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2016年12月29日 イイね!

最後の3ヶ月 ~体を蝕んで行く

最後の3ヶ月 ~体を蝕んで行く 父が癌の転移を宣告されてから亡くなるまでの96日間について書いていきます。
記録用でかなり厳しい記載もあるので精神的に余裕がない方は閉じてください。








最初は癌の転移が見つかってから死に至るまで(当ブログ)


次は葬儀について。

最後に色々と"思い"がありますのでそれを記載しておこうと思います。


--------------

実は前段の話があるのですが弟が対応しているので私が直接関わった9月8日が始まりです。


■9月8日木曜日

8月22日に受けた検査の結果を聞きに武蔵野赤十字病院へ。予約時間より早目に行ったので病院内のタリーズでコーヒータイムです。この日は息子も同行し親子三代揃った形です。



時間になり診察室へ。先生の最初の一言から雲行きが怪しいです。

先生「何で今まで来なかった!」

とかなりの剣幕で怒られました。

父はこの病院で平成24年8月8日に直腸癌の手術(ハルトマン手術)を受けています。

その後、定期的に転移がないか検査に訪れなくてはいけないはずでした。が、本人は下田内科クリニックという町医者にだけ通って武蔵野赤十字病院へは一度も行かなかったとの事。武蔵野赤十字病院から何度か検査の手紙が来ていたが町医者で問題ないと言われていたので勝手な判断をして来なかったとの事でした。


先生「結果、かなり悪いけど言って良い?」

父も私も同意した為、説明に入りました。


先生「まず、胃と腸には何も問題ありません。非常に綺麗な状態」

先生「次はCTの結果見て。ここが肺。写っているのが腫瘤」

先生「小さいものを含めると無数に」


先生「これが肋骨。ここに変異があるでしょ。胸の痛みはこれが原因かと思う」


先生「副腎も臓器が置き換わるぐらいの腫瘤」


先生「両方の腎臓にも」


先生「骨盤内も腫瘤。痛くて歩けないのはこれが原因でしょう」


先生「前立腺にも問題あるね」




先生「あのね、後悔してもどうしようもないよ!血液検査の結果も普通の人の10倍も値が悪いよ。検査に来ていればすぐ解ったのに!」

怒りが収まらない様子です。

ここから延々20分は怒られました...。(次の患者さんも待たされて気の毒です)


父「先生...これは肺癌という事ですか?」

先生「違います。直腸癌の再発」

父「????」

ちなみに私も理解出来ませんでした。元の直腸とは違う他の臓器に転移した癌でも「直腸癌再発」となるようです。


父「完全に私のミスです。ちゃんとお医者さん行きます」

私「ん?どこへ?」

父「下田医院へ...」

先生・私・息子「違う!違う!!違う!!!」

私「そもそも直腸癌を痔だって診断していたのも下田医院でしょ!」


先生「もう、これは介入しないと駄目だね」

という事で全面的に武蔵野赤十字病院の指示に従う事に。

部屋を変えて専門の看護師さんから説明を聞きました。

80歳という事や多臓器転移という事から治療はしない。緩和ケアによる痛みのコントロール。今後は在宅にするかホスピスを探すか決めてほしいとの事。本人は「ふんふん」とは言っているものの他人事のようでした。

まずは介護申請。次に在宅か入院かを相談。入院の場合はどの病院にするか決めて連絡くださいとの事。看護婦さんがスラスラと病院名を紙に書いていきます。


次の相談日は5日後。薬の処方はカロナール(鎮痛薬)が出ました。


帰りに遅い昼ご飯に。焼肉が食べたいという事で武蔵野赤十字病院の近くによく行く焼き肉屋さんがあるので、そこにしようと提案しましたが、「腰が辛いので椅子席があるお店がいい」という事でお手軽に安楽亭へ。

これが父との最後の外食になりました。

最後だと解っていたらチェーン店にしなかったのに...後悔先に立たず。


食べながら
父「先生の話は何だって?途中から頭が真っ白になって解らなかった」

私「まあ、癌の転移が見つかったという事だね...」

父「そうか...。肺癌だって言っていたよな」

私「いやいや。直腸癌転移だって」

父「...」

やはり理解していないらしい。この日はこのまま実家に送り届けました。


翌日、病院から電話があり先生の都合が悪くなり面談は9月23日にとの事。

■9月18日日曜日
実家で家族会議。
本人は痛みがまだあまり出ていないので自宅療養希望で。次回の病院面接では在宅ケアを希望する事に。ただ、辛くなっても急にホスピスに入る事は出来ないので平行してそちらも調整する事に。

■9月23日金曜日
武蔵野赤十字病院にて診察(弟対応)

カロナール(鎮痛薬)の消費が予定より早いため、これまで1日3錠(1錠x3回)だったのが1日6錠(2錠x3回)へ。投薬管理を今後家族で徹底すること。
ホスピスは越川病院で決定。

父が「余命がどれぐらいか分からないと、どうすればいいかイメージできないから、どうしても知りたい」と強い希望を言い出したことにより先生から聞いた話を連携。

余命3ヶ月~もって半年の間。
ただ全身転移なので、いつ何があってもおかしくない。



■10月1日土曜日
痛みはあるものの、なんとか薬でコントロール出来ている状態。

お見舞いに来た姉の子供達に「あと2年は生きるから」と宣言したとの事。


■10月9日日曜日
実家で今後の事について相談。

父「死ぬっていう事の意味が解らない。今は居るのに居なくなるってどういう事なのかな?

私「...」 答えなど持っている訳もなく絶句した。

この日、突然、私の幼馴染の友人の話が出た。この件については別途。


■10月11日火曜日
越川病院(ホスピス)の面談 (弟対応)

本当の終末において延命治療は基本的にしない。苦しみを延ばすだけのためとの説明。
家の中で歩けるうちは在宅でがんばり、動けなくなったらホスピスへ。とにかく痛くならないことを最大限にとの方針に。
痛みが強くなってきたので1日の薬の量が増えた。2錠x4回に。


■10月31日月曜日
昨晩21時より痙攣・高熱(39℃)・呼び掛けに反応無しなど危ない状態となったため、訪問診療の先生に来ていただきホスピスへ入った方がよいとの判断から越川病院に入院。

入院後は会話ができる状態になったがホスピス到着時のCT検査にて脳転移が見つかる。
後日、私もCT画像を見ましたが転移は3個所。細かく検査したらもっと見つかるかもとの事。



■11月5日土曜日
通常の薬では痛みを抑えられなくなりモルヒネの投与を開始しているとの事。ただ先生曰く痛みを非常にうまくコントロール出来ているとの事でした。入院して約3週間ですが入院当時より落ち着いた様子で色々と話をするようになりました。


■11月10日木曜日
幼馴染の友人のつてで牧師さんと一緒にお見舞いに行きました。


父「私はだいぶ罪を犯してきました。特に経済的な事に関して罪深い。

父「毎晩、怖い夢を見ます。黒い人が私を連れていく

父「死ぬのが怖い。どうすれば。


家族には言えない悩みが多々あったようです。


父「私はすぐ死ななければならない。息子が今日葬式をすると言うので

さすがにこれには「ちょっとまてい!」と突っ込み入れました...。


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この後、容体が少し安定します。

実際には悪化しているのですが症状としては出ていませんでした。

家族みんなで「これは年越せそうだね」と話していました。


私も酷い咳風邪に掛っていた事もありしばらくお見舞いに行きませんでした。

父からは「会いたいなぁ~」と電話が何度か来ていました...。


■12月8日木曜日

CT検査。肺転移、脳転移共に入院時よりも一回り大きくなり、よりハッキリ見えるように。確実に進行している。痛みも強くなってきているのでモルヒネの量を増やそうと父に相談するが拒否される。モルヒネを増やすと息が苦しくなるらしい。それだけでなく息苦しさを感じているがこれは肺転移拡大の影響。手の痙攣が起きるようになったのは脳転移拡大の影響。

弟に「元気で暮らしていけよ」などと話すようになり死期が近い事を悟っているのかもしれない。


■12月10日土曜日

風邪が良くなったので久々にお見舞いに。今度はカミさんが風邪ひいたので車に残し、初めて一人でのお見舞いです。が一人でのお見舞いはこれが最後になりました。

病室に行くと食事中。看護婦さんに食べさせてもらっていました。プリンを完食しご機嫌です。

食事後に

父「アイスある?」(父は無類のアイス好きです)

私「ごめん。今日は持ってこなかった。今度買ってくるね」

父「あーーーじゃあそこの」 冷蔵庫を指さします。

私「プリンとみかんゼリーあるけどどっち食べる?」

父「みかん」

手が震えているので食べさせました。

父「美味しいなぁ。」

父「あと、苺もある。」

冷蔵庫を見ると4粒の苺が。

私「食べる?」

父は黙って指でOKサイン。

丸ごと口に放り込む訳もいかず口に持っていくとちゃんと齧ってくれました。

父「美味しいなぁ。美味しいなぁ。」

私「そりゃよかった。」

しばらく黙って傍で座っていると、ジッと動かなくなりました。

私「ん?少し寝る?」 と尋ねると

父「オシッコ中」

あ、そうですか...。


しばらくしてまどろみ始めた感があったので「帰るね」と帰宅しました。

ちゃんと会話できた最後でした。


■12月11日日曜日
夕方に容体が急変したとの連絡。面会に行くとかなり痛がり息が荒く苦しんでいます。表情も酷く片目は開かず、もう片方も視点が定まらず。看護婦さんから別室に呼ばれてだいぶ悪いと言われました。どれくらい持つのか聞いたところ、数時間なのか数日かは解らない。本人の生きる力次第ですとすまなそうに説明してくれました。

が、説明後に家族間で混乱が。

姉「これは危篤なの?」

私「危篤の定義を知らないからな。どうなんだ?」

弟「これは危篤だよ。」

私「危篤の定義は何?」

弟「死にそう」

私「あのなぁ。死にそうっていったらずっと死にそうな場合もあるじゃないか。ずっと危篤って事かよ」

弟「そうかもしれないけど、私もわからんよ。」

...明らかにダメ兄弟です...。



病室へ戻りしばらく横についていましたが、父が苦しそうに声を上げています。

横についている姉が「薬を増やしてあげて」と言い続けるので看護婦さんと相談。
少量の沈静剤を投入する事に。意識レベルを落とします。

私「薬入れたら楽になるから」

呼び掛けに父が一瞬笑顔の表情を作ろうとしました。が、すぐに苦痛の表情に。
これが父との最後のコミュニケーションでした。

看護婦さんが薬の準備をして点滴で入れます。
しばらくしたら落ち着いてきたので、一旦、家に帰る事に。


生きている父を見たのはこれが最後でした。



■12月12日月曜日
未明。弟より電話。病院から連絡があり既に呼吸が止まっているとの事。

妙に落ち着いて「わかった。これから行く」と返事してカミさんと息子と一緒に病院へ。

父は広い個室に移されていました。


しばらくして母と弟が到着。

弟「まだ呼吸しているよ!布団が上下に動いているもん。」

カミさん「え?ほんとだ!動いているよ!」

私の目には微動だにしない布団が見えます。
現実主義者はこういった時に人間的豊かさに欠ける事を痛感します。


看護婦さんの「先生をおよびして良いですか?」の問いかけに我に返ります。

先生が来て脈、瞳孔の確認。

先生「時計...見せてください。スマホでも良いですよ。」

私「じゃあ私の腕時計で」

先生「6時...20分で良いですかね」

私「6時19分です」

先生「では死亡時刻は6時19分で」


医者がいないと人は死ねないという事らしい。







昭和十年十月二十二日    午前一時二十五分出生

平成二十八年十二月十二日 午前六時十九分死去  八十一歳


Posted at 2016/12/29 23:12:06 | コメント(6) | トラックバック(0) | 日記

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