
……というわけで、そうした小説にも採り上げられるほどに、この場所(都内南部の環七)と自動車とは、当時“蜜月関係”にあった。そして、少年が通った小学校の校庭は、その「劇場」の観覧席であり最前列でもあった。金網から「いい道」を見ていた少年たちは気づいていなかったが、彼らは連日、50年代後半当時の「新鋭車」が動き回る様子を特等席から見ていたのだ。
そして、そんな“金網”はすぐに、同じようなことをする仲間を引き合わせることになる。少年たちは鉄の網に顔をくっつけ、目の前の直線路を指差しては、それぞれに叫び声をあげた。「ダッジだ、58年型」「あ、新型のシボレー・インパラ、もう走ってる!」「来た、プリムスが」……。
「環七」を走っていく自動車では、まずは、大きくて豪華なアメリカ車が少年たちの目を奪った。それには時代的な理由もあり、ひとつは、50年代末のアメリカ車は巨大な「テールフィン」をボディ後半部に“立てた”奔放かつ華やかなデザインだったからである。そんなテールフィンの高さでいえば、たぶんダッジとプリムスが双璧で、一方でシボレーのインパラ60年型は、そのリヤに、横方向に長い二つのテールランプを配して、リヤビューの全体で、恐ろしく派手な“芸”をしていた。
そして、注目した理由のもうひとつ。それは当時のアメリカ車が一年ごとにモデルチェンジをしていたことである。米ビッグ・スリーはこの頃、「計画された陳腐化」を毎年行なって、新型車をたった一年で旧型に追いやっていた。この頃のアメリカには、そんなメーカーの思惑に応えるだけのマーケットとカスタマーが存在したのだ。第二次大戦・戦勝国の戦後は、それほどに豊かであった。
そんな米車の現状と変化を知るためにも自動車雑誌は必要で、“金網の少年たち”は、誰かが雑誌を持っていれば、それを見ては情報を収集し合った。最新の雑誌を買えるくらいの小遣いをもらっていた少年が、たぶんグループにいたのだ。また、クルマの絵を描くことがとても上手な少年もいた。
私はといえば、最新の雑誌は持ち寄れず、そして、何かクルマのスケッチを描いてそれを友に示すようなこともできなかった。私は自動車のデザイナーになるという夢を一瞬たりとも持ったことがないが、それには単純にして厳粛な理由があった。そう、私はクルマに限らずだが、そもそも「絵を描く」ということがまったくできなかったのである(笑)……。
こうして、多少の時間が経った。“環七ウォッチ”と自動車雑誌のせいで少しだけ目が肥えてきた少年たちは、鈍重な乗用車(セダン)よりも、それより小さくて、俊敏そうで、そしてちょっとフシギな格好をしたスポーツカーを「環七劇場」で探すようになった。私の場合はそれに加えて、排気音とともに疾走する大型二輪車にも惹きつけられた。MG-A、ジャガーXK120、トライアンフTR3、オースチン・ヒーレーとそのスプライト、さらに二輪のトライアンフ、BSA……。こうしたモデルが、少年であった私にとってのスターたちだった。
*
さて、この小学校の立地には何の変更もないと、先に記した。しかし、数十年後の今日、そこに小学校があるということを知っている人でない限り、いま、この学校を発見することはきわめて困難であると思う。……というのは「環七」側から見た場合、今日では、そこに学校があるという気配は皆無だからだ。
校庭と「環七」がスケスケの金網だけで接していた、自動車ウォッチャーにとっての幸福な時間は長くなかった。正確な時期は知らないが、おそらくは70年代に入った頃であろう(注4)。大量の自動車が走る幹線道路「環七」が発しはじめた走行騒音と、その自動車から吐き出される排ガスから児童を守るために、小学校は高い隔壁で“武装”したのだ。1970年代、環七は「劇場」から「公害」になっていた。それ以後とそして今日、外が見えないであろう塀の中で、この小学校のコドモたちは、校庭でどんな遊びをしているのだろう……。
(了)
注4:小学校の高い隔壁
この小学校のホームページを当たってみると、その「沿革」で、学校に「防音壁」が設置されたのは昭和38年(=1963年)と記されていた。70年代ではなく1963年時点で、つまり「カローラ/サニー」が登場する何年も前に、「環七」はすでに、学校として何らかの対策が必要なほど多くのクルマが走る道になっていたようだ。
(タイトルフォトは、キャデラック・シリーズ62セダン1959年型。トヨタ博物館・刊「BIG3の時代」より)
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Car エッセイ | 日記
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2015/01/11 19:44:08