2017年05月17日
さてこれはある友人と数年における思い出の日々を綴ったものであります。
山田たつや
その名を耳にする前に、本人に出会ったのは、おいらが二十歳の夏だったと思う。その頃は宅配ピザ屋と、天職と感じたガソリンスタンドのバイト掛け持ち。おまけに学生であったのと、ミニバイクレースをしていたことからかなり多忙な毎日。
二十歳ではあったが、副店長に相当するシフト勤務であった為、新人の教育も任されていたのであった。当時はアルバイトとは言え、バブル真っ只中。今ほど長時間勤務も問題ではなく、月合わせて35万も稼いでいた、古き良き時代である。
そんな話はさておき
おいら『初めまして!○○です、新人の山田さんですね?』
山田さん『あっ、はぁ、そうです…、よろしくお願いします。』
小声で返す山田さんは、そうボソリと喋る独特の影のあるイメージの語口。
この時は、この山田さんと意気投合し合い、今後数年においてつるんでいく仲になろうとは思いもしなかったのである。
そんな山田さんは、おいらのバイト先である、宅配ピザ屋の近所に住む大学生であった。公務員を父に持っていたが、機械に興味があったせいか、工学院大学へ通っていた。口癖は、安定した高収入と休み。そんなことをよく語っていたのを覚えている。
バイトのシフトが重なるにつれ、会話もはずむ様になり山田さんの持論がちらほら出てくる。
なんと愛車はミニカトッポ、聞くと大学でサークル活動の一環から、ミニバイクもやっていると言う。それでこの車種選択である。丁度YSRやNSRが載るのだ。

ミッションはこだわりのマニュアル。節度ある感触でコクコクと入りこれがキャブレターと相まって実に気持ちの良い加速をするのだ。決して速さは無いが実に爽快!三菱の車のイメージがさらに良くなるきっかけでもあった。おいらの親父も三菱ふそうの4tクレーンのロングに乗っていたので。
一緒に参加したミニバイクレースでは準優勝もすることが出来た。場所はもううろ覚えだが2人でよく活動した津久井湖周辺にあったミニサーキットであったと記憶している。地元のグループが強かったが、当時のおいらは怖いものなしのイケイケ状態。無難に走り切れれば優勝であったが、自己ベストを更新したいがために、ストイックに攻め込む。一番の無減速での下り右高速コーナーで、まさかのハイサイド転倒。山田さんは苦笑いしつつも、2人でガムテ補修したマシンでおいらは震える体で再度コースインなんとか2位をゲット。懐かしい思い出である。

時々はおいらのチームのハイエースでも出かけた。
通称ベーカリー号(パン屋っぽい外観であったから)での寒い冬は、道志道のトンネルを抜けると雪であった。もちろんベーカリー号にはABS等無い。前車に続いてブレーキを踏むと特に下り坂ではツーっっと止まらない!冷や汗タラーである。いやいやこれも良い思い出ならぬ良い経験?であった。あ、もちろんお金は無いので夏タイヤである。

初代のおいらのマシンMRII(AW-11)での初日雨天環八スピンや180SXでの目の前真っ暗事件なども、同乗者は山田さんであった。山田さんとは彼の在学中の数年間、本当にあちこち色んな所へ行き、色んな話をした。外観は色白でギョロっとした目つき。話し方はもちろん
物腰の低さから、上目遣いで会話する。そんな自分に彼女が出来て、その付き合いの中での悩みもよく話していた。おいらは異性よりも趣の向く方向へまっしぐらであった為、その時はピンと来なかったが、今ではよくわかる。
当時二十歳であったおいらと会話していて、怒ったことは一度もなかった。おいらにはとても温厚な人に見えていたが、そう言えば周りの皆は、あいつは変わったやつだ。おまえとしか会話しない。等と聞いたことがあった。何故だろう、うまが合ったのかはわからない。変わっていると感じはしたが、それを補って余る博識と本来の温厚な部分を、無意識に感じていたのかもしれない。
そう言えば180SXの事件直後も、なぜか腹をかかえて笑っていた。ひとつ間違えば自分も大変な事になっていたかも知れないのに。
素晴らしい思い出たちと、素晴らしい思い出のヒーローたち。実はヒーローとは間近にいる存在なのかも知れない。山田さんとは彼の就職後、疎遠になってしまったが、きっと今でも持ち前のしつこさと博識で独特の存在感を放ち、自分のポジションを確立している事だろう。
そんな思いでのヒーローたちを思い出すたびに自答する。自分もそんな誰かのヒーローになれているのか。自分の人生を貫いているのか。まだまだ先は長いようである。
Posted at 2017/05/17 16:28:23 | |
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