
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
1990年から1991年にかけて、もう少し具体的にいえば、89年夏にR32GT-Rをデビューさせてから91年の暮れまで。この期間、ニッサンと「GT-R」は社内的にも対外的にも微妙な時期を過ごしたということができる。
まず社内では、“ポストR32GT-R”のための各種の「先行実験」が続いていた。その成果を活かして、「Vスペック」などの新しいR32GT-Rも誕生した。これらはみな、R32GT-Rの「次」をやりたいがためのディベロプメントで、渡邉衡三が語ったのと同じように、GT-Rのスタッフもまた、R32で「高い山」に登ったがために、もっと高い山を見ていた。
一方、あのR32GT-Rを超えるクルマを作れるのかという疑問が、ほかならぬ社内から根強くあったのも事実だった。次期GT-Rを作るとして、ここにさらに上乗せできる新技術なんて、果たしてあるのか? 旧型よりもさらに高性能にすることはできるのか? R32GT-Rのエンジン出力は、国内発売車のマキシマム・パワーとして自主規制されている「280ps」に、当然ながら既に達している。次期モデルをさらに速くするとしても、エンジンのパワーを上げればいいという安直な手は、もう使えないのだ。
そしてここに、雑誌を中心とするジャーナリズムが絡む。社内の「批評的な見方」というのは、一部のジャーナリズムとも奇妙に共通するものだった。
──次期スカイラインは、どうも大きくなるらしいし、ホイールベースも伸びるってウワサだ。そうすると、GT-Rはどうなるのだろう? そもそもそういうベース車から“小さな旧型”より速いクルマを作れるのか? サーキットを見たって、同出力なら軽い方が速いのは自明の理だ。ニッサンは、R32に及ばないGT-Rを、もう一度作ろうとでもいうのか?
この時に支配的だった論調が新GT-R待望論ではなく、次期GT-Rに対して、多くは恐ろしくネガティブだったというのは記憶しておいていいことだ。R32GT-Rのブレーキ・キャパシティの不足、アンダーステアの強さといった欠点を一方で指摘しつつ、日本のモーター・ジャーナリズムは、まだ見ぬ来たるべきGT-Rに期待するのではなく、「60点」(実験部)だったR32GT-Rへの“愛惜の歌”だけを奏でた。この“トレンド”はここから先も、渡邉衡三と吉川正敏をはじめとするR33のスタッフを悩ませ続けることになる。
さて、そのような次期GT-Rを「やるか、やらないか」というリサーチの面も含んで、R33GT-Rの「企画」が社内でスタートしたのは、1990年の初め頃だったといわれる。この時の渡邉衡三は、R32の「まとめ」をやり終えて、クルマ作りの現場からは少し離れた実験部の主管という管理職に就いていた。
一方の吉川正敏は、80年代後半からこの時期にかけては社内を精力的に動き回っていた。後にその動きに最もふさわしい場として、彼には89年の10月から「技術開発企画室」という先行開発専門の遊撃的な部署が与えられたほどだ。彼はここに属していた約2年間の間に、社内のモータースポーツ誌の編集長も務め、同時に、ニッサンという企業全体の「先行開発」のプロデュースと舵取りを行なった。
彼は社内の先行的な研究をすべてヒアリングし、こういうやり方でやった方がいいという方向づけを行ない、ときにはテーマを与えて指導もした。そのリサーチの中には、今日、急速に注目されている「安全」や「環境」「リサイクル」も含まれていた。そして、これと時を同じくしてGT-Rの先行研究が始まり、吉川がそれに首を突っ込んで、「ハンパなら、いっそやらない方がいい」という辛口の発言をしていたのも、その立場ゆえだった。
吉川正敏は6代目にあたるスカイラインR30に、入社3年目の若手として関わったエンジニアで、そこでクルマの「開発から墓場まで」(吉川)を経験した。そしてこの時に吉川は、当時の呼称で「シャシー実験」に所属していた川上慎吾と出会っている。
川上は一エンジニアとして独自にLSD(リミテッド・スリップ・デフ)を研究し、それを装着して、さらにフロント・サスの支持剛性を上げ、ステアリングの取付け剛性も大幅に上げた“彼のスカイライン”を作っていた。それを吉川にも見せ、二人でテストコースを走り、「こういうクルマにしなければダメだね」と語り合っていた。
R30以後の吉川は、「先行」という立場に身を置き続け、ミッドシップの実験車「MID4」の研究と開発も行なった。ただこの時は進化のステージを上げ過ぎて、クルマがとても市販はできないようなレベルの“スーパーカー”になってしまったと、吉川は苦笑とともに言った。
そして、その「MID4」研究に吉川が一段落をつけた頃、社内呼称「P901」が始まるのである。後に「901活動」として、1990年にシャシー性能を世界一にする目的で始まったと外部にリリースされるこのムーブメントのシナリオを作ったのは、シャシー実験部の次長・宮田進であった。
宮田はまず、吉川ら若い設計のエンジニアを集めて、FR車のフロント・サスの先行開発を命じた。どうやったら「走る楽しさ」が生まれるか。それを新しい“ブツ”を作るという面からやってみろということである。また一方で宮田は、そういう若手にしっかりと現場での研修活動をさせることも怠らなかった。その一環として宮田は、吉川をヨーロッパに出す。
それまでのニッサンの海外出張は、いわゆる管理職がリーダーとなって行われることが普通だったが、宮田の考え方は違っていた。エライやつを出張に出すから、カネもかかるし、いろいろと面倒なんだ。若いのを外に出す分には、たとえば飛行機だってエコノミー・クラスで済む。エライのを一回行かせるより、若手を何回も現場に行かせた方がよっぽどいい。「……というわけで、小僧が二人だけでですね(笑)、ヨーロッパに行ったわけです」と、吉川は述懐する。
(つづく) ──文中敬称略
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90年代の書棚から 最速GT-R物語 | 日記
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2014/11/23 05:23:23