
さて、いまにして思うと「菅生」でのF3000レースは、ミハエルにとってはたった一度だけの“F3000体験”だったことになる。日本のファンに、若くて速くて強いドライバーというのが何十年にひとりという感じで現われることを示して去ったのだが、その時のシューマッハの愛機がこのラルトRT23であった。
このマシン、車体にコンストラクター名として貼られているラベルには、マーチ・エンジニアリング/コルンブルック・ディビジョンと記されている。つまり、このラルトはマーチ製である。……あれ? マーチは日本資本に買収されて、名前が変わってしまったのではないか? そう思われるかもしれないが、マーチのすべてが日本資本の手に渡ってしまったわけではないのだ。名前が変わってしまったのは、主にF1関連の部門のみ。
マーチ・エンジニアリングは1988年の10月にラルトを吸収・合併していて、その後に、F1セクションだけを売り渡しただけだという。したがって、ラルトRT23とは、1989年のマーチのF3000シャシーだが、その時には日本資本による買収劇が絡んでいて、「マーチ」の名がF3000やF1では使えなかった。どうやら、そういう事情のようである。
ラルト=RALT、このコンストラクターの歴史を振り返ってみると、これまた日本との関連が多いコンストラクターであることがわかる。記憶に新しいところでは、あの「ラルト・ホンダ」である。1980年に“ホンダ・イズ・バック!”として、ヨーロッパF2シーンに、レーシングエンジン・サプライヤーとしてホンダが還ってきた時に選んだシャシーがラルトだった。
ホンダF2エンジン+ラルトは、登場してすぐ、1981年にチャンピオンとなる。ドライバーは、F1を狙ったが果たせず、日本のレース・シーンに自身のキャリアの展開を求めて、そして今日でもトップレンジにいる男、ジェフ・リースだった。
この時の「ラルト/ホンダ」の強さは圧倒的で、ヨーロッパのF2シーンをホンダのワンメイクに近いものにしてしまい、ついに1984年末には「F2」というカテゴリーそのものを消滅させてしまった。いまF1のすぐ下のレースがF3000になっている遠因は、実はラルトなのである。そしてこの時、「ラルト/ホンダ」のマネジャーだったのが、ラルトの創始者ロン・トーラナックであった。
「RALT」とは、彼と、彼の弟オースチン・ルイスの名、それに姓のトーラナック、それぞれのイニシャルを並べたものだ。彼、トーラナックは、イギリス生まれのオーストラリア育ち。同じくオーストラリア人で、1950~60年代の名ドライバー、ジャック・ブラバムが独立した時にイギリスに呼ばれ、以後ずっと、ヨーロッパで活動を続けている。
ロン・トーラナックの作るレーシングカーの特徴は、とにかく堅実なこと。ロータスの創始者コリン・チャップマン、1970年代のゴードン・マーレイ、あるいは今日の、去就が注目されている“優勝請負人”ジョン・バーナードなど、異才や天才がもてはやされるレーシングカー・エンジニア/デザイナーの中で、ロン・トーラナックは目立たぬながら、常に的を外さないクルマ作りをしてきた。
いま、フォーミュラのシャシーを市販して、きちんと商売になっているコンストラクターは数えるほどしかない。F3000ではローラ、レイナード。F3ではレイナード、そしてダッラーラ。アメリカのインディ・カーでもローラとペンスキー。これだけである。
速くなければ、誰にも買ってもらえないこの世界──。ロン・トーラナックと彼のラルトは、1975年の初のF3マシン製作以後、F3、そしてF2(後のF3000)のフィールドで、ずっと生き続けている。ロン・トーラナックは1925年生まれ、国際レース界における“豪州人脈”の重要なひとりだ。
(了) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
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モータースポーツ | 日記
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2016/04/01 18:15:57