今では当たり前となったAT車ですが、私が子供だった’70年代まではMT車が主流でした。
理由は、当時、例えば「日産魔チック」などと揶揄されていたように、AT車はかったるくて走らない上に燃費が悪かったこと、また、女性の免許保持者が今と比べ物にならないほど少なく(※)、お父さん以外は車の運転をしなかったため、敢えてAT車を選ぶ必要がなかったこと、などが挙げられると思います。
※女性の免許保持者は、’78年に初めて10百万人を超えたが、現在(37~38百万人)のわずか1/4に過ぎなかった。

ニッサンマチックのエンブレム(借用画像)
概ねNAPS以前の上級日産AT車に付いていたもの。
わざわざ「フルオート」とあるのは、ホンダマチックなどのセミATが存在したため。
これが’80年代に入ると、4速化、ロックアップ化、電子制御化といったように、ATの性能が大幅にあがったこと、また女性の社会進出の機会も増えたため、AT車比率は年を追うごとに上昇。
全販売台数(営業車等を含む)に占める割合は、’85年には48.8%とほぼ半数となり、更には’90年には72.5%と、完全にAT車が主流となりました。
で、今回は、イージードライブ車の歴史を調べてみました(~’80年代)
(1)アメリカにおける発達
今のAT車の原型になったのが、太平洋戦争前の’39に登場したGMのハイドラマチックでした。
これはフルードカップリング(トルコンのようなトルク増幅機能はない)+プラネタリーギヤによる4速フルATでした。

’40型オールズモビル(借用画像)
未だに日本が戦争で負けたのは、戦略ミスが原因だったとかいう軍事マニアがいるが、
どんな戦略を取ろうが、こんな工業大国に日本が勝てるはずはなかった。
その後、GMではトルコンを使ったダイナフロー(2速セミAT)→ツインタービン(2速フルAT)→スーパータービンもしくはターボハイドラマチック(3速フルAT)へと進化しました。
アメリカでは’65年には既にAT車の比率が90%を超えていたそうですが、アメ車は(大排気量エンジンのため)日本車のようなかったるさがなかった事に加え、当時の北米ではガソリンが水より安かった?事が影響しているのでしょう。
(2)日本初のトルコン車
日本初のトルコン車(変速機なし)は、岡村製作所が作った’55のミカサ試作車です。
同社は日本で初めてトルコンを開発したメーカーで、国鉄(日立製)の坑内用ディーゼル機関車などに使われていましたが、これを使った乗用車を開発したのが始まりです。
その後、’57のミカサマークⅠ・Ⅱ(市販車)&同スポーツ(試作車)~’58のミカサツーリング(市販車)に発展しました。

ミカサツーリング(借用画像)
日本初のトルコン車で、現在の㈱オカムラの本社ショールームに展示されている。
同社のトルコンを搭載した車は、他に、’60のマツダR360 、’61のコニーグッピーなどがあります。
因みに、二輪の世界では富士重のラビットスーパーフローが’59に発売されています。
(3)日本初のセミAT車
トルコンに副変速機を持つタイプのATは、’59の2代目マスターラインのトヨグライド(愛知工業、後のアイシン精機製)が最初です。
(’61には初代クラウンにも設定された)

トヨグライドの説明図(借用画像)
日本初の2速(セミ)AT車として発売された。
当時はATとは呼ばず、トルコン車とかノークラ車(広義の意味)などと呼ばれていた。
この手のセミATは、最終的に’88年まで生き残っています(アクティのホンダマチック車)
(4)日本初のフルAT車
日本車初のフルAT(2速)は、’63の2代目クラウンのトヨグライドが最初でした。
その後は、’67に3速AT(2代目クラウン最終モデル)、’70に3速EAT(4代目コロナ)、’77にOD付きの4速AT(5代目クラウン)、’81に4速ECT(初代ソアラ)というように発展。
’69にアイシン精機から分社化したアイシンワーナー社(現アイシンAW)は、現在は世界一のシェアを持つATメーカーとなっています。

5代目中期のクラウン(借用画像)
M型エンジンの上級モデルにA42D型が登場(OD付きの4速フルATは世界初)
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2019/01/18 18:11:58