2014年01月12日
2011.3.11『現実なんだ』
NHKの世論調査で、『今、国をあげて取り組むべき政策は?』との質問に、『東日本大震災からの復興』と答えた割合は、僅か12%だったそうです。
やはり、被災地以外はもう他人事なんでしょうか。
確かに、被災地以外に住んでいる方々には、遠い他人のことより自分のことの方が大事なのは当たり前で、財政再建などはとても大切なことだと理解もするのですが、復興は被災自治体の自力では不可能な巨大規模の公共事業のようなもので、国の支援無しには立ち行かないはずなんですよね…。
もちろん、震災直後の全国各地からの数々のご支援は忘れてはいませんが、絆という言葉がなんだか空しく聞こえます。
しかし、阪神大震災の当時を思えば、私も他人事と考えていましたから…これも因果なのでしょうか。
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「陸前高田市は壊滅!!」
悲痛な叫び声を耳にしていながらも、それでも何が起きているのか全く理解できませんでした。
目の前のテレビに映し出される映像と重ね合わせてみても、現地で何が起こっているのか、想像もできませんでした。
あまりにも現実離れしすぎていたからです。
これが今、同じ県で、100キロしか離れていない場所で起きている事とは思えませんでした。
3時40分を過ぎたころ。
相変わらず、現地の詳細な状況はわかりませんでしたが、ようやく我に返った私は行動を起こすことにしました。
(これは長丁場になる。食料をできるだけ確保しなければならない)
停電が東北地方全体に及んでいることを知り、復旧までにかなり時間がかかること、この影響でしばらく食料確保が難しくなるであろうことを考え、上司に相談し、若手を連れて街に買い出しに出かけました。
この大災害に対応するため、おそらく数日は家に帰れず、職場に泊まり込みで仕事をしなければならない。そう思ったからです。
街は異様な雰囲気でした。
時間は4時近くになり、徐々に暗くなり始めていました。
信号、建物、看板の明かりは一切消え、街は死んだようでした。岩手の3月はまだまだ寒いのですが、この日は街の生気が無くなってしまったせいか、より一層寒々しい感じがしました。
しかし一方で、街を歩く人たちは異様な興奮状態にありました。
地震のこと、停電のこと、これからの自分の生活のことなどを声高に(皆興奮状態にあったためでしょうか)話していました。
しかし、誰一人として津波のことを話す人はなく、不思議と不安そうな人がいなかったのも印象的でした。
私は、連れの若手数名にあちこちのコンビニやスーパーに買い物に行くように指示し、自分も大通りのコンビニに入りました。
店の中はほぼ見えないくらい暗くなっていましたが、店側で用意したと思われる携帯型のライトがあちこちに置かれ、買い物には不自由しませんでした。
案の定、客は次々と押し寄せており、食事として摂れそうなものの類はあらかた売り切れてしまっていました。
仕方なく私は、なるべくカロリーの高いお菓子を中心に買うことにしました。
停電でレジは動かなかったのですが、店員は携帯型の端末のようなものを操作し、多少時間はかかるもののしっかりと来客に対応していました。
職場に戻ると、買い物に行かせた若手連中も戻ってきており、そちらはカップラーメンを相当数確保することができたという話でした。
当面の食料が確保された我々は、これでひとまずの心配が解消されたことから、次の行動に備えるべく、体を休めつつ集まってくる情報を整理することにしました。
しかし、時間が経てば経つほど、混乱はひどくなるばかりでした。
被害の情報はどんどん膨れ上がり、時間が経過するほど、状況は悲惨さを増していきます。
この時私は、阪神大震災のことを思い出していました。
あの当時私は高校生で、登校前にニュースを見て、
『大きな地震が起こったんだな』
くらいにしか思わなかったのですが、学校から帰ってくるととんでもない被害に膨れ上がっていてとても驚いたのを、よく覚えています。
その事を思い出し、
『今回はどこまで被害が広がるんだろう』
と、とても不安になりました。
そんな中、山田、大槌、陸前高田の3市町の情報はほぼ皆無で、どのような状況なのか全く分かりませんでした。
陸前高田市は、壊滅の情報の後、「津波によって広田半島が分断され、孤立状態」と情報が入りましたが、その後日没となり、被害の詳細はわかりませんでした。
山田、大槌の両町は全く情報が入らず、「この2つの町は消滅してしまった」と噂が立つほどでした。
すっかり暗くなってしまってから、ようやく大槌町にいる職員から情報が入りました。
しかし、その情報は全く明るいものではなく、むしろ絶望的なものでした。
「多数の町民と一緒に高台に逃げたが、周囲で火事が起きている。火の手はどんどん迫ってきている」
その情報を入れた職員は、私の先輩でした。
もう一人、その先輩と一緒にいた職員がいましたが、その人は私が以前一緒に仕事をした人でした。
その後しばらく、火災の状況の実況が続きました。火の手がジリジリと迫ってくる様子が伝えられる中、我々はどうすることもできず、ただただ避難場所にまで火事が到達しないようにと祈ることしかできませんでした。
その日は職場に泊まりました。
有事に備えて休息をとっておかなければならない、と理解しつつも、体も脳も異様な興奮状態にあり、一睡もできませんでした。
その間、大槌町の火事の実況は続きましたが、幸いにも火の手が避難場所に到達することはありませんでした。
しかし明け方、この震災で最大のショックが私を襲いました。
「Kさんが遺体で発見された」
それを聞いた瞬間、頭が真っ白になりました。
それと同時に、
『やっぱりこれは現実なんだ…』
と、諦めに似た気持ちが私の中を駆け巡りました。
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東日本大震災 | 日記
Posted at
2014/01/13 00:07:11
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