• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2017年01月11日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《10》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《10》徳丸理事長との交渉を終えた高校生は、新橋駅へと向かった。「いい大人って、いるんだな」「まだ、わからないよ」「でも、よかった!」と言葉を交わす三人組。駅頭のガード下には、坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が流れている。

そして駅前に来ると、生徒会長の水沼は気をきかしたつもりか、「俺、神田の叔父のところへ寄って行くわ。じゃ、明日」と二人に声をかけ、ひとり地下鉄入り口に消えた。松崎海と風間俊の二人は、来たときと同じ京浜東北線に乗って、横浜へ帰る。

ただ、こうして、電車の中で松崎海と風間俊が二人だけの“デート状態”になっても、映画はそのまま「上を向いて歩こう」を流しつづけるのだが、これはどうなのだろう? 実はこの歌、この映画では前にも登場して、あたかも“第二の主題歌”であるかのように重用されているのだが。

まあ、1960年代前半当時の日本を象徴する歌として使っているだけなのかもしれないが、でもこの歌は、作詞の永六輔渾身の“悲しさ極まりソング”。この歌の中の人物は、何故「上を向いて」歩いているか。それは「涙がこぼれないように」で、顔を普通の状態にしていたのでは涙が流れ落ちてしまうからだ。

そのくらい悲しいことがあって、「ひとりぼっちの夜」を噛みしめながら、それでも何とか夜道を歩いている……というのが、この歌であると思う。タイトルに「上を向いて」という言葉があるので、何があっても上昇志向で行こう風の応援歌に聞こえるかもしれないが、そういう歌ではない。

……というわけで、せっかく二人で夜の京浜東北線に乗っていることだし、そうした松崎海と風間俊の状況に被せるなら、そして、映画として当時のスター坂本九の歌を使いたいのなら、ここでの曲は「見上げてごらん、夜の星を」の方ではないだろうか。(♪見上げてごらん、夜の星を。小さな星を、小さな光りを ♪ささやかな、幸せを祈ってる)

それはともかく、京浜東北線は横浜の桜木町駅に着き、松崎海と風間俊は市電に乗るためか、あるいは一緒に歩きたかったからか、山下公園へ足を向けた。「1963年」の時点で、マリンタワーには「トヨタ」の文字看板があり、山下公園には氷川丸が駐まっている。

夜の山下公園、並んで歩く二人。高校生同士として進路を話し合った後に、松崎海はずっと気になっていたことを、ここで確認した。“週刊カルチェラタン”に載っていた、旗を掲げる少女についてだ。
「あの詩、風間さんが書いたの?」
「メルが揚げる旗を、毎朝、親父のタグから見ていたんだ」
「私の庭からは、船が見えなかったの。だから、応答の旗を揚げているの、知らなかった」

そして、市電を待つ停留所で、松崎海はついに告白する。
「風間さん、私、……私ね」
さらに、ほとんど叫ぶように、海は続けた。
「私が毎日毎日、旗を揚げて、お父さんを呼んでいたから、お父さんが自分の代わりに、風間さんを送ってくれたんだと思うことにしたの」

そこに、市電が来た。
「私、風間さんが好き」「血がつながっていても、たとえ、きょうだい(兄妹)でも、ずーっと好き!」
市電のドアが開いた。両手で、海の手を取る俊。
「俺も、お前が好きだ」
頷いて、市電に乗る松崎海。電車には「元山下」行きの標示がある。

そしてこの夜、松崎海にさらなる“事件”が起きた。「ただいま」と帰宅した海は、玄関の三和土にミハマの靴(おそらく)揃えてあるのを見る。海は勇んで、部屋に駆け込んだ。
「お母さん!」「海、ただいま」「お帰りなさい、アメリカ、どうだった?」「勉強ばかりの毎日だったわ。空、ボーイフレンドできた?」「まだ」

この時、弟の陸は「お母さん、これ、美味しいね!」と、嬉しそうに母のアメリカ土産を広小路さんと一緒に囓っていた。1960年代のレア物、ビーフジャーキーである。当時、アメリカ文化はこの日本で“強かった”。アメリカのさまざまなものが、日本人にとっての憬れと称賛の対象だった。

しかし、その夜の松崎海には、母からのアメリカ話よりも、もっと重要なことがあった。深夜になって、みんなが寝静まった頃、海はパジャマ姿で、母が荷物の整理をしている部屋へ行く。「お母さん……」「どうしたの、こんなに遅く」「お母さんに、聞きたいことがある」

母は「お座りなさい」と海を座らせると、「時差で眠れなくて……。片付けを始めたら、ますます目が冴えて来ちゃった」と笑うが、海が発した次の言葉で表情が硬くなった。
「学校の一年上で、風間俊という人がいるの」「北斗さんの送別パーティの時に来て、お父さんの写真を見せたら、風間さんも同じ写真を持ってて……。沢村雄一郎は、風間さんのお父さんだって」

立ち上がった母は、一枚の写真を取り出す。「この写真?」、それを見て、頷く海。
「そうね、ちょっとややこしい話かもしれないわね」

「お父さんと私が駆け落ちした話はしたわね。あなたも憶えてるでしょ、六郷の稲村さんの家の二階で暮らしてたこと」
「雄一郎は航海に出ることが多くて、私はその間、あなたをお腹に抱えて、学校に通っていたの」
「でも、勉強ができることが嬉しくて、張り切ってたわ」

(つづく)
Posted at 2017/01/11 19:49:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2017年01月07日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《9》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《9》キーワードは三つ……などとワケ知り風に書いてしまったが、朝鮮戦争についてはいくつかの断片的な知識はあったが、この戦争での日本人死者、あるいは「LST」といったことについては、この映画を見るまで実は何も知らなかった。『コクリコ坂から』はどうも、これを見ると歴史を学びたくなるタイプの映画であるらしい。

その「LST」だが、これは米軍の用語で「戦車揚陸艦」の頭文字を並べたものだという。そして、本来はその用途の船だけをこう呼んでいたはずだが、1950年の6月に勃発した朝鮮戦争──北緯38度線の「北」から侵入した北朝鮮軍(+中国軍)と、それに応戦した「南」の韓国軍+アメリカ軍(=国連軍)との戦いでは、米軍側が物資の輸送に用いていた船の全般を総称して、この「LST」という語が用いられたようだ。

1945年に第二次大戦が終わった後、世界は「東西」(米ソ)が対立する「冷戦」の時代に入った。朝鮮半島を南北二つの国家にに分断する「北緯38度線」も、もとはと言えば、そんな冷戦構造の産物だ。ただ激しく対立はしても、実際に戦争はしない。だから“冷たい戦争”だったのだが、そんな中で例外的な“熱戦”が朝鮮戦争だった。

その時に、国連軍=米軍の補給基地となったのがわが国で、内地から戦地の朝鮮半島まで、この戦争を遂行するための物資が船で運ばれた。その際、一帯の地理に詳しいということで、日本の商船関係者や旧・海軍軍人が、その役目に就くことになった。

(米軍が“日本国”に要請したのはこれだけではなく、沿岸に「北」が設置した機雷の除去、つまり「掃海」を、当時の日本の海上保安庁=旧・日本海軍に依頼したといわれる。ただ、この映画での松崎海の父・沢村雄一郎は軍人ではなく、商船大学出身の船乗りと思われるので、ここでは彼は「掃海」より「輸送」に従事していた船長という解釈を採る)

この戦争が勃発した当時、つまり「1950年」の日本は、敗戦後に連合軍によって占領され、その統治下にあった。そして、新たに制定した憲法(1947年)によって、国としてはもう「交戦」はしない、つまり「非戦」を掲げていた。そんな状況の時に、わが国の超・近隣地域で“熱い戦争”が勃発したのだ。

そして米軍占領下の“日本国”(オキュパイド・ジャパン)は、その戦争遂行のための兵站担当、具体的には「輸送」を担うことになる。戦時下での「輸送」はもちろん軍事行動だが、この時、戦後日本の“平和憲法”は、自由主義陣営防衛のための闘いであるという朝鮮戦争の圧倒的な「現実」の前には、まったく無力だった。

……というより、戦争が始まった「1950年」は日本にとって、サンフランシスコ条約(連合国側からの対日平和条約)を締結するための交渉がようやく始まろうかという時期。つまり当時の日本は「独立以前」の状態で、国として何かの判断を独自に行なうことは、そもそもできなかったであろう。(サンフランシスコ条約は1951年に締結され、1952年の4月に発効した。この平和条約によって、日本と世界との敵対関係がようやく終わり、日本国は独立国となる)

そして、仮に「輸送」だけであったとしても、それは実質的な参戦で、そのようにして人が戦地で行動している以上、そこでの犠牲も不可避となる。ある資料によれば、朝鮮戦争開始後の最初の半年間で、日本人の戦死者は50人を超えたという。映画での松崎海の父、つまり沢村雄一郎は航海中に「北」が設置していた機雷に触れ、乗っていた船が爆発・炎上して帰らぬ人となる。

この映画での徳丸理事長は「マスコミ人」でもあるので、朝鮮戦争と日本人の関わりについては、当時の一般の人々よりも多くの事実を知り、その情報を得ていたはず。松崎海から「父の死」について聞いた時に、理事長は「そうか。お母さんはさぞご苦労をして、あなたを育てたんでしょう」と言ったが、この言葉には、朝鮮戦争の内実についての知識と、そして否応なくそんな状況に巻き込まれた人々への同情と感慨がこもっていたと思う。

そんなことを考えながらこの映画を見ると、高校生のいきなりの陳情話に多忙な理事長がすぐに「動かされた」としても、それはそんなにフシギではないと思える。理事長の目の前には、ひとりの“歴史を背負った少女”がいた。そして彼女は港南学園の通称“カルチェラタン”が「大好き」で、それをみんなでお掃除したので、一度見に来てほしいと言ったのだ。それを聞いて理事長は瞬時に判断し、「わーった、行こう!」と応じたのだ。

映画はこの後、京浜東北線で横浜へ帰る二人、そして山下公園での語らい、松崎海の“告白”と続くが、そのへんは次回に回すことにして、ここでは徳丸理事長の行動と“カルチェラタン”のその後について書く。

高校生たちと約束を交わした翌日。徳丸理事長は、横浜の港南学園の校門前にクルマを乗りつけた。これはたぶん、新橋の本社から“港の見える丘”まで、クルマで駆けつけたという設定だ。

乗ってきたクルマのフロントマスクが映り、さらに、リヤのトランクリッドへカメラが移行すると、そこには「トヨペット」の文字。そして後席のドアが「観音開き」の形式で開いて、校門前に理事長が降り立った。彼が乗ってきたのは、初代のトヨペット・クラウンである。

ただ、この場面で登場したクラウンは、フロントグリルが1955年デビュー時のオリジナルなのに、サイドビューやリヤビューは、その初代の後期型というか、よりデラックスな方向へマイナーチェンジしたモデルの細部であるような気がする。でも、そんなカー・マニア的な視点は、ここでは持ち出さない。重要なのは、この映画の作者がここでクラウンを登場させた。そして、そのクラウンを初代にしたことだと思うからだ。

まず、この映画の「時制」が「1963年」なのは明らかだが、トヨペット・クラウンは1962年にフルチェンジをしていて、1963年であれば、既に二代目が登場していた。しかし徳丸財団の理事長は、二代目のクラウンに買い換えることなく、初代をそのまま使っていることになる。

さらに言うなら、1960年代前半当時にクルマを買える立場であったオカネモチや会社社長であれば、キャデラックやビュイックといったアメリカ車に乗る選択肢があり、それが常道でもあった。しかし、この映画の徳丸財団・理事長は敢然と国産車を選んでいた。

また、1950年代の前半、日本の多くの自動車製造会社は外国メーカーとの提携(ノックダウン)を選び、それをベースにして、1950年代後半から60年代はじめに“自社モデル”を作った。しかし、この映画の作者は、同じ国産車でも、そっちのラインにあるクルマはここで登場させなかった。ご承知のようにトヨタは、その時期に「純国産」にこだわって乗用車を開発した数少ないメーカーのひとつ。そして、その成果で、実際にもヒット作になったのが初代のクラウンだった。

この初代は、後席VIPの「乗降性」を考慮して、後ろ側ドアをいわゆる“観音開き”にしたといわれている。そして映画は、そのドアが開くシーン、つまり理事長がクルマから降りる場面をわざわざ設けていた。二代目クラウンでは、このドアの開き方は廃されたので、このシーンを描くためには、クラウンは初代でなければならないことになる。

まあ、以上のようなことが重なって、そして理事長のキャラクターを際立たせるためにも、ここでは「国産車&クラウン」が必要だったのであろう。そんな映画制作側の意図を反映するのに、ここでの「初代クラウン」の登場はとても有効であったと思う。

そして映画に戻れば、理事長は“新生カルチェラタン”を隅々まで見た後に、新しいクラブハウスは別の場所に建てる、この古い建物は存続すると宣言して、生徒たちの拍手と喝采を浴びるのである。

(つづく)
Posted at 2017/01/07 08:43:58 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年12月08日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《8》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《8》横浜・港南学園のオーナーである徳丸財団の徳丸理事長は、新橋の本社に三人の在校生がやって来たと受付からの報告が上がっても、彼らを追い返す気はまったくなかったようだ。指示通りに四階まで上がってきた三人に、秘書は「社長にはお伝えしてあります。無駄足になるかもしれませんが、それでもよければ、ここでお待ちください」とクールに告げるが、しかし彼女はその後に、待っている三人にお茶を振る舞っている。

会社の中、廊下にある椅子に並んで座っている三人の高校生。その前を、社員たちが忙しく通り過ぎる。その際に彼らが話していることが、観客に「1963年」とその世相を、それとなく示す。たとえば、上司と社員が「パンといえば木村屋だろう」「中村屋もイケますよ」と言いながら歩み去った。これは、当時の旨いアンパンを巡っての談義だったのではないか。

そして「それは、あたり前田のクラッカーよ!」とは、テレビ番組の真似というか引用である。スポンサーの製菓会社名(前田製菓)と台詞の「あたりまえ」を繋げたもので、フルバージョンは「俺がこんなに強いのも」の後に、「あたり前田の──」と続くもの。これは、その頃の大ヒット番組、「てなもんや三度笠」の名物シーンのひとつだった。

そんな待ち時間の後で、ついに社長室のドアが開いた。「キミたち、入りたまえ」。自ら招き入れた徳丸財団の理事長は、電話をしながら、三人には「そこに座って」と言い、「すまないが、ちょっと待ってくれ」と、社員の方を待たせる。

高校生と向き合った理事長は、まず、「キミたち、学校はどうしたのかね?」と訊いた。すかさず、風間俊が「エスケープしました!」と応える。それを聞いて、豪快に笑う理事長。「エスケープか、俺もよくやったなあ(笑)」

そして理事長は、すぐに本題に入った。「今日は、清涼荘の建て直しの件だね」。「理事長にカルチェラタンをひと目見ていただきたく、直訴に参りました。一度、いらしてください」と訴える風間と水沼。理事長は、もうひとりの女子生徒にも声をかける。

「キミは、何年生?」
「二年です。松崎海と申します。“週刊カルチェ”のガリ切りをやっています」
「キミはどうして、清涼荘を残したいの?」
「大好きだからです。みんなで一生懸命、お掃除もしました。ぜひ、見にいらしてください」
「お掃除か。お父さんのお仕事は?」
「船乗りでした。船長をしていて、朝鮮戦争の時に死にました」

ここで映画は、機雷に触れた(らしい)輸送船が爆発して炎上するシーンを映し出す。それに続いて、沢村雄一郎が親友三人と一緒に撮った記念写真。そして、松崎海の家族写真が映るが、その写真には父が欠けていた。

徳丸財団の理事長は、一瞬の間を置き、少しかすれた声で、短く訊いた。
「LST?」
「はい」
「そうか。お母さんはさぞご苦労をして、あなたを育てたんでしょう。いいお嬢さんになりましたね」

高校生と理事長の“質疑応答”は、そういえば、これだけだった。結論を出した理事長は、立ち上がりながら言う。「わーった、行こう!」。呆気にとられつつも、何とかお礼の言葉を述べる水沼と風間。「ありがとうございます」

理事長は電話で、明日の予定を確認し、いくつかの予定を変更する指示を出して、午後の時間を空けた。「よし、明日の午後に行きます」「校長さんとも話をつけて、正式に見学に行きます」

映画は、この後すぐに新橋駅前のシーンになる。飲み屋が並んでいるあたりを歩く三人の高校生。
水沼「いい大人って、いるんだな」
風間俊「まだ、わからないよ」
松崎海「でも、よかった!」

新橋の街には、坂本九が歌う「上を向いて歩こう」が流れていた。地下鉄の入り口が見えてくると、水沼は気を効かせたつもりか、「俺、神田の叔父のところに寄って行くわ。じゃ、明日」と言って、ひとり地下鉄へと向かう。

さて、ここでまたひとつ、この映画の“ナゾ”が浮上した……かもしれない。何故、徳丸理事長は、三人と大した話をしていないのに、横浜まで“カルチェラタン”を見に行く約束をしたのか? 

理由のひとつは、松崎海が言った「お掃除」だったように思う。あの「清涼荘」を本気で清掃したら、いったいどんな状態になるものか。当事者の女子生徒が「大好きだからです」と言っていた“カルチェラタン”の現在の状況、それをちょっと見てみたい。理事長に、そんな好奇心が湧き起こった。

そしてもうひとつは、松崎海の父のことだっただろう。何気なく、その職業を尋ねた時に、少女は、こんな答を返した。(父は)「船乗りでした。船長をしていて、朝鮮戦争の時に死にました」。この後、理事長は短い言葉で松崎海に訊き、それに海が一語で答えた。「LST?」「はい」

(朝鮮戦争で亡くなった? この女生徒の父は米国人なのか? いや、外貌からはそうは見えない。すると、日本人なのに“あの戦争”で? しかし、戦後の日本には原則として“軍人”はいないはず。そして少女も「船乗り」という言葉を使っていた。すると、民間人としての日本人が“あの戦争”で亡くなった? ……あ! )

キーワードは、朝鮮戦争、日本人の死、そして「LST」だった。

(つづく)  (タイトルフォトは「松崎海」、スタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/12/08 18:07:42 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年12月04日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《7》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《7》この映画は、二つの物語が併行して進行する構成である。そのひとつは、古い建物の“カルチェラタン”が取り壊しの危機にさらされているのだが、それがどうなるかということ。もうひとつは、松崎海と風間俊が「父の写真」として持っているものが同じである。つまり、二人はともに「沢村雄一郎」の子であるかもしれないという問題だ。

その“カルチェラタン”だが、松崎海の提案で始まった大掃除は、ビジュアル的に愉しめるシーンがいっぱいだ。まずは、隊列を組んでターゲットに突入する女子生徒の軍団が微笑ましい。そして、そこで先頭に立つ「海」は、下宿屋の女将としての勝負服なのか、他の生徒のようにエプロン姿ではなく、ただひとり割烹着を着ている。その女生徒たちに感謝の言葉として、水沼生徒会長が「ヴォランティーア」と大仰に発音するのも笑いどころか。

ただ、着々と「お掃除」が進み、“カルチェラタン”という場で毎日顔を合わせている松崎海と風間俊なのだが、どうも俊の行動がおかしい。メルと一緒の場にいることをさり気なく避けているようであり、また、メルには下校時の挨拶をしなかったりもする。「何かあったのか?」、繊細な水沼が気づいて親友を問いただすが、俊は何も言わない。

風間俊の様子がおかしいことに気づいた松崎海は、ついに行動した。意を決して雨の中、校門のところで待っている松崎海。自転車で通りかかった風間俊は、もうこの問題から避けられないと思ったか、メルと一緒に歩き始めた。二人の脇をクルマが通り過ぎて行く。このサイドビューはコンテッサであろう。

“意志的”な少女・松崎海は、正面突破で風間俊に問う。「嫌いになったのなら、ハッキリそう言って」。言われた俊は、胸ポケットから、写真を取り出した。「沢村雄一郎、俺の本当の親父」。言われて立ち止まる松崎海。

「まるで安っぽいメロドラマだ」「どういうこと?」「市役所に、戸籍も調べに行った。確認した」「じゃあ……」「俺たちは、兄妹(きょうだい)ってことだ」「……どうすればいいの?」「どうしようもないさ。知らん顔をするしかない」

そして、「いままで通り、ただの友だちだ」と言い残して、風間俊は自転車で去って行った。雨の中、立ちすくむしかない松崎海──。その晩、松崎海は寝込んでしまった。「空ちゃん、学校で何かあったの?」、心配するコクリコ荘の人々。布団の中で「海」は、アメリカに行っている母、いまは亡き父に、夢の中で会っていた。

パジャマ姿で階下へ降りた「海」、台所からは炊事の音が聞こえ、ご飯と味噌汁ができている。振り向いた母が、優しく言った。「よく眠れた?」。そして父は「海!」と呼び、航海の無事を祈るあの二枚の旗を持って両手を広げる。そんな父の胸に飛び込む「海」の耳に、父の声が聞こえた。「大きくなったなあ!」

……というのは、すべて夢だった。涙を拭いて「海」は起き上がり、着替えて、階下の台所へ。お釜には、既に米が入っている。マッチでガスに火を点け、花の水を取り替えた。そして旗を持って掲揚柱へ行き、いつもの旗を揚げる。

傘をさして、学校へ向かって歩く「海」を、スクーターが追い越して行く。これはシルバーピジョンだ。そして、風間俊と松崎海の間はモヤモヤしていても、“カルチェラタン”の清掃は着々と進んでいる。時計台も復活し、鐘の音が鳴り響いて、生徒たちが拍手した。

しかし、そこにニュースが! 生徒会長の水沼が報告する。「緊急集会だ。理事会が夏休み中に(カルチェラタンを)取り壊すと決定した」。

急遽、対応策を協議する生徒たち。風間俊は、港南学園の校長なんかは飛び越えて、「理事長に、直談判したらどうかな」と提案する。「徳丸財団の理事長だぞ。会うのはむずかしい」と言う水沼。しかし、生徒たちの後押しを受けて、風間俊が言った、「行こう、水沼。東京へ」。それに応えた水沼は、松崎海を指名した。「行くか! “海”も来てくれ、三人で行こう」──

こうして翌日、三人の高校生がJRの……ではない「国電」の京浜東北線、その桜木町駅に集合するが、ここは「クルマ」も含んで、いろいろと愉しめるシーンになっている。

まず、駅前の広い通りを、市電やバスと並んでクルマが行き交う様子が描かれる。トヨタのパブリカが行き、続く小型のセダンはヒルマンの旧型(“ダルマ”と呼ばれたマークⅣ、PH10型)だろうか。そして、マツダの大型オート三輪が行き、それに続く赤い小さなクルマはR360クーペのようだ。

駅には、風間と水沼が先に来ていて、そこに松崎海が合流した。駅構内には広告の看板が並び、パイロット万年筆、赤玉ポートワイン、そして山猫軒のシュウマイといった文字が見える。横浜のシュウマイと言えば有名な老舗があるが、パイロットや赤玉が実在のものであるのに対して、ここで「山猫軒」とフィクションになっているのは、何か理由があったのか?

また、集合した三人の背景として、切符売り場と「30円区間」の自動販売機が映る。「1963年」当時の最短区間の切符は30円で、そしてこの切符だけは、無人による自動販売が行なわれていたようだ。チラッと映った路線図から、彼らが横浜駅ではなく、桜木町駅に集合したことも、それとなくわかる。

そして、彼らを乗せた栗色の京浜東北線が東京へ向かうと、やがて画面は、東京の市街の「絵」になる。桜木町駅前以上に多くのクルマが走っており、その中で目立つ青いコンパクト車はフォードのアングリアだろうか。そして初代のクラウン、そのマイナーチェンジ版のサイドビューが、目の前を過ぎていく。

新橋に着いた彼ら三人は、アポなしで、徳丸ビルに突入した。受付で四階に行くように指示されると、そこに秘書がやって来る。「社長は忙しいんです、予約なしで来ても、会えないかもしれませんよ」。言われて、水沼が応えた。「申し訳ありません、あらかじめお願いしてはお会いしていただけないと思い、押しかけました」

(つづく)  (タイトルフォトはパブリカ初代、トヨタ博物館にて)
Posted at 2016/12/04 18:16:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
2016年12月02日 イイね!

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《6》

映画『コクリコ坂から』~1963年的「細部」とクルマが気になる 《6》「白い花の咲く頃」をみんなで歌った討論集会が終わった後で、松崎海と風間俊は夕暮れの坂道を一緒に歩いた。そこで「海」が提案する。
「あのね、お掃除したらどうかしら?」
「古いけれど、とってもいい建物だもの。キレイにして女子を招待したら、みんな素敵な建物だって思うわ」
この後の別れ際、俊が「ありがとう、メル」と、初めてアダ名で呼びかけ、二人の距離がまたひとつ縮まった。

夜のコクリコ荘では、討論集会の様子を聞いた北斗女史が「相変わらずねえ」と笑い、そこにウイスキーが登場。ツマミにチーズが切られ、ゴキゲンになったのか北斗女史が、自分のために開かれる送別パーティに、港南学園の「男の子たちも呼ぼうよ!」と言い出した。後日、風間と水沼の二人がコクリコ荘にやって来るのは、こういう経緯からだ。

この夜にコクリコ荘で持ち出されたウイスキーは、ジョニーウォーカーの黒、通称「ジョニ黒」だった。また、コクリコ荘での送別パーティで合唱される曲が「赤い河の谷間」。そして、もう少し後のシーンになるが、アメリカから帰国した「海」の母が配ったお土産がビーフ・ジャーキー。

この頃、つまり「1963年」頃は、ウイスキーといえばスコッチで、「舶来」ならジョニー・ウォーカーだった。そして赤よりも黒ラベルで、“ジョニ黒”の方がプレミアム。カントリー・ミュージックの「レッド・リバー・バレー」は、これをビートに乗せたインスト曲「レッド・リバー・ロック」の方が、多くの人に記憶されているかもしれない。そしてビーフ・ジャーキーは、この頃では珍しかった外来の食べ物のひとつだった。

その北斗女史の送別パーティの日。初めてコクリコ荘に来た風間俊に、古い建物の中を案内しながら、松崎海は自身について語っていく。

父は「船に乗ってたわ」「こんな家でしょ、お父さんとの結婚に、お爺ちゃんたちは猛反対」「だからお母さんは家を出て、駆け落ちしちゃったの」
(信号旗は)「私が子どもの頃ね。旗を出しておけば、お父さんが迷子にならずに帰ってくると教わって」「物干し台に旗を出して、お父さんの帰りを待っていたわ。毎日、毎日……」

「でも、朝鮮戦争の時、父の船が沈んで、それっきり」
「それでも毎日、旗を出してた」「あの旗竿は、この家に来た時、旗を揚げられないって私が泣くもんだから、お爺ちゃんが建ててくれたの」

そして、いまはアメリカに行っている母の書斎へ行く。壁に貼られた古い写真を見る二人。「それはお爺ちゃん。父はこっち。ハンサムでしょ」。話題が父のことになったので、「海」は、「私、この写真が好きなの」と三人が並んで撮った写真を取り出して、俊に見せた。

しかし、その写真と、そこに記された署名を見た俊の様子がおかしくなる。「沢村雄一郎……」

パーティが終わり、運河沿いの家に、帰宅した風間俊。父は晩酌をしながら、茶の間で野球中継を見ていた。テレビからは、「長嶋、三振!」というアナウンスが聞こえている。

当時、テレビの野球中継といえば、日本テレビの巨人戦だった。そして、その巨人軍の四番打者が長嶋茂雄。記録よりも「記憶」に残る選手として、いまもなお、日本の野球史で語り継がれているスーパースターだ。帽子が飛んでしまう豪快な空振りとともに三振するのも、彼の愛されるパフォーマンスのひとつであった。

そんな父を横目に、二階に上がった俊は、戸棚からアルバムを出して、自室でそれを開いた。そこにあるのは、沢村雄一郎ら三人で撮った写真。何と、松崎海と風間俊は、それぞれ「父の写真」として秘蔵していたフォトがまったく同じものだった。

その翌朝。風間父子を乗せたタグボートが行く。息子の俊が、船を操縦している父に言った。「父さん、聞きたいことがあるんだ」

「沢村雄一郎って人が、俺の本当の父親なんだよね」
「そのことは、前に話したろう。……お前は、俺の息子だ」

そして、“養父”は“息子”に語っていく。「あの日は、風の強い日だった。沢村が、赤ん坊のお前と戸籍謄本を持って、俺の家に来た」「俺たちは、子どもを亡くしたばかり」「母さんが、お前を奪い取るように抱いて、乳を含ませた」

「沢村は、いい船乗りだった。朝鮮戦争で、機雷にやられちまってな」
「ミルク代を、ずっと送ってくれていた」
「近頃、あいつによく似てきたな」「お前は、俺たちの息子だ」

風間父子のタグボートが、コクリコ荘の前を通り過ぎようとしている。しかし今日の俊は、答礼の旗を出す気配がない。一方、“丘の上”では旗が揚がり、その様子が海から見えた。

コクリコ荘で、いつものように旗を掲揚した「海」は、下宿の二階、広小路の部屋に駆け上がった。メルが訊く、「広さん、来ました?」
窓から、港を見る広小路。「今日は、通らないみたいね」

実はコクリコ荘では、メルが旗を掲揚するところからは、海=港の海面が見えなかった。しかし、二階の広小路の部屋からは港が見えるので、画学生の彼女は「答礼するタグボート」をテーマに、港の絵を描いていた。それを知ったメルが、一度、そのボートが掲げる旗を見たいと、広小路に頼んでいたのだったが……。

この日、メルと広小路の前を、答礼旗を掲げたタグボートが通ることはなかった。

(つづく)  (タイトルフォトはスタジオ・ジブリ公式サイトより)
Posted at 2016/12/02 13:43:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | クルマから映画を見る | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation