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ふにょきもののブログ一覧

2014年02月07日 イイね!

10マソキロ

10マソキロいきました。

平成25年5月末に84000キロ弱で購入してから8ヶ月。
現在は毎日往復100キロの通勤のため、毎月2000キロは走る計算でしたが、計算どおりでした。

そういや、最近右のドアミラーが言うことを聞かなくなりました。
高速で走っていると、ぱたぱた動きます。
気がつくと後ろが全く見えなくなっているのでちょっと怖いです。

最低20マソは走りたいけど、たった5年で走れちゃうんですね。いつまで乗れるかなぁ。
Posted at 2014/02/07 19:58:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマのこと | 日記
2014年01月12日 イイね!

2011.3.11『現実なんだ』

NHKの世論調査で、『今、国をあげて取り組むべき政策は?』との質問に、『東日本大震災からの復興』と答えた割合は、僅か12%だったそうです。

やはり、被災地以外はもう他人事なんでしょうか。

確かに、被災地以外に住んでいる方々には、遠い他人のことより自分のことの方が大事なのは当たり前で、財政再建などはとても大切なことだと理解もするのですが、復興は被災自治体の自力では不可能な巨大規模の公共事業のようなもので、国の支援無しには立ち行かないはずなんですよね…。

もちろん、震災直後の全国各地からの数々のご支援は忘れてはいませんが、絆という言葉がなんだか空しく聞こえます。
しかし、阪神大震災の当時を思えば、私も他人事と考えていましたから…これも因果なのでしょうか。


―――――――――――――――――――――


「陸前高田市は壊滅!!」

悲痛な叫び声を耳にしていながらも、それでも何が起きているのか全く理解できませんでした。
目の前のテレビに映し出される映像と重ね合わせてみても、現地で何が起こっているのか、想像もできませんでした。

あまりにも現実離れしすぎていたからです。

これが今、同じ県で、100キロしか離れていない場所で起きている事とは思えませんでした。

3時40分を過ぎたころ。
相変わらず、現地の詳細な状況はわかりませんでしたが、ようやく我に返った私は行動を起こすことにしました。

(これは長丁場になる。食料をできるだけ確保しなければならない)

停電が東北地方全体に及んでいることを知り、復旧までにかなり時間がかかること、この影響でしばらく食料確保が難しくなるであろうことを考え、上司に相談し、若手を連れて街に買い出しに出かけました。
この大災害に対応するため、おそらく数日は家に帰れず、職場に泊まり込みで仕事をしなければならない。そう思ったからです。


街は異様な雰囲気でした。
時間は4時近くになり、徐々に暗くなり始めていました。
信号、建物、看板の明かりは一切消え、街は死んだようでした。岩手の3月はまだまだ寒いのですが、この日は街の生気が無くなってしまったせいか、より一層寒々しい感じがしました。

しかし一方で、街を歩く人たちは異様な興奮状態にありました。
地震のこと、停電のこと、これからの自分の生活のことなどを声高に(皆興奮状態にあったためでしょうか)話していました。

しかし、誰一人として津波のことを話す人はなく、不思議と不安そうな人がいなかったのも印象的でした。



私は、連れの若手数名にあちこちのコンビニやスーパーに買い物に行くように指示し、自分も大通りのコンビニに入りました。

店の中はほぼ見えないくらい暗くなっていましたが、店側で用意したと思われる携帯型のライトがあちこちに置かれ、買い物には不自由しませんでした。

案の定、客は次々と押し寄せており、食事として摂れそうなものの類はあらかた売り切れてしまっていました。
仕方なく私は、なるべくカロリーの高いお菓子を中心に買うことにしました。
停電でレジは動かなかったのですが、店員は携帯型の端末のようなものを操作し、多少時間はかかるもののしっかりと来客に対応していました。

職場に戻ると、買い物に行かせた若手連中も戻ってきており、そちらはカップラーメンを相当数確保することができたという話でした。
当面の食料が確保された我々は、これでひとまずの心配が解消されたことから、次の行動に備えるべく、体を休めつつ集まってくる情報を整理することにしました。


しかし、時間が経てば経つほど、混乱はひどくなるばかりでした。
被害の情報はどんどん膨れ上がり、時間が経過するほど、状況は悲惨さを増していきます。

この時私は、阪神大震災のことを思い出していました。
あの当時私は高校生で、登校前にニュースを見て、

『大きな地震が起こったんだな』

くらいにしか思わなかったのですが、学校から帰ってくるととんでもない被害に膨れ上がっていてとても驚いたのを、よく覚えています。
その事を思い出し、

『今回はどこまで被害が広がるんだろう』

と、とても不安になりました。


そんな中、山田、大槌、陸前高田の3市町の情報はほぼ皆無で、どのような状況なのか全く分かりませんでした。
陸前高田市は、壊滅の情報の後、「津波によって広田半島が分断され、孤立状態」と情報が入りましたが、その後日没となり、被害の詳細はわかりませんでした。

山田、大槌の両町は全く情報が入らず、「この2つの町は消滅してしまった」と噂が立つほどでした。


すっかり暗くなってしまってから、ようやく大槌町にいる職員から情報が入りました。
しかし、その情報は全く明るいものではなく、むしろ絶望的なものでした。

「多数の町民と一緒に高台に逃げたが、周囲で火事が起きている。火の手はどんどん迫ってきている」

その情報を入れた職員は、私の先輩でした。
もう一人、その先輩と一緒にいた職員がいましたが、その人は私が以前一緒に仕事をした人でした。

その後しばらく、火災の状況の実況が続きました。火の手がジリジリと迫ってくる様子が伝えられる中、我々はどうすることもできず、ただただ避難場所にまで火事が到達しないようにと祈ることしかできませんでした。


その日は職場に泊まりました。
有事に備えて休息をとっておかなければならない、と理解しつつも、体も脳も異様な興奮状態にあり、一睡もできませんでした。

その間、大槌町の火事の実況は続きましたが、幸いにも火の手が避難場所に到達することはありませんでした。




しかし明け方、この震災で最大のショックが私を襲いました。





「Kさんが遺体で発見された」



それを聞いた瞬間、頭が真っ白になりました。
それと同時に、

『やっぱりこれは現実なんだ…』

と、諦めに似た気持ちが私の中を駆け巡りました。
Posted at 2014/01/13 00:07:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東日本大震災 | 日記
2014年01月08日 イイね!

2011.3.11『焦燥・苛立ち・不安』

宮古市の映像が映ったのは、確か3時10分を過ぎた頃だったと記憶しています。

宮古市の津波襲来の映像と、陸前高田市への津波接近の連絡。
位置的に考えれば、陸前高田市への津波の接近の方が先だとは思いますが、私は宮古市の映像が先だったように記憶しています。


ともかく、職場の室内は一気に空気が変わりました。

(これは大変なことになる)
誰もがそう思い直したはずです。少なくとも、私はそうでした。

テレビでは、まだ宮古市の映像を映し出していました。
車だけでなく、建物までも飲み込んでなお、水の量はどんどん増していきます。
どす黒い水でした。これが海の水だとは、にわかには信じられませんでした。

そのうちに、画面が切り替わりました。

『あっ!!』

私は思わず声をあげました。
前の職場のすぐ近くが映ったからです。

高台のトンネル出口付近から港方向を映した、定点カメラからの映像でしたが、水位がどんどん増していくのが目に見えて分かりました。
港に停めてあった車を次々と飲み込み、軽々と押し流し、堤防を越えていきます。

映像では、不思議と勢いや凄まじさは感じませんでした。
津波と言えば、怒濤の勢いで高波が襲ってくるものだと思い込んでいたのですが、映像では際限無く海の水が増えていく様子が映し出されているだけで、私の思い込みとは全く違っていました。
イメージで言えば、風呂に入ってお湯が溢れるようなもので、流される車は、まるで風呂に浮かべたオモチャのようでした。
カメラのせいなのか音も全く聞こえず、しかしそれが逆に言い知れぬ恐怖を掻き立てました。

テレビ画面には、港のすぐそばを走るバイパスの高架橋も映っていました。
高架橋は10メートル近い高さがあったと思いますが、その橋脚がジワジワと黒い水に飲み込まれていきます。
勢いが弱まる気配はありません。

(もう止めてくれ!!)

私は心の中で叫びました。どうにもならないと分かっていながら、それでも何度も叫び、祈りました。
前の職場は、映像で写し出されている場所の本当にすぐ近くにありました。
比較的背の高い建物でしたが、海抜ゼロメートルの所に建っていたため、このままでは全て津波に飲み込まれてしまうと思ったからです。

私が前にその場所にいたときは、津波警報が出ても誰も避難しませんでした。その程度の危機感でしかありませんでした。
もし、今そこで仕事をしている皆が、あの当時の危機感のままだったら…

(誰も助からないかもしれない…)

しかし、現地の正確な情報は分かりません。
焦燥の中で、みんなは私なんかと違うから、きっと逃げていてくれているはずだ、何とかみんな逃げていてくれ、建物が無事であってくれと祈ることしかできませんでした。

そんな中、高架橋の上で停車し、避難していたはずの車のうち、何台かが動き始めるのが見えました。

『何やってんだ!そっちに行ったら死ぬぞ!戻れ!』

誰かが悲鳴をあげるように叫びました。車が移動した方向は、高架橋から低い場所に向かって降りていく方向だったからです。
こうしている間にも、水はどんどん増えていきます。

ゆっくり動いていた車は、ついに画面の外に出て見えなくなってしまいました。

その車がその後どうなったのか、分かりません。


高架橋の橋脚の半分くらいが水に隠れた辺りで、また画面が切り替わりました。



この後は、順番の記憶が曖昧になっています。
時間が経過したこともありますが、どれもあまりに衝撃的な光景であり、その光景を見たことしか記憶に残っていない、ということもあります。

なので、この後は、私が見た映像の記憶を書き記します。

宮城県の名取市では、田園地帯を物凄い早さで黒い波が走っていました。その姿は、まるで襲い来る悪魔のようでした。
その黒い悪魔から逃げようと、車が必死で走っている様子が映りました。
しかし、波の方が早く、車が今にも追い付かれようとしたその時、また画面が切り替わりました。



久慈市では、一艘の漁船が、黒い煙を吐きながら、大波でうねる沖合いに逃げようとしているところでした。

『あれは駄目だ!!』

誰かがまた叫びました。
逃げているのは小さな漁船で、進行方向からは大波が迫っており、乗り越えられるとは到底思えなかったからです。
漁船は波に向かって真っ直ぐに突っ込んで行き、上下に大きく揺られました。

これも波に飲まれるのか。そう思った時、また映像が切り替わりました。
(後に、この漁船は助かったと聞きました。)


再び映し出された宮古市の映像では、もはや黒い濁流が渦を巻いている様子しか見えませんでした。


さらにまた、前の職場の近くの映像が写りました。
水位はさらに増していて、あと少しで高架橋の上の道路にまでかかるところでした。
道路では、数台の車がなす術なく立ち往生しています。これ以上、逃げ場はありませんでした。

(もう少しで全部流されてしまう)

ですが、幸いにも、水位がそれ以上上がることはありませんでした。水の勢いが止まった時、室内にいた皆が、安堵のため息を漏らしました。


しかし、このように映像で状況が確認できたのは僅かで、ほとんどの市町村は状況が全く分かりませんでした。
さらに、テレビの映像でいたずらに不安を煽られ、皆苛立ちと焦燥感ばかりが募りました。

そんな沈鬱とした空気に支配された室内に、再び悲痛な叫び声が響きました。




『陸前高田市は壊滅!陸前高田市は壊滅状態!!』




室内がどよめきました。

『壊滅?壊滅ってどういうことだ?!』

嫌な想像ばかりが先行しました。

何がどうなっているのか。
どこまでやられたのか。
みんなやられてしまったのか。

詳しい状況は、全く分からなかったのです。


目の前に映し出される映像に対して抱く、どうしようもない焦り。

何もできないことに対する苛立ち。

何がどうなっているのか全くわからず、これからどうなってしまうんだという不安。




まだ、最初の揺れから一時間も経っていませんでした。
Posted at 2014/01/09 00:02:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東日本大震災 | 日記
2014年01月08日 イイね!

2011.3.11『悪夢の始まり』

2011年3月11日。

私の長い生涯のうち、何の変哲もない単なる一日で終わるはずだったこの日は、しかし私にとって、生涯忘れられない日となりました。


この日私は、岩手県盛岡市で仕事中でした。
数日前に年度末の人事異動が発表され、この日は仕事が終わった後に送別会が催される予定でした。
私は残留組であり、特に何ということもなく、いつもどおり仕事をしていました。


午後2時46分。

突然、耳慣れない音が、職場内のあちこちでけたたましく鳴り響きました。

(なんだ?)

何人かが携帯電話を確認するのを見て、その音が携帯電話から発せられたということは分かりましたが、私の携帯電話は鳴らなかったため、何の音か分かりませんでした。

ただ、無性に嫌な感じのする音でした。

その直後、テレビで緊急地震速報が発表されました。
そこでようやく、先程の携帯電話の音が緊急地震通報の音であることを、私も理解したのです。

その数秒後でした。

凄まじい揺れが、建物を襲いました。
当時、私の職場は5階にありました。
狭い部屋にキャビネットやらをうず高く積み上げていため、そのキャビネットが崩れ落ちては大変だと、慌ててキャビネットを押さえに行きました。

揺れ始めてすぐに、電気が消えました。
私の職場は非常用電源があったため、すぐに電源が切り替わり、電気が再点灯しましたが、非常用の光量の弱い、オレンジ色の頼りない灯りでした。

揺れは長く続きました。
そしてどんどん強くなり、弱まる気配は全くありませんでした。

(これは今までの地震とは違う!)

私はこれまでの人生の中で、何度も大きな地震に遭遇してきました。
秋田県沖地震や三陸沖地震、宮城内陸地震など、震度6クラスの地震の体験は片手では足りないくらいでした。

しかし、今回の地震はそのどれとも違いました。
いつまでも揺れ、いつまでも強くなり続けました。
まるで、全ての物を壊してしまおうという意思を持っているかのような、恐ろしいまでに凶暴な揺れでした。

私は恐怖を感じました。
生まれて始めて、地震を恐ろしいと思いました。

揺れている間は、誰が何をしていたか、周りがどうなっていたかなどを確認する余裕はありませんでした。
ただただ恐ろしい、早く収まってほしい、それだけでした。


実際の時間にして1分くらいだったでしょうか。
月並みな表現ですが、本当に永遠に続く時間のように感じました。

ようやく揺れが収まると、周りの人達は互いに声を掛け合い、散乱したものを片付け始めましたが、特に緊迫した様子はありませんでした。
岩手では大きな地震が多いので、この時点では、私の周囲では私を含めて誰も深刻に考えていなかったのだと思います。


非常用電源に切り替わったおかげで、テレビはまだ映っていました。
テレビでは、大津波警報の発令を伝えていました。

『数メートルの津波が来るおそれがある』

それを聞いたとき、前の職場の心配が私の胸中をチラリとかすめました。
前の職場は、海の目の前にあったからです。

『津波が来たら、俺達は真っ先にやられるな』

現実には来ないけど。言外にそう付け加えて、目の前に広がる海を見ながら、同僚とよくそんな話をしていました。

前の職場にいた5年間で、覚えているだけで3回、震度6クラスの地震に遭遇しました。
しかし、一度も大きな津波は来ませんでした。
だから、今回も大丈夫だろう。根拠なく楽観的にそう思い、前の職場の心配はすぐに忘れてしまいました。

それよりも私は、すっかり停電してしまったこの後の方が心配でした。
時間は午後3時頃だったので、まだ周囲は明るかったのですが、外を見ると信号が消えていて、周辺が停電していることが分かりました。この時私は、職場の辺りだけが停電しているのだと思っていました。

しかし、揺れが揺れだけに復旧には時間がかかるかもしれない。そうなると面倒だな。
私が考えていたのはそんな程度でした。



地震から数分後。
この時はまだ、全く何も分かっていなかったのです。



しかし。

さらにその数分後、信じられない光景がテレビに映し出されました。

宮古市の魚市場を、定点カメラで写した映像でした。
画面上部、湾の方から水が流れ込み始め、魚市場の敷地を飲み込んで行きます。

『なんだこれは…』

初めて見る津波の映像に、愕然としました。
水は瞬く間に魚市場の敷地全部を飲み込み、渦を巻き、まるで弄ぶかのように軽々と車を押し流していきました。



職場の皆と一緒に、呆然とその様子を観ていると、突然悲痛な叫び声が飛び込んできました。






『陸前高田市に大津波が襲来!!!』







悪夢の始まりでした。
Posted at 2014/01/08 20:13:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東日本大震災 | 日記
2014年01月04日 イイね!

2011.3.11(前置き)

2011.3.11(前置き)変な時間ですがおはようございます。
おはようございます…で、良いですよね?

昨日書いた通り、これからしばらく東日本大震災のことを書こうと思っているのですが、その前に若干前置きをしておこうと思います。


まず、ひとつめ。

昨日書いた通り、私は直接の被災者ではありません。
私は岩手県に居住する者ですが、震災当時は内陸の盛岡市におりました。
ただ、それ以前に岩手県沿岸の市で仕事をしていたことがあるなど、いささかの縁を持っておりました。
逆に言えばそれだけの関わりということにもなりますが、今は再び深い縁を持つに至っているということもあり、岩手県沿岸部には強い思い入れがあります。

ふたつめ。

書くに当たり、基本となるのは私の記憶となります。
可能な限り、公的な記録等と整合させていこうとは思いますが、基本的には私の体験記的なスタンスであり、私の記憶頼みで書いていきます。

しかし、年月が経過しているせいもあり、細部まで思い出せないのが正直なところです。

一生忘れることのできない出来事ではありますが、残念ながら時間の経過と共に記憶も薄れております。
それを実感したため、今回このような形で書き残そうと思ったわけですが…もっと早く書いておけばよかったと後悔しています。

このため、時系列がバラバラになってしまう可能性がありますが、ご容赦いただきたいと思います。


みっつめ。

なるべく、私が遭遇した事実と、その時の私の心境のみを記載することを心がけたいと思っています。
これから書くのは、私が体験した東日本大震災の記録であり、そのように書かなければ意味が無いと考えるからです。

直接の被災者ではない私が震災のことを書くことについて、正直ためらいがあります。

今も思うのは、直接被災された方々とそうでない者と、絶対的な違いがあるということです。
被災していない者は、私を含めて、被災された方々の心情を理解することは不可能です。
このため、私にあの震災のことを語る資格があるのか?という迷いは常に存在します。

しかし私は、100人いれば100通りの体験があり、感覚があり、様々な角度から書き記すということも必要なのではないか、とも考えるようになりました。

東日本大震災という、歴史的な大災害を記録する多角的な視点の一点として、私のような立場の者の体験記にも何かしらの意味があるのではないか?
そう考え、今に至っております。

こういったスタンスで記述していくものであるということを、まずご理解頂きたいと思います。


最後に…
被災された方々の心情に配意して記述していくつもりではありますが、なるべく事実をそのまま記載するつもりでおります。
また、私の配意や文章表現に不足の点があり、ご気分を害される方がおられましたら、直接メッセージ等でご指摘頂ければと思います。


長くなるのか、それとも…
今のところ、見通しは全く立っていませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
Posted at 2014/01/04 05:27:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 東日本大震災 | 日記

プロフィール

「2011.3.11『現実なんだ』 http://cvw.jp/b/2072753/32117167/
何シテル?   01/14 22:18
未熟者ですが、3児の父親をやっております。 昨年9月に第3子(次男)が誕生しました。 毎日可愛くて仕方ありません。笑顔に萌え死にそうです。 ブログ...
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