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2016年04月17日

【クルマ史を愉しむ】vol.17 『自動車の世紀』を読む 《10》

【クルマ史を愉しむ】vol.17 『自動車の世紀』を読む 《10》 ○「VW以前」のフェルディナント・ポルシェ
1923:フェルディナント・ポルシェがダイムラー社に技術担当重役として入社。
スーパーチャージャー付きのSシリーズを開発。倒立V12型航空エンジンを設計。

1926:ダイムラー社とベンツ社が合併してダイムラー・ベンツ社となる。
DB(ダイムラー・ベンツ)には多くの優秀なエンジニアがいた。その集団を統率していくのは容易ではないこと。フェルディナント・ポルシェには政治力や外交術はなかった。

1930:フェルディナント・ポルシェ、独立。
シュツットガルトに、ポルシェ設計事務所を発足させる。

1932:フェルディナント・ポルシェに、ソビエトの技術者からのコンタクト。
さらにソビエト政府からの公式文書も。内容は「わが国の可能性を貴殿の目で判断していただきたい」。ポルシェは、ソビエト政府からのこの招待を受ける。ソビエト国内で手厚いもてなし、各地の工場を視察。

ポルシェがスターリンと会った記録はない。ソビエトは遅れた技術を一気に引き上げるために、フェルディナント・ポルシェという「人」をほしがった。彼のために“ソ連邦国家設計者”という称号も用意していた。しかし、職人との会話や交流を大切にするポルシェは「私も57歳。ロシア語を習うには遅すぎる」と、結局、ソビエトからの招請には応じなかった。

「ポルシェがおそらく、20世紀としてほとんど唯一にして最後の、個人の能力で国家の運命を左右できる技術者としての評価を受けた、ということ」「ポルシェが最後の“個人的”な技術者だったことが重要」(著者)

○“国民のクルマ”の誕生
1933:ベルリン・モーターショー
その開幕に、政権を取って間もないアドルフ・ヒトラーが演説。
「自動車が金持ち階級のものである限り、それは国民を貧富の二階級に分ける道具にしかならない。国歌を真に支えている国民大衆のための自動車(略)……われわれは今こそ『国民のための車』を持つべきである」

ヒトラーは既に、1925年にフェルディナント・ポルシェに会っていた。その後にポルシェがツュンダップ社とNSU社のために、国民車的な小型車を設計した(ともに具体化はしなかった)ことも知っていた。
独裁ヒトラー政権、その新政策の三本柱は「VW計画」と「アウトバーン」、そして軍備の拡充。

ヒトラーが総統官邸にポルシェを呼ぶ。ヒトラーは国民車についてのアイデアを述べ、それにつづけてポルシェに要求。国民車の価格は「1000マルク以下なら、いくらでもいい。ポルシェ博士、きみの計画を提出してくれたまえ!」

○ポルシェ博士の三つの夢
フェルディナント・ポルシェの生涯の夢は、傑出したレーシングカーを作ること、小型大衆車の設計、そして優れた農業用トラクターの製作。このうち、大衆車については二回にわたって具体化せず、ポルシェは失望していた。

○大衆車の新しい解決法
1934:フェルディナント・ポルシェ、新しいドイツ大衆車に関する基本構想を発表。
従来車の単なる小型化ではなく、「乗用車としての十分な価値をもったもの。そのためには、根本的な新しい解決法が必要」(ポルシェ)。この時のアイデアスケッチには、流線型とリヤエンジンが既に示されていた。

ポルシェ設計事務所がドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)と正式契約。最初の試算では車両価格は1500マルクだったが、5万台製作した場合、その生産費は1台900マルクになった。

1935:新・大衆車の構想が明確化。リヤに置かれた空冷エンジン、ポルシェ特許の横置きトーションバー・サスペンション。そして中央バックボーンフレーム、これは1922年のタトラで採用されていた。

フェルディナント・ポルシェは自身の別荘で、三台のプロトタイプの手作りを開始。プロトタイプは「VW3」と名付けられ、1936年はそのプロトタイプで長距離テストを行なった。

1935:ベルリン・モーターショー。
ヒトラーは“国民のクルマ”(VW)の誕生を予告。
「従来の中型オートバイより安く、燃費のよい乗用車をドイツ国民に贈ることが、将来、必ず可能になるものと信じている」アドルフ・ヒトラー

新・大衆車30台のプロトタイプ(VW30)がダイムラー・ベンツ社で作られた。

○VWの量産計画
1936:フェルディナント・ポルシェ、アメリカを訪問。
アメリカの自動車工場の視察、量産体制の研究。1937年にはヘンリー・フォードとも会見。しかし、晩年に保守的になっていたヘンリー・フォードは、VWのような「高級・複雑な」レイアウトには大反対。

1938:新・大衆車の最終プロトタイプ、40台を製作。
このクルマは「VW38」と名付けられた。

○「喜びを通じて力を」
北ドイツ、ファーラースレーベン=現在のウォルフスブルクに工場建設を開始。車名はヒトラーによって「Kdf」になった。ドイツ語で「喜びを通じて力を」の頭文字。これはドイツ労働戦線のスローガン。
価格は990マルク。4年間、毎週6マルクを払えば手に入る。ただし、6マルクは労働者の平均賃金の約25~33%にあたり、決して小さな負担ではなかった。

1939:ドイツ陸軍、ポーランドに侵攻。
第二次大戦が始まる。結局「Kdf」はドイツ国民には一台も渡らなかった。

○タイトルフォトは試作型VW30のテスト風景。リヤウインドーはない。「自動車の世紀」より。

(つづく)

(このシリーズは、折口透さんの快著『自動車の世紀』(岩波新書)をナビゲーターに、クルマ史におけるさまざまなシーンを見ていきます)
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Posted at 2016/04/17 14:21:57

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