2006年10月20日
来週で50代最後の誕生日を迎えることになった。
この年になるまで身近な人との永の別れに幾度となく遭遇してきた。
長く生きていれば誰だって同じこと。
その死に直面して驚いたり悲しんだことがある。が、すぐに忘れてしまう。
その中でも本当に悲しみに打ちひしがれ忘れられないことが幾つかある。
27年前の母の死。初めて人が死ぬということに慟哭した。
最後の別れということで棺の窓が開けられてその旅立ちの顔を見た瞬間、もう立っていられないほど体が振るえ涙が止まらなかった。
幸薄い女の生涯を閉じた母は、初めて解放されたように見えた。
その翌年にはレースの恩師の事故死が起きた。
いつも厳しく竹刀で叩かれっ放しだったが、ある意味で人生の師でもあった。
クルマの滑らかな動きが速いということを徹底的に仕込まれた。
私が金のないとき、質屋に行って自分の腕時計を金に換えて渡してくれた。
借りた金を返しに行くと、今日じゃなくてもいいと受け取らなかった。
ある時には父親のように、ある時は兄のように私を叱咤しながら支えてくれた。
表彰台にあがると自分のことのように喜んでくれた。
恐く厳しい人だったが、根は優しく人情味の厚い人だった。
その恩師が菅生でテスト中にクラッシュして還らぬ人となった。
誰よりも車を知り、卓越した技術でレース中に事故など起こしたことがない人だった。
それなのにテストであっけなく逝ってしまった。
告別式の時、その笑った遺影を見てまたも慟哭した。
誰にはばかることなく声を上げて泣いた。
何故この世の中には救いのない死んでもいい人間がのうのうと生き続け、
誰もが必要としている人が死んでいかなければならないのか、とその不条理を恨んだ。
この9月に逝去した友人はそれほどの接点はなかった。
いや、自分の知り合いの中でその人ほど話をしなかった人はいない。
ほんの一瞬である。覚えているはずがないほど一瞬だった。
「オレさ、んがぁさんのファンなんだ」
と言いながら話しかけてくれた。一瞬のたじろぎが私にあった。不覚を取られた。
「いつもブログ読ませてもらってるんだ」
まるで脳天からナタで叩き割られたような感覚だった。
何ということだ、私は彼のブログを読んだことがない。
いやいやこの瞬間こそが最初のコンタクトだった。
妻と3人で話し込んだ。そして話が病気のことに及んだ。
「オレさ、癌なんだよ」またも脳天を割られた。
彼の従兄弟のブログでは末期癌のことなど知らずに逝ったとあったが、
彼はちゃんと知っていたのだ。
その凄まじい気迫に完全に飲まれ、私はうわごとのことのようにしか喋れなかった。
その一瞬。そしてそれきりだった。
彼のブログを何度も読み返すようになった。
その後、奥琵琶湖や赤城、八ヶ岳と白の203を見るたびに彼のことが強烈に甦った。
なぜか不思議に忘れることができなかった。
教えてもらったアドレスに何度もメールを出したが返事は1通もなかった。
9月の下旬には出したメールがあて先不明で戻ってきた。
彼の訃報が明らかにされたとき、私は口を開くことができなくなった。
その日は仕事にならず早退した。年寄りの慟哭の姿なのかもしれない。
このおいぼれが生き続け、働き盛りの家族持ちが生を止めた。
もっと生きなくてはならないはずなのに、神様は残酷だ。
それでも世の中は何事もなかったかのように動いている。
母や恩師、友人の死はこれっぽちのものなのかもしれない。
街を見渡せば「私、関係ないわ」という答えしか返ってこない。
そんな中で今日も私は生き続けている。
打ちひしがれた悲しみは時間と共にその傷を埋めていく。
彼らの分を背中に背負って生き続けなければならない。
それはとても重いけど、でも決して罰せられた十字架なんかではない。
必死になって背負うことで、いつも間にか悲しみを乗り越えていることに気がつく。
これから先も。
合掌。
Posted at 2006/10/20 15:52:43 | |
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