
夜の田舎道をスバルが行く。車内の二人。フロントウインドーではワイパーが動いている。トシオの横で、語り続けるタエ子。
「アベ君はね、家が貧乏らしくて、体育着も持ってなかった」
「アカじみてて、袖でズズッて鼻こすりあげたり、鼻くそグリンて指でほじくるの」
「それで、ちょっとイヤな顔すると、すぐ『何だよ、ぶっとばされんなよ!』ってスゴむの」
「女の子はみんな、ひそひそ、アベ君のウワサをするの」
「だけど私、その仲間にだけは入らなかった。こそこそ陰口言いあって嫌うのは、いちばん悪いことだって気がしてたから」
そして夏休み前、アベ君は、またまた転校することになった。先生は「みんなとひとりずつ握手してお別れしましょう」という提案をする。仕方なく、それに従う生徒たち。
「アベ君は、みんなの席を回って、握手して歩くんだけど、コチコチに緊張してた」
「最後に自分の席に戻って、私と握手して、終わるはずだった」
「私が手を差し出すと、アベ君が言ったの。『お前とは握手してやんねえよ』って」
運転席のトシオが、横目でタエ子を見た。トシオの左手が、一瞬“何か”をしようとして動いて、でも、結局何もせずにスバルのサイドブレーキを引いた。
「アベ君のこと、いっとう汚いって思ってたのは、あたしだったのよ」
「アベ君はね、そのこと知ってたの。だから、握手してくれなかったんだわ」
フーッと、トシオがひとつ息を吐く。
「私、子どもの頃からそんなだったの。ただ、いい子ぶってただけ。いまも、そう」
灰皿からシケモクを取り出したトシオは、シガーライターでそれに火をつけた。
「だったらバカですよ。そのアベ君は、実はタエ子さんが好きで、別れたくなかったから、握手しなかったのかもしれないじゃないですか」
「まさか。アベ君が好きだったのは、学級委員の小林さんよ。あたしには強がってばっかり。ズボンのポケットに手を突っこんで、ヨタッて歩いてみせるのよ」
「だって、ほかのみんなとは一人残らず握手したのよ。しなかったのは、私だけよ」
小学5年生の時の「アベ君」を巡るタエ子のトラウマは、本当は汚いと思って嫌っていたのに、級友たち(女子)にはそうでないフリをしていたこと( → 偽善)。しかし、当のアベ君には、それを見透かされていた。加えて、もうひとつ。アベ君にタエ子だけが差別され、級友の中でひとり握手してもらえなかった。その屈辱も絡んでいたようだ。
雨の中。スバルの車内で、傲然とトシオは言った。
「これだから困るなあ、女の子は! 男の子の気持、全然わからないんだから」
いつになく“上から目線”のトシオの物言いに、タエ子が口を尖らせる。
「何よ、知ったかぶりして!」
しかし、トシオは余裕たっぷり。そして、タエ子と映画の観客に向けて、あたかもミステリー・ドラマの最終章で探偵が事件を解明する時のような“謎解き”をして見せる。
「じゃあ、当てましょうか」
「アベ君は、そんなに(ケンカが)強くなかったでしょう。男の子にはスゴんだりできなかった。転校生だから、友だちもいない」
「タエ子さんは隣の席だったし、強がりを言ったりしやすかったんですよ」
「いじめることで、タエ子さんに甘えていたんです」
「第一(アベ君が)みんなと握手なんか、したいはずないですよ。(でも)タエ子さん(だけ)には本音が出せたんです。『お前とは握手してやんねえよ』って」
……時制が過去に戻って、タエ子・小学5年生。その視界の中に、アベ君とその父らしき二人連れが入って来た。この時のアベ君はよそ行きを着ているのか、いつもと違って身なりが整っていた。タエ子は本屋の前にいて、胸には雑誌「マーガレット」を抱えている。
しかし、せっかく身綺麗にしていたアベ君は、タエ子がそこにいることに気づくと、急にポケットに両手を突っ込み、肩を揺すって歩いて、ペッ!と唾を吐いた。すかさず、隣の父が息子の頭を殴る。「汚ねえことすんな!」
目の前を通り過ぎて行くアベ君父子の後ろ姿を見送ったタエ子は、急に姿勢を変えて背中を丸め、ペッ!と唾を吐いた。さらに、その姿勢のまま商店街を歩いて、そこかしこに唾を吐いていった。ペッ、ペッ、ペッ!
それは、タエ子なりの「贖罪」だったのだろう。少女タエ子は小学5年生の時点で、自身の「偽善」に気づいていた。(10歳って、実はそんなにコドモではない)
「私……。アベ君に悪くて後ろめたくて。必死に、アベ君の真似をしたの」
「でも、手遅れよね。そんなことしたって」
「アベ君をイヤがって苦しめたことは、取り返しがつかないもの」
停めていたスバルの車内から、トシオが空を見上げた。
「あー、雨やみましたよ」
ドアを開けて、外に出た二人。月は満月だった。
辛い記憶から話題を変えようとしているのだろう、トシオは「このへん、夜走ってると、タヌキやテンによく出くわすんですよ」と笑った。そして、ふたたびクルマに乗り込み、「そろそろ帰りましょうか」と、タエ子に言った。
トシオは「田舎の音楽、かけますか」と、車内に、例のハンガリーの民族音楽を流す。田舎の夜道を、二人を乗せたスバルが走っていく。
車内のタエ子。(ナレーション)
「私は、自分がトシオさんを、どう思っているのか。トシオさんは、私のことをどう思っているのか。初めて、考えようとしていた」
「偶然とはいえ、私のひねくれた心を、当のトシオさんに解きほぐしてもらうなんて」
「どうして、これほどトシオさんに甘えることができたのか、不思議だった」
「トシオさんが、私より年上に思えた」
「私がいま、握手してもらいたいのは、トシオさんだった」
そして、自分にだけ聞こえる声で、タエ子は呟く。(握手だけ?)
目を閉じたタエ子は、空想の世界へ飛んでいた。チロル風とでもいうのか、そんな牧場に囲まれた景色の中で、タエ子は馬車に乗っていた。荷台には干し草が満載で、その上にタエ子とトシオがいる。この時のタエ子は、これまで見せたことがない穏やかな笑顔をしていた。
ナレーション。
「この気持ちは、何なんだろう……」
「トシオさんを、そばに感じながら、私は一心に考え続けた」
(つづく)
○フォトは山形・高瀬地区の紅花畑。web「やまがたへの旅」より。
◆今回の名セリフ
* 「アベ君のこと、いっとう汚いって思ってたのは、あたしだったのよ」(タエ子)
* 「タエ子さん(だけ)には本音が出せたんです。『お前とは握手してやんねえよ』って」(トシオ)
* 「私がいま、握手してもらいたいのは、トシオさんだった」(タエ子)