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2019年04月26日 イイね!

東京裁判研究:(5)BC級戦犯

P1/P2
弁護士 林 逸郎 著
BC級戦犯
――真実はこうだ――


P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”とか”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたところで、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るものでもない。
戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探究して、その原因を除くように努める他には方途はありえない。
恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事よりも先づ、戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。

戦争犠牲者顕彰会


P4
はしがき
 私たちは戦犯という言集を使うことを、妥当でないと考え、専ら、戦争搬牲者という言葉を使った。
しかし、一般には、戦犯という言葉の方が判かりやすいと考えるので、殊更に、戦犯という文字を書名に使うことにした。

 去りながら、本書により、戦犯と挈ばれたものの真相を了解せられるならば、必ずや、戦争犠牲者と挈ぶ方が妥当である、との主張に同意せられることと確信する。

 それ程までに、BC級戦争績牲者は、世間から誤解せられ、排斥せられ、侮辱せられて苦しい生活を続けて居られるのだ。
 私は、この真実を、できるだけ早く、一般に知って頂きたいと希うものである。

著者 林 逸郎


P5
『BC級戦犯』

林 逸郎
昭和三十三年六月十八日ワシントン発のAP通信は、アイゼンハワー米国大続領が、記者会見で、ナジ元ハンガリー首相の処刑について次のように語ったと伝えた。

″ナジ氏やハンガリー暴動に参加した彼の同療たらの処刑ほど、文明界にショックを与えた事件は、ほかに考えることができない。
これらの人々は、罪を犯したのではなく、国のために戦ったのだ。
この人々の所刑で、誠意はふみにじられた。
これは、ソ連が完全な従属を押しつけるために、テロリズムと強迫の政策を遂行しようとしていることの、明自な証拠とみなすことができよう――各地のソ連大使館のまわりに、ピケが張られたという動きなどに明らかなように、ナジ処刑のニュースに接して、世界各国の民衆の気持には、急激な変化があらわれた”

六月二十一日行われた、巣鴨プリズンの閉所式で逢った星野直樹さん(A級戦犯として無期禁錮に処せられ本年四月七日赦免となった)が、”ナジ処刑についてのアイクの意見を、今一度意し


P6(-1-)
てみて下さい”といわれたので、新聞のバックナンバーを探して得たものが以上の記事である。

 アイゼンハワーによって代表せられる全アメリカ国民も亦、私のように、今一度あらためて、この談話を検討してみてもらいたい。
そして、十三年前すなわち、戦争に勝った喜びに有頂天となったアメリカが、戦争に敗けた日本及び日本人に、理不尽極まる態度をもって臨んできた当時のことを、静かに反省してもらいたいのだ。

要点を端的にいえば、戦犯として処刑せられた日本人のどこがどんなに悪かったのか。
(幾つかの例外はあるではあろうが)悪くもないものを不倶戴天の仇として犯人に作り上げて、快を叫んだのではなかったか。
今、即刻考え直してみてもらいたい。そして、違っていたところは、率直に勇敢に是正してもらいたいのだ。

 これは、ひとりアメリカ国民にだけ、いいたいことではない。
日本人を、戦争をしたという理由で裁判をした諸国即ち、英、仏、濠、蘭、中、ソ、印、加、比、西蘭の各国々民にもいいたいところだ。
 A級はもとより、BC級の全部は、ただ”日本の国のためにのみ戦った”のだ。
アイクの言葉を、そのまま使って表現すれば”これらの人々は罪を犯したのではない”のだ。
 この道理は、このごろになりアイゼンハワーによって始めて指摘せられたのではない。凡ての戦

P7(-3-)
争載判を通じて、われわれ弁護に当ったものが、血の出る思いで、叫びつづけたところだ。

 しかるに、国民には、この自明の事柄が、どうしても納得できないように見かけられる。
それは識者とか指導者とかと、おだて上げられた人達が”戦争は日本の軍人と右翼とだけが仕かけたものだ。
われわれは反対であったのだ”とヌケヌケとしたことをいって、敗戦に便乗しようとした。

その誤魔化しに、善良な(お人よしの)国民が、マンマと引っかかったからであるといい切れる。
 ソロソロ悪夢からさめて貰いたい。

 戦犯に問われて、刑死したものはA級七名。BC級九二七名。合計九三四名だ。
獄死及びこれに準ずべきものはA級一一名、BC級一○五四名。合計一○六五名だ。
このうちには、不法な裁判をうけることを潔ぎよしとしないで進んで自決したものが、実に三五名ふくまれている。

 これらの人々は、一人残らず国民総意の戦争に、″勝ってくるぞと勇ましく”送り出されたものだ。
日本の国のためにのみ、雨の日も、風の日も、我を忘れて戦い続けたものだ。
しかも、今もって靖国神社に合祀することを拒否せられているのだ。戦争犯罪者という汚名のもとに。

 ここにおいて、私ら有志は、万止むを得ず、私ら有志だけで、私立の靖国神社を建てて、その功績をたたえるとともに、その冥福を折りたいと考慮している。
すでに、その確立地として、国定公園三河湾を一望のもとに見下ろす愛知県幡豆町三カ根山を選定し、その設計を進めているところだ。


P8(-3-)
 私ら有志が、かように思い切った態度に出るに至ったのは、戦犯と呼ばれて蔑視せられ、排斥せられている人々の実相を、あまりにもよく知り尽しているからである。

 連合国が、戦勝に酔うて無理やりに押しつけた戦争裁判こそは、空前絶後の猿芝居であり、戦争犯罪人の製造こそは、地上最大の人権蹂躪であるこどを、その弁護の任務を通じて、マザマザと見つめてきているからである。

 戦犯として、巣鴨プリズンに収容せられたものは、ABC各級を合わせれば、四○○○名を越すのだ。
 そのうち八○○余名が在所していた昭和二十七年十一月に、在所者によって、組織されていた巣鴨委員会で取りまとめたアンケートが残っている。
 これにより、いわゆる級戦犯の実体をつかむことは、決して無駄ではない。

 回答は、全在所者の九○パーセントの七三一名から集まっている。
残余の一○パーセントは、回答をすることだけさえも嫌がるまでに、自棄的になっていた、ともいえる。

 先ず、裁判前の取調は、どんなものであったか、というに、

(イ)拷間をうけたもの  九九
(ロ)脅迫をうけたもの 一八〇


P9(-5-)
(ハ)虚偽の陳述書に署名を強要せられたもの    一〇五
(ニ)白紙の陳述書用紙に署名を強要せられたもの   二〇
(ホ)読み聞けなく練述書に署名を強要せられたもの 一一九
(ヘ)無能の通訳のために禍せられたもの      二八〇
(ト)何等の取調べもなく直らに載判に付されたもの  三五

となっている。無能の通訳のうらには、難解な日本語が、マルッキリ判っていないものと、日本のカスタム(習慣)に一切通じていないものとが含まれている。

 以上で明らかなように、陳述書の任意性、信憑性を争うこととなれば、採用すべき陳述者は殆んど絶無であったともいえるのだ。

 次に罪責についての回答を見ると、
(イ)虚構又は捏造で罰せられたもの  二〇六
(ロ)人違いのもの          二六九
(ハ)上官の行為であったもの     一九一
(ニ)部下の行為であったもの     一八五
(ホ)巻添えをくったもの        八九


P10(-6-)
(ヘ)単に日本人であるということのため 二八

由是観之(これによってこれをみるに)、正しい裁判(例えば日本の裁判のごときもの)によって審理せられたならば、この殆んど全部は、直ちに青天白日となれたものと思われる。

 罪責についての回答は、更に詳しく調べられている。
即ち、上官の命令による行為についても、深く反省して、

(イ)正しい命令であったと今でも信じているもの   一五二
(ロ)止むを得ない命令であったと考えるもの     二九七

となっている。
このことは直らに、日本の上官が戦闘行為として、無理な命令を下していない証左ともなるものだ。

 自らの意思に基く行為についても亦、十二分に反省のあとが見える。
(イ)今でも正しいと信じているもの     一〇七
(ロ)止むを得なかったと考えるもの     二〇〇
(ハ)日本の社会通念では悪いと思えないもの 一三四
(ニ)不当であったと悔悟しているもの     一三

日本の社会通念では、悪いとは思えないもののうちには、”野戦病院のために適切な薬が急場の


P11(-7-)

間に合わないで、俘虜が助からなかった“などの実例が、あげられている。
 殊に、自らの行為が不当であったと海悟しているものが一三名あることは、
“誠に日本人らしく”このアンケートの価値を、どれだけ貴いものにしているか判らない。

罪責についての回答は、更に続いている

(イ)職務行為で処罰せられたもの       九八
(ロ)不可抗力の結果の責任を負わされたもの  七四
(ハ)事実を著しく誇張又は歪曲せられたもの 三二四

不可抗力の結果の責任を負わされたものとは、例えば”俘虜収容所が爆撃せられたために、待避させた俘虜が、計らずも殺られる結果となった“というような場合だ。

 然らば、裁判はどんな風に行われたか、というに
(イ)審理されたと思うもの         二一
(ロ)形式だけだったもの         四一二
(ハ)判検事馴れ合いと思うもの      三三六
(ニ)陳述を抑圧せられたもの       二二七
(ホ)有利な証言を採用せられなかったもの 二八一


P12(-8-)
(へ)証人を拒否せられたもの        一六〇
(ト)偽の証言で罰せられたもの       二七八
(チ)伝聞証拠で罰せられたもの        七一
(リ)真偽不明のロ述書だけで罰せられたもの 一八一
(ヌ)裁判官が俘虜または抑留者であったもの 一五七
(ル)裁判官が当該事件の被害者であったもの   七

となっている。
 虚偽の証言で、罰せられたものの多数は、被害者という証人が、あらかじめ雇われていて、どの事件にもそれが証言をするために罰せられたのだ、といっている。
 俘虜や抑留者が、裁判官となって審理したものである限り、報復以外の何ものでもあり得ない、ともいえるのだ。
されば、審理せられたと感じたものが二一名あったことを、せめてもの慰めとするの他はない。

 それなら、裁判の結果はどうかというに、これ亦(また)驚くべき限りである。
(イ)裁判を公正と感じたもの      一三
(ロ)裁判を著しく不公正と感じたもの 四五九
(ハ)弁護人が●肘を受けたもの    一七〇


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(ニ)日本人以外の弁護人が判検事と馴れ合いであったもの  二〇〇
(ホ)通訳が無能であったもの               二三五
(へ)通訳が検事と通謀していると感じたもの        一三九
(ト)弁護されないで判決されたもの             四七
(チ)判決理由を明示されないもの             二二六
(リ)判決書を受けないもの                三二八

これによると、判決書を受けないものと、判決理由を明示せられないものとが、合計五五四名いる。
七三一名中五五四名即ち七五バーセント強は何のために処罰せられたのかを、確認できないままで、服役したことになる訳だ。

 ここにおいて、刑のことを述べなければならない。
(イ)刑を不当と考えるもの     五二六
(ロ)刑を著しく重いと考えるもの  三五一
(ハ)刑を適当と考えるもの       一
(ニ)刑を軽いと考えるもの       一

刑が軽かったと思ったものが、タッタ一名。適当と考えるものがタッタ一名というにおいては、


P14(-10-)
巣鴨プリズンは、僅かに二名ばかりのもののためにのみ適切な場所であった、と観察できるのだ。
 以上は、一部の在所者によって作られたアンケートの集計であるから、四○○○名以上に及んだ全在所者について、これを求めたならば、更に詳細なことが判ったであろうに、残念で堪らない。

 若(も)しもまた、刑死者や、自殺者や、獄死者の凡てについて、アンケートを求めることができたとすれば、概ね、このアンケートの集計と似たものが得られたのではなかろうか、と考えられる。

 とすれば、戦犯としての死刑執行は、単に戦争裁判という美名の下に行われた大量虐殺以外の何ものでもないことと相なるのだ。
文明の耻辱これより甚だしいものはあり得ないであろう。

 それでは、日本のためにのみ戦いながら、概ね十カ年以上を犯罪者の汚名をきて、隔離せられた、いわゆる戦犯の家庭は、その間に、果してどうなっていたであろうか。

右のアンケートに依れば、
(イ)極度の困窮に陥ったもの     一七五
(ロ)一家離散したもの         三五
(ハ)離婚を余儀なくせられたもの    二八
(ニ)婚約を解消せられたもの      四一
となっている。


P15(-10-)
 そればかりではない。世の中の冷たさは、その家族の上をも用捨なく吹きまくったのだ。
戦犯の家族ということだけで、

(イ)就職を拒否せられたもの   二二
(ロ)結婚を拒否せられたもの   一二
(ハ)社会的追害を受けたもの   五六
(ニ)自殺をはかったもの     一二
(ホ)発狂したもの        一六

であった。またプリズンに拘禁せられている間に、

(イ)父母が死亡したもの     一八六
(ロ)妻子が死亡したもの      三九
(ハ)その他の肉身が死亡したもの 二七〇

となっている。

 この調査は、前にも述べたように沼和二十七年一月のことだから、全員がプリズンから出所できた昭和三十三年五月三十日までの間には、更にはるかに無残冷酷ないろいろな問題が起こっているに相違ない。

P16(-12-)
 かような人達を捨てて顧みないような無情な態度をとることが果たして日本人の本然の姿といえるであろうか。
 
 私は、東京裁判で弁護団のスポークス・マンをつとめた関係から、昭和二十七年五月二十七日設置せられた日本弁護士連合会の戦犯釈放特別委員会の委員長に選任せられた。

 この委員会は、去る六月二十一日の理事会で”任務終了による解放”が承認せられたが、それまでの間、弱腰一方の歴代政府と果敢に渡り合うばかりか、裁判をした各国の大公使館始め、国会などへ通いつづけて戦犯の全面釈放のために、出来る限りを尽してきた。

 昭和二十七年六月二十一日には”平和条約第一一条による赦免の動告に関する意見書”を内外各方面に送って平和条約第一一条の解駅についての外務省の謬見(びゅうけん)を是正した。

 これが機縁となってアメリカではスノー委員会が設けられ、バロール(仮駅放)が急に進むこととなった。

 ついで、昭和二十八年一月十九日及び同年五月三十一日の両回に渉り、政府並に国会に対し″戦犯の全国釈放につき特使団派遺に関する要望者”を送った。
 直接審理にたずさわった弁護人を中心とする特使が、裁判をした国の当事者に対し、直接に、裁判の失当を訴えたならば、無下にはこれを斥け去ることも出来まい、と信じたからだ。
 しかしへッビリ腰の政府は、これに踏み切り得なかった。


P17(-13-)
 昭和二十八年七月二十二日には、比島モンテンルバから帰国した一一○名(遺骨一七体)を迎えた。
同年八月八日には豪州マヌス島から帰国した一六五名(遺骨二体)を迎えた。横浜港に入港した輸送船の客室で、無言の凱旋をした勇士の遺骨や病臥する戦犯の前で、渡辺はま子さんが心のかぎり捧げた”モンテンルバの歌”に催した涙の記憶は、いまだに新しい。

 昭和二十九年の暮、鳩山内閣が成立したので、首相に直接交渉して、戦犯の釈放を、国会での”施政方針の演説中に挿入する”ことに成功した。

 昭和三十ニ年六月五日、私は、相馬カ原事件として知られるウィリアム・S・ジラード米国三等特技兵の事件を受任したので、これを機会に、戦犯の全面赦免を実現しなければならないと考え、戦犯釈放特別委員会の副委員長であった三文宇正平弁護士にお願いして、ジラード事件の副主任弁護人となって頂き、共に計って、米国駐留軍並に米国陸軍に対し、あらゆる手段をとって、その目的の実現に努力をつづけた。

 かたわら、この事件を傍聴のために来朝した米国上院のシェベル、スリーマン、フェンストワールド諸氏や、元在郷軍人会々長のオーズリー氏や小説ヒロシマの作家ハーシー氏などに、米国々内における釈放工作を依頼すると共に、AP、UP、INSなどの特派通信記者諸君とも話し合って、釈放の空気をつくりあげることにカめた。


P18(-14-)
 私のアイディアとしては、もと戦犯の弁護人であった方々に、バロールの審査権限を委かせて員うことにあった。
その後、ヤットの思いで、スノー委員会の権限を、日本に渡さすことに成功した。

 しかし日本の政府は、何故か、パロール委員会のメンバーに、弁護士を加えることを反対した。

しかも出来上った三人委員会の委員は凡て激務を持った人達ばかりであった。
左様な人達にサイド・ワークとして至難なパロールのことに当らしめたのだ。
加うるに、内閣直接の委員会でありながら、一厘の金、一枚の紙片をも与えようとはしなかったのだ。
恰(あた)かも、戦犯の釈放を、できる限り長びかせようと努力するような態度であった。

 私らとシェベル上院議員との間で意見の一致したところは、昭和三十三年一月十五日までには、全面赦免をする、ということにあった。
それには、私らをパロール委員に加えて迅速に処理することが条件の一つとなっていたのだ。

 かくて、●くにして、全部釈放にはなったものの、仮駅放のままで赦免とならないものが、アメリカ関係三四四名、オランダ関係一一○名残っている。
 
この人達の全面赦免に政府が力を入れて呉れようとは、重なる過去の実績に照らして想像すらできない。

私は、釈放委員会の委員長としての最後の仕事として、″この人達の全面赦免こそ日本人凡ての心の祈りである”ことを書面として、マッカーサー駐日米国大使並びにロースリン駐日和蘭大使にあ

P19(-15-)
てて申送り、その本国政府にこれが伝達方を希望した。
マッカーサー大使からは、六月十六日付でその旨を了承したとの鄭重な返信が屈いた。

 私は、最後に、刊死した人々が遺した歌の幾つかを、巣鴨遺書編集会でまとめた”世紀の遺書”の中から拾い出して、日本に残す尊い魂を、あとにつづく若い人達の胸に鋭く烙きつけたい、と思う。

征く日より捧げし命情しまわど 口惜しを科をいかにとやせん   (山田 恒義)
我なくもあとを頼むぞくれぐれも やがては伸ばせ我が子孫ひこ  (中村 鶴松)
いわれなき罪に問われて独房に 国を憂いて涙かわかず      (木村 歳雄)
おののきも悲しみもなく絞首台 母の笑類を抱きてゆかむ     (木村 久夫)
いまさらに散る身借しとは思はねど 心にかかる国のゆくすえ   (前田 三郎)

P20
昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
    代表 三浦 兼吉
--------------------------------

以上が「戦争犠牲者顕彰会」会長だった三浦さんが発行した小冊子の中身全文です。(冒頭に述べたとおり「2.戦争はなぜ起きたか」は奉賛会HPのpdfのリンクが切れているので入手できてませんが(^^;)


昭和35年にこれだけの事が既に判っていながら、何故にわれわれ日本人は

太平洋戦争=邪悪な日本が中国や東南アジアを侵略した戦争
真珠湾攻撃=卑怯なだまし討ち
A級戦犯=極悪非道な戦争犯罪者
太平洋戦争のことを「大東亜戦争」なんていうのは侵略戦争を美化したい恐い右翼のやることだ

という間違った認識を持ってるんだろう???

「真珠湾攻撃はだまし討ちじゃない」
「開戦前、アメリカは日本の暗号電文を解析していて全てお見通しだった」
最低限、この2点をきちんと報道するだけでかなり是正されるはずなのに。

Posted at 2019/04/26 05:54:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東京裁判研究 | 日記
2019年04月26日 イイね!

東京裁判研究:(4)真珠湾奇襲の真相―戦争は仕かけられたのだ―

P1/P2
弁護士 林 逸郎 著
真珠湾奇襲の真相
――戦争は仕かけられたのだ――


P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”と
か”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたとこ
ろで、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るものでもない。
戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探究して、その原因を除くように努める他には方途はありえない。
恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事よりも先づ、戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、
できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。

戦争犠牲者顕彰会


P4
はしがき
 この拙文は、私が、東京裁判弁護団のスポークスマンとして入手し得た汗牛充棟(か
んぎゅうじゅうとう。引くと牛が汗を流すほどの重さ、積むと家の棟に届くほどの多
さの意)の資料と、その後、注意して人手した若千の資料とにもとづき、研究検討を重ねたうえで、できあがったものである。

 もとより、この事実は、東京載判の法廷を通じて世界に訴えようと試みたのだが、法廷は、”日本以外のいかなる国家の行為をも審判の対象としていない”との煙幕を張って、これを拒否しつづけたので、如何ともすることができなかった。
 私は、この拙文によって素描せられたところを、さらに深く、鋭く研究することを終生の仕事とする決意をしている。
もしも私の考え方、私の資料の取扱い方に間違ったところがある、とお感じになった方は、思いきってご叱正下さらんことを希う次第である。
書類をもって、ご注意を賜わることができれば、これに越した幸いはない
 著者 林 逸郎


P5
(白紙ページ)


P6(-1-)
真珠湾奇襲の真相
――戦争は仕かけられたのだ――

『白紙還元の御諚(ごじょう。貴人の命令)』

 一九四一年(昭和十六年)十月十七日、陸軍大将東条英機(陸軍大臣)は、組閣の大命を拝した。
同時に、海軍大将及川古志郎(海軍大臣)は、「陸軍と協力せよ」との御言葉を賜った。
 まもなく、内大臣木戸幸一が、大将の控室に入ってきて、
「只今、陛下より、陸海軍協力せよ、とのお言葉がありましたことと拝察しますが、国策の大本を決定せらるるについては、九月六日の御前会議の決定に捉われることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討して、慎重なる考究を加うるを要す、との思召であります。命により、その旨申しあげ


P7(-2-)
ておきます」
 と述べた。いわゆる”白紙還元の御諚“である。
九月六日の御前会議というのは、太平洋の雲行きが次第に悪化し、座視するにおいては、米、英、蘭、支の蹂躙にまかさなければならない重大な段階に立ち至ったことを、杉山参謀総長、永野軍令部総長から奏上したところ、陛下は”四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ちさわぐらむ“という明治天皇の御製をお詠みになって、統師部に対し、外交交渉に全面的に協力することを、御下命になったものだ。
 近衛内閣は聖旨を奉じて、誠心誠意、対米英外交交渉を続けたが、米、英の態度は日一日と硬化するばかりで、妥結の見通しはほとんどなくなった。
近衛首相は、進退両難に陥り、いきなり内閣を投げだした。十月十六日のことだ。

『ABCD包囲陣、日本に迫る』

十月十八日成立した東条内閣は、ひきつづき連絡会議を開いて、対米問題の打開策を協議する一方、若杉駐米公使をして、交渉継続の意思のあることを伝達せしめた。
この意思表示は、二十四


P8(-3-)
日に、国務次官ウェルズに通じている。
 閣議は、ようやく”日米の関係は、あくまで外交交渉によって打開を計る。
不幸にして外交交渉が不成功に終ったときには、そのときに改めて開戦の決定をする”ことにきまったので、十一月四日、陸海軍合同軍事参議官会議に諮り、その翌五日の御前会議にその旨を報告した。
 かくて、新構想を携えた来栖三郎大使は、五日に東京を発ち、十五日にワンントンに着き、ただちに交渉に入った。
 わが国が忍びがたきを忍んで作りあげた最後の提案を提示したのは十一月二十日であった。
その内容を要約すると、
 一、日米両国は仏印以外の南東アジア及び太平洋地域に進出せざること。
 二、蘭領印度における物資の獲得。
 三、資源凍結の解除及び石油の供給。
 四、日支和平を妨害せざること。
にあった。

米国が、もしもこの項目のいすれかに、承認を与えてくれたなら、事態は、急転して解決をみたであろうと思われる。
当時の日本としては、米国が資産の凍結を解除するか、蘭印からの物資の取得を承認するか、または日支間の和平を妨げないことを約東してくれたならば、それで


P9(-4-)
活路が開かれたに相違ないからだ。

 ところが、このころ米、英はどんなことをもくろんでいたか。
 ルーズベルト大続領の特使グレーディは、一九四一年九月から十月にかナて、蘭印、シンガポール、インド、重慶、香港、フィリピンをとびまわって相互の連絡をしている。
英国の特使ダフ・クーパーは、時を同じうして、フィリビン、蘭印、シンガポール、インド、仏印ををとびまわって、同じく相互の連絡をしている。
ルーズベルトの軍事使節マグルーダ准将は、同じ十月に、フィリピン、香港の打合せをすませてから重慶に乗り込み、大見得を切っている。
同じ十月にはまた、英国の東亜軍総司合官ポッバム大将、米国の東亜軍総司合官マックアーサー大将、米国の援蒋軍事使節団代表マグルーダ准将らが、マニラに会合して、「太平洋における米英の共同作戦」など軍事重要事項の協議をしている。
ポッバム大将はその結論を■たらすため、オーストラリアを訪問した。

オーストラリアの首相カーチンが、「太平洋における共同戦線の交渉は、米、英、蘭印、ニュージーランド、オーストラリアの間において、完全に締結せられた」と発表したのは、十月の末であった。


P10(-5-)
『十一月二十五日、米国対日戦争を決定』

 これとはとんど同時に、米国海軍長官ノックスは、米国海軍に就役している戦闘用艦船は三百四十六隻、同じく建造中か契約済のものは三百四十五隻、就役している補助鑑艇は三百二十三隻、同じく建造中か契約済のものは二百九隻、海軍飛行機は四千五百三十五機、同じく製造中のものは五千八百三十二機であると発表した。
米国陸罩長官スチムソンは、航空士官候補生及び徴集兵の数を三倍の四十万人に増員した、と発表した。
ルーズベルト大続領は、このため、飛行機製造費四億四千九百七十二万ドルを要求した。
 オーストラリアの首相カーチンは、四十五万人が入営したと発表した。
フィリピンの陸単参謀総長は、現世の除隊を中止した、と発表した。
 各国の戦争準備が整うや、米国海軍長官ノックスは「日本が現在の政策を変更しない限り、日米の衝突は不可避である」と言明した。十月の終りのことである。
 十一日、英国の首相チャーチルはロンドン市長の就任被露会で「米国が日本と開戦したときには、英国は一時間以内に対日宣戦を布告する」と演説した。


P11(-6-)
 その翌十一日、すなわち休戦記念日には、ルーズベルト大続領は「米国は自由維持のために、永久に戦うものである」と演説し、ノックス海軍長官は「対日決意の秋がきた」と演説した。
その翌十二日には、英国王ジョージ六世が議会の開院式で「英国政府は、東亜の事態に関心を払うものである」との勅語を述べている。
 かくて十一月二十五日、ルーズベルト大続領は、最高会議を開いて、日本に対し戦争を仕かけることを決定した。
この会議に参加したものは、大続領ルーズベルト、国務長官ハル、陸軍長官スチムソン、海軍長官ノックス、陸軍参課総長マーシャル、海軍作戦部長スターク、以上六名であった。

『まず日本に一発撃たせよ』

スチムソンが後に、上下両院合同の真珠湾事件調査委員会で証言したところを要約すると、
「一つの問題が、われわれを大いに悩ませていた。もし、敵が機先を制してとびかかってくるのを、手を拱(こまね)いて待っているということは、通例からみて賢いことではない。しかし、われわれは、日本軍に最切の一発を発射させるということには、なるほど、危険はあるが、アメリカ国民から全幅の支持を得るためには、日本軍に先に攻撃させて、誰が考えても、どちらが侵略者であるか、一


P12(-7-)
片の疑念もなくわからせるようにした方がよい、ということとなった」
 となっている。

また、スチムソンの日記の一月二十五日の欄には次のように書かれている。
「問題は、どのように日本をあやつってわれわれにはあまり過大な危険を及ぼすことなく、日本に最初の一発を発射させるような立場に追い込むべきか、ということである。これはむずかしい注文であった」
 この注文は、暗号電報の傍受により、日本の熊度が手にとるようにわかっていたにもかかわらず、これを、ハワイのキンメル大将とショート中将にだけは、極秘にしておくという、背徳行為によって達成しようと試みられた。
 ルーズベルトがどちらが侵略者であるかについて、アメリカの国民をたぶらかそうと試みたこの謀略は、あざやかに成功した。
アメリカにおいてばかりではなかった。日本において、さらに見事に成功した。
日本人の中からは、日本を侵略者と考えるものは、おそらく一人も出てこないであろうと確信していた、と思われるルーズベルトの謀略は、アメリカよりも、かえって、日本において成功したのだ。
ルーズベルトは、さだめし地下で唖然としていることだろう。


P13(-8-)
『無理難題のハル・ノート』

開戦の決意をした米国は、その翌二十六日、日本に対して、最後通牒を通告してきた。
いわゆるハル・ノートである。
 その第二項第三目には、
 ”日本国政府は、支那及びインドシナより、一切の陸海空軍兵力及び警察力を撤収すべし”
 とあり、同第四目には
 ”合衆国政府及び日本政府は、首都重慶における中華民国国民政府以外の、支那におけるいかなる政府、若くは政権をも軍事的、政治的、経済的に支持せざるべし”
 とあった。

いうまでもなく、日本は、満州、蒙古はもとより、支那本土においても、雄大なる条約上の権益を持っていた。
上海、青島などの各地には、紡績その他の日本の企業が大発展をしていた。
 ひとたび、兵力または警察力を失ったならば、たちまち起る残虐行為は、通洲事件、済南事件で、眼が痛くなるまで烙きつけられている。
この残虐が思い当らないものは、終戦が確実となったとき、


P14(-9-)
満州になだれ込んできたソ連軍のやったことを思い出せばよい。

 幾百万の同胞の生命と、財産と、八十年にわたり巨費を投じて築きあげた権益とを、そっくりかなぐり捨てて無条件に降伏せよ、というのだ。
居直り強盗でなくて何であろうか。
 父祖伝承の日本人の血が、屈従を許すであろうか。改めて、ここのところを考え直してみてもらいたい。
 さらに、ハル・ノート第二項第九目には、
 ”両国政府は、そのいずれかの一方が第三国と締結しおるいかなる協定も、同国により、本協定 の根本目的、すなわち太平洋地域全般の、平和確立及び保障に矛盾するごとく解駅せられざるべきことに同意すべし“
とあった。
 これは、とりもなおさす、日独伊三国同盟を死文化することによって、独、伊両国の面に泥を塗れ、との無理難題である。
雲助のゆすりかたりとなんら択ぶところはない。

 ハル・ノートは、全文を通じて、妥協しようとする意思の悉(ことごと)くを捨て去ったものであった。
転んでいるものを、これでもか、これでもか、と踏んだり蹴ったりしたものだ。


P15(-10-)

『見敵必撃命令を発令』

この通告は、宮中において政府と統師部とが連絡会議を開き、外務大臣東郷茂徳が、日米交渉の経緯を報告している最中に、到達した。
会議場はしばし呆然自失した。
 何度読み直しても、この覚書こそ、米国の日本に対する最後通牒である、と認めざるを得なかったからだ。
 ルーズベルト大統領は、この通告を日本のワシントン駐在大使に手交せしめると同時にハル国務長官をして、陸海軍首脳部に対し、「外交交渉はすでに失敗したから、今後の行動は、陸海軍が責圧をとらなければならない」と申渡させた。

海軍省は、ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル大将に、
「本電報をもって、戦争警告とみなすべし。太平洋における事態の安定を目指した日米交渉はすでに終った。戦争計画によって与えられた任務を遂行するために適切なる防衛展開行動を実第すべし」との命令を発した。
いわゆる”見敵必撃命令”である。キンメル大将は、二十七日これを受取った。


P16(-11-)
 陸軍省は、ハワイ方面陸軍司令官ショート中将に、海軍省のものと同文の命令を発した。
ショート中将が、これを受取ったのも、また二十七日であった。
 ここにおいて、米国陸海軍は、完全なる対日戦闘態勢に入ったのだ。

『米国より五日遅れた開戦決定』

 東条内閣は、十一月二十八日午前十時から閣議を開いたが、この閣議では、開戦の決議はせず、すべてを、十二月一日に召集せられる御前会議の決定に待つこととした。
 十一月三十日午後三時、陛下から、突然に東条首相に御召があり、

「高松宮から、海軍は手一杯で、できることならば、この戦争は避けたい、との話があったが、総理の考えはどうか」
 との御下問があった。首相は、閣議の次第を言上して退下した。

 十二月一日の御前会議は、東条首相が議長となって開かれた。この会議は、ハル・ノートは、″米国の最後通牒である。””米国は、日本がハルノートをもて米国の最後通牒と理解することを期待している””米国においても、ハル・ノートを最後通牒と考えている””米国陸海軍はすでに対日


P17(-12-)
 戦闘態勢に人った“などの諸情報の重圧下で行われたものであったから、長時間にわたり、真剣な質疑応答がくり返された。
 最後に、極密院議長原嘉道が、出席者の意見を取まとめて、
「米国の態度は、帝国として忍ぶべからざるものである。このうえ手をつくしても無験である。よって開戦は致し万ないのであろう」と述べた。

『豈、朕が志ならんや』

 特筆しなければならないことは、あくまでも平和を愛好せられる陛下が、この長時間にわたる会議を通じて、ただの一語をも発せられなかったことだ。
この陛下の聖慮は、開戦の詔勅に、
”今や不幸にして米英両国と戦端を開くに至る。海に己むを得ざるものあり。豈、朕が志ならんや”
 との一句を挿入せしめられたことによっても、明察せられるところである。

 こうして開戦の決定は米国の開戦の決定に遅れること五日にしてなされたのだ。
ここにおいて、日本陸海軍は、ようやく戦闘態勢に入った。


P18(-13-)
 政府は、野村吉三郎駐米大使をして、対米外交交渉断絶の最後通告を、十ニ月八日の朝(ワシントン時間は七日の午後一時)ハル国務長官に手交せしめることとした。
 この通告に関する外交上の取扱いは、すべて外務省の青任においてすることとした。
在米日本大使館に対しては文書の整理その他万般の手配に手ぬかりのないように、外務省から特に訓電を発した。
 わが南雲忠一中将●下の精鋭は、北太平洋を迂廻して、ハワイに向って一路南下した。

『火蓋は米艦より切られた』

一方、真殊湾の入口の掃海を実施していた、二隻の特殊掃海艇のうちの一隻であるコンドル号乗組のR・C・マックロイ予備少尉は、日本軍の真珠湾攻撃よりも完全に四時間前、すなわち十二月七日午前三時三十ニ分(ハワイ時間に)、湾ロ浮標の外方二浬の沖合で、日本海軍の特殊潜行艇の潜望鏡を発見した。
マックロイ少尉は、このことをただちに、夜間蛸戒中の駆逐鑑ウォード号に発光信号で報告した。
 六時三十三分、カタリナ飛行艇は、真珠湾に向って、空のライターを曳航していた工作鑑アンテ


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ーリス号を尾行していたと思われる一隻の特殊潛行艇を発見して発煙弾を現場に投下した。
駆逐艇ウォード号は、六時四十五分、この特殊潜行艇を攻撃して、砲弾と爆雷とでこれを撃沈した。
 日米戦争は、ルーズベルトが、日本に第一発を打たせることにより、日本を侵略者の地位に追込もうと苦心した謀略の裏をかいたように、米国の方で第一発を放ったのだ。
 ルーズベルトならびにその幕療が定義した侵略の烙印は、千古不滅の事実によって、ルーズベルトみずからの額の上に、はっきりと刻み込まれたのだ。
 天は、いつまでも、この事実を暗闇の彼方に置き忘れはしなかった。
 
『ルーズベルトこそ戦争製造者』

 世論は押されてルーズベルトが任命した真珠湾事件調査委員会は、連邦最高載判所判事オーウェン・J・ロバーツを委員長として、一九四一年十二月十八日から翌年一月二十三日までの開に調査をつづけた結果、「真珠湾事件の責任は、当時の米国太平洋鑑隊司令長官キンメル大将及びハワイ地区陸軍司令官ショート中将の職務怠慢に帰すべきものである」


P20(-15-)
 との、いわゆるロバーツ報告書を提出した。この報告書は、大統領の名において、全米に発表せられた。
 この報告書中にある”Between 6:33 and 6:45, this object which was a small submarine, was attacked and sunk by the conserted action of a naval patrol plane and U.S.A Ward."(六時三十三分から六時四十五分の間に、この小型潜水艦-特殊潜航艇は、米海軍哨戒機とウォード号の一致した行動によって攻撃され、撃なされた。)
 の一節は、”ルーズベルトこそ、世紀の侵略者、戦争の製造者なり“として、人類の続くかぎり、痛罵し続けられなければならない絶対不動の確証でなければならない。
 ウォード号が暗号無電で、第十四海軍区司令官に、次のように”戦争開始の報告”をしたのは六時五十四分であった。
 ”本鑑は、防禦海面を行動中の一潜水鑑を攻撃し、これに砲撃を加え、かつ爆電を投下せり″
 この報告は、戦争についての最切の発信であったため、暗号を翻釈する下士官がまごつき、第十四海軍区の当直将校の手に人ったのは七時十二分であった。
 当直将校の報告をうけた第十四海軍区司令官プロック少将は、ただちに応急任務の駆逐産モナガン号に出港を命じ、ウォード号を救援せしめた。
ブロック少将が、太平洋艦隊司令部の当直幕僚マ


P21(-16-)
ーフィー中佐に連絡したのは七時二十分から七時二十五分の間であった。
 析から、電話交換台が幅輳(ふくそう。物が1か所に集中し混雑する様態)していたために、マーフィー中佐が、キンメル大将に電話報告をするまでには、かなりの時間がかかった。
キンメル大将が、司令部に向って急いでいるとき、はじめて日本軍の爆撃が起ったのだ。
 以上の証明は、一九四五年十一月十五日から、一九四六年五月三十一日に至るまでの間、十名の委員(両院議員)で構成せられた米国上下両院の合同調査委員会が作成した査問記録のうちに厳として集録せられているところだ。

『飲めよ踊れの大使館員』

 かような動かすべからざる事実が存在するのにもかかわらず、何故に、日本は侵略者として、国際法廷の審判を受けなければならなかったか。
 その責任は、あげて外務省が負わなければならない。もっと極限(極言?)すれば、ワシントンの日本大使館が負わなければならないのだ。
 このことは、後世史家のために、あくまでも正確に書き残しておく心要がある。


P22(-17-)
 日本の最後通牒は、暗号の解釈に要する時間、タイプに要する時間、ギャザーに要する時間等を考え、これを十四部に区分してワンントンの日本大使館に打電することとした。
前の十三部は十二月六日中に(これはワシントン時間で、日本時間に直せば七日)大使館に着き、最後の短い第十四部だけが、七日の早朝に着くように、万般の打合せが整った。
 外務省は、極度の緊張をもって、約束通りに打電した。約束通りに、正確に日本大使館に入った。
すなわら前の十三部は、六日夕刻までには翻訳、ならびにタイプができる状態に置かれたのだ。
 ところが、大使館では何故か、他に転動を命ぜられた一下級館員のために、わざわざ六日の夜を択(えら)んで盛大なる晩餐会を催したのである。
呑むほどに、踊るほどに夜はふけて行った。
 堀内電信官、梶原、堀、川畑、近藤、吉田各書記生らが、ダンスに波れた足を引摺り大使館に帰りついたのは、実に夜の十時頃であった。
それから、やっと、酔眼もうろうとして、暗号の翻訳にとりかかったのだから、埒のあこうはずばない。
 ようやくにして第十三部までのを翻訳を完了したのが払暁であった。
そこで井口参事官の部下を受する熱情(?)により、宿直一名だけを残し、その他の全員は宿舎に帰って休養させられた。
そのとぎには、またタイプは、ただの一行も打たれてはいなかったにもかかわらず・・・・。
 七日の朝は、七時頃から日本からの電報が到着しだした。
宿直者は、あわてふためいて電信課員


P23(-18-)
全員を料集した。しかし、それは無駄であった。
 呑み疲れ、踊り疲れたものが、ほとんど事例のない深夜の任務についたのだから、どうしても眼があかない。
やっとのことで全員揃ったのが昼近い十時であった。

『二日酔で最後通牒を翻訳』

煙石通訳生が野村大使に命ぜられて、国務長官ハルに、午後一時に面会したい旨を申込んだ。
ハル長官は自身で電話口に出て、「正確に午後一時に国務省で会見する」と返事をした。
奥村書記官が、九時頃からタイプを打ち始めた。前の十三部を打ち終ったのは十一時であったが、それは下書だから打ら直す、といいだし、煙石通訳生に手伝わせて、また始めから打ちだした。
のみならず、第十四部すなわち、”惟(おも)うに、合衆国政府の意図は、英帝国その他と荀合策動して、東亜における帝国の新秩序建設による平和確立の努力を、防碍せんとするのみならず、日支両国を相闘わしめ、もって英米の利益を擁護せんとするものなることは今次交渉を通じ、明繚となりたるところなり。
かくて、日米国交を調整し、合衆国政府と相携えて、太平洋の平和を維持確立せんとする、帝国政府の希望は遂に失われたり。
よって、帝国政府はここに、合衆国政府の態度


P24(-19-)
に鑑み今後交渉を継続するも、妥結に達するを得ず、と認むるの外なき旨を、合衆国政府に通告するを、遺憾とするものなり”
 という部分が、翻訳せられてタイプに廻されたのが、驚くなかれ、午後0時三十分頃であった。
しかも、その時は、まだ前の十三部のタイプが終っておらず第十四部のタイプどころではなかったのだ。
 野村大使は、何度も何度も、タイプを打っている部屋に出入りして、まだかまだか、と督促をしつづけた。
 来栖大使は、身仕度を整えて、タイプを打っている傍でジリジリとしていた。
 やむなく、煙石通訳生が、ハル長官の秘書官に「必要な書類の準備が終らないので、大使の訪問は遅れるかも知れない」と野村大使の意を受けて電話した。
ハルは「準備ができしだいにお出で下さい」とあっさり返事をした。
 最後通牒のタイプができあがったのは実に午後一時五十分であった。


P25(-20-)
『大使館員は切腹もの』

 野村、来栖大使は、リレーの選手がバトンをタッチするような敏捷さで、これを受取り、宙を飛ぶがごとく、国務省に向って車をとばした。
 午後ニ時到着したが、あいにく、ハル長官がさしつかえて二十分ばかり持たされたので、最後通牒がハル国務長官に手交せられたのは、二時二十分といえば聞違いない。
 ところが、日本軍が、真珠湾を急襲したのは、それよりもわずかに三十分前であったのだ。
 思うに、ハルが二十分の猶予を求めたのは、真珠の攻撃が入電したためではなかったろうか。
 政府が、海軍と外務省とに要望した、最後通牒を手交した後、三十分にして真珠湾を攻撃することとした苦心は、チンピラ役人のふしだらによって、水泡に帰した。
外務省の小役人に、こうも国を愛さない人々がそろっていなかったならば日本は、断じて、サプライズ・アタック(不意討ち)の汚名を蒙らなくてすんだのである。
 日本の企図したところは、国際法上、正々堂々たる開戦であったのだ。あたかも英国に対してのごとくに。


P26(-21-)
 なお、ここに附加したいことは、オランダは、わが国よりも先に、わが国に対して宣戦を布告したことた。
したがって、外務省のチンピラ共の六日夜の宴会さえなければ、”わが国がダマシ討ちをした“という言いがかりは、どこからもいい出せなかったのだ。
 この意味からも、当時、大使館の最高責任者であり統轄者であった野村、来栖、井口三氏に、重大な責任のあるべきことは論をまたない。
一国の連命を賭する開戦が、もはや時間の問題となっているような場合に、部下の緊張を促すのは統卒者としての当然の責務である。
それを怠り、しかもその結果、日本が永久に侵略者としての汚名を着せられるとしたら、単にチンビラ役人共の所行と片付けられないものがある。
世が世なら腹を切らねばならない筋のものであろう。
 今次戦争でも、みずからは直接手を下さずとも、部下の非行により、その責を負い自決し、または処刑された武将も数多いのである。

『片腹いたい侵略者呼ばわり』

 米国太平洋鑑隊の司令長官であったキンメル大将の忠実なる部下として、真珠湾で活曜した太平洋艦隊駆逐艦部隊司令官ロバート・シオポールド少将は、その不朽の名著”The Final Secret of


P27(-22-)
Pearl Herbor"(日本語訳、真珠湾の審判)の中で、次のように論断している。
「ルーズベルト大続領は、十一月二十六日の対日通告(ハル・ノート)によって、決定的に、かつ計画的に、米国を戦争に引ぎすり込んだのだ。
彼は、いわば日本の面に籠手を投げつけたごとくに挑戦したのだ」と痛烈に批難している。
 ハズバンド・E・キンメル大将も、この著書の序文に、
「一九四一年十一月ニ十六日に、米国政府が、日本の野村吉三郎、来栖三郎両大使に手交した対日通告(ハル・ノート)は、爾後(じご)の日米交渉の可能性に、事実上、終止符をうったものであり、したがって太平洋戦争をもはや不可避なものとしてしまった」と、断定している。
 また、連合国南太平洋鑑隊の司合長官であったウィリアム・F・ハルゼー元師も、この著書に序文を寄せて、
「この書物はフェア・プレーを信条とするすべてのアメリカ人にとって、必読の書である」と述べ、つづいて、
「私はつねにキンメル元海軍大将と、ショート元陸軍中将については、こう考えてきた。この優秀な二人の軍人は、自分のカでは絶対に自由にならない、ある目的のために犠牲の山羊として、狼群の前に放り出されたようなものだ。
この両人の軍人は、戦備の点でも、情報の点でも、ただ与えら


P28(-23-)
れただけのものによって、行動しなければならなかったのだ。この二人こそ、わがアメリカの偉大なる軍人の殉教者である」と結んでいる。
 アメリカが、日本に対し、侵略者なり、と見せかけようとして、東京載判という猿芝居を興行したことが、アメリカ人に腹の底までも知れ渡った。
正しい人たちは、この人道上許すべからざる陰謀(陰謀)を恥じ入っている。
 十五年ばかりおくれているものは、日本の指導者といわれる人々と、その人々に踊らされている善良なる日本の民衆だけではないだろうか。


P29
昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
    代表 三浦 兼吉
Posted at 2019/04/26 05:53:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東京裁判研究 | 日記
2019年04月26日 イイね!

東京裁判研究:(3)戦争はこうして起きたのだ

P1/P2
弁護士 林逸郎 著
戦争はこうして起きたのだ


P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”と
か”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたとこ
ろで、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るもので
もない。戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探究して、その原因を除くように努める他には方途はありえない。
恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事よりも先づ、戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。

戦争犠牲者顕彰会


P4
はしがき
真珠湾の攻撃は、日本国民の大部分にとって、寝耳に水の出米事であった。
それにも拘らず、大本営は、戦争開始の原因を評細に告知することを怠り、戦況のみを専ら報道して、国民を、勝利にだけ狂喜乱舞するように導いた。
更に、敗戦の惨めさは、連合国をして、事後法により、戦争に参加した日本人の一部を裁判せしめる結果となった。
 幸にして、私は、その載判(極東国際車事載判)の弁護人に選任せられる傍ら、弁護団
のスポークスマンに推薦せられたので、戦争開始の真因を真剣に研究して、これを発表する又とない機会を与えられたのた。
 弁護団としては、極めて公正な立場から、戦争原因を解明しようと試み、米、英、
蘭、ソ、中などの国々の対日本行為についても亦(また)、鋭く立証しようとした。
然(しか)るに、法廷は、
”この法延は、日本の行為(アクト・オプ・ジャパン)だけを審判するところであって、
日本以外の国が、如何なる国に対し、如何なる行為をしていようとも、それは悉(ことごと)く審理の


P5
範囲外である”
 と宣言して、連合国側の日本に対して執った挑戦態度についての証明は真ッ向から排斥した。

 そればかりではない。連合国当局は、真実を正直に語る証人の言葉を、新聞やラジオ
で報道することを制限し、敗戦に使乗して安易な生活を求めようとするものの、歯の
浮くような売国奴的な証言のみを、細大となく報道せしむる態度に出た。

従って、法廷の真相は、国民には、大半湾曲して教えこまれたというも、過言ではない。
 また、当時の国民の大部分は、生きんがための苦労に追いまわされていて、開戦の原因を探求するだけの、心のユトリが全く欠けていたようでもあった。
 私は、あらゆる機会に、あらゆる方法で、私の知り得た戦争の真因について発表し続けた。
その間に、十三年の歳月が空しく流れた。かくして漸(ようや)く、私達の言説に耳を傾けようとするものが、多少はできてきた。
 私は、いろいろの角度から、戦争の原因を研究することを私のライフ・ワークとしたいものと、ひそかに決心しているものである。
   昭和三五年七月
   著者  林 逸郎


P6(-1-)
戦争はこうして起きたのだ
林 逸郎
”軍部がわれわれを無用な戦争に追い込んだのだ”ソ、中、米、日が仲良くしさえすれば
戦争は絶対に起こらないのだ”などと、世迷言を得意がって喋舌(しゃべ)ったり、
書いたりしている政治家と自負する代物や、評論家と自称する代物が、余りにも多くウヨウヨしている。

 そんな代物は、何万人いたって、半知半解の徒だから大して間題にするには足りない
が、さて、思慮浅薄な若い者が、ウッカリして、その手に乗りそうなのは、寒心に堪えないところだ。
 そんな代物に限って、戦争の真因を研究したこともなければ、戦争の結果を省察した
こともなさそうだ。

戦争の真因を真面目に探究し、戦争の結果を真剣に省察するなら、そんな安易低劣な判新は断じて出てこないからだ。
 私は、極東国際軍事裁判弁護団のスポークス・マンとして三ケ年半、更に、日本弁護
土連合会の戦犯釈放特別委員会の委員長として七年余り、戦争原囚の探究と、戦争結果
の省察とに、情魂を尽


P7(-2-)
くしてきたので、いわゆる政治家や、いわゆる評論家よりは、多少は優れた資料を持ち、多少は深く推知し得たものと秘かに己愡れているものだ。
 奇怪にたえないのは、戦後歴代の政府が、この問第について真剣に研究しようとする努力をしないことだ。

 清瀬一郎さんが、文部大臣であったとき、年額千五百万円で、継続的に研究をする機
関を設けるように要求したが、予算を僅かに百五十万円に削り去り、法務省の片隅で、
豊田元海軍大佐を中心として少数のメンバーで、戦争載判資料の整理を続けているに過ぎない惨めなありさまである。
 戦争開始の決定的原因は、殆んど凡(すべ)て、国家間の経済事情の対立摩擦であ
る、と結論しても過言ではない。

その経済事情の数低的探究をしようとするものさえも、今となっては全然いないようだ。
 政治的事情についても、外交的事情についても、思想的事情についても、政府は素よ
り民問においても誰一人として、真面目に、真っ正面からこれと取組もうとはしていない。

それのみか、恰(あたか)も頬かむりをして逃げまわっているのではないか、とさえ訝(いぶ)かられる態度をとっているものがかなり多いのだ。
 アメリカにおいては、というと、太平洋戦争の開始原因を研究した文献が、私の知り得た範囲でだけでも、すでに八十二種出ている。


P8(-3-)
 世論に押されてルースペルト大続領が任命した連邦最高裁判所判事オーウェン・J・
ロバーツ委員長とする真珠湾事件真相調査委員会が、一九四一年一二月一八日から翌年
一月ニ三日までかかって作りあげ、大続領の名によって発表したロバーツ報告書と、
一九四五年一一月五日から翌年五月三一日までを調査期間とした、十名の議員によ
る上院下院合同真珠湾事件真相調査委員会の記録とは、その代表的なものといえよう。

 試みに、上院下院合同真珠事件真相調査委員会の記録中にある、陸軍長官スチムソンの証言を要約すると次のようなものだ。
――― 一つの間題がわれわれを大いに悩ませていた・もし敵が攻撃してくると判って
いる場合、 敵が機先を制して飛びかかってくるのを手を拱(こまね)いて待っているということは、通例からみて賢いことではない。
しかし、われわれは日本軍に最初の一発を発射させるということは、なるほど危険はあるが、アメリカ国民から全幅の支持を得るためには、日本単に先に攻撃させて、誰が考えても、どちらが侵略者であるか、一片の疑念もなく判らせるようにした方がよい、ということとなった ―――
その後に出版せられた”スチムソン日記”の一月二五日欄には、この証言を裏書した次の一節が載っている。


P9(-4-)
――― 問題は、どのように日本をあやつってわれわれにはあまり過大な危険を及ばす
 ことなく、 日本に最初の一発を発射させるような立場に追い込むべきか、という
 ことである。これはむつか しい注文であった ―――
 このアメリカ首脳部の注文は、暗号電報の傍受により、日本の行動が手に取るように
判っておりながら、ロを閉して、これをハワイのキンメル海軍大将や、ショート陸軍
中将にだけは知らせず、恰(あたか)も日本が真珠湾を不意打(サプライズ・アタッ
ク)したようにアメリカ国民に見せかけるとい う、大芝居となって実現したのだ。

 これより先、アメリカにおいては、十一月二五日、大統領ルーズベルト、国務長官
コーデル・ハル、陸軍長官スチムソン、海軍長官ノックス、陸軍参謀総長マーシャル、
海軍作戦部長スタークが最高会議を開いて対日開戦を決定し、その翌二六日、日本
に対して最後通課(ハル・ノート)を送ると共に、ハル国務長官名義で、陸海軍首脳に対し
――― 外交交渉はすでに失敗したから、今後の行動は陸海軍が責任をとらなければならない ―――
と申渡している。
 その翌二七日、海軍省は、ハワイの太平洋艦隊司令長官キンメル大将に、陸軍省は、ハワイ方面陸軍司令官ショート中将に


P10(-5-)
―― 本電報をもって戦争警告(ウワー・ウォーニング)とみなすべし。太平洋における
事態の安定を目指した日米交渉はすでに終った。戦争計画によって与えられた任務を道行するために適切なる防衛展開行動を実施すべし――
 との命令を発した。私らはこれを”見敵必撃命令”と呼んでいるのだ。

 即ちアメリカが対日戦闘態勢に入ったのは一一月二七日であり、日本が対米戦争を決
意したのは、それよりも五日後の一二月一日の御前会議であったことを、特に銘記して置かなければならない。

ロバーツ報告書中で、最も重要な部分は
―― 六時三三分から六時四五分の間に、特殊潜航艇は、米海軍哨戒機とウォード号の
一致した行動によって攻撃され、撃沈された ――
とある一項である。
 却ち、わが真珠湾攻撃に先だつこと一時間余り、未だ戦端開かれざるにあたり、わが
特殊満航艇は、アメリカ海により海底の藻屑と葬り去られているのだ。
 太平洋鑑隊駆逐鑑部隊司令官ロバート・A・シオポールド少将は、その上官であるキ
ンメル大将が真珠湾事件の責を負わされて少将に格下げされたことを憤り”真珠湾の審判“(ザ・ファイナル・


P11(-6-)
シークレット・オプ・パール・ハーバー)を著わして、ウォード号が日本の特殊潜航艇
を撃沈した事実を明細に告白した上、
―― ルーズベルト大続領は一一月一一六日の対日通告(ハル・ノート)によって決定的
 に、かつ計 画的に、米国を戦争に引きずり込んだのだ。
 彼はいわば日本の面に籠手を投げつけた如くに挑戦したのだ ――
と、痛烈な非難を浴びせている。
 ハズバント・E・キンメル大将もこの著書に序文を寄せて
―― 一九四一年一一月二六日に米国政府が日本の野村吉三郎、来栖三郎両大使に手交
 した対日通 告(ハル・ノート)は爾後(じご。それ以来)の日米交渉の可能性に、
 事実上終止符をうったもの であり、従って、太平洋戦争を、もはや不可避のものと
 してしまった ――
と断定している。

かくて、スチムソンらアメリカ首脳部が挑戦者を日本に見せかけようとする折角の苦心
も、水泡に帰し、太平洋戦争開始の第一発が、アメリカ海軍により発射せられている
ことは、日本人として束の間も忘れてはならない事実である。
然らば、戦争開始についてのアメリカ国内の与論はどうであるか。


P12(-7-)
シカゴ・トリビューンの論説記者、ジョージ・モーゲンスターンは、その著書”真珠湾の秘密”において
―― ルーズベルトこそ、アメリカを戦争にかりたてた張本人であり、国民を欺瞞
 し、故意に、真珠湾の悲劇を招いた責任者である ――
と論難(ろんなん。相手の不正や誤りを論じ非難すること)しており、アメリカの歴史
協会々長のチャーレス・D・ビャードは、その著書”ルーズベルト大統領とその戦争謀略”で
―― ルーズベルトはヒットラーにアメリカと戦う意図が微塵もないのにかかわらず
 、ドイツを刺激して、アメリカを攻撃させようとし、それが成功覚束(おぼつか)
 なしと見てとるや策を変 じて日本をして、戦争を■がれることのできない窮地に追い込んだのだ ――
 と難詰している。

又ジョージ・タウン大学教授のチャーレス・C・タンシルは、その著書”戦争の裏口”において
―― ルーズベルトの対支政策はいたずらにソ連の台頭を促したものであり、且つ好ん
で対日戦 争を誘発したものである ――
と論断している。

 その他、ウォール・ストリート・ジャーナルの論説者ウィリアム・H・チャンバーレン、国際


P13(-8-)
法学者フレデリック・C・サンポーン、歴史字者ハーリー・E・バーンズなども全く同じような結論に達している。
 これらアメリカ国内の太平洋戦争開始についてのルーズベルト非難には、強烈的な根拠があるのだ。
それはいう迄もなく、アメリカがリードしたABCDの包囲陣型による日本経済の壊滅的圧迫である。
 印度のパール博士は、東京裁判の判決にあたり少数意見において、この問題に触れ、
―― かかる圧迫を受けるときは、たとえ何等の武器をもたない国家といえども、必ず
 や、立って戦うであろう ――
と判断しているのだ。

 静かに当時を顧みて見よう。
 一九三四年七月二三日、アメリカは突如として二十有余年間続いた日米通商航海条約を弊履の如く破棄してきた。
 一九三九年一二月、アメリカはモーラル・エンパーゴーを拡大して、飛行機、その装備品、その組立機槭、ガソリン精製機械を禁止品目に追加した。
 一九四○年七月、アメリカは日本に対する屑鉄の輸出を禁止した。


P14(-9-)
 一九四○年八月、アメリカは航空用ガソリンの輸出を制限した。
 一九四一年七月二七日、アメリカは日本の在米全資金の凍結を断行した。
 一九四一年八月一日、アメリカは日本に対し石油の輸出を禁止した。
 英、蘭、中、仏印、蘭印、泰等はアメリカと歩調を合わせ、資金の凍結を断行し、或は米、ゴム等の日本に対する輸出を禁止した。
 経済上の対日戦闘態勢が整ったので、A、B、C、Dの包囲陣は、軍事上の対日戦闘態勢を整えることを急いだ。
 一九四一月九月には、アメリカの特使クレーディと、イギリスの特使ダフ・クーパーとか、蘭印、シンガポール、重慶、フィリビン、印度、仏印等を飛びまわって重大打合わせをしている。
 同年一○月には、ルーズベルトの軍事使節マグルーダ准将を迎えて、イギリスの東亜
軍総司令官ポッパム大将と、アメリカの東亜軍総司令官マックアーサー大将とが、マニラに会合し”太平洋における米英の共同作戦“について重要決議をっている。
 四月未にはオーストラリア首相カーチンが”太平洋における共同戦線の交渉は、米、英、蘭印、ニュージーランド、オーストラリア間において完全に締結せられた“と発表している。
 これと時を同じうしてアメリカ海軍長官ノックスは、米国海軍に就役している戦闘用艦船は三四


P15(-10-)
六隻、建造中又は契約済のものは三四六隻、就役している補助艦艇は三二三隻、建造中
又は契約済のものは二○九隻、海軍飛行機は四五三五機、製造中のものは五八三ニ機と発表した。
続いてアメリカ陸軍長官スチムソンは、航空士官候補生及び徴集兵の数を三倍の四○万人に増員したと発表した。

 ルーズベルト大続領は、飛行機製造費として四四九七万ドルを計上したと発表した。
 これは、太平洋における軍事共同戦線を張った群小諸国に対し、安心してアメリカと行動を共にせよ、との威嚇である。

 その結果として、オーストラリアの首相カーチンは、新たに四五万人を入営せしめた、と発表し、フィリピンの陸軍参謀総長は、現役兵の除隊を中止した、と発表した。
 かようにして軍事上からも経済上からも対日戦闘準備が完了すると、米英は、対日戦争の開始を露骨に打ち出した。

 同年一○月末、アメリカ海軍長官ノックスは”日本が現在の政策を変更せざる限り、日米の衝突は不可避である“と声明した。
 一一月一○日にはイギリス首相チャーチルが、ロンドン市長就任披露宴で”米国が日
本と開戦したときには、英国は一時間以内に対日宣戦を布告する”と演説した。


P16(-11-)
その翌一一日、すなわち米国休戦記念日には、ルーズベルトが”米国は自由維持のため
に、永久に戦うものである”と言明し、ノックス海軍長官が、その尻馬に乗って”対日決意の秋がきた”と説明している。
 その翌一二日には、英国王ジョージ六世が議会の開院式にのぞみ”英国政府は、東亜の事態に関心を払うものである”との告辞を述べている。

 かくて、一一月二五日のアメリカ最高首脳会議となり、対日戦争へのウワー・ウォーニングとなったのである。
 これ位の常識は、日本人全体が持っていて貰いたいのだ。然るにそれを持っているものは極めて少ない。

 それは何故か、というと、アメリカの国内で、日本を刺激して無用な戦争を起こし、
多数の犠牲者を出し、多額の財宝を失ったホワイト・ハウスに対する非難が余りにも
強くなり、どうしても”戦争は日本から仕かけたものである”と云訳しなければならなくなった。
 そこで考えついたのが、事後法による極東国際軍事載判であった。
 理論も、証拠も一切無視して、ひたすらに”日本だけを悪いもの”にしようと努力したものだ。
しかし、既に早く、進んで戦争原因を説く追究していたアメリカ国民は、こんな猿芝居には、テン


P17(-12-)
デだまされなかった。
 ところが敗戦便乗主義者によって各万面が指導せられていた日本及び日本人が、マンマと、このトリックに引っかかってしまったのだ。

 かくして戦争犯罪者と名付けて審判せられたものと右翼とだけによって、無用な戦争が実施せられたもののような錯覚に、善良な人々までが陥れられてしまった。
 私は今、”戦争と平和に関する不朽の記念館”を造って、太平洋戦争開始の原因から、
終戦、更に平和への苦心を、一目瞭然とする資料を展示し、少しも勉強しないいわゆる
進歩主義、余りにも無知ないわゆる革新政治家などの洗脳に当てたいと思っている。

 イヤ、それはどうでもよい。そんな代物はドプの上に湧く泡のようなものだから、打っちゃらかして置いても何のことはない。
 私の願うところは、次の時代を背負う若い人々をして、真実を十分に理解した上で、民族の血を湧き立たせて生きて行かしめたいのだ。

 そこで私は、この記念会館の設立場所を、三河湾の西北隅に聳(そび)える三ケ根山上としたい希望をもっている。
私達は、先ずここに、三文字正平弁護士が保土ヶ谷の久保山火葬場から奪取したA級戦犯七士の遺骨を埋葬して、殉国七士の墓を建てた。
次には戦犯の汚名を雪ぐに由なく刑死した多く


P18(-13-)
の犠牲者のために、神社を建てようとしている。

私達は、誰にも彼にも、お詣りをして貰うがために、そんな計画を建てているのではない。
この墓や、神社に、首を垂れてお詣りすることがよいかどうかを改めて考えてみて貰いたいのだ。

 福知山城趾には知霊社という神社がある。明智光秀を祀っているのだ。
附近の人々は、ここのお祭には”お詣りする”といわない。”お祭を見に行く”という。
光秀が築城を急ぐあまり福知山城の石垣に附近の墓石を使ったことを、子々孫々に至るまで深く怨んでいるからだ。
それでいて、祭典は年と共に盛んになっており、光秀の研究もまた次第に進んでいる。

 殉国七士の墓や、戦争議牲者の神社も、唯単に見て貰うだけでよいのだ。
 そこに行くことにより、戦争開始の真因を改めて探究してみようとするものが、1人でも多くなれば、それでよいのだ。

 この山には毎日数千から数万のハイカーが登っているから、それらのもののうちに、
少しでも深く真実を研めようとする心が動けばそれだけで結構なのだ。

 戦犯釈放に頭から反対していた革新勢力と自称する政治家輩も、イザ総選挙となる
と、巣鴨プリズンにお百度を踏んだものだ。

新東宝の依嘱により、私がその構成に参加した映画″大東亜戦争と国際裁判”は、
参議院議員の選挙には、たいへん沢山の候補者に利用して頂けたようだ。

誠にあり


P19(-14-)
がたいことだ。

徳川を倒そうと志した山鹿素行は、由井正宙の失敗に鑑み、その志を一子万助に托した。
万助の後七代にして、これを平戸において、吉田松蔭に伝えた。
かくて松下村塾の思想は遂に明治維新の原動力をなすに至っている。その間三百年近くを費している。
戦争に負けたのだもの、当分のあいだはインチキが栄えるのも、また止むを得ないことであろう。

P20
昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
    代表 三浦 兼吉
Posted at 2019/04/26 05:53:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東京裁判研究 | 日記
2019年04月26日 イイね!

東京裁判研究:(1)弁護人はどう争ったか-清瀬氏の冒頭陳述-2/2

P30(P25)
然(しか)しながら前にも申し上げた通り、凡(およ)そ軍備というものは相対的のものであります。
当年の我国の国防計画が侵略的であったか、防御的であったかは、これと対照せられまする他国のそれと比較せねば判断はできませぬ。

一九三七年頃我国に隣接しておりました陸軍国は、ソ連と中国とこの二国であります。
中国に対しては、日本はいまだかつて全面的闘争を生ずることは予想しておりませんでした。
従って包括的の計画はありませぬ。

ソ連に関しては、ソ連の第二次五カ年計画と、第三次五カ年計画ならびにその一九三六年以後の極東軍備状況を証明いたします。
これによって我が軍備計画の性質は明らかとなるのであります。

どこの国でも参謀本部または軍令部は仮想敵国を定め、年次計画を立てることが行われているのであります。
これはその相手国と戦争する決意を証明するものではない事はいうに及びませぬ。

 ロンドン軍縮会議以後、我国の海軍の計画と、当年以来のアメリカ合衆国及び
大英帝国の計画とを比較対照することによりまして我国の海軍の計画が侵略に非ざりしことを証明する事ができます。

 自衛権の本質とその限界自体は国際法上の問題であって証明を必要としないものであります。
しかしある具体的の条約において自衛権をいかなる限度に留保しているかと言うことは
その条約締結当時の事情に照らして解釈する事が許されます。
一九二八年の不戦条約の締結の際に各国政府が為し


P31(P26)
た交渉顛末、関係者の公式発表、批准(ひじゅん)の際の留保、これらはこの条約上の
自衛権の限度を証明する資料として被告より提出いたしたいと思います。

 またハル国務長官ならびに野村大使との間に行われた一九四一年の日米交渉の際においても、自衛権の解釈が問題となっております。

この際米国側は自衛権の限度について自己の見解を表明致しました。
被告は米国側が自衛権なりとして表示した関係記録を証拠として提出いたします。

「自衛権の存立はこれを行使する国家において独自の判断をもって認定すべし」
こういう事がいわれております。

すなわち国際法においては自衛権を主張する当事者はその権利が確実に存在するや否や
は自らこれを判断する絶対の権能を有すという事は確実に承認せられた原則であります。

 日本における統帥と国務との関係はため国の人にとっては難解なことと思われます。
然(しか)しながら本件においてはある措置を採ったこと、または取らなかった事、
その責任が統帥の系統に属するか、国務の系統に属するかは重要な関係をもっております。

 これは日本憲法、特にその第十一条、第十二条の解釈に、また確定した慣行に基づくのであります。
軍事に関しても統帥責任者、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、この統帥責任者の権限と
陸海軍大臣の権限とが本件においては重要な争点であります。

その他さらに政府の各機関の権限も本件全体に関係あることであります。
被告側より証人によってこれを明白にいたします。我国軍隊における命令権と


P32(P27)
服従の義務は、多少外国と異なっております。これは平時と戦時とに区別されて観察せられます。

 ポツダム宣言ならびに降伏文書の解釈及び適用を明らかにするために具体的の証拠を出すつもりであります。
それはこういう考えから必要なのであります。

ある国が一方においてある種の戦闘方法を使用しつつ相手方に降伏を勧告する場合に
は、自ら使っている手段を正当なものとする建前で降伏勧告をするものと解釈すべきは当然であります。

 もし降伏条件中に犯罪という文字がありとすれば、この犯罪中には勧告者自身が
勧告継続中に用いつつある方法は含まれないと為すべきであります。

 これは文書又は宣言の解釈上正当のことと存じます。
それゆえ連合軍が公然と日本に対して使いましたところのものと同一型の戦法は
ポツダム宣言中の犯罪中より当然除外さるべきものと解釈されねばなりませぬ。

これによって当裁判所で犯罪として取扱われるべきものの限度が確定するのであります。
そのためにこの期間中に連合軍が採用した戦術を証明するために記録や写真や多数の証人を提出したいと思っております。

 検察官は、侵略戦争は古き以前から国際犯罪を構成したと主張し、侵略の定義を与えております。
これを指示するために多数の国際条約または協定も引用しております。
元来侵略が何であるかということを定義することは、かつてジョンパゼット・モーア氏が「理性への訴え」という一文で指摘いた

P33(P28)
しましたように実に不可能であります。かかる点に関し、ただいま法律上の議論をするものではありませぬ。
それは本件の他の段階に於いて述べる機会が与えられることと予期しております。

しかしながら検察官が引用せられた事実の内に脱落がある事を我々はこの段階において指摘する方が適当であると存じます。
検察官はまず一九〇七年のハーグ条約第一を挙げておられますが、この条約では周旋または調停はこれを絶対的義務とはいたしておりませぬ。

それは当事国は「なるべく」また「事情の許す限り」問題を周旋または調停に付することを期待せられているにすぎませぬ。
検察官は次に一九二四年の第四回国際連盟総会に附議せられました相互援助条約案を引用せらるるようであります。

この案は一九二四年の第五回連盟総会で廃棄せられております。
すなわち条約とはならなかったのであります。従っていずれの国に対しても拘束力がありませぬ。

検察官はまた一九二四年のジュネーブ議定書を引用されております。この条約案には各国代表は一旦調印は致しました。
然(しか)しながら英国の批准拒否によりまして他の国もこれに倣って批准を与えませんでした。

さればジュネーブ議定書なるものはついに条約としては成立致さなかったのであります。

 条約として成立しなかったことは、侵略戦争を国際法上の犯罪なりとなすのが当時未
熟でもあり、これを定義する事があまりにも困難であるという事の証拠として引用せられ得ると思います。

一九二八年のケロッグ・ブリアン条約もまた侵略戦争を犯罪なりと規定はいたしておりませぬ。これに


P34(P29)
ついての議論は初めに申し上げました様にこの場合は省略いたしておきます。

 本件起訴状には、訴因第三十七以下にて殺人――マーダー――なる一分類を設けております。
各種の戦争行為によって発生した人命の喪失を殺人と看做(みな)して被告人らを
起訴せんと致しているのであります。

被告弁護人は戦争による人命の喪失は殺人罪を構成するものではないと主張いたします。
これが国際法の定説であります。

またあまりにも顕著な理論であるがために、書証の引用は必要ならずと考えます。
而(しか)して戦争状態は戦闘行為の第一弾が発せられた時に発生致します。

従って訴因第三十七より四十四までに挙げました人命の喪失が戦争状態発生以後の
事実なることを立証致します。これによって検察官の主張を排斥するものであります。

 検察官は侵略戦争の場合に官職の地位にあった者は普通の重罪人、すなわち殺人犯
人、匪賊(ひぞく)、海賊、掠奪者、こういうものとして扱われ、またそれと同様に
処罰せらるべきものであると主張しておられまするが、且(か)つまたこれが
一般に承認せられた国際法上の法則であるとまで確言されているのであります。

これは国際法のできない昔々上代未聞の時代の事を言われるのでありましょうか。
 検察官は度々太平洋戦争中に起こった事件とドイツの欧州戦闘中に行った行為とを
比較しておられます。

殊(こと)に太平洋戦争中に発生しましたテロ行為、残虐事件はドイツにおいて行われ
たものと同一型のものであること、またこれらの行為は偶然に発生した個人的の不正
ではなくして、国家の政策として計画

P35(P30)
せられたものであるとまで極言されております。

被告弁護人は日本の中央政府ならびに統帥部は戦争の法規慣例は厳重にこれを守る事
ならびに一般市民ならびに敵人と雖(いえど)も、武器を捨てた者には仁慈の念をもっ
て接すべき旨を極めて強く希望したことを証明する用意があります。

それがために一九四三年一月には戦闘訓というものが作られて、兵卒には一人残らずこれを交付いたしました。
また海軍ではかねてよりこの点に関する国際法規の徹底には努力いたしました。

そして違反者は軍法会議によって裁かれたのであります。前線の指揮官は常にこの点を強調しております。

ただ戦争の末期に亙(わた)りまして本国との交通も杜絶(とぜつ)し、戦線は分断せ
られ、その司令官との通信も不能となり、食糧は欠乏し、自己の生存は刻々危険となっ
たような場合、または現地人の非道なるゲリラ的妨害を受けたような場合には、非人
道的行為が行われたであろう事は認めねばならぬと思います。

准士官および士官の労務に関しては必ずその自発的の申し出によって労務に服せしめるという事を命じております。
これらの事については第一部門において具体的に証明致します。
我国においては、ドイツにおいて行われたと言われまするユダヤ人らを迫害するというがごとき故意の人道違反を犯したことは曽(かつ)てありませぬ。

この点においてドイツの戦争犯罪の場合と非常に相違のあることを第一部門において証明されなければなりませぬ。
 第二部門は一九三一年以来、満州において犯したと主張せらるる犯罪を反証するものであります。こ


P36(P31)
れは起訴状においては訴因第二及び付属書A、訴因第十八、二十七に関係するものであります。
訴因第四十四もある程度この部門に関係することを含ませてあります。本部門及びこれ
以下の部門において被告の反証せんとする証拠物は極めて多数であります。

 リットン報告書にも「本紛争に包含せらるる諸問題は往々称せられるがごとき
簡単なるものにあらざること明白なるべし。問題は極度に複雑なり。

一切の事実およびその史的背景に関する徹底せる知識ある者のみ事態に関する確定的意見を表示し得る資格ありと言うべきなり」とリットンは言っております。

 満州国における特殊事態を証するため、日本が当年満州において持っておった権益なるものならびにその正当性もまた証明さるべきであります。

日本は何故に満州に特殊の権益を取得したか。何故に日本人は満州に出て行ったか。
日本は土地が狭く人口は多かった。
海外移民が可能であった時にはそれで一部解決せられたのでありましたが、一九〇八年
の頃、いわゆる紳士協約で事実上米国への移民を中止致しました。

この時、外務大臣小村寿太郎君は議会において「我が民族が濫(みだ)りに遠隔の外国
領地に散布することを避けて、なるべくこれをこの方面、すなわち(満州方面)に集中
し、結合一致の力によって経営を行うことを必要とするに至りましたのでございます。

政府はこれら諸点を考慮いたしましてカナダ及び合衆国の移民に関しては、
既定の方針を踏襲致しまして誠実に渡航の制限を実施しつつあ


P37(P32)
ります」とかように表明しております。
この表明は我国では米国側の了解を得た上のことであると了解せられております。

この演説の全文は証拠として提出せられます。米国との関係においては、一九一七年十
一月二日には、ランシング国務長官と石井全権(日本特命全権大使石井菊次郎)との間に一つの協定が出来ました。

その協定の一部においては「合衆国政府ならびに日本政府は領土の接近せる国家の間には特殊の関係を生ずることある事を承認する。

従って合衆国政府は日本が支那において特殊の利益を有する事を承認す。
日本国の所領に接近する地方において特に然(しか)り」という文字が載っております。

この約束はその後、取り消されましたけれども、それまでの間に我が国および我国民は満州において多くの事を成しておったのであります。

これら既設の事項は石井・ランシング協定の取り消しによって除かれぬ(注:文脈から考えると「る」の間違いでは?)ことになってしまいました。

 当時満州にあった政権は日本と緊密なる提携の下にその勢力を維持しておったのであ
りますが一九二五年から全中国に国権回復運動が台頭いたしました。満州における情勢も大いに変化しました。

一九二八年に張作霖の爆死、満州政権の易●がありました。次いで国民党支部の満州進
出を見るに従いまして、日満の紛争は遂(注:「逐」の誤植では?)年増加したのであります。

一九三一年においては未解決の案件は三百件に及んでおるのであります。以上の事柄も証拠によって証明致します。
 日本は条約および協定によって関東州および満州における権益保持のために関東軍を駐在するの権利


P38(P33)
を持っておったのであります。

一九三六年の関東軍の兵力はわずかに歩兵八大隊と砲兵二中隊と一独立守備隊、兵隊の数にしまして一万四百に過ぎませんでした。
これは一九五〇年のポーツマス条約の追加条項による在満鉄道一キロにつき十五人という制限以下の数であります。

これに対して張学良の統括指揮しておりました軍隊は正規軍二十六万八千、不正規軍がこのほかに大きな部隊がありました。

関東軍は二十余万の支那軍により包囲せられましたわずかに一万四百の小兵力に過ぎませぬ。
しかもその任務は南万鉄道線路1千キロメートルの保護と広範なる満州の地域に散在しておりまする百二十万に達する在留邦人の保護を任務としておったのであります。

斯様(かよう)な状態でありますから、一旦事が起きれば自衛のために迅速な行動を取る必要に迫られておったのであります。

 検察団は一九三一年九月一八日夜の鉄道爆破事件を日本側の策謀によるものであると主張しておられます。
 被告側においては実状を証明するために証拠を提出致したいと存じます。

いずれにしてもその当夜、軍隊的衝突が発生しました。
既にこれが発生しました以上は関東軍においては軍自体の自営と軍本来の任務のために
中国軍を撃破しなければなりませぬ。
この間の消息は当時関東軍の司令官たりし故の本庄大将の遺書によって証明が可能であります。
我が中央(政府)においては事態の拡大を希望せず、なるべく速やかに解決せんと欲し
ましたが事件はその希望に反して逐次拡大してゆきました。その真相ならびに

P39(P34)
連盟理事会と米国側との態度については適切なる証拠を提出致します。

 またその真相は既に証言や書証によって検察側からも示されたものであります。
 一方、関東軍が自衛のために在満中国兵力と闘争しておりまする間に、満州の民衆の間にいろいろな思想から自治運動が発生しました。

これらの思想は保境安民の思想、共産主義に反対する思想、蒙古民族の支那共和国より
の独立運動、張学良に対する各地政権ならびに将領(しょうりょう。軍を指揮する人。
将軍。)の不平不満、清朝の復辟(ふくへき。一度退位した君主が再び位に就くこと。)希望等であります。

一九三二年二月には東北行政委員会ができまするし、三月一日には満州国政府の成立となりました。
以上の大略はこれを証明するでありましょう。

 かつて満州建国後においては、日本出身者も満州国人民の構成分子となることが許さ
れ、また満州国建設後には満州国の官吏となって育成発展に直接参与したことは事実であります。
しかしそれは建国後のことであります。
 
 現に一九三一年九月には。日本の外務大臣及び陸軍大臣は在満日本官憲に対して、
新政権樹立に関与することを禁ずる旨の訓令を発しております。
換言すれば、満州国政権の出現はリットン報告の如何にかかわらず、満州居住民の自発
的運動でありまして、このことは証拠によって証明致します。

 満州における事態は、一九三三年五月には一段落となりました。一九三五年、六年の間には中国側においても事実上の地位を承認せんとしております。
世界のほかの各国も逐次、満州国を承認しまし


P40(P35)
た。殊に一九四一年には、本法廷に代表検察官を送っておりますソビエト連邦は
満州国の領土的保全および不可侵を尊重する契約を致したのであります。

 第三部は中華民国との関係であります。
これは訴因としては、第三、第六、第十九、第二十七、第二十八、第三十六、第四十五
ないし第五十、第五十三ないし第五十五に関係いたしております。

 かの一九三七年七月七日の盧溝橋における事件発生の責任は我方にはありませぬ。
日本は他の列国と一九〇一年の団匪(だんぴ。集団をなす匪賊 (ひぞく) 。義和団 (ぎ
わだん) の異称。)議定書によって兵を駐屯せしめ、また、演習を実行する権利を有しておりました。

また、この地方には日本は重要なる平常権益を有し、相当多数の在留者を有しておったのであります。
もしこの事件が当時日本側で希望したように局地的に解決されておりましたならば、
事態は斯(か)くも拡大せず、従って侵略戦争が有りや否やの問題には進まなかったのであります。

それ故に本件においては中国はこの突発事件拡大について責任を有する事、また日本は
終止符拡大方針を守持し、問題を局地的に解決する事に努力したことを証明致します。

近衛内閣は同年七月一三日に陸軍は今後とも局面不拡大現地解決の方針を堅持し、
全面的戦争に陥るごとき行動は極力これを回避する。
これがため第二十九軍代表の提出せし十一日午後八時調印の解決条件を是認してこれが実行を監視す、と発表しております。

しかるにその後、支那側の挑戦は止みませぬ。廊坊(現在の河北省にある行政区)にお
ける襲撃、広安門事件の発生、通州の惨劇などが引き続き発生しました。

中国側は組織的な戦争体制を備えて七月十二日には

P41(P36)
蒋介石氏は広範なる動員を下令したことがわかりました。一方、中国軍の北支集中は
いよいよ強化せられました。豊台にある我軍は支那軍の重囲に陥り、非常なる攻撃を受けたのであります。

そこで支那駐屯軍は七月の二十七日にやむをえず自衛上武力を行使する事に決しました。
書証および人証によってこの間の消息を証明致します。

 それでも日本はやはり不拡大方針をとって参りましたが、蒋介石氏は逐次に戦備を備
えまして、八月十三日には全国的の総動員を下令しました。

同時に大本営を設定いたしまして自ら陸、海、空軍総司令という職に就きました。
全国を第一戦区【●察方面】、第二戦区【察普方面】、第三戦区【上海方面】、第四戦
区【南方方面】に分かちて、これに各集団軍を配置して対日本全面戦争の態勢を完備しました。

 外交関係は依然継続しておりましたが、この時期には日支の間に大規模な
戦闘状態が発生したのであります。

以上の緊迫状態に応じて我方では北支における合法的権益を擁護するために
遅れて八月三十一日に至って内地より北支に三個師団の兵力を派遣するとともに
また駐屯軍を北支方面軍と改称致しました。

その司令官に対しては平津(へいしん)地方の安定を確保する相手方の戦闘意思を挫折せしめる。
戦局の終局を速にすべきことを命じました。
かくのごとく、この時に至っても我方においては北支の明朗化と該地方における
抗日政策の●棄を要求しておっただけであります。



P42(P37)
 日本政府はこの事件を初め北支事変と称して事態を北支に局限しうるものと考えておりましたが、これが八月中には中支に飛び火致しました。
その原因については、別に説明致します。

支那側は、一九三二年英米その他の代表の斡旋によって成立致しました上海停戦協定を
無視して、非武装地帯に陣地を構築し、五万余の軍隊を上海に集中いたしました。

この地にあった日本の海軍陸戦隊はわずかに四千名にも足りませぬ。
かくて日本の在留者の生命と財産は危機に陥ったのであります。

このとき我が海軍特別陸戦隊の中隊長大山中尉が無残にも射殺されたのであります。
日本は八月十三日に在留民の生命財産を保護するために上海へ派兵する事を決定致しました。

中支における闘争が開始しましたのは実にかくのごとき事情の下においてであります。
換言すれば、事件を拡大してその範囲及び限度を大きくしたものは中国側であります。
 我々は、以上の事実に関し承認を申し出(い)で、戦闘開始の責任の御判定に資せんとするのであります。

 中国との闘争は支那事変と称しまして、支那戦争とは称しませんでした。
戦争状態の宣言又は承認はいずれの当事者よりも、また、他の国よりもなされません
で、蒋介石大元帥も一九四一年太平洋戦争の発生するまでは、我国に向かって宣戦を布告しませんでした。

これは欧米の人々にはまことに奇異に感ぜらるる事と思います。
しかし我が方の考え方はこうであります。この闘争の目的は支那の当時の支配者の反省
を求めて、日本と支那の関係を本然の姿に立ち戻そうとするのであります。
中華民国の


P43(P38)
一部分に実際に排日運動を巻き起こしたのは、中国共産党の態度によるのであります。

蒋氏は世間を●動した、かの西安事件以来、共産党を認容するに至っておりまするが、
日本政府は、この時大元帥の行動は遺憾なる一時的の脱線であると見ておったのであります。

当初は日支の間には外交関係は断絶してはおりません。また、両国の条約関係は依然効力を保持しておりました。
降伏してきました中国兵はこれを釈放しました。
日本在住の中国人は敵人としてこれを扱わずその生業を営むことを得しめたのであります。

また中国に対し宣戦を布告しなかった目的の一つは戦争法規の適用によって、
第三国人の権益を制限せぬようにしようというのでありました。
しかしながら我国の希望に反して、戦闘はだんだんと拡大していきました。

その結果、占領地における第三国人は自らある程度の影響を受ける事は免れぬことに
なっていきました。
それが日本とイギリスとの間に一九三九年七月、いわゆる有田・クレーギー協定ができた所以であります。

 もしこれが宣戦した戦争でありましたら、かえって九カ国条約適用の問題も生じなかったかと存じます。
何となればその場合には中国と日本に関する限りは条約の効力は自動的に効力を失うか、少なくとも戦時中効力は停止さるるからであります。

しかしながら実際は中国も日本も双方とも宣戦はしませんでした。
そこでかの九か国条約の適用の問題が生ずるという矛盾した状態に逢着(ほうちゃく。行き当たる、の意)したのであります。


P44(P39)
 九か国条約が成立しました一九二二年と支那事変がおこりました一九三七年との、こ
の十五年の間に、東亜の天地には五つの異常な変化が起こっております。

その変化の第一はこうであります。九か国条約以後、中国は国家の政策として抗日侮日政策を採用しました。
不法に日貨排斥を年中行事として続行するに至った事であります。
中国は反日感情が広く青年層に伝播するようにと公立学校の教科書を編集しております。排日教科書。

 その二は、第三インターナショナルがこの時代に日本に対する新方略を定めて中国共
産党が、かの指示に従いかつ蒋介石政権もこれを容認したことであります。

 その三は、華成頓会議で成立しました支那軍隊削減に関する決議がひとり実行せられ
ざるのみならず、かえって支那軍閥は以前に何倍する大兵を擁し、新武器を購入し、
抗日戦の準備に汲々(きゅうきゅう)たる有様であったことであります。

 その四はソ連の国力が●来非常に増進した事であります。ソ連は九か国条約当時これに参加しておりませぬ。
従ってその条約の拘束を受けませぬ。そして三千里に亙(わた)るソ支両国の国境を通
じて異常なる力を発揮してこれに迫って参りました。
実に外蒙古を含む広大なる地域は中国がその主導を主張しておりまするけれども、
実際はソ連の勢力下に置かれたのであります。

 その五は、九か国条約締結以前世界の経済が、経済的国際主義より国内保護主義への転換を示し


P45(P40)
てきたことであります。

 九か国条約は終了期限のない条約であることに注意しなければなりません。
この五種類の事情が如何(いか)に帰着するかは後に明白となりましょう。
提出せらるべき証拠は自らその内容を語るものでありましょう。

ただ●に申し上げる事はかくのごとき状態において九か国条約は非現実のものとなりました。
その厳格なる実行は不可能に陥りました。
しかも中国も日本も宣戦はしておりませんが、大きな戦闘に進んでおりました。

この場合、占領地であろうとなかろうと、中国の領土に九か国条約の文字通りの実行は
実際上不可能になってしまったのであります。

被告側ではかかる場合にこの条約を文字通りに実行しなかったという事が、
必然的に犯罪を構成する道理はないと主張致します。

この前提の下において、以上の五点が条約当時考えてられておった状況を変更し、
条約の効力適用を無力ならしめた事を証明するのであります。

 検察官は、被告は、経済侵略について責を負うべきものと致しております。
弁護団は中国において何ら経済侵略はなかった事を証明するでありましょう。
さらにまたいずれにするも経済的の侵略はそれ自体犯罪ではありませぬと主張致します。

 麻薬に関する検事の主張につき上申致します。検事の主張は、日本は一方において
麻薬を中国に販売する事によって中国人の戦意を挫き、他方においては、これによって戦費を得たというので


P46(P41)
あります。

 裁判所のご注意を願いたき事は、我国はかつて台湾において阿片吸飲者を殲滅した
特殊の経験を持っておることであります。

 台湾において---その日本の統治下にあった時代には、阿片専売及び統制をしきま
して、これによって阿片の取引を禁じ、漸次(ぜんじ。だんだん、の意)阿片癒者の数を減少しました。

 中国では主としてその西洋との交通の結果、阿片の吸飲は古くかつ広く行われた慣習でありまするが、
日本は出来うる限り今申し上げた経験を中国に利用したのであります。

 この点に関して具体的事実と数字を挙証し、また阿片売買の収入が戦費に使用されざりし事を証明致します。
最後に被告中に、この事に関係を持った者の存在せざることも上申致します。

 日本の一部の軍隊によって中国において行われたという残虐事件は遺憾な事でありました。
これらはしかしながら不当に誇張せられ、ある程度捏造までもされております。

 その実情につき出来る限り真相を証明致します。日本政府ならびに総帥責任者はその
発生を防止することを政策とし、発生を知りたる場合には、行為者にこれに相当するの
処罰を加うることに努めております。

 元来中国の国民との間には親善関係で進むことが日本の顕著なる国策の一つでありまして、また現


P47(P42)
在も左様であります。
それゆえ中央政府にあり、また派遣軍を嘱託されておったような軍の幹部がかかること
を軽々しく行ったり、またこれを黙過するという事のあるべき道理はありませぬ。

我々は被告の誰もがかかる行為を命じたり、授権したり、許可したり、ならびにそうい
う事のないこと、この点に関する法律上の義務を故意に、または無謀に無視した事のない事を証するために
あらゆる手段を尽くすでありましょう。

第四部門たるソ連関係の事は起訴状においては共謀に関する訴因の外には訴因第十七、
第二十五、第二十六、第三十五、第三十六、第五十一、第五十二等であります。

殊に張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)、ノモンハン事件は各々協定済みの事件であります。
またその後一九四一年四月、日本とソヴィエトとの間に中立条約を締結したことによっても疑問の余地はありませぬ。

 かつまた張鼓峰事件なり、ノモンハン事件は、いずれもソ連と満州との間の国境の不明なるがために発生した紛争であります。
いわゆる侵略戦争の型に入るべきものでない事は言を待ちませぬ。
満州国とソ連との国境が確定されたならば、その係争はその時その場で解決されるのであります。

なおこの争いにおいて日本側主張の国境が正当であったことは我々の提出する証拠によってこれを証明致します。
当時かかる紛争が東京政府または関東軍の計画によるものではないということは特にここに


P48(P43)
付言せらるべきであります。
右両事件における軍派遣の状態は日本がソ連に戦を挑む意思のなかったことを確に証明するのであります。

我々はまた当時日本では日本語で「対ソ絶対静観」方針と名付ける方針を立て、これを遵守しておったのであります。

 ソ連を代表する検察官は我国参謀本部の一九四一年の年次計画を示す事によって日本の侵略意図を証明せんと努められました。

が、しかしながらかくのごとき計画は仮定的のものであり、仮定された戦争が起こった場合でなければ実施せられるものではない事は記憶されねばなりませぬ。

 我々の考えではいずれの国においてもかくのごとき計画を有します。
これを有っても他国の疑を受けるものではありませぬ。これは単に各国の軍当局が義務として作成すべきものであります。

 かかる計画が単に存在していたという事で一国政府の敵意の存在を決定すべきものではありませぬ。
本陳述の始めにも述べました通り、一国の兵力の準備は他国のそれとの対照によって判然しなければなりませぬ。
それで初めて攻撃的なりや否やを判定する事ができるのであります。

我々はソ連が一九三六年、日独に対する同時攻勢作戦を立てた事を証明致します。
一九三九年すなわちノモンハン事件の起こった時以後においては、バイカル以東のソ連の兵力は我が満州と朝鮮とに持っておった兵力の二倍という原則を立てました。

検察側は一九三一年に日本が満州の兵力を強化した事を強調されましたが、一九三一年に満州に相当の兵力を持ったことは事実であります。

しかしこれらの兵力は全く防


P49(P44)
御的のものでありました。
これを証するものとしては、その時代における前記ソ連の増兵、ならびにソ満国境におけるソ連軍の情勢よりも有力なる証拠はありませぬ。

殊に一九四五年八月、この時はソ連が我国との中立条約を持っておりましたが、これを
無視して、早くも虎頭(現・中国黒竜江省鶏西市虎林市虎頭鎮。満州国だった頃には
大日本帝国陸軍の要塞があり、国境を接するソ連からの満州防衛を目的とする関東軍
の主要拠点の一つだった)南方より越境して来て引き続き満州国に侵入してきました。

さらに驚くべきはこの決意は既に一九四五年二月十一日にヤルタで為されております。
これは明らかに当時なお日ソの間に効力のありました中立条約の違反であります。
我国が満州においてとりたる防御的措置が当然であった事はこの事情によっても決定的に証明されているのであります。

 我々は●に第五部門、太平洋戦争の説明に到達致しました。これは訴因中、きわめて多方面にわたっております。
訴因第一、第四、第五、第七ないし(=から。以下同様)第十六、第二十ないし第二十
四、第二十九ないし第三十四、第三十七ないし第四十三、第五十三ないし第五十五等に関係しております。

この件につき証拠を規則正しく提出するため、上記訴因のあるものについては、更に小
部門を設けて後に別に詳細に取り扱うでありましょう。

 戦争前に日独伊三国の密接関係が成立しておりましたが、これは太平洋戦争準備のためではありませんでした。
我々はこれを証明するため、適当な証拠を提出いたします。
一九三六年の第七回国際共産党大会では、その破壊的目的をまず日独両国に置くということに定めました。

それゆえ両国は自


P50(P45)
衛上これに対処する策を立てねばなりませぬ。
殊(こと)に日本としては、これは寒心に堪えぬ(=恐怖を感じる)ことでありました。
共産主義は隣邦中国に政治的、社会的革命を使●(口へんに族。読み方不明))してこれを淵に投ぜんとしておったのであります。

ソ連からは革命技術と人的援助という貌(かお)で補助の手を延ばして参りました。
これは一九二三年の孫文・ヨッフェ間に相互共鳴の共同宣言以来、継続されたのであります。
これは日本帝国の安寧上、最も危険な事でありました。

 かくの如くして日本と第一にはドイツとの間に共産主義に対する共同防衛が成立して、次にはイタリアとの間にも同様条約が成立しました。
中国と日本との間の共同防共の原則は、外相広田氏によって提案せられました。

後には一九三八年の近衛声明にも包含せられたのであります。
赤化防止につき共同の利害を有しているので、日本とドイツが締結したのが共同防共協定であります。
一九三六年十一月二十九日の協定がそれであります。
これが後日、日米英戦争を予期してつくったものでないことは説明を要しませぬ。

現にこの協定の第二条にはこう書いてあります。
「締約国は共産インターナショナルの破壊工作により、国内の安寧を脅かさるる第三国
に対して本協定の趣旨により防衛措置を採り、また本協定に参加する事を勧誘すべし」
またそのいわゆる秘密諒解事項というものも何ら他国の侵略を意味するものではありませぬ。

該諒解事項はソ連が締約国の一国に戦を挑んだ場合にソ連の負担を軽からしむるようなことは為さぬという極めて消極的なものでありました。

一九三九年に、


P51(P46)
防共協定強化のために日本とドイツが交渉をしたことがありますが、これはドイツとソ連の不可侵条約によって突如中止されました。
これとても英米への反対を目的としたのでは決してありませぬ。

 一九四〇年九月二十七日の日独伊三国同盟は最も顕著な条約でありますが、この条文は簡単であります。
この条約も日米戦争を目的とするものではありませぬ。この条約において考えられました事は、むしろ日米間の戦争を避ける事であります。

 証拠は、ドイツと日本とイタリアとの間に有効な協力のなかった事を示し、かつまた
ドイツが日本に対して、ソ連に対する戦争に参加すべき事を強調した事を証明するでありましょう。
しかし日本はこれを拒絶しております。

 ドイツは対英戦争につき日本の援助を求めましたが、日本はドイツと協同することをこれまた拒絶しております。
むしろ独立の行動に出ております。

 ドイツは合衆国を戦争の外に置くべく交渉しました。これは成立しませんでした。
証拠はマーシャル将軍が戦時中、米国大統領に対する年次報告において、日独両国の間に軍事共同はなかった事を述べておる事実を証明致します。

 一九四一年秋以前の日本の計画経済、陸海軍備はすべて防衛的であります。
また太平洋戦争を予期して立てられたものではありませぬ。
米英の海軍と日本の海軍の比較ならびに日本海軍の年次計画はそ


P52(P47)
れ自身、非侵略的のものであることを決定的に証明致します。

検察側は我が海軍が委任統治領を要塞化し、これに基地を設けたと主張されるのであります。
しかしこれは事実ではありませぬ。要塞とは陸海空よりする攻撃に対抗する一定の防備施設のある事を必要とします。

基地とは艦隊に対する補給施設のある事を必要と致します。
この島々に当時敷設されましたものは、条約上許可さるべき交通通信の平和的な施設な
いしは海軍がその付近に演習用として設けた一時的施設に過ぎなかったのでありまして、全てこれは許さるべきものであったのであります。

 残虐事件および俘虜虐待に関しては、被告人中の多くの者は法廷において発表せられるまではこれを知らなかったのが事実であります。
被告中の他の者はこれを知ったとしても、これを制止する権能を有しておりませんでした。

さらに他の者はこれを制止するため、またこれを知った場合にこれを処罰するに全力を尽くしました。
また証拠は犯行が行わるる以前にこれを止める有効手段のなかった事も証明するでありましょう。

さらにこれはいかなる被告も残虐事件につき共同謀議をなしたり、命令を下したり、授
権をしたり、許可した事はなく、この点に関する戦争法規慣例を故意にまたは、無法
に法律上の義務に反して無視した者のない事を証拠をもって提出するでありましょう。

 我々は今太平洋戦争の原因自身を証拠する段階に到達いたしました。
これは慎密(しんみつ。つつしみ深くて、よく注意の行き届くこと。また、そのさま。)かつ重要なる研鑽を必要といたします。
我々はこれが真に日本の生存のためにやむにやまれぬ事情の下に自衛権を


P53(P48)
行使するに至った事を証明するでありましょう。

裁判所のご注意を乞いたいのは、日本は一九三七年以来、心ならずも中国との間に戦争
にも比すべき大きな闘争状態、しかも各国よりは戦争として認められておらんものに巻き込まれておった事実についてであります。

 日本は第三国においては、当然この特殊の状態を承認して下さるものと期待しておりました。
一九三九年天津事変に端を発しまして、日英交渉を成した結果、イギリスは前に言及し
たように同年七月二十二日に、我が国との間に共同声明を発して大規模の戦闘行為中
なる中国における現実の事態を承認する旨を声明したのであります。

華盛頓(ワシントン)政府がこの声明をどう諒解したのか我が方においては不明である
が、しかしながら一九三四年七月二十六日に、突如一九一一年以来両国通商の根本で
あった日米通商航海条約廃棄を通告したのであります。

これより両国間の誤解はだんだん増大していったのであります。

爾来(その後、それ以来、の意)米国は我が国に対し種々なる圧迫と威嚇を加えてきたのであります。

 その第一は経済的の圧迫でありました。
 その第二は我が国が死活の争いをしている相手方、蒋介石政権への援助であります。
 その第三は米国、英国及び蘭印が中国と提携して我が国の周辺に包囲的体形をとる事でありました。

以上三つの方法は一九四〇年以来逐次用いられ、ますます強度を加えてきました。

第一の我国に対する経済圧迫の標本を挙げてみますと、米国は一九三九年十二月には
モーラル・エンバーゴー(道義的輸出禁止)を拡大し


P54(P49)
まして、飛行機、その装備品、飛行機組立機械ならびにガソリン精製の機械を禁止品目に追加して来ました。

米国政府は一九四〇年七月中には我国に対し屑鉄の輸出禁止を行いました。
屑鉄は当時我国のとっておった製鉄法から見て極度に必要なるものであります。
その禁止は我国の基本産業に重大打撃を与えました。同年八月には米国は航空用ガソリンの輸出を制限しました。

日本は全体として年に五百万トンの石油の供給を受けなければなりませぬ。
これは国民生活上及び国防上の必要の最小限であります。
しかるに我が国産の石油は非常に大きく見積もって年三十万トンを出でぬのであります。

この間の不足は海外よりの輸入により補うの他はありませぬ。
そこで我国は東亜における唯一の石油の供給国でありました蘭印(オランダ領インド)
に対し小林商工大臣を派遣し、後また芳沢大使を派遣し、蘭印との交渉を続けようと
致しましたけれども、ついに商談は不調に陥ってこちらの努力は水泡に帰したのであります。

これは蘭印が米英と通じての態度であると了解せられております。
これと同様の妨害は仏領印度支那(フランス領インドシナ)及び泰(タイ王国)の当局よりも実施せられました。

すなわち我国の正常なる必需品、コメの輸入及びゴムの輸入は妨■されたのであります。

 第二の蒋政権への援助はどうであるか。
一九四〇年十一月三十日の我国と蒋政権との日華基本条約締結に対して明に報復の意味
をもって米国は重慶に対して五千万ドルの追加借款を供与し、更に別に法幣安定資金として急速に五千万ドルを提供する事が考慮せられつつあると発表し、英国政府

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も十二月十日には一千万ポンドの供給を発表しました。

英国の重慶に対する武器供給は言わずもがな、一九四〇年、雨季明けには英国はビル
マ・ルートを再開して直接、武器、軍需品を我国の当時敵としております蒋介石政権に供給したのであります。

仏領印度支那も重慶への供給路として使用せられました。
加うるに一九四一年に武器貸与法が中国に適用せられることとなったのであります。
我々はこれらの事実を証する直接の証拠を提出いたします。

遂に我々は第三点、日本の周囲に数か国によって張り巡らされた鉄環のことに到達致します。
一九四〇年十二月には米国太平洋艦隊の主力をハワイに集中いたしました。

すなわち対日示威が行われたのであります。
英国は同年十一月十三日、シンガポールに東亜軍司令部を新設いたしました。 

マレー、ビルマ、香港をその総司令官の指揮下に置き、豪州およびニュージーランドとも緊密に連絡をいたし、東亜英領の総合的軍備の大拡張の実施に着手したのであります。
この間、米英蘭支の代表は引き続いて急速に各所において連絡をいたしております。

 殊(こと)に一九四一年四月、マニラにおけるイギリス東亜軍総司令官、アメリカの
比島(フィリピン)駐在高等弁務官、米国アジア艦隊司令長官、和蘭外相との会談は
我方の注意を惹いたのであります。

同年六月中旬にはシンガポールにおいて英蒋軍事会議が行われたのであります。
 これらの詳細は証拠によりこれを証明いたします。これらの急迫した諸表現に対処して、日本政府は


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緊急の災害を避けるために、各種の手段を採用しました。

すなわち一九四一年春以来、在米日本大使は悲しむべき緊張が終了して日米の関係を円滑にするために最善の努力をせよと要請せられたのであります。

大統領と日本大使との会見及び国務長官と日本大使との交渉は数十回に及んでおります。
東京政府はなんとか平和的妥結をみたいと、あらゆる努力を集中致しました。

日本の総理大臣は米大統領に太平洋のどこかで直接会見をして事を一挙に解決せんとしたのであります。
この目的のために米国へ大使を増派した事もありました。
また七月中旬にはアメリカとの交渉を遂げるためというので、内閣を変更したのであります。

これは独立主権国として外交の必要上なしうるべき最後の措置であります。
しかし全ての努力は何らの効果も無かったのであります。

 一九四一年七月二十七日には、米国政府は我国の在米全資金の凍結を行いました。
これは我国の仏印への平和は兵を誤解しての措置であります。
英国及び蘭印も直ちにこれに倣(なら)いました。

我国とイギリス及びオランダとの間には通商航海条約は当時現存いたしておりました。
従って英および蘭の日本資金凍結令はこの条約に違反してなされた違法なものであります。

 裁判所の許可を得て申し上げたいことがあります。
元来我国は国内生産のみにては全国民を養う事は全く不可能であります。
従って、貿易によって国民生活必需品を輸入する他は内地在住者の生命を維持する手段はないのであります。

米、英、蘭の資金凍結によって我が貿易の半ば以上は失わ


P57(P52)
れ、過去八十年間の営々たる労苦は一空に帰してしまいました。
これが、正当に又は違法に米英蘭によって実行せられました資金凍結の結果であります。
日本国民の不可侵の生存権は遂に奪われたのであります。

ちょうどその時米国は七月二十四日の野村大使に対する通告通りに八月一日に
石油輸出禁止を発令いたしました。日本の海軍は現在貯蔵の油を消費した後は移動性を喪失いたします。
支那事変は事実上解決不能となります。我が国防は去勢せられたこととなります。

ここに自衛権の問題は冷ややかな現実問題としての全国民の眼前に姿を現わして来たのであります。
しかもそれは即座の解決を要することであります。

 一言にして言えば、自衛権成立の基礎的事実はこの時期に十分に完備したのであります。
しかしながら日本はこの時においても、直ちにこの自衛権を行使しませんでした。

それとは反対に、忍ぶべからざるを忍んで、なんとか戦争の原因となり得るものを
取り除こうと努力したのであります。
この間の努力は有力にしてかつ信憑力強き証拠をもって証明せられます。

 日本の平和への願望、日本の真摯(しんし)なる努力は遂に実を結びませぬ。
一九四一年十一月二十六日の米国の通告は以上の自衛権構成事実のただの一つも
これを除くことの不可能であること明白疑いなきものといたしました。

ここにおいて日本の政府は部内の各機関の意見及び観察を徴し、最大の注目を払い、
遂に自衛権の行使を為すの外なきに立ち至ったのであります。それは十二月一日でありました。


P58(P53 )
ただし開戦の現実の期日を決定した後でも、軍令には最後の瞬間までこの急迫事情の一
つにても取り除かれ、米国との関係妥結が成立すれば、全て従前の指令を撤回するの条件が付してありました。
この場合には連合艦隊は近海に帰り戻ってくるのであります。

 検察官は我国の開戦意思の通告に欠くるところがあるがため、犯罪を構成するという意見を立てておられます。
 弁護人はこの点につき次の事実を主張し、かつ立証するでありましょう。

まず我国の通告書の交付の時間ならびにその経緯について次の事を証明いたします。
一九四一年十二月六日(ワシントン時間)には東京外務省はワシントンの日本大使に対し、英文の対米覚書を決定した旨、通告いたしました。

そしてこれを米国側に提示する時期については別に電報するであろうが、電報到着の上
は何時にても米国側に交付しうるよう文書の整理その他、万端の整備をなしおくように、この電報は命じているのであります。

これらの電報はすべて米国側に傍受されているのであります。
右通告文は十四部に分(わか)たれておりますが、そのうち十三部は六日夜にワシントン大使館に到着しております。

米国側はこれをも傍受し、六日午後九時半ごろに大統領はこれを読んでおります。

最後の第十四部もまた十二月七日に米国側で傍受しております。
この部分の到着と前後して重要なる通告交付の時間を指定した電報が大使館に到着しております。
その時間は午後十一時であります。そこで野村大使は右交付のために、


P59(P54)
国務長官コーデム・ハル氏に午後一時に面会するの約束をしたのでありました。
この約束通りにこの通告が一九四一年十二月七日午後一時に交付されておりましたなら
ば、この交付はワシントン時間に換算して午後一時二十五分に始まった真珠湾その他の攻撃よりも前になるのでありました。

 しかし大使館における電報の解読と印字に時間を取りまして、検事立証の如くに実際
は野村大使は二時に国務省に到着したのであります。二時二十分に通告書を交付したのであります。

野村大使が国務省到着後、直ちに通告書を交付しえたならば、真珠湾攻撃後三十五分となります。
二十分待たされたがため、これが五十五分の遅延を生じました。

 東京政府は七日午後一時すなわち軍隊の作戦開始より半時間前には、安全に通告文の
交付ができるように電報の大部分を前夜に電送し、ごくわずかな部分がその日の午前に到着する様、発送したのであります。

もし事務が順調に行っておったならば、この通告は予期の通りに攻撃前に交付し得られたのでありましょう。
ただ東京においては、支配する事の出来ない出来事によって交付は遅れました。

この事実を弁護人は適当なる場合に正当に証明いたします。
 なお真珠湾攻撃が不意打ちでなかった事について、貴裁判所のご判断の資料として役立つであろう次の事実を証明します。

アメリカ国務省の当局は一九四六年十一月二十日付をもって日本が米国政府に交付しました通告を最終的のものと看做(みな)しております。
二十六日以後は全事件を軍当局の手に委


P55
ねた。すなわち一九四一年十一月二十七日朝、国務省の最高当局は日本との関係事項は陸海軍の手中にあると述べております。

そして同日に海軍作戦部長および陸軍参謀部長は、ハワイ地区の軍隊に対しで----、戦争警告ウォー・ウォーニングを送っております。

 前にも述べた如く米国当局は十二月六日夜には最終部分を除いた日本の通告を解読しました。
最終部分は十二月七日早朝に解読し、大統領は同日午前十時にはこれを受け取っております。

 米国陸軍省、海軍省は共に外交関係断絶の近きにある事を示す通信を入手し、推測により攻撃の急迫していることは予知しえているのであります。

ハワイ地区司令部は日本をして最初の公然たる攻撃をさせるように導くべしという事は、その防御を危険ならしむる行動を制限するという意味ではないとの訓令を受け取っております。

また同司令部は日本の攻撃前に偵察を実行すべしとの指令も受け取っております。
そこで十二月七日午前六時三十三分より六時五十五分までの間(これはハワイ時間)、米国海軍がハワイ近海において日本の小型潜航艇を撃沈したのは怪しむに足りませぬ。明瞭であります。

我々は十二月七日の午前七時五十五分(ハワイ時間)における真珠湾攻撃がサプライズ・アタックではなかった事を証明するため、小型潜水艦撃沈の事実を引用するのであります。

 検事はさらに右問題たる日本の通告分はヘーグ条約第三に規定せられた理由を付した開戦宣言に該当せざるものなりと論じております。およそ文書の解釈は単にその字句だけでなく、これが作成せら


P61(P56)
れた時の状態を注意深く秤量したうえでなされねばなりませぬ。
またかくの如き文書は常に用語や章句のみでなく、これを全体として解釈すべきであります。
当時の空気より見れば、米国当局の或(あ)る者は前述のごとく十一月二十六日以後に
おいてはもはや問題は政府当局の手を離れて軍に移ったと言っている。

日本の外交文書は極めて長文で二千六百語に及んでおりますが、これを一体と見ねばなりませぬ。
そのうちには米国の態度を非難し、日本が軍事行動を執るの外、方法が無い事を明白にしております。

すなわち日本が米国の態度を了解する事は困難なりと述べた後に、右通告分は次のごとく記載しております。
いわく「世界の平和は現実に立脚し、かつ相手方の立場に理解を保持した後、受諾しう
るべき方途を発見する事においてのみ実現しうるものにして、現実を無視し一国の
独善的主張を相手国に強要するの態度は交渉の成立を促すゆえんのものに非ず」、
曰く「合衆国政府はその自己の主張と理念に魅惑せられ、自ら戦争拡大を企図
しつつありと言わざるべからず」、
曰く「合衆国政府はその固辞する主張において、武力による国際関係処理を排撃し
つつある一方、英国政府その他と共に経済力による圧迫を加えつつあり。
かかる圧迫は場合によっては武力圧迫以上の非人道的行為にして、国際関係処理の手段として排撃せらるべきものである」、
曰く「合衆国政府が帝国に対し要望するところは(中略)いずれも支那の現実を
無視し、東亜の安定勢力たる帝国の地位を覆滅せんとするものである。
米国政府のこの要求は前記援蒋行為停止の拒否と共に合衆国政府が日支間に平和状態の復帰及び東亜平


P62(P57)
和の回復を阻害するの意思あるものなる事を立証するのである。」

 これを要するに、通告の上記部分は、日本はさらに交渉を続くるの希望を失い、
真に自衛のため最後の手段を採るのやむなき様に追い詰められた事を明白にするのであります。

 一九四一年十二月六日夜に、日本の通告の第十三部分までが大統領に達した時でさえ
も彼はこれを読んで「これは戦争を意味する」”This means war,”と言っております。

 通告分の最後の部分においては「日米の国交を調整し米国政府と相携(あいたずさ)
えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は遂に失われたり。

仍(よ)って帝国政府は●に合衆国政府の態度に鑑み、今後交渉を継続するも妥結に達
するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」とあるのであります。

 これは外交関係断絶の通告と同一価値であります。
また当時存在しておった緊迫した情勢から見れば、疑いもなく日本が戦争を開始せんとする意思の表明であります。

 必要なる各種の制限によりまして、私のこの陳述では最も重要なる争点のみに言及しただけであります。
その他に多数のほかの事項が残っておりますが、これらは、前に申し上げました通り、他の部門の始めに行われるべき劈頭(へきとう)陳述に譲ります。

 裁判長閣下ならびに裁判官各位


P63
私は●に私が被告のためになした長き陳述に対し、公正にお聞き取りを賜りましたご寛大とご忍耐に対し深き感謝の意を表します。

 我々は今後多数の証拠を提出致します。
 我々はこれは貴裁判所の信用とご考慮を賜るべきものと確信しております。
 我々がここに求めんとする真理は、一方の当事者が全然正しく、他方が絶対不正であるという事ではありませぬ。

人間的意味における真理は往々人間の弱点に包まれるものであります。
我々は困難ではありますが、しかし、公正に、近代戦争を生起しました一層深き原因を探求せねばなりませぬ。
平和への道は現代の世界に潜在する害悪を根絶するにあります。

近代戦悲劇の原因は人種的偏見によるのであろうか、資源の不平等分配により来(き
た)るのであろうか、関係政府の単なる誤解に出づるのか、裕福なる人民、または
不幸なる民族の強欲、または貪婪(どんらん)にあるのであろうか、これこそ人道のために究明せられねばなりませぬ。
 起訴状によって示されたる期間中の戦争乃至(ないし)事変の真実にして奥深き原因
を発見する事により、被告の有罪無罪が公正に決定せらるるのであります。
これと同時に現在、または将来の世代のために恒久平和への方向と努力の方途を指示するでありましょう。
  終わりであります。


P64
昭和三十五年七月 一日 印刷
昭和三十五年七月一七日 発行
著者 林 逸郎
発行者 戦争犠牲者顕彰会
    代表 三浦 兼吉
Posted at 2019/04/26 05:52:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東京裁判研究 | 日記
2019年04月26日 イイね!

東京裁判研究:(1)弁護人はどう争ったか-清瀬氏の冒頭陳述-1/2

東京裁判、正しくは極東国際軍事裁判で戦犯として起訴され、絞首刑となり、
主権回復後に名誉を回復されている東条英機さんら7人のお墓「殉国七士廟」が
愛知県南部の有料道路「三ヶ根山スカイライン」内にあります。
昭和35年のオープンとほぼ同時に建てられているそうです。



その建立に尽力された三浦さんという県会議員の方が当時「戦争犠牲者顕彰会」の
会長をされており、当時発行された印刷物が「殉国七士奉賛会」HPでPDFで
公開されています。

が、ちょっと読みづらいので私が勝手にOCRで読み込んでテキスト化してから
文字化けした部分をPDFを見ながら直し、難しい漢字や用語にはグーグルさんで
調べた内容をカッコを付けて補足してみました。

1.弁護人はどう争ったか
2.戦争はなぜ起きたか
3.戦争はこうして起きたのだ
4.真珠湾奇襲の真相
5.BC級戦犯

の5冊ですが「2.戦争はなぜ起きたか」は奉賛会HPのリンクが切れているので
手付かずです(^^;


-----------------------------------
P1/P2
東京裁判研究
弁護人はどう争ったか
-清瀬氏の冒頭陳述-


P3
”戦争は絶対に反対である”とか”軍部がわれわれを無用の戦争にかりたてたのだ”とか
”われわれはあくまで平和を愛好するものである”とか、いくらわめき立ててみたところ
で、それだけで、戦争が無くなるものでもなければ、恒久の平和がやって来るものでも
ない。
戦争を無くするがためには、戦争の起きた真因を深く探求して、その原因を除くように
努める他には方策はありえない。恒久の平和を希(こいねが)うがためには、何事より
もまず戦争の起きた真因を探求することが肝要である。
この故に、われわれは、東京裁判により明らかとなった太平洋戦争の真相を、
できるだけ徹底しやすい方法で、究明してゆこうと考えているものである。

戦争犠牲者顕彰会


P4
はしがき
東京裁判における清瀬一郎弁護人の冒頭陳述は、弁護側がいかなる順序でいかなる証拠
を提出するかを略述したものである。
私は、検事側の立証が総論と満州関係とを終わった昭和二十一年初め、米人弁護人を築
地の金田中で慰労したが、その席で急性腎臓炎のために倒れ約半年を病床に■■した。
私の病状が小康を得た十一月初め、清瀬弁護人が大原信一弁護人を帯同して見舞に来ら
れた際に示された冒頭陳述の草案は、完膚なきまでに堂々たるものであった。
従って私は二、三の私見を述べただけで、全面的に賛成しておいたのである。
 その後この草案は全弁護人によって検討せられ、討議された後、演出せられたのであ
るが、重要な部分がだいぶ骨抜きにされてしまっている。それは被告間の気持ちに割り
切れないものを残してはならない、との心遣いによる部分も多少はあると考えられるが
、事勿(なか)れ主義の弁護人の弱気がそうさせた、と思われるものもないではない。
 しかし、私はこの会議に出席することができなかったのだから、それをとやかくと
言う資格はない。


P5
ただ草案の方が、はるかに優れていたことを特に申し添えておくにとどめる。
 さりながら、この一文により弁護人らが、いかなる主張をし、いかなる立証をしよう
としたかだけは大凡(おおよそ)判って頂けるものと信じる。
 キーナン検事の冒頭陳述は、日刊新聞のほとんど全部がその全文を掲載したので、
恰(あた)かも日本だけが戦争の原因を作ったかのような印象を全般に与えてしまった
らしい。
 若(も)しも当時の日刊新聞が、弁護側の冒頭陳述をも亦(また)、その全文を掲載
していたならば、今日のごとく、戦争の真因を誤り伝えるものが充満する結果とはなっ
ていなかったであろう、と思えば、かえすがえすも残念でならない。
  昭和三十五年六月
  編者 林 逸郎

P6
冒頭陳述 清瀬一郎

裁判長閣下ならびに裁判官各位

起訴状記載の公訴事実ならびにこれを支持するために提出せられたる諸証拠に対し、防
御方法を提出するの時期に到達いたしました。

裁判所におかれては、過去数ケ月の間、周到なる注意をもって検察側の主張を聴取せら
れました。

裁判所は、その懐抱せらるるところの衡平と正義に合する訴訟手続きという概念の限界
内において、被告をしてこの訴訟の歴史的重要性にふさわしき態度をもって、その主張
を陳弁する事を得せしめられることは非常にありがたく存じます。

言う迄もなく、被告は今後の訴訟行為を御判断を受くべき争点に限局して、能(あた)
う限り迅速に事件を進行せしめようと考えております。
ただ、我々がなさねばならぬ事柄は重大で且(か)つ、新奇なる意義を含むものであ
りまするがため、万一我々が思わず自ら定めた標準を超え、また裁判所御裁定の法則
に外(は)づるる場合があろうとも御寛


P7(P2)
怒あらん事をあらかじめ要請しておきます。

 昨年の五月六日、当裁判所の法廷において大川以外の各被告人は起訴事実に対し、
一斉に「無罪」とお答えを致しております。

被告等は右、全ての公訴事実を否定するための反証を挙げるでありましょう。
 起訴に至る事実は五十五の訴因に分かれております。

尤(もっと)もその多くは、同一の基礎の事実を他の角度から観て別個の訴因として
表現したものであります。

これ等の訴因中のあるものは被告の全部に関係し、他のものは一部に関係しておりま
す。

この場合、被告の一人一人が個々別々に右ら多数の訴因につき反証を提出致しますると
きは、非常なる重複と、混乱を生じまするがために被告らおよび弁護人らは共通事項
については出来うる限り共通に証拠を挙げる事に協定致しました。

この協定の結果、共通事項として次の段階に区分して証拠が提出せられるでありましょ
う。

 第一部は一般問題
 第二部は満州及び満洲国に関する事項
 第三部は中華民国に関する事項
 第四部はソヴィエト連邦に関する事項
 第五部は太平洋戦争に関する事項
であります。

P8(P3)
 これらの各事項に関する証拠提出を終わりました後に、各被告人はその立場によって
個人的に関係ある事実を立証するのであります。

被告中ある者の間にはその利益、見解および行動において相反するものもありますか
ら、相反する証拠を提出する事もありうるのであります。

かくて各被告の立場によって前示第一部乃至(ないし)第五部に現われたる事実並びに
事実ならびに証拠につき除外例を求め、また個人固有の立場として、追加の証拠を提出
することもあります。
この段階を便宜上第六部「個人ケーセスまたは個人弁護」と称する事ができます。

 以下暫(しばら)く第一部門において取り扱わるべき事実の中、主なものを表示して
これが立証方針を説明致します。

無論ここに陳述致しますことは、この部門で取り扱う事がこれで尽きるという意味では
ございませぬ。第二部門以下で陳述する事についても同様であります。

 検察官は日本国政府が一九二八年すなわち昭和三年より一九四五年すなわち昭和二十
年の間に日本政府の採用した軍事措置が国際法廷から見てそれ自体犯罪行為であるとし
ておられます。

検察官は日本の政策が犯罪であると論ずるのみならず、もし国家が侵略的戦争または条
約違反の戦争を起こした場合に、偶(ぐう。偶然。たまたま)その局(局面?)にあた
り戦争遂行の決定に参加した個人は犯罪者としての責任を免れぬというのであります。

言い換えますれば本件においては被告を含む日本国家が検察官の指摘する十七ケ年の全
期間に亙(わた)って国際法的の犯罪を続行しておったという事が検察側の根本の主張
であるのであります。

P9(P4)
 被告はまずこれを極力否定するものであります。

また弁護人の方では、主権ある国家が、主権の作用としてなした行為に関して、ある者
が当時国家の機関たりしとの故(ゆえ)をもって個人的に責任を負うというが如きは、
国際法の原理としては一九二八年においては無論のこと、その後においても成立して
いなかった事を上申するものであります。

 この前例とても無き本件において日本国が一九二八年以来採り来たった防衛措置、
陸海軍の準備的措置が侵略の性質を帯びたりや否やという事が重大な問題であります。

 各国の準備的措置は必ずや常に他の国の行動を眼中におきまして作成せられるもの
であることは特にここに申し上ぐる必要も無いほどに原則的な事柄であります。
この重要事を念頭に置かずして準備的措置に不正の目的があったか否かを判定する事は
できませぬ。

一国が常備軍を倍加したという事だけを聞きますると、その国は侵略者なるがごとく攻
撃せられるかもしれませんが、その後に至り、その隣邦が常備軍を三倍に致しておった
という事実が明白になりますれば、前者の行為は道理もあり尤(もっと)もなことであ
ると考えられます。

この事はありうるべき事でもあり、また歴史上、現に発生した事でもあります。

 本件においては日本陸海軍の防備行動が裁かれるのでありまして、外国、わけても本
件に原告となっている一部の国家のそれは審判の対象でない事は、弁護人はよく理解し
ております。

しかし乍(ながら)

P10(P5)
日本の取りたる施策および措置の性質を決定する必要の限度においては、他国の同一行
動を簡単に証明する事は許されるであろうと予期いたしております。
 さらに、起訴にかかる期間中の日本の対内、対外政策の本質を正当に理解していただ
くために必要な三つの重大事項について本劈頭(へきとう)陳述において略述せねばな
りませぬ。

この三点というのは、独立主権の拡張、人種差別の廃止、ならびに外交の原理、この三
つであります。
それは単にこの間の特定の内閣(それは随分多数でありましたが)が立てた方針でもな
く、また特定の党派の主張でもありませぬ。

それは一八五三年日本が外国と交際して以来、全国民に普通に抱かれていた国民的、永
続的且(か)つ確乎(かっこ)たる熱望であります。

言論、教育、信教の自由と同じ重要性を有しているものであります。

 この国民的特徴の第一は、日本国民はこの国家を完全なる独立国家として保持して
いきたいという熾烈(しれつ)なる念願であります。

ペルリ(ペリー)提督と徳川将軍との間に結ばれましたかの安政条約は、一方において
は治外法権を認めて国家主権を傷害し、他方においては関税自主権を侵犯いたしました。

それゆえにこれは深刻なる国民の苦悩でありました。
明治時代を通じて、日本の有力指導者の念願は、この国の地位を向上進展せしめて
完全なる独立自主の国家たらしむるにあった(の)であります。

この理想は前大戦の後にウィルソン大統領によって唱導せられました主義とも相合
(あいあい)するものでありますから、その正当性について容易に当法廷の御承認を受
けえると思っております。


P11(P6)
 弁護人の方ではこの考えが国民の間の普通の念願であり、待望であったことを
証明しようと期しております。

 その二つは人種差別廃止の主張であります。

一体差別待遇はこれをなすものよりも受けるものの方に非常に強く響くものでありま
す。
差別待遇の廃止を成し遂ぐるためには、こちらの方で修養教養の水準を昂(たか)めね
ばなりませぬ。

日本朝野(ちょうや。官民、の意)はこの事の必要性につき盲目であったのではありま
せぬ。
道徳や慣習に改む(る)べきものがあったならば、快(こころよ)くこれを改める必要
を認め、且(か)つその改革を実行いたしております。

ただ世界の文化は唯一でなく、民族と人種の数に応じて多数であります。
各民族は各々その歴史と伝統を持っております。従って■に文化は発生し、且(かつ)
進化するのであります。

 東亜には東亜固有の文化がありますから、これを保持し、醇化(じゅんか。手厚く教
え導くこと。)し東洋人全体の地位をいずれの点においても世界の他の人種、国民と
平等な水準にまで向上確保して、もって人種の進歩発展に貢献したいというのが日本
人の念願でありました。

人種平等の理想はただ日本人だけを欧米人と同一の地位に達せしめましても、その目的
は達しませぬ。
差別の完全撤廃のためには事の性質上、東亜全域の同胞の地位を高揚しなければなりま
せぬ。

ある少数の著者はこの理想の表現に誇張の言を用いた場合もあります。
然(しか)し斯(か)かる事は例外でありまして、日本人は東亜諸民族と共に欧米人と
対等の地位に進まなければならぬという事は国民の間における普遍的の念願でありまし
た。

このことも亦(また)日本


P12(P7)
人が人種的優越感を抱きたりとの意味の検察側主張の誤りなる事を明らかにするために
立証する事を期しているのであります。

我々は中国革命の父、孫逸仙博士、インドその他の地方の先覚者においても、
これに対して共鳴の思想を表示された事実をも、併せて明らかにするでありましょう。

 もし、右に関する真意が正しく了解せらるれば、他の人民や他の国家との間に
反目は必ず消失したはずでありました。

 第三の事柄は日本で「外交の要義」と名付けておったものであります。
明治時代この方、我が官民の間に外国との関係において普遍的に存在した理想は、
東洋の平和を維持し、これによって世界の康寧(こうねい。平穏無事である事)に
寄与するということであります。

これは公文書や御詔勅(ごしょうちょく。天皇が公務で行った意思表示)では
日本国交の要義と書かれております。

この意味は日本の外交を指導する根本的理念ということであります。

一八九四年から五年への清国との戦争、一九〇四年、五年の日露戦争も、
それがために戦われたのであります。

 このことは右、開戦の詔勅にも明記されております。
当年の東亜の情勢から見ますれば、日本は欧米の文明を先に導入して、
完全なる近代国家としての資格を備えた唯一の国家でありました。

中国は地大物博の国ではありますが、当時は各国の勢力範囲に分割せらるる危機に
瀕しておりました。南方諸地域はすでに西洋各国の支配下に立つに至っております。

 かかる状況の下(もと)において、日本人は心から我が国がいわゆる安定勢力たるの
使命を持つものと考えたのであ


P13(P8)
ります。これは被告らのみによって考えられたものではありませぬ。
それよりも二世代も前からの日本国民の基礎的主張であります。

この原則は世界の大国によって承認せられているものと了解しております。
何となれば日英同盟はこれを承認して結ばれ、また、更新されたものであることが立証
されます。

この使命遂行のために戦われた日露戦争には、米国の朝野(ちょうや。官民)を挙げて
好意を寄せられたことは、今日に至るわれわれ日本人の忘れざるところであります。

右の東亜安定の主張は決して侵略的のものではありませぬ。
一方においては東亜における政治的、経済的の混乱を防止し、他方においては
亜細亜種族の共通的発達を助け、これによって究極的には世界人類の進歩発展に寄与す
るのであります。

以上の観念に照らす事によってのみ日本と隣邦との関係が理解し得らるるのでありま
す。
日本の朝野(ちょうや。官民)は隣邦中国の自存と発展に対しては格別の同情を寄せて
参りました。

このことは明治以来のたびたびの公私の文書にもよく表現せられております。
当時中国と我が国との関係を表示するため比喩として用いられた「唇歯輔車」という
格言がありますが、これは唇が亡びれば歯は自ら寒きを感ずる、車の両輪は相互に
助け合うという意味であります。

さらに「同文同種」というのは両国が同じ文字を使い、同じ儒教の道徳を尊重する
同じ人種の国であることを表す格言であります。

一九〇〇年代の初め頃から我国は多数の中国留学生を招きました。
蒋(介石)主席もその中の一人であられました。

一九一一年すなわち辛亥の中国革命以来、我国朝野は孫文先生の志業に非常に好意を寄
せました。

我が

P14(P9)
参謀本部ならびに軍令部では年次作戦計画というものを作っておったことは検事指摘の
通りでありますが、ただ中国に対してはかくのごとき全面的な仮定的作戦計画さえも
立てたことはありませぬ。

以上の事柄の立証は起訴状に記載せられある数個の主張ならびに記録中の証拠を
否定するためにご判断の助けになりうることと思います。

 起訴状訴因第五においては付属書Aの全体及び付属書のB、C条約及び保障を引用し
まして、
被告らは指導者、組織者、教唆者または共犯者としてドイツおよびイタリアと相結んで
全世界を支配する陰謀、コンスピラシー(共謀、陰謀)をなし、また実行したと糾弾し
ております。
これより大きな誤解は世の中にはありませぬ。

日本とドイツ、イタリアとの関係については防共協定、三国同盟を取り扱う段階におい
て我々の同僚より我々の主張を開陳するでありましょう。

私はここに一方において日本と、他方においてドイツ・イタリアと、この間の理念及び
願望の差違について一般的事項を取り扱おうとするものであります。

 前期の誤解は多分に日独伊三国同盟の前文ならびにその締結の時に煥発(かんぱつ。
火の燃え出るように、美しく輝き現れ出ること。)せられました詔書の中に「八紘一宇
」の文句を使っているその解釈に基づくものと考えます。

我が国の公文書においては好んで荘重な古典的の辞句が引用されるのが慣例でありま
す。
これは文章に重みをつける効力はありますが、それがため我が国人自体においても
十分了解せられざる場合も生ずるのであります。

況(いわん)や言語を異(こと)にし、理念を同じくせざる外国の人々には尚更のこと
であります。
三国同盟締結の際、煥発せられた詔

P15(P10)
書は更に「八紘一宇」を分解 ―パラフレーズ― しまして「大義を八紘に宣揚(せん
よう。広く世の中にはっきりと示すこと。)し、坤輿(こんよ。地球、大地の意)を
一宇たらしむるは実に皇祖皇宗の大訓にして、朕が夙夜(しゅくや。一日中)拳々措
かざる所なり」とおっしゃられております。

ここに大義というのは普遍的の真理という意味であります。
宣揚すというのは世界に明らかにし表現するということであります。
「坤輿を一宇たらしむ」というのは、全世界人類が一家族中の兄弟姉妹と同一の心持を
もって、交際するという意味でございます。

前に述べました通り、我国の文化は欧米諸国のそれとは源流を異にしますから、
その表現の方法は必然的に違っており、また奇異にさえ感じられるものでありましょ
う。

 一九四一年ハル長官と野村大使との間の交渉の基礎となった日米了解案には「八紘一
宇」は世界同胞主義ユニヴァーサル・ブラザフッドという翻訳がされております。
三国同盟条約の前文もこの正しき意味において解釈すべきであります。

この条約締結の際、ドイツ、イタリアにおいていかなる考えをもっておったにしても、
我国の当事者においてドイツ、イタリアと共同して世界を征服するなどという考えは
無かったのであります。さらに具体的に証明せられるでありましょう。

 同条約第二条にはドイツ、イタリアは日本の大東亜における新秩序建設に関して
指導的地位を認めこれを尊重するという文字があります。
「東亜新秩序」または「大東亜共栄圏」という文字くらい大きな誤解の種を蒔いた字句
はその外(ほか)に類例はありませぬ。

検察官は新秩序は民主政治ならびにその基礎たる自由、人格


P16(P11)
尊重を破壊する思想であるとまで極言せられました。
これは日本の思想と他の国とにおける思想とを混同せられたものではなかろうかと思い
ます。

少なくとも日本の思想と他国のそれとを連想せられたための誤解ではなかろうか。
しかしここではただ当年我国において用いられた右の特殊な日本的な字句の含蓄ならび
にそれに関する日本的な思想のみが必要なのであります。

 「東亜新秩序」という文字が公式に用いられたのは一九三八年十一月三日、同年の
十二月二十二日この両回の近衛声明であります。
この声明にあらわれた「東亜新秩序」の意味は書面自体が自らを証明しております。

すなわち善隣友好、共同防共、経済提携、この理想の下に日満支三国が相携(あいたず
さ)えて進むということであります。
また第三国との関係については、この声明は「日支経済関係について日本は何ら支那に
おいて経済独占を行わんとするものにあらず」と言っておるのであります。

すなわち機会均等の原則を排斥してはおりませぬ。ただ検事も御主張にに相成(あい
な)る通り、この当時は中日両国間には百万以上の兵を動かした大戦闘の行われてい
る最中であることを記憶せねばなりません。

この大争闘の間においては当事国の国民のみならず第三国人も自ら各種の制限を蒙(こ
うむ)ることは免れませぬ。
この点に関して一九三九年七月に有田外務大臣とクレイギー英国大使との共同声明を証
拠として提出いたします。

右、共同声明の一部においては「英国政府は大規模の戦闘行為進行中なる支那における
現実の事実を完全に承認し、又(また)斯(か)かる事態の存続する限り、支那におけ
る日本軍が自己の安全を確保し、そ


P17(P12)
の勢力下にある地域における治安を維持するために特殊の要求を有する事を承認す」と
あるのであります。

 新秩序思想の内包的の意義は「皇道」であります。

皇道は時々インペリアル・ウェイとも翻訳せられております。
この皇道の本旨は仁愛、公正及び道徳的勇気であります。

それは更に礼儀と廉恥(れんち)を重んずるのであります。
各人をして各々本分を全うし本務を完遂することを得せしめるを理想と致しておりま
す。

またこれは治者と被治者が一心となることを予期しております。
国務は全国民の真実なる翼賛により行わるることを期しております。

これはそれゆえに軍国主義または専制主義の正反対であります。
これを他国の言語に表現する事は非常に困難であります。

しかし、人間の尊重ということについては、皇道とデモクラシーと、二つの思想の間に
本質的な差異はありませぬ。

裁判所の法廷においてかくのごとき無形の事柄を立証することは異常のことではありま
すが、本件においてはこれを実行しなければなりませぬ。

曽(かつ)て被告人の一人が帝国議会において我が皇道と独伊の全体主義との相違を
声明したことがありますから、これを証拠として提出致します。

 我国にはドイツにおけるがごとき人種的優越感情は存在いたしませぬ。
寧(むし)ろこれとは反対に我が民族は常に自ら未だ及ばざることを認めて、東亜の同
胞と共に世界の水準にまで到達せんとの念願に燃えているのであります。

新秩序は各国の独立を尊重するのでありますから決して世界侵略というがごとき


P18(P13)
思想を含んでおりませぬ。また個人の自由を制限するがごとき思想でもありませぬ。

指導という用語は同等の者の間の先導者または案内者としてのイニシアチヴを採るとい
う意味にほかなりませぬ。

かくのごとき国民的根本思想は一つの条約または数個の条約の文字の用法の巧拙などに
よりて変化するものでは決してありませぬ。

その後、満州国、中国のみならずその他の東亜の諸国をも内包する「大東亜新秩序」
「大東亜共栄圏」という文字が用いられるようになりましたが、根本の考えは右と同一
であります。

一九四三年十一月、東京において開かれました大東亜会議における共同宣言中の
綱領五か条、これが大東亜新秩序の本旨を簡潔に表明しております。
いわく
 一、大東亜各国は協同して大東亜の安全を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建
設す
 二、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦(とんぼく)の実を挙げ、大東
亜の親和を確立す
 三、大東亜各国は相互に伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢(しんちょう。伸ばす
事)し、大東亜の文化を昂揚す
 四、大東亜各国は互恵の下、緊密に提携し、その経済の発展を図り、大東亜の繁栄を
増進す
 五、大東亜各国は万邦(ばんぽう。あらゆる国)との交誼(こうぎ。心が通い合った
交流)を篤(あつ。熱心に打ち込む)うし、人種的差別を撤廃し、普(あまね)く文化
を交流し、進んで資源を開放し、世界の進運に貢献す

右の決議は右会議における各国代表の演説と共に証拠として提出いたします。
この決議は政治生


P19(P14)
活においては東亜の協力を必要とする一つの家族と考えておりますが、各国との交際、
資源の開発、文化の交流については、これを世界大に考えていることが認められます。

特にその第五条にご注意を願います。

当時考えられたことの一つはこの我等の世界-プラネット-は政治的単位としては
これを一つと見るにはあまりにも広きに過ぎる。
しかし経済的単位としてはこれを多数の単位に分かつにはあまりにも狭きに過ぎる、
こういう見方であります。

かくて我等のいう新秩序は世界征服の思想を含んでおらざることが証明せられます。

 私が責任を持っていることは被告のケースにおいて提出すべき事実を解明することで
あります。
従って法律的論議はできる限りこれは避けます。
然(しか)し乍(なが)ら主席検察官も指摘されたごとく、本法廷憲章中の第一の犯罪
たる共同謀議―コンスピラシイ―という罪は法廷憲章中にその名称が挙げられている
のみで定義が下されておりませぬ。

共同謀議を処罰するチャーターの規定が適法であるかは別として、何か定義を下さなけ
れば検察官において犯罪であるとして主張せられる事実を定める事ができませぬ。

同時に被告側がいかなる証拠を提出せねばならぬかを知ることができませぬ。
 検察側は合衆国の下級連邦裁判所の判例を引用して共同謀議を定義せんと試みられま
した。
しかしてかかる裁判所の判例には議論の余地がないと主張せらるるごとくであります。

この裁判所は国際裁判所であります。
また裁判官自身、既にこの裁判所がその地位に鑑(かんが)み、たとえ合衆国の憲法で
あって

P20(P15)
も当然これを適用するがごときことは考えておらぬとの意見を述べておられます。

従ってこの裁判所が米国憲法の規定の所産であるに過ぎない連邦下級裁判所の判例を
そのまま採用せらるるがごときことは益々もってあり得べからざる事と言わねばなりま
せぬ。

 ある国において特殊なる歴史上の理由によって発展した法理をもって
直ちにこれを世界共通の一般論として当裁判所において適用せらるべしとすることは
適当でないと主張するものであります。

英米の法律組織におけるコンスピラシイの概念は実は他に類例のないものであって、
ローマ法系を承継した国においてこれに該当するものは発見しません。

英米法の主義を利用した国において英国または米国の特殊の判例を厳格にそのまま
適用することは不可能であります。

ある国においては特殊の犯罪に関して二人またはそれ以上の者が、明らかに右特定の
犯罪を犯すことを共謀した場合は、これを共犯者として処罰しております。

この場合、共謀の目的たるものは明らかに不法のものであるか、または不法手段に
訴うるにあらざれば達成することのできないものであることが証明されねばなりません。

日本においては犯罪着手以前の予備または陰謀などを処罰するのは寧(むし)ろこれは例外であります。

これを処罰する場合はあらかじめ、一つ一つこれを刑法典に明示しております。
他のローマ法系の刑法においても同様であると了解しております。
また、陰謀それ自体を独立の犯罪として観念するためには陰謀の行われた日時と場所が
了解しうるべき程度において特定されなければなりませぬ。

英米の法制を採用せぬ国では、一九二八年一月か


P21(P16)
ら一九四五年九月二日までの間というがごとくに、十数年の長き期間の何時かに陰謀が
成立したなどということは考える事の出来ないところであります。

私の上申せんとする所は、英米において発達しましたコンスピラシイの理論は、
これを一つの体系として国際法の一部を組成するものとは認めることができないということであります。

もし主席検察官御引用の判例が共同謀議成立の後にこれに加入した者は、本来の共同謀
議の団員と同一の責任を有するとの意味でありましたならば、これは断じて世界各国に
おいて一般に承認せられた法律思想ではありませぬ。

従ってこの国際裁判所において、国際法の原則として適用せらるべきものではないと存じます。
一九二八年頃以来、日本の内閣組織の担当者選定の方法は、言わば偶然の結果を
採用するものであります。
前内閣が何らかの理由で倒れますれば、天皇より内大臣を経て重臣(これは主として
前首相でありますが)に向かって何人(なんぴと)を後継首相に推すべきやの御下問があります。

重臣それ自体は組織ではありませんから、個々当日会合に出席した人々がその時の情勢
に応じ思い付きで首相候補を定めて、これを上奏するのであります。

陛下は例外なくこの上奏を御嘉納ましますのであります。
それ故に何人が次に政権を託されるかやは、重臣の意見が奏上せらるるまでは何人も
これを予想することはできませぬ。

それ故に我国においては一定の組織体、政派または派閥、これが一定の期間、政権を独
占し、特殊の陰謀を続行するなどという事はこれは不可能であります。

曽(かつ)てある証人が言及しました


P22(P17)
田中上奏文などというものは、まったく偽物か捏造物であります。

以上の事実を証明するため適切な書証と証人が提出せられるでありましょう。

 起訴状の前文第二段および付属書の第六節第四項、大政翼賛会と翼賛政治会をもって
ドイツのナチ、またはイタリアのファシストに近きものと考えているようであります。
これほど大きな日本政治の誤解はまたとないのであります。

 このことは検事喚問の承認を反対訊問することによって一部判明は致しましたが、
我々はさらに有力なる文書と証人を挙げてこれを明らかにする必要があると信じております。
これを提出することを予期しております。

 検察官は一九三六年の陸海軍大臣は、現役陸海軍大将よりまたは中将より選択すべき
旨の勅令を挙げて、これをもって陸軍が政府の統御および支配を獲得せんとして制定し
たものであるといっておりますが、陸軍はこれを日本の武力膨張政策のために行使した
るものであるとも言っております。

然(しか)しながら実際にはこれに相違いたしております。
この勅令は一九三六年二月二十六日すなわち岡田首相その他、重臣襲撃の反乱の後に
設けられましたものであります。

当時もし万一にも陸海軍の予備大将中将の中に斯様(かよう)なる団体に関係する者が
ありますれば、そうしてそれがもしも陸海軍大臣となりますれば、国家のために危険な
る事態を生ず、との心配があったのでありました。

この勅令はかような出来事を避くる


P23(P18)
ために制定せられたものであります。

言い変えますれば、この勅令は粛軍徹底のために制定されたものでありまして、
また実際にその目的は達しました。

この勅令の効果は検察官の主張と正反対に、武力の不当行使を抑え得たという事になりました。
この点についても証拠を提出する用意があります。

要するに我国に、ある軍関係の組織があって、起訴状に特定した期間に日本政局を左右
したるごとき観念を抱くことは全く事実の誤解であります。
 被告等の間に、あるいは世界を征服し(訴因四、五)あるいは東亜、太平洋、
インド洋およびこれに接着する地方を制覇し(訴因一)あるいは支那を制覇し(訴因
三)あるいは満州を制覇する(訴因二)これらのための共同謀議を為したりとの糾弾
については被告より反駁いたします。

元来被告等は年齢も相違すれば境遇も相違いたしまするし、ある者は陸海軍軍人であ
り、他の者は官吏であり、ある者は外交官、他の者は著述家でありまして、その全部
が特殊の目的をもって会合する機会を持ったことはありませぬ。

彼らはこれらの事に関しては団体として意思を交換する機会を持ったこともありませ
ぬ。

実際被告中のある者の間にはいろいろの意見の相違が存在しておったのであります。
もし彼らのある者が満州事変、支那事変乃至(ないし)大東亜戦争にある程度の関係が
あると致しましたならば、右等の事件は日本国家の全力を挙げて活動しなければならぬ
事変または戦争でありまして、その当時これらの者が国内の有力者であったがためで
あります。

被告等が検察側の指名せざる種々なる人々、これと陰謀団を作っ

P24(P19)
て、かかる手段によって全世界、東亜、太平洋とか、インド洋とか、支那、満州を
制覇するために共同謀議したという事実はありません。

我々は征服または制覇の共同謀議なかりしことを証するために証拠を提出いたします。

 なおこの関係において被告が明らかに証明せんとする他の点があります。
それは満州事変と支那事変と大東亜戦争と、この三つをを通して一貫せる計画によって
なされたものであると認むることは誤りであるということであります。

これらの事変は各々その発生の具体的原因を異にした別種の事件であります。
また一つの事件の関係者は他の事件の関係者と異なっております。
前任者が後任者にその計画を申し送ったり、後任者がこれを受け継いだというような事実もないのであります。

殊(こと。ことさらに。)に明白なことは、一方では満州事変、他方では支那事変と大
東亜戦争、この間の区別であります。
満州事変は一九三三年の塘沽(タンクー)協定で落着致しております。

その後に蒋介石政府の当事者は満州国との間い関税、郵便、電信、鉄道、の協定を致しております。
また一九三五年、六年中には蒋介石は日本との間の敦睦令を発しました。

当時日本の岡田内閣の広田外相は支那と交渉されまして、満州及び北支の現状の承認を
含む三原則を立て、中国側よりこれを基礎としてさらにその実行の細目を協定する事の
同意を得ておったのであります。

それゆえ塘沽(タンクー)協定より四年後に発生した支那事変がある特定の人物が満州
事変と同一の目的をもって故意に計画的に引き起こした事件であると推定することは
不自然であります。




P25(P20)
ちであります。これを明らかにするために必要な証拠が提出せられます。

 第一部においては我国の内政を証明する各種証拠が提出せられます。

 検察官は一九二八年一月一日以前多年にわたって、日本軍部は日本の青年に
軍国主義的精神を教え込むことを目的とすると共に、日本の将来の発展は征服戦争にか
かるという極端なる国家主義的観念を栽培せんとし、軍部はこれを公立学校に実施した
のであると、こう主張をしておられます。

そうしてこれをもって共同謀議の存在する証拠の一つとしているのであります。
然(しか)しながらこれほど我国の教育に関する間違った見識はありませぬ。

我が国の公立学校制度は一八七二年、すなわち明治五年、アメリカの組織に倣って
立てたものであります。
国民道徳の大本は我国古来の美風を経とし、支那の儒学の教を緯とし、これに配するに
西洋道徳の枠をもってしたものであります。

後一八九〇年明治二十三年に教育勅語が発布せられました。
このうちに忠と考と博愛と信義、公益、奉公などの徳目が定めてありまして、
決して戦争奨励の趣意は含んでおりませぬ。

日本人の崇拝の目標でありまする皇室の御本旨は常に平和と、愛と、仁徳とであります。
もっとも華美を排斥して、質実、剛健を奨励いたしましたが、これは戦争奨励とは異なったものであります。

 一九二九年以後においては、アメリカやスイスの例に倣いまして、
学校内軍事教練を施しましたが、これは青年の心身の鍛錬と品性の改善のためであります。

そしてこの措置は日本政府による軍事予


P26(P21)
算の削減から生じた欠陥を補うためでありまして、侵略思想の表現と看做(みな))す
べきものではありませぬ。以上は、我国不動の教育方針であります。
いかなる文部大臣もこの不動の方針を動かすような力は持つことはできませぬ。

日本の将来は征服戦争にかかるなどの教えは政府も軍も方針として教授した事は断じてないのであります。

 由来日本は領土は狭小で、資源は貧弱で、しかも急速に増加する過剰人口を包容して
その経済を維持するためには移民を実行するか、貿易に依存するか、工業化によるか、
この外には道はありませぬ。

そうして移民は多くの西洋諸国から閉鎖されましたがゆえに、日本としては、貿易と工
業化とに進まざるを得なくなりまして、自然この方向に打開の道を採って歩んできたのであります。

殊(こと)に東亜においては、土地が近接せることと特殊の利益を有するため尚更、
斯(か)くすることが自然でありました。
 然(しか)るに世界恐慌の暴風雨に襲われ、一九三一年九月に英国がついに金本位停止を為すに及んだのであります。

各国も続々これに倣いまして、翌一九三二年七月には、オタワ会議が開かれて
大英帝国ブロックが結成されるにいたりまするや、世界は挙げて関税戦が熾烈になりまして、通商障壁は激成されました。

しかるに日本はこの時も依然として自由通商主義をもって変わらなかったのであります。
一九三三年の六月に、世界通貨経済会議が開催せられますや、日本は多大の希望をもって
これに参加しました。日本代表の石井菊次郎子爵は日本の主張を熱烈に披瀝しましたが、ついに同会議は不成功に

P27(P22)
終わりました。これはアメリカの態度が重大な原因となっております。

 一九三四年、英国の提議によって日英会商が開催されました。
日本はこの会議に臨みましたけれども、英国側は「英常国」(?)のみならず第三国市場についても割当制限並びに指定制を迫ったのであります。

 これには日本としては到底承服はできませぬ。したがってこの会商は、成功を得るに至らずに終わりました。
その結果、ランシマン商相の声明によってその植民地全体を挙げて日本に対する貿易制限を実施したのであります。

 これと同時にイギリスと蘭印(オランダ領東インド諸島。現在のインドネシア)との
通商交渉が開始せられ、後者は日本に対して輸入防遏(ぼうあつ。侵入や拡大を防ぐこと)の強硬手段を取りました。

これに次いで日蘭会商が提議されました。この会議は一九三四年六月から開始されたが、
イギリスと事情を異にする日本とオランダとの貿易調整は非常に困難でありました。

他方、ちょうどこの時に支那における排日運動がまたこれ激化しまして、斯(か)くして
貿易によらなければ生きて行けぬ日本としては、深刻なる難局に遭遇したのであります。

 斯(か)かる世界の経済難局に影響せられて、日本は統制経済に転向してブロックを形成して
経済の自立を企図しなければならぬように立ち至ったのであります。

殊(こと)にソ連の数次にわたる産業建設の五ケ年計画は痛く日本を刺激しております。
重工業の発展において著しく列国に劣る日本といたしましては、この工業部門の促進を
必要となすに至りました。日本の経済の各種の統制と初計画は実に斯(か)くのごとき


P28(P23)
状態の下に発生したものでありまして、これらは決して支那事変に対する計画的準備で
もなければ、いわんや大東亜戦争の準備では断じて無いのであります。

 以上の諸点については、我々は専門家の承認を呼んでその陳述をなさしめるはずであります。
戦争前には日本においては世界各国と同様に、言論の自由は尊重されていたのであります。

ただわが国では一九二五年以来、共産主義ならびに過激国家主義の宣伝は法律をもってこれを禁止しました。
これは周知の通りであります。日本国民は私有財産制度の維持を望んでおったのであります。

我国では国民尊崇の目標である皇室を誹謗することさえも非常に嫌っておったのであります。
ところが共産党は私有財産制度を否定して、我が皇統を覆さんとして致しておったのであります。

日本においては一九二〇年代から共産党の活動が活発となって、私有財産制度及び
我が国体を覆滅せんとする地下行動が全国に蔓延せんと致しました。

斯(か)かる場合にこれを禁止する事は、主権ある独立国家としては当然のことであります。
これは戦争の準備でも計画でもございませぬ。
 この事はこの治安維持法、これが自由主義を信条とする日本の三政党の連立の内閣で
提案されたことによっても証明せられます。言論指導の状況は証拠をもって立証致します。

なお、一旦戦争が開始されました以上は、防諜の必要上、言論においても相当の制限を
必要とする事は、これは言うを俟(ま)ちませぬ(=必要がない)。

各国とも例外なくかかる制度を採用しております。
彼と此と混同されてはなりませぬ。思

P29(P24)
想統制の大将は上記のごとくに左翼運動だけではなかったのでありまして、右翼運動
すなわち極端なる国家主義運動もその対象でありました。
而(しか)して、被告のある者は在職中、かかる極端なる国家主義運動を統制するの任にあたっておりました。

 我国において一九三〇年三一年の頃、いわゆる革新運動なるものが発生しました。
この革新運動とても必ずしも対外進出を主張しているものではありませぬ。

ただ、ご記憶を願いたいことは、当時我国の人口は年々に増加しまして、将(まさ)に
一億に達するのも目■の間であります。資源は非常に乏しく、前に引用したごとく世界
不況の結果、我国の商工業は言うに及ばず、農業も非常なる苦痛に陥りました。

その頃までは我国は政党政治の形態で、政友会、民政党の二党が交互に内閣を組織する
ようになっておりましたが、その政権争奪の方法が公明でなく、また政治家の腐敗事件
が引き続き暴露いたしました。

この事実及び事件に刺激せられて、熱血の青年または少壮軍人が直接行動をなすに至ったのであります。
この運動の動機を証明するための証拠物は空襲のため悲しいかな一部消失致しました。

しかし残存するものと、証人によってこの運動が侵略戦を目的としなかった事が証明し得られます。
ただここに特に裁判官に指摘申し上げたいことは本件被告のある者はこれらの運動を鎮圧する事に功労のあった人々であったということであります。

 検事は我国の侵略企図として一九三七年以後、陸軍及び海軍の国防計画を指摘しておられます。
(続)

Posted at 2019/04/26 05:51:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東京裁判研究 | 日記

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「[整備] #フィット ペイントプロテクションフィルム貼り付け(3) https://minkara.carview.co.jp/userid/202453/car/3276985/6906181/note.aspx
何シテル?   05/28 23:31
運転してて楽しいクルマと聴いてて楽しい音楽が好き。 (それがたまたまホンダ車・スバル車とHR/HMなわけですが・・・) ヒマ見つけて更新する意思だけは持ちた...
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