特殊の判例を厳格にそのまま
適用することは不可能であります。
ある国においては特殊の犯罪に関して二人またはそれ以上の者が、明らかに右特定の
犯罪を犯すことを共謀した場合は、これを共犯者として処罰しております。
この場合、共謀の目的たるものは明らかに不法のものであるか、または不法手段に
訴うるにあらざれば達成することのできないものであることが証明されねばなりません。
日本においては犯罪着手以前の予備または陰謀などを処罰するのは寧(むし)ろこれは例外であります。
これを処罰する場合はあらかじめ、一つ一つこれを刑法典に明示しております。
他のローマ法系の刑法においても同様であると了解しております。
また、陰謀それ自体を独立の犯罪として観念するためには陰謀の行われた日時と場所が
了解しうるべき程度において特定されなければなりませぬ。
英米の法制を採用せぬ国では、一九二八年一月か
P21(P16)
ら一九四五年九月二日までの間というがごとくに、十数年の長き期間の何時かに陰謀が
成立したなどということは考える事の出来ないところであります。
私の上申せんとする所は、英米において発達しましたコンスピラシイの理論は、
これを一つの体系として国際法の一部を組成するものとは認めることができないということであります。
もし主席検察官御引用の判例が共同謀議成立の後にこれに加入した者は、本来の共同謀
議の団員と同一の責任を有するとの意味でありましたならば、これは断じて世界各国に
おいて一般に承認せられた法律思想ではありませぬ。
従ってこの国際裁判所において、国際法の原則として適用せらるべきものではないと存じます。
一九二八年頃以来、日本の内閣組織の担当者選定の方法は、言わば偶然の結果を
採用するものであります。
前内閣が何らかの理由で倒れますれば、天皇より内大臣を経て重臣(これは主として
前首相でありますが)に向かって何人(なんぴと)を後継首相に推すべきやの御下問があります。
重臣それ自体は組織ではありませんから、個々当日会合に出席した人々がその時の情勢
に応じ思い付きで首相候補を定めて、これを上奏するのであります。
陛下は例外なくこの上奏を御嘉納ましますのであります。
それ故に何人が次に政権を託されるかやは、重臣の意見が奏上せらるるまでは何人も
これを予想することはできませぬ。
それ故に我国においては一定の組織体、政派または派閥、これが一定の期間、政権を独
占し、特殊の陰謀を続行するなどという事はこれは不可能であります。
曽(かつ)てある証人が言及しました
P22(P17)
田中上奏文などというものは、まったく偽物か捏造物であります。
以上の事実を証明するため適切な書証と証人が提出せられるでありましょう。
起訴状の前文第二段および付属書の第六節第四項、大政翼賛会と翼賛政治会をもって
ドイツのナチ、またはイタリアのファシストに近きものと考えているようであります。
これほど大きな日本政治の誤解はまたとないのであります。
このことは検事喚問の承認を反対訊問することによって一部判明は致しましたが、
我々はさらに有力なる文書と証人を挙げてこれを明らかにする必要があると信じております。
これを提出することを予期しております。
検察官は一九三六年の陸海軍大臣は、現役陸海軍大将よりまたは中将より選択すべき
旨の勅令を挙げて、これをもって陸軍が政府の統御および支配を獲得せんとして制定し
たものであるといっておりますが、陸軍はこれを日本の武力膨張政策のために行使した
るものであるとも言っております。
然(しか)しながら実際にはこれに相違いたしております。
この勅令は一九三六年二月二十六日すなわち岡田首相その他、重臣襲撃の反乱の後に
設けられましたものであります。
当時もし万一にも陸海軍の予備大将中将の中に斯様(かよう)なる団体に関係する者が
ありますれば、そうしてそれがもしも陸海軍大臣となりますれば、国家のために危険な
る事態を生ず、との心配があったのでありました。
この勅令はかような出来事を避くる
P23(P18)
ために制定せられたものであります。
言い変えますれば、この勅令は粛軍徹底のために制定されたものでありまして、
また実際にその目的は達しました。
この勅令の効果は検察官の主張と正反対に、武力の不当行使を抑え得たという事になりました。
この点についても証拠を提出する用意があります。
要するに我国に、ある軍関係の組織があって、起訴状に特定した期間に日本政局を左右
したるごとき観念を抱くことは全く事実の誤解であります。
被告等の間に、あるいは世界を征服し(訴因四、五)あるいは東亜、太平洋、
インド洋およびこれに接着する地方を制覇し(訴因一)あるいは支那を制覇し(訴因
三)あるいは満州を制覇する(訴因二)これらのための共同謀議を為したりとの糾弾
については被告より反駁いたします。
元来被告等は年齢も相違すれば境遇も相違いたしまするし、ある者は陸海軍軍人であ
り、他の者は官吏であり、ある者は外交官、他の者は著述家でありまして、その全部
が特殊の目的をもって会合する機会を持ったことはありませぬ。
彼らはこれらの事に関しては団体として意思を交換する機会を持ったこともありませ
ぬ。
実際被告中のある者の間にはいろいろの意見の相違が存在しておったのであります。
もし彼らのある者が満州事変、支那事変乃至(ないし)大東亜戦争にある程度の関係が
あると致しましたならば、右等の事件は日本国家の全力を挙げて活動しなければならぬ
事変または戦争でありまして、その当時これらの者が国内の有力者であったがためで
あります。
被告等が検察側の指名せざる種々なる人々、これと陰謀団を作っ
P24(P19)
て、かかる手段によって全世界、東亜、太平洋とか、インド洋とか、支那、満州を
制覇するために共同謀議したという事実はありません。
我々は征服または制覇の共同謀議なかりしことを証するために証拠を提出いたします。
なおこの関係において被告が明らかに証明せんとする他の点があります。
それは満州事変と支那事変と大東亜戦争と、この三つをを通して一貫せる計画によって
なされたものであると認むることは誤りであるということであります。
これらの事変は各々その発生の具体的原因を異にした別種の事件であります。
また一つの事件の関係者は他の事件の関係者と異なっております。
前任者が後任者にその計画を申し送ったり、後任者がこれを受け継いだというような事実もないのであります。
殊(こと。ことさらに。)に明白なことは、一方では満州事変、他方では支那事変と大
東亜戦争、この間の区別であります。
満州事変は一九三三年の塘沽(タンクー)協定で落着致しております。
その後に蒋介石政府の当事者は満州国との間い関税、郵便、電信、鉄道、の協定を致しております。
また一九三五年、六年中には蒋介石は日本との間の敦睦令を発しました。
当時日本の岡田内閣の広田外相は支那と交渉されまして、満州及び北支の現状の承認を
含む三原則を立て、中国側よりこれを基礎としてさらにその実行の細目を協定する事の
同意を得ておったのであります。
それゆえ塘沽(タンクー)協定より四年後に発生した支那事変がある特定の人物が満州
事変と同一の目的をもって故意に計画的に引き起こした事件であると推定することは
不自然であります。
誤
P25(P20)
ちであります。これを明らかにするために必要な証拠が提出せられます。
第一部においては我国の内政を証明する各種証拠が提出せられます。
検察官は一九二八年一月一日以前多年にわたって、日本軍部は日本の青年に
軍国主義的精神を教え込むことを目的とすると共に、日本の将来の発展は征服戦争にか
かるという極端なる国家主義的観念を栽培せんとし、軍部はこれを公立学校に実施した
のであると、こう主張をしておられます。
そうしてこれをもって共同謀議の存在する証拠の一つとしているのであります。
然(しか)しながらこれほど我国の教育に関する間違った見識はありませぬ。
我が国の公立学校制度は一八七二年、すなわち明治五年、アメリカの組織に倣って
立てたものであります。
国民道徳の大本は我国古来の美風を経とし、支那の儒学の教を緯とし、これに配するに
西洋道徳の枠をもってしたものであります。
後一八九〇年明治二十三年に教育勅語が発布せられました。
このうちに忠と考と博愛と信義、公益、奉公などの徳目が定めてありまして、
決して戦争奨励の趣意は含んでおりませぬ。
日本人の崇拝の目標でありまする皇室の御本旨は常に平和と、愛と、仁徳とであります。
もっとも華美を排斥して、質実、剛健を奨励いたしましたが、これは戦争奨励とは異なったものであります。
一九二九年以後においては、アメリカやスイスの例に倣いまして、
学校内軍事教練を施しましたが、これは青年の心身の鍛錬と品性の改善のためであります。
そしてこの措置は日本政府による軍事予
P26(P21)
算の削減から生じた欠陥を補うためでありまして、侵略思想の表現と看做(みな))す
べきものではありませぬ。以上は、我国不動の教育方針であります。
いかなる文部大臣もこの不動の方針を動かすような力は持つことはできませぬ。
日本の将来は征服戦争にかかるなどの教えは政府も軍も方針として教授した事は断じてないのであります。
由来日本は領土は狭小で、資源は貧弱で、しかも急速に増加する過剰人口を包容して
その経済を維持するためには移民を実行するか、貿易に依存するか、工業化によるか、
この外には道はありませぬ。
そうして移民は多くの西洋諸国から閉鎖されましたがゆえに、日本としては、貿易と工
業化とに進まざるを得なくなりまして、自然この方向に打開の道を採って歩んできたのであります。
殊(こと)に東亜においては、土地が近接せることと特殊の利益を有するため尚更、
斯(か)くすることが自然でありました。
然(しか)るに世界恐慌の暴風雨に襲われ、一九三一年九月に英国がついに金本位停止を為すに及んだのであります。
各国も続々これに倣いまして、翌一九三二年七月には、オタワ会議が開かれて
大英帝国ブロックが結成されるにいたりまするや、世界は挙げて関税戦が熾烈になりまして、通商障壁は激成されました。
しかるに日本はこの時も依然として自由通商主義をもって変わらなかったのであります。
一九三三年の六月に、世界通貨経済会議が開催せられますや、日本は多大の希望をもって
これに参加しました。日本代表の石井菊次郎子爵は日本の主張を熱烈に披瀝しましたが、ついに同会議は不成功に
P27(P22)
終わりました。これはアメリカの態度が重大な原因となっております。
一九三四年、英国の提議によって日英会商が開催されました。
日本はこの会議に臨みましたけれども、英国側は「英常国」(?)のみならず第三国市場についても割当制限並びに指定制を迫ったのであります。
これには日本としては到底承服はできませぬ。したがってこの会商は、成功を得るに至らずに終わりました。
その結果、ランシマン商相の声明によってその植民地全体を挙げて日本に対する貿易制限を実施したのであります。
これと同時にイギリスと蘭印(オランダ領東インド諸島。現在のインドネシア)との
通商交渉が開始せられ、後者は日本に対して輸入防遏(ぼうあつ。侵入や拡大を防ぐこと)の強硬手段を取りました。
これに次いで日蘭会商が提議されました。この会議は一九三四年六月から開始されたが、
イギリスと事情を異にする日本とオランダとの貿易調整は非常に困難でありました。
他方、ちょうどこの時に支那における排日運動がまたこれ激化しまして、斯(か)くして
貿易によらなければ生きて行けぬ日本としては、深刻なる難局に遭遇したのであります。
斯(か)かる世界の経済難局に影響せられて、日本は統制経済に転向してブロックを形成して
経済の自立を企図しなければならぬように立ち至ったのであります。
殊(こと)にソ連の数次にわたる産業建設の五ケ年計画は痛く日本を刺激しております。
重工業の発展において著しく列国に劣る日本といたしましては、この工業部門の促進を
必要となすに至りました。日本の経済の各種の統制と初計画は実に斯(か)くのごとき
P28(P23)
状態の下に発生したものでありまして、これらは決して支那事変に対する計画的準備で
もなければ、いわんや大東亜戦争の準備では断じて無いのであります。
以上の諸点については、我々は専門家の承認を呼んでその陳述をなさしめるはずであります。
戦争前には日本においては世界各国と同様に、言論の自由は尊重されていたのであります。
ただわが国では一九二五年以来、共産主義ならびに過激国家主義の宣伝は法律をもってこれを禁止しました。
これは周知の通りであります。日本国民は私有財産制度の維持を望んでおったのであります。
我国では国民尊崇の目標である皇室を誹謗することさえも非常に嫌っておったのであります。
ところが共産党は私有財産制度を否定して、我が皇統を覆さんとして致しておったのであります。
日本においては一九二〇年代から共産党の活動が活発となって、私有財産制度及び
我が国体を覆滅せんとする地下行動が全国に蔓延せんと致しました。
斯(か)かる場合にこれを禁止する事は、主権ある独立国家としては当然のことであります。
これは戦争の準備でも計画でもございませぬ。
この事はこの治安維持法、これが自由主義を信条とする日本の三政党の連立の内閣で
提案されたことによっても証明せられます。言論指導の状況は証拠をもって立証致します。
なお、一旦戦争が開始されました以上は、防諜の必要上、言論においても相当の制限を
必要とする事は、これは言うを俟(ま)ちませぬ(=必要がない)。
各国とも例外なくかかる制度を採用しております。
彼と此と混同されてはなりませぬ。思
P29(P24)
想統制の大将は上記のごとくに左翼運動だけではなかったのでありまして、右翼運動
すなわち極端なる国家主義運動もその対象でありました。
而(しか)して、被告のある者は在職中、かかる極端なる国家主義運動を統制するの任にあたっておりました。
我国において一九三〇年三一年の頃、いわゆる革新運動なるものが発生しました。
この革新運動とても必ずしも対外進出を主張しているものではありませぬ。
ただ、ご記憶を願いたいことは、当時我国の人口は年々に増加しまして、将(まさ)に
一億に達するのも目■の間であります。資源は非常に乏しく、前に引用したごとく世界
不況の結果、我国の商工業は言うに及ばず、農業も非常なる苦痛に陥りました。
その頃までは我国は政党政治の形態で、政友会、民政党の二党が交互に内閣を組織する
ようになっておりましたが、その政権争奪の方法が公明でなく、また政治家の腐敗事件
が引き続き暴露いたしました。
この事実及び事件に刺激せられて、熱血の青年または少壮軍人が直接行動をなすに至ったのであります。
この運動の動機を証明するための証拠物は空襲のため悲しいかな一部消失致しました。
しかし残存するものと、証人によってこの運動が侵略戦を目的としなかった事が証明し得られます。
ただここに特に裁判官に指摘申し上げたいことは本件被告のある者はこれらの運動を鎮圧する事に功労のあった人々であったということであります。
検事は我国の侵略企図として一九三七年以後、陸軍及び海軍の国防計画を指摘しておられます。
(続)
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