• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2014年12月31日 イイね!

あとがきに代えて ~ GT-Rについての史論と私論(その3)

あとがきに代えて ~ GT-Rについての史論と私論(その3) ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

◆GT-Rとル・マン24時間レース

新型車(=市販車)の開発と、レーシングカーの製作とはまったく次元が異なるが、ニッサンが、この「R33GT-R」でル・マン24時間レースに1995年から参戦を開始したため、単行本化に際して、その初年度のリポートを付け加えることとした。(注1)

まず、ル・マンを走っているのは「GT-R」なのかという問題だが、ハード的には、R33のホワイトボディを使用し、それにカーボンなどで補強を行なった(これは96年仕様から)ものに、ニッサンのかつてのグループCカー用のサスペンション・コンポーネンツをフィッティングさせている。そして、市販GT-Rの特徴である独自の4WDシステムは用いていない。

こうして見ると、GT-Rをベースに、より単純化した方向に改造したレーシングカーということができる。1994年からはじまったル・マンの「GT」というレギュレーションは、市販車をベースにそれをモディファイしたものということになっており、その意味では、「NISMO・GT-R LM」はその規格に忠実である。

ただ、この「市販車」という定義が微妙で、ごく少量生産で1台1億円近くするクルマでも、売っているという意味では市販車であり、そこからレーシングカーに仕立てたものでも「GTカテゴリー」として立派にル・マンに出られる。あるいは、このル・マンのために、ほとんどプロトタイプとして市販のラインナップにはないミッドシップのレーシングカーを新たに作ってきても、それが市販の用意があり、公道を走れるライセンスナンバーが取得できれば「GTカー」になれる。

ぼくはつまり、マクラーレンF1GT-Rやポルシェ911GT1のことを言っているわけだが、いつの間にか「スカイラインGT-R」は、ル・マンで、こういうクルマと闘わなければならなくなっている。……とはいえ“ほんとうの市販車”かどうかというのを言い出すと、NISMO・GT-Rにしても、2WDのGT-Rというのは市販モデルには存在しないスペシャルで、ニッサンも同じようなことをやっているではないかということになるのだが。

ただ、95年のル・マン参戦の監督であった水野和敏氏の苦笑混じりの言葉を借りるなら、「鉄ボディと直列6気筒でル・マンを走ろうというのはウチだけ……」なのであり、ニッサンは、あくまでも「量産車・改」で、このレースに参戦してきた。

しかし、GTカテゴリー、つまり市販車・改によるレースというはずだった新しい「ル・マン24時間」は、上記のように、当初のニッサンの読みとはちょっと違うレベルに、この1年で急速に変化してしまった。(また細かいことだが、記録の本文中にあるピットとドライバーを結ぶテレメーター・システムは、96年からは禁止されている)そのため、スカイラインGT-Rにル・マンを走ってほしい、さらには勝ってほしいという「日本人の夢」は、96年の参戦2年目で、なかなかむずかしいところに来ている。

スポーツカーよりも速いハコ──。ぼく自身は、このテーマには大いに関心がある。しかし、このいわば60年代的な、そして日本人的な“ドリーム”は、少なくとも90年代のル・マンというレースの場では通用しそうもないことが見えてきた。今日の極めて「レーシーな」ル・マンGTカーの間では、スカイラインGT-Rは、いわば最速の“ロード・ゴーイング・セダン”でしかないという現実があるのだ。

◆これからのGT-R

スカイライン、そして、そのGT-R。この、日本のクルマとモータースポーツ状況の象徴ともいえる機種は、ついに90年代半ばに「ル・マン」にまで到達した。その感慨は深いものがあるが、そのゆえに、GT-Rの今後も大いに気になる。GT-Rというクルマのコンペティションとの関わり、それへのスタンスをどうするか、そして今後のポジショニングなど、課題となりそうなテーマは多い。

ぼく自身は、このようなサーキットでの実状を見ると、一方では必ずセダンでなければならないクルマ──つまりこれはスカイラインのことだが、そういうモデルはそろそろサーキットから解放してやりたいという気持ちがある。「乗用車・改」でレースをしなければならなかった時代はもう終わっており、またメーカーとしても、そんな窮屈なことをする必要はなくなっているはずだ。「スカG」は、美しい記憶ではあるが、それはやはり60~70年代のものであろう。

むしろ、スカイラインGT-Rがすっぱりとレースを捨てた時、めざしている「世界一のロード・ゴーイング・カー」への道が本格的に開けてくるのではないか。R33とそのGT-Rの物語を書き終えて、ぼくはいま、そんな感慨を持つ。

1996年11月

○注1
スカイラインGT-Rル・マン参戦の初年度については、本ブログには既に掲載済みです。
・「6月の季語は『ル・マン』、1995年にニッサンは……」 全4回
https://minkara.carview.co.jp/userid/2106389/blog/c919308/p8/

( 『最速GT-R物語』  了 )
2014年12月31日 イイね!

あとがきに代えて ~ GT-Rについての史論と私論(その2)

あとがきに代えて ~ GT-Rについての史論と私論(その2) ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

◆“水平飛行”の時代に

ただ、その「謎」の答えについて、ここでひとつ仮説を提出しておきたい。それは、『時代』ということである。次期型は、現行型のクルマより必ずよくなる。この“信仰”が、ひょっとしたら、あまりにも60~70年代的なセンスなのではないか。クルマというものがそうした「進歩の過程」にあった時代と、今日のように「水平飛行」にある時代とでは、次期型に寄せる人々の期待というものも違ってしまう。それが当然かもしれないのだ。

人々は、とくに若いカスタマーは、クルマという商品が(たとえばコンピュータなどとは違って)そういう「水平状態」にあることを直感的に察知している。あるいは、クルマの性能にしても、現状で十分だという感覚を持っている。

そういった時代の気分の中に、スタイリングひとつとってもあまり戦闘的でないような「次期R33」が呈示され、わかってないじゃないか!……とばかりに、新型への不満が盛り上がった。当時の次期R33GT-Rへのネガティブな反応について、こう解釈してみるのも一理あるかもしれない。

一方で“レーシング”だけをモノサシにするジャーナリズムがあり、同時に、以上のような『時代』の雰囲気があった。そして、この二つが、R33GT-Rに期待せずという一点だけでは、なぜか奇妙に一致していた。

◆「R33」の人々

この物語は、まず雑誌『スコラ』の連載としてはじまった。人気のスカイラインGT-Rが新しくなった、ついては、その開発ストーリーを誌面で展開しよう。こういう企図である。

インタビューを中心とする取材を開始して、R33主管の渡邉衡三氏に最初に会った時の、氏の警戒を解かない表情というのは、いまも憶えている。(またひとり、ジャーナリストがR33の悪口を言いに、俺のところにやって来た)……渡邉氏の顔には、こう書いてあった。また主担の吉川正敏氏も、雑誌に掲載された第1回の内容を見て、R33へのネガティブな視点が払拭されてないと、表情を曇らせた。

これほどまでに開発担当者の姿勢を「複雑に」させているクルマがある。ぼくはこのときから、新GT-Rについての新たな興味が湧いた。そしてジャーナリズムがそれまでに、このクルマとこれに関わった人々に少なからぬダメージを与えていたということもわかってきた。

ぼく自身はそれまで、R32にもR33にも、どちらに対しても等距離だったと思う。ただ、R32のGT-Rに乗ってみて、ドドッ!と豪快に速いが、デリカシーには欠けるクルマだという感じは持っていた。また、アンダーステアかどうかはともかく、コーナリング中にはアクセルは不用意には踏めず、必ずきちんとクルマの姿勢を作った後にアクセル・オンすべきクルマだとも体感していた。

そして、そのようにドライバーに余計な気遣いをさせるという意味では、R32GT-Rは、速いけれども、ドライバーの「自由度」はやや低いクルマだと見ていた。コーナリングにしても、クルマの方が「こう動きたい!」というのを先に決定している。そしてそれに、ドライバーが合わせてやるというクルマだったからだ。

だから「GT-R」については、それが「変わる」ことの方にむしろ興味があった。そして、さまざまな関係者の方々に話を聞いていくうちに、単に「GT-R」ではなく、「R33」の物語を書きたいと思うようになった。

R32は、ある見方をすれば“やり放題”のクルマである。時の主管・伊藤修令氏が、コンセプトがボケかけていたスカイラインというモデルを、「スポーツ」と『R』を旗印に再生した。これは見事だったが、作り手にとってむずかしく、そしてウォッチャーとしても興味をそそられるのは、そういうモデルの「次」であろう。

また新R33GT-Rは、こと「曲がる」性能に関しては、旧型R32GT-Rに対して、誰でもそれがわかるような大幅な向上を見せている。メーカーの言う「意のままに」の度合は、R32よりはるかに高くなっており、ドライバーが感じる自由度も増大している。そういった事実を、一度きちんと伝えたい。こういう使命感のようなものも、書き手としてはあった。

さて本書だが、これの“プロトタイプ”は1995年の2月から約1年間、「スコラ」誌に「新・GT-R伝説」というタイトルで連載された。そこから、今回の単行本化のためにモディファイし、若干の加筆と修整を行なっている。

そしてこれは、基本的にはエンジニア各位へのインタビューで知り得た情報と事実をもとにして、そこから筆者が物語風に仕立てたものであり、もとよりフィクションではないが、文責はすべて筆者にある。また、文中での敬称はすべて略させていただいた。そして、各エンジニアやスタッフの方々の所属や肩書きに関しては、すべてR33開発当時ということで統一してある。

(つづく)
2014年12月30日 イイね!

あとがきに代えて ~ GT-Rについての史論と私論(その1)

あとがきに代えて ~ GT-Rについての史論と私論(その1) ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

◆「レーシングカー批評」……

R33GT-Rというクルマは、もちろん1996年時点でのパリパリの現役機種であり、まだ歴史の中での評価を急ぐ必要はないはずだ。しかし、このモデルの、とりわけその誕生について、仮に幸せだったか、それともあまり幸せでなかったかという設問を立ててみた場合、その答えはどうひいき目に見ても決して前者ではない。

1993年8月にR33スカイラインの基準車が登場してから、このR33GT-Rが実際にデビューするまでの1年数ヵ月……。その間、これほどまでに「待ち望まれなかった」新型車というのは、日本車の歴史上なかったし、これからもないだろうと思う。まだ見ぬR33GT-Rというクルマは、マーケットにジャーナリズムに、なぜかとても手酷い扱いをされつづけた。

どうしてこんなことが起こってしまったのかというと、ぼくは、ひとつは「レース」のロジックのせいだと思う。モーターレーシングというフィールドは、ときに呆れるほどにシンプルな断言と、そして同時に、絶望的なほどコンサバティブなロジックや価値観に支配されることがある。この場合は、「大きくて重いものより、小さくて軽いものの方が速い。そして、ホイールベースは短いほど運動性がいい」という物理的な法則だった。それが、次期GT-R否定のために、がっしりと適用された。

もちろん、単純な速さ較べだけなら、そのロジックは正しすぎるほどに正しいかもしれない。まったく同じ度合のチューニングで(つまり「R33」としてではなく内容的にR32のままで)R32とR33が同じ場所を走るという設定なら、それはおそらく重量だけの勝負になる。

(ただ、この仮定自体が既にして、あまり現実的ではない。なぜなら、日本メーカーの、いや日本だけではなくすべての自動車メーカーの新型車というのは、必ずや何か新しい「開発」をともなうものであり、数年後に「同じ度合」で世に出て来ることはないからだ)

だが、もしそうだとして、つまり「小さくて軽い方が速い」として、ぼくはひとつ不思議に思うことがある。その“正しい物理学”を確認するというのは、クルマの、あるいはモータースポーツのファンとして、さらにはジャーナリストとしてでもいいが、それを確認することによって、いったい何が新しくて、そして何が「わかった」ことになるのだろう? むしろ、その強固な法則に挑戦してみようというクルマが、もしあるのなら、ファンとして、あるいはジャーナリストとして、その方がよほど興味をそそられることではないのか?

当時の、次期R33はどうも「よくなさそうだ」という判断は各自の自由だとして、だからといって、次期GT-Rにはまったく期待しない、いや作るべきではないとまで論議が飛躍したのは、やっぱりいまでも、ぼくにはちょっと理解の外である。

さらに、もうひとつ。当時に散見された「R33GT-R否定論」には、その出発点での重要な誤解があったと思う。それは、GT-Rとはレースをするための単なる「素材車」だという考え方である。そうするとクルマを計るモノサシは、レースの道具としてどうなのかという、たったひとつだけになる。

「大きくて長くて重い」とは、その意味では絶望的であり、それだけでほとんど忌み嫌われてしまう。次期GT-Rのスタイリングやディメンションを見ただけで、その「評価」ができるという驚くべきウルトラ技のよって来たる所以は、おそらくこのへんにあった。

もちろん、GT-Rとレース活動との関係というのは、歴史的に見てもたしかに密接であり、メーカーとしても、それは望むところだったはずだ。しかしその結果、R32とR33のGT-Rは、自動車批評ではなくして「レーシングカー批評」の対象にされてしまったのではないか。

◆“羊の皮”を被っていなかったR32

そしてもうひとつ。R32とそのGT-Rというモデルの「スカイライン史」の中での位置づけという問題もある。ぼくは、むしろR32というのが、スカイラインの歴史の中での異端児であり、極めて特殊なスカイラインなのだと思っている。その特殊さが、同時に何かに徹したものとしての魅力も生んでいた。

しかしぼくには、これは基準車も含めてだが、R32はあまりにも「スポーツカーの文法」で作られすぎているように見える。古風な形容を承知でいえば、このクルマは“羊の皮”を被っていないのだ。R32は、いわば始めから“狼”であった。そして歴史的に見ても、セダンとしての要件を充たさないようなスカイラインは、レアであるというより、実は存在しない。

ただ、当然ながら、1990年代に“羊の皮……”などというのは死語だった。「GT-R」という記号ですら、R32ではじめてお目にかかったというカスタマーやファンも多かったに違いない。

そういう名前の超高性能車がいきなり出現し、そして、レースでも活躍した。R32でしかGT-Rを知らない人々にとっては、それが「スポーツカー」なのか、セダン・改の「GTカー」なのかということはどうでもよかった。そして、せっかくのそういうクルマが、次期モデルでは、ことによったらいまより“遅くなる”かもしれない? そういう可能性がありそうだという風聞が立ち、時のジャーナリズムやファンをあげての騒ぎになった。これが当時の「R33GT-R否定論」の中身だったのではないか。

嗚呼、それにしても、次期GT-Rはもっと良く(速く)なるかもしれないという期待論にならなかった理由は、やっぱりちょっと謎のままである。すべては、R32とR33を較べての、スタイリングの「好み」に端を発していて、それにちょっとばかりの物理学的なリクツが付いていた。そういうことだったのかもしれないのだが……。

(つづく)
2014年12月28日 イイね!

エピローグ その2

エピローグ その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

そして、1995年の新年の休みが終わった。発表日の前日、渡邉家の夕食は赤飯だった。仕事のことは一切家庭に持ち込まない渡邉だったが、この時だけは家族に「明日、発表するよ」と言った。

同じ頃、栃木の社屋では、誰が言いだしたのか前夜祭が行なわれた。6時に終業し、社内放送で前夜祭を開く旨を告げると、300人以上の人々が工場のエントランスにあるホールに集まってきた。

新しい「GT-R」が一台、ホールの中に引き入れられた。ジュースで乾杯した後、加藤博義、川上慎吾、そして吉川正敏がみんなの前に押し出されて、あたかもトークショーという格好になった。

「えー、いろいろと悪態もついてきましたが(笑)、クルマがようやくできました。さんざんキーキーとタイヤの音を立てて、ご迷惑をかけてきましたが、明日からは静かになります」と、加藤が笑わせた。吉川は、「ここまでできて満足です。みなさん、どうもありがとうございました」と短く挨拶した。そしてゲームがはじまり、300人によるジャンケン大会がスタートした。

明くる1995年の1月6日。渡邉は「R33GT-R」の開発責任者として、経団連での発表、晴海のショーでのお披露目、さらに銀座のショールームでのトークショー、さらにその足で筑波サーキットに入るというスケジュールを精力的にこなした。筑波には、スカイラインの開発メンバーのほとんどが集結し、その中には、普段はこのような発表の場には出て来ない評価ドライバーの加藤博義もいた。

1月7日から2日間に渡って行なわれたサーキット試乗会では、手練のジャーナリストやレーシング・ドライバーがR33のGT-Rで筑波のコースを駆け、コーナーを攻めた。「R32より速い」「よく曲がる」「新しさがある、明らかに進化している」「外観もよくなった」……。これらがR33GT-Rについての、彼らの主なコメントだった。

作り手として期待していた反応があったことをスタッフは喜んだが、渡邉が何より嬉しかったのは、二日間サーキットでハードに攻められ続けた新・GT-Rに何のトラブルもなく、また何のアクシデントも起きずに試乗会が終わったことだった。

これは、新・R33GT-Rが超・高性能車ではあっても、その挙動は決してナーバスではないことを示していた。そうであるなら、このクルマはさまざまなレベルのドライバーにとっても、それぞれ、その人なりのGT-Rの楽しさを引き出してもらえる。そんな「まとまり」を持っていることになるはずだ。

そして、GT-Rを発表した月の最後の金曜日だった。厚木にいた渡邉衡三は、村山工場の対厚木の窓口になっていた生産課・篠塚友良からの電話を受けた。GT-Rの生産が軌道に乗り、今夜、工場としての「打ち上げ」をやるのだが、ついては、それに渡邉主管と吉川主担も出席してもらえないだろうかというのだ。

工場側がこのように、自分たちの「打ち上げ」に開発のスタッフを呼ぶというのが初めてなら、呼ばれるエンジニアにとっても、これは過去に経験がないことだった。意外ではあったが、でもこれも「GT-R」なるが故のことかもしれないと、渡邉はすぐに思った。

オール・ニッサンのすべての人々にとって特別なクルマである「スカイラインGT-R」は、ここにまたひとつ、GT-Rだけの前例を作ろうとしているようだ。渡邉は、そのようなクルマに関わっていることの喜びをあらためて実感し、感謝をこめて篠塚に言った。「ありがとう。吉川と一緒に、喜んで出席させていただきます」

(エピローグ・了) ──文中敬称略
2014年12月28日 イイね!

エピローグ その1

エピローグ その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33GT-Rの主管・渡邉衡三は、簡潔すぎるほどに簡潔な「GT-R 7分台」の報告をドイツから商品本部に送った。“われ来たり! われ勝てり!”風の艶っぽいやり方は、渡邉の得手ではなかった。

そのニュースはすぐにニッサン全社を駆けめぐり、当然、村山工場にも届いた。ただ、やったやった!と祝っているような暇は、その頃の村山にはなかった。例のたくさんの「棒や板」を工場としてどうするかというテーマに取り組んでいた最中だったからだ。

「なに、ニュルで8分を切った?」「それより、これどうする?」「やっぱり田沼を呼ぼう、このままじゃ無理だ」……。製造部組立課の恩田、技術課の久松、そして対厚木との窓口になっている生産課の篠塚らが、厚木から届いた新しいパーツを前にして、村山工場では、クルマを組むという立場からの最後の“産みの苦しみ”を続けていた。

だが検査課の獅子倉だけは、あのコースでそういうタイムが出たということは、単にストレートのスピードだけでなく、今度のGT-Rが「曲がる」能力において、またスタビリティにおいて、従来型をはるかに超える卓越したレベルにあることを示すものだと思い、その性能向上に感銘を受けていた。

生産型GT-Rを成立させるための村山と厚木のやり取りは、村山の久松が、厚木の田沼と、そして主担の吉川に、「追加の“棒”は、もうないんですね?」と最終的に確認した時に、ようやく終わりとなった。

ニュルブルクリンクからすばやく帰国した渡邉衡三は、主管として、新型車発表前3ヵ月のハードワークに突入した。広報部や宣伝部といった、これまでにはほとんど接触のなかった部署との打合せの時間が増えていく。カタログ、広報資料、またTVのCFなどはすべて、渡邉の最終的な承認なしには先へ進まないのだ。

そして、この新GT-Rをどのように発表するかというのも、社内ではちょっとした議論になった。「GT-R」といえども、厳密にいえば単なる追加機種であり、それならいつもの慣例通りに、経団連記者クラブでの発表でいいという考え方もあったが、いや、それではGT-Rとしてあまりに寂しいという意見が出て、ちょうど1月に晴海で開かれるハイパフォーマンス・カーを集めてのショーで、一般のファンにお披露目したらどうかということになった。

カタログは、一度できていたものを、渡邉の指示で全面的に作り直させた。広報資料は、開発部隊が制作会社スタッフの取材を受けて説明し、そこからできあがってきたコピー(文章)を、もう一度エンジニア側がチェックするという流れになる。専門用語と一般性とのせめぎ合い、またその表現や強調の度合いなど、このプロデュースというのはなかなか微妙な部分が多い作業だ。

この広報資料作りでは、広報部の菊地智美が精力的に仕事を進めた。しばしば、夜の11時頃に東銀座の本社から厚木に電話を入れては、ここはどういうことなのかをエンジニアに確認した。この時期、そんな時刻でも、エンジニアは自分のデスクにいた。「もっとよく説明して!」、菊地は言った。外部のコピーライターによるGT-Rに関する原稿は、あまりにも表層的だと菊地は思ったのだ。

このGT-Rというクルマを説明するには、もっとスピリットや哲学にまで踏み込んだレベルでの、エンジニアからの詳しい情報が要る。菊地は広報資料のかなりの部分をエンジニアへの直接取材をもとに、自身で執筆した。このクルマに関わったメンバーの熱さを、何とかして伝えたかった。菊地もまた、このとき“熱い女”になっていた。

新GT-Rのパブリシティは、一般ファンに対しては晴海のショーで、そして、対ジャーナリズムということでは筑波サーキットを、そのファースト・ステージにすることが決定した。対ジャーナリスト向けの広報活動を、いきなりサーキットという場での試乗にするというアイデアを、渡邉も了承した。

工場での生産が「立ち上がる」とは、正確にはテスト的な部分を含む「先行生産」という時期を終えて、ラインのスピードで新型車が作れるようになった時を意味する。そして、発表と同時に、全国の販売店の店頭に新型車が並ぶだけの量を作り終えておくこと。また、初期の需要に対応できるだけの数が確保できることも、立ち上がり時期の生産では必要な要件となる。

R33のGT-Rでは、店頭に置くモデル数はそれほどなくていいというはずが、営業方面から急に展示車を増やしたいという意向が出て来て、渡邉と吉川の発売前の仕事を、またひとつ増やした。

村山工場は94年の12月に、ついにR33GT-Rのラインでの生産を開始した。そのラインオフした初号車をテストコースに持ち出した村山のテスター獅子倉は、新しいGT-Rが、動かすと(走らせると)「とても小さなクルマになる」ことに驚嘆した。

(つづく) ──文中敬称略
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/6 >>

1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation