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家村浩明のブログ一覧

2014年12月21日 イイね!

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その2

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その2 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

佐々木はコンピュータのロムを打ち直し、厚木の若手ドライバーに乗ってもらい、少しずつセッティングをいじって行った。評価ドライバー加藤の不満は、やはりターンイン時の挙動に集中していた。まずここで、とにかくクルマが安定していない。ここでクルマをだらしなく横に流さず、きちんとした姿勢を作る。そしてその後に、4WDを活かしてフロントにトルクを送るタイミングを精密に計る。この二点がキモだった。

「トラクションっていうのは、アクセルを踏んでいる時だけじゃないんですね。ターンインのブレーキングの時こそ、それが要るんです」
「LSDでオーバーステアのモーメントを作ってやる。そのままほっとくとスピン傾向になるので、そこで前へのトルクを出す。その出し方を早めていって、うまく四輪を使い切れるような設定を探すんです」
佐々木博樹が、この件を語るときの口調は熱い。

アテーサE-TS・PROは前後が、そしてアクティブLSDは左右が「可変」である。R33GT-Rは、このようにトルクの出し方をコントロールできる。しかし、変えられるということは、どうにでもできるということであり、一歩間違えば、どうにでもなってしまうものでもあった。

加藤博義は、現代のクルマの「足」や挙動のテストについて、「二次元どころか、三次元、四次元になってる……」と言ったことがあるが、これは「前後左右」のすべて(の駆動力)が可変であること。そして、それをクルマとして「まとめる」ことのむずかしさを端的に語ったものであろう。

だが、うまくやれば、クルマの挙動は積極的に「作れる」のだ。そして、それが可能な時代なのだ。佐々木は、クルマの安定性はまずLSDで作るということを基本にして、ここを突破口に事態を打開した。そして、あまりにも大きな(チューニングの)自由度の中から、ついに新GT-Rのための「解」を探しだした。ブレークスルーできたのは加藤がいたからだと、佐々木は言う。

そして最後に、きっちりとツメなければならなかったのが挙動の「つながり」だった。ここでも加藤は、リニアさと「過渡特性」を重視したからだ。加藤がこの電制システムに対して、担当者の佐々木に最終的なOKを出すのは、これからさらに半年後、94年の「ニュル・テスト」直前の頃になる。

さて、生産工場も含めて、さまざまな人々にとってシビアだった1993年の長い冬が終わろうとしていた。「電制」の最終仕様を決める佐々木と加藤の仕事の部分だけは、まだ細かなツメが残っていたが、新しいR33のGT-R像は、ほぼまとまってきていた。

1994年、早春。栃木の実験部は、練り上げてきたプロトタイプを携えて、北海道に飛んだ。そこには、「ニュル」を模して造成された陸別の高速ワインディング路がある。厚木で設計され、鶴見でエンジンを磨かれ、そして村山が製作した試作車が、栃木・実験部のスタッフによって、冬をくぐり抜けた北海道の「ニュル」を駆けた。

このテストが終わる頃、R33GT-Rのプロトタイプは、特別なレーシング・バージョンは別として、これまでのいかなるR32GT-Rよりも速く、陸別のコースを周回できるようになっていた。スタッフの誰もが小さく安堵し、そして誰かが声に出して言った。「よし、これで、ニュルに行ける」……

(第20章・了) ──文中敬称略
2014年12月21日 イイね!

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その1

第20章 「よし、ニュルに行ける!」 その1 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33の「GT-R作り」は、それを企画し設計した厚木と、それを生産するセクションである村山工場との“社内交渉”において、最終的ないくつかの困難に直面していた。しかし、それは生産ラインで量産するという点については問題点があるという話であって、村山では「新GT-R」が組めないというのではなかった。

新GT-Rの「現車」を作る作業は、厚木の試作車レベルから、とうに村山に移っている。村山で組んだものが、栃木あるいは北海道・陸別のテストコースで、実験部によってテストされた。「工場試作車」としてのGT-Rは、93年後半から94年にかけて続々とできあがっていた。

ちなみに生産工場としては、このような「工場試作」を数次に渡って行ない、さらに本格的な「生産試作車」を、これまた一次/二次と作って評価・検討し、そして最終的な「量産」へと立ち上がっていく。

新GT-Rを生み出すために始めはバリアとなっていた要素も、少しずつクリアされていった。繰り返されるテスト、トライと修整、また場合によっては仕様の変更などにより、R33のGT-Rの最終的な姿と仕様が徐々に見えてきた。

では、評価ドライバー加藤博義の「30点!」という酷評からはじまった走りのチューニングはどうだっただろうか。

そもそもR32のGT-Rは、ドライバーの意のほどには曲がってくれないという傾向(アンダーステア)があった。それは実験部の川上慎吾が言うように、「アンダーなりに挙動はまとまっていた」クルマではあったが、新GT-Rでは、そこのところを激しくブレークスルーしたかった。アンダーステアを消せば、コーナーでもっと早くアクセルを開けられる。280psのパワーも使い切れる。すなわち、もっと速いクルマにできるという展望である。

そこから、91年頃よりテストを重ねてきた「要素技術」のうち、厚木は「アクティブLSD」と「E-TS PRO」(前後トルクスプリットの4WD)をチョイスし、それによって新GT-Rの運動性を強化し、究極の「曲がる」クルマ──「意のままに」なるクルマを作ろうとイメージしていた。ところが、これが最初はひどかった! 加藤の「30点発言」は、主にこのバージョンへのものだった。

厚木側のこのシステムの担当者は、「電制」のスペシャリスト、佐々木博樹である。初めてそのプロトタイプに乗った加藤は、ほとんどドアを蹴飛ばしながら降りてきて、佐々木に言った。
「(挙動が)バラバラ、全然だめ。第一このクルマ、前に行かねえよ」
「アンダー消すのに、じゃあオーバーステアならいいだろうじゃダメだよ、乗ってみるか、横に」

加藤は佐々木を乗せて、テストコース内にある広場に出た。佐々木の苦心のセッティングだったはずのプロトタイプGT-Rは、ブレーキングすると激しくオーバーステア傾向になり、そこでアクセルをオンにすると、後輪から白煙をあげて、キキュー!……とスピンした。

このシステムの基本的な考え方は、こうである。曲がろうとして制動し、ステアリングを入れ(切り)、荷重が移動して外向きになっている時に、その外側のタイヤ(左コーナーなら右側)に、内側より多いトルクをくれてやる。このように左右に駆動力を分けると、4WDとの絡みでいえば、これまでよりも多くのパワーを後輪に渡せる。

すると前輪への駆動力配分が減らせるため、前のタイヤのグリップ力も、駆動力が減った分、上昇する。つまり、駆動と舵を切ることを同じ前輪でやることから生ずるFF的=4WD的なアンダーステアの要素が減る。こうして、四輪駆動GT-R特有のアンダーステアを消そうというアイデアであった。

この「電制」のテストのために、高剛性のGT-Rの車体が新たに作られるまでは、手作りで補強された電制テスト用の専用車が1台キープされた。「おまえの作りたい足って、これなのか? 違うだろ。ほら、こうやるとこのクルマって……」。加藤はテストコースが薄暗くなるまで、佐々木を乗せては、クルマが「前に行かない」こと、いまクルマがこういう挙動しかしないことを、佐々木に身体で教えた。

肩身の狭い日々もあり、厚木には当分帰ってくるなと言われた時もあり、また加藤とのケンカの毎日という時期もあったが、でも佐々木博樹は自分でも「燃えてるなあ!」と実感していた。93年の末頃から94年の初頭までが、そのトライ&エラーのピークだった。

(つづく) ──文中敬称略
2014年12月19日 イイね!

第19章 “二重生産”

第19章 “二重生産” ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

R33GT-Rの全28ページに及ぶ広報資料の中に、「BODY」という項目がある。
そこでは「車体・シャシー トータル高剛性構造」というタイトルで、どのようにGT-Rのボディが強化されているかが解説されている。

そのうちの「車体強化部位説明図」に載っているパーツが、村山工場の面々を悩ませたGT-R用に新たに追加された強化部品の群れである。ざっと列記すると、フロントストラットタワーバー、フロントクロスバー、フロアクロスバー、シートバックセンター、リヤストラットタワーバー、そして、リヤトリプルクロスバーなどだ。

このようにネーミングされたことでわかるように、たしかにこれらは、村山側が言うように「棒とか板とか」であった。要するに、どこかとどこかをつないで、これまでになかったレベルのボディ剛性を生み出すための部品群である。

R33の場合、フロアはGT-R専用として、剛性を上げて肉厚も違う新部品としていたが、ただしそれは、形状としては基準車用と同じものだった。この場合は、クルマを組む側にとっての手間と時間は、基準車もGT-Rもさして変わらない。これなら、工場側も容認できる。

だが、ボディ強化のための「棒や板」は、それとは違う。これらは、基準車作りと比べると付加的な部品であり、組み付けの時間も大幅な増加が予想される。村山は、量販されるであろうR33スカイライン基準車の生産をきちんとこなしつつ、それに加えて、その同じラインでGT-Rを組まなければならない。その「二重生産」はどちらも同じように重要であり、そのシステムに支障が出る可能性があるとすれば、いくら栃木や厚木から強い要求があったとしても、安直にOKは出せない。

今度のGT-Rでは、これをここのところに組み付けたい。厚木の設計陣が、図面や、果てはパーツそのものを持って、村山工場に連日のようにやって来た。それに対して、以上のような立場から、「それはむずかしい」と村山側が答える。こういうやり取りが1994年の春から夏頃に、すなわちGT-R発売の半年ほど前まで、頻繁に繰り返されていた。

そしてもうひとつ、村山としては人員の問題も気にしていた。工場での組み付けのスタッフは、いつでも豊富に確保されているわけではない。四人がかりでやれば簡単に組めるじゃないかと言われても、そうした条件付きの部品はやはり引受けられない。どんな状況になっても工場としてGT-Rを作れること、これが前提なのである。

村山工場の“GT-R四人衆”である技術課の久松、生産課の篠塚、組立課・恩田、そして検査課の獅子倉らは、しかし、ダメだダメだと突っぱねてばかりいたわけではなかった。獅子倉のテストで、これらのパーツが有効であることは村山としても確認している。だから、村山は強化のためのパーツを加えることには異議はない。ただ、量産をしなければならない工場としてはどうしたらいいのか、その検討なのである。

この時期、おそらくオール・ニッサンで最も忙しかったエンジニアのひとりが、厚木の車両設計部でGT-Rのボディ設計を担当していた田沼謹一であった。田沼は、栃木・実験部の要求レベルを満たすべく、補強のためのパーツを新たに設計しては、それを村山で工場試作させ、それを組み込んだプロトタイプGT-Rを栃木の評価ドライバー加藤博義に委ねて、その是非を聞き、また村山と相談して、場合によってはふたたび、厚木の自分の机で新設計の線を引く。そういう日々を送っていた。

「ともかく、いっぱい部品は作ったなあ!」と、村山の面々も述懐する。また普通は作り勝手がどうかということでの部品の「変更通知」があるのだが、このGT-Rの場合は、「目標値そのものが上がっちゃって、それで変更になるんだから」と、獅子倉が苦笑する。つまり栃木が、もう少し「上」へ行きたい、もっと速くしたいとして、到達すべき目標を変えてしまうのだ。クルマを組む側は、それにいちいち付き合って行かなければならない。

また、クルマ作りには外注メーカーの協力とサプライが不可欠だが、ある部品を作ってもらってテストすると、栃木の実験部からは「あの六番目のやつがよかった!」なんて言ってくることがあるのだ。田沼と村山・生産課の篠塚は一緒にそのメーカーに行き、「そういうことなんで、あのパーツ、次の試作テストまでにぜひ間に合わせて」……という交渉をしたことも度々であった。

新しい部品が厚木から来るたびに、村山のスタッフはそれを見て検討する。「今度はコレか、どうする?」「クルマの下から入るか、コレ?」「いやあ、ひとりじゃムリだなあ」「じゃ切ろうか、田沼に言って分割させようか」……。

前述の各種強化部品のカタカナ名は、あくまでも外部に発表するための資料用語であって、村山ではあんな風には呼んでいなかった。「鹿の角」、「トンネルステー」、そして「例の板」といった具合である。また、エンジンルーム内では「象の鼻」と呼ばれた難物のパーツがあった。これはエンジンとインタークーラーをつないでいる太いホースで、これが固くてたわまず、入れにくく組みにくいパーツの代表として、論議の的になった。

だが村山側は、単に受け身でいて文句ばかりを言っていたわけではない。どうしよう、こうしてくれと、さまざまに意見や要望を出しては、厚木の設計陣とのすり合わせを続けた。そしてそれだけでなく、積極的に新しいGT-Rを作るためのアイデアを村山からも提出していた。

たとえば、初期のR33GT-Rでは、4WD機構でフロントへのトルクがどのくらい行っているのかを示す「トルクメーター」がなかった。渡邉や吉川は、それはインジケーターランプでやればいいとしていたが、村山の評価ドライバー獅子倉が「そりゃないよ!」とねじこんだ。結果としてR33のGT-R、そのセンターコンソールにはフロント・トルクメーターが付いている。スカイラインGT-Rが「かくあってほしい」というイメージは、厚木や栃木や鶴見だけのものではなかった。

ほとんどの部品に、村山からの、クルマを組む立場からのアイデアが盛り込まれた。そして、村山で組まれた試作車を栃木がテストして、厚木にフィードバックし、修整すべきところは修整されて、また村山に戻る。こういう循環で、試作とテストが繰り返された。

このGT-R作りにおいては、工場は、単なる最終アセンブリーの請け負い部門ではなかった。このクルマは普通のクルマ作りとは違う点がいっぱいあるというが、それは工場が果たす役割と機能でも同様であった。

そして、工場内を回る部品の「変更通知書」は、GT-Rの場合、生産の立ち上がりまでに、ついに97通に達した。「普通のクルマの場合? まあ両手以内で立ち上がりましょうねって言って、実際にもそんなもの。多くて10通ですね」(村山工場工務部生産課・篠塚友良)

(第19章・了) ──文中敬称略
2014年12月18日 イイね!

第18章 棒や板

第18章 棒や板 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

今度のクルマは、いったいオレたちに何をさせようというんだ……? R33GT-Rを作っていくプロジェクトの中で、この「仕事が見えない」という感じを抱いていた部署が、厚木のボディ設計のほかにもうひとつあった。クルマ(市販車)の現物を実際に組み上げる役を担う村山工場である。

一台の新型車を作りあげるために、メーカー内の各部署は力を出し合う。その時、そこにはおのずと“相場感”というものが生じる。車両設計部のエンジニア・田沼謹一は、それに「契約」という言葉を宛てたが、A車を作るのにはこのくらいのパワー(労力)を出せばいいはずという経験から発した社内共通の認識である。

だが、評価ドライバーの加藤博義を中心とする栃木の実験部は、独自の判断で――というより彼らにとっての必要から、各部に補強を施してガチガチに強化した超・高剛性のボディを作ってしまった。“メイド・バイ・ヒロヨシ”のこのボディなら、「GT-R」としての要件を充たす。これと同じものを作ってくれ! 

このオーダーが厚木に行き、ボディ屋の田沼謹一が設計をやり直す。こうして、R33GT-Rの「セカンド・プロト」作りが進行するが、その場合、あくまでも村山で量産できることというのが条件になる。GT-Rは、ホンダのNSXのように、専用の工場で組むという方式は採っていないからだ。

ただ、仮の話だが、もしニッサン上層部が、R33のGT-Rは村山以外のどこかに専用の施設などを新設して作るという決定をしたら、必ずや村山からの猛反発に遭っただろう。R32の時から、世界一のクルマ(GT-R)を作っている工場というのは、村山の人々にとっての誇りと勲章なのだ。

とはいえ、工場としてできないものは困るし、何よりクルマを最終的に組み上げる部署としての責任というものがある。また、メーカーの各セクションのうちで、最も顧客と近いのは工場だという自負もある。そのために村山には、完成車をテストする検査部があるし、また工場としてのテストコースも設けてあった。

R31の時に、まずゼロヨンなどの加速テストができる直線路を作り、それに加えて、タイトなコーナーが連続するミニ・サーキットまでが敷地内にあるのだ。これはアップダウンがある全長1.2kmほどのコースで、北海道・陸別のプルービング・グラウンドのミニチュアというべき格好になっていた。工場試作車に一番先に乗れるのは、実は実験部じゃなくてウチなんだ……と明かすのは、その検査部でR33GT-Rの生産を立ち上がらせた、村山の「走りのテスター」獅子倉和男である。

この獅子倉のほか、厚木との窓口となって図面などを受け取るのが生産課の篠塚友良。それを受けて現場へ展開し玉成していく技術課の久松太久司。そしてその現場で、実際にクルマの生産を担当する製造部組立課の工長が恩田賢一。その恩田らが組んだ完成車が、獅子倉の検査部に行く。クルマを生産する村山工場の仕事はこのように回るが、この四人が、スカイラインとそのGT-Rを作り、GT-Rに強いこだわりを見せる村山の“GT-R四人衆”と呼ぶべきメンバーであった。

ただ、R33でもGT-Rをやるというのは、村山側にとってはやや唐突な感があったようだ。一般的にはデザイン検討の頃というから、かなり早い時期に、新型車の開発には工場の技術部が加わるはずであり、図面(設計図)を描くという段階には、既に工場も深く関与しているものだという。したがって、それがなかった以上、次期GT-Rを作るというのは、もう1サイクル遅らせてもいい、あるいは遅らせるのではないかというのが、工場側の感触だったのである。

だが、実験部による新しいR33GT-Rの開発は着々と進んでいた。そして、彼らの“自作”によるボディまでできた。それを厚木の田沼が必死で「翻訳」して再設計しているが、そのボディとはどうやら、棒やら板やらがいっぱい付いた、市販車としては信じがたいシロモノらしいのだ。「そんなものは、工場では組めない!」、村山側はこう何度もはっきり言って、厚木に断っていた。

しかし、実験部(栃木)の意思も強固だ。これをやらなくては「GT-R」じゃないという。この間のマネージメントに奔走したのが専任主担の吉川正敏で、田沼が設計した「セカンド・プロト」をどう工場で組むかというのが彼の一時期の大テーマとなった。吉川の“村山詣で”が始まる。「頼むよ、作ってよ。ボディについては加藤がこう言ってるし、そこから田沼も何とか生産性を考えての新設計をやってるし、ぜひ、新しいGT-Rのために工場も協力を──」

村山側の言う「板とか棒とか」が何種類も厚木からやって来た。これらのパーツを加えて組むと「GT-Rになる」のだという。でも村山としては、手間や時間がかかること、さらには一人の作業員では組めないパーツが持ち込まれることさえあり、工場のシステムを考えると、いくらGT-R作りに意欲があっても、そんなことは簡単には引き受けられない。

それまでも、実験部の「あと何秒、HPG(陸別)でツメたい」という要求に、工場試作車を作った側として、「じゃあ、やろうか」と何度も協力し、クルマを作って(変更して)きた。だが、プロトタイプならそういうことがあってもいいが、工場ラインでの生産となると話のレベルが違う。

そして、組立を依頼される側としては、ついにこういう疑問も出てくるのだ。厚木の設計が持ってくる大量の「GT-R用」という、ラインでは組めそうもないパーツの山がある。しかし、「だいたいこの部品、効く効くというけれど、ホントなのかよ?」ということである。

たまらず、村山側は独自にテストをすることにした。ボディのどこかとどこかを連結する「棒」や、剛性を上げることに効果があるという「板」、そして肉厚の違う新パーツ。厚木の設計が持ってきたこれらの見慣れない部品を、彼らのいうように全部付けたクルマを作ってみる。一方で、そういうものをまったく付けないクルマを用意する。この二つの仕様を並べて、実際に走ってみることにしたのだ。

村山としての実走のテスターは、もちろん獅子倉である。工場には小規模ながら、きちんとしたテストフィールドもある。自分たちでテストしてみて、もしもそんなにはっきりと効果があるのなら、その時点で、あらためて考えてみようというわけだ。

……やってみた。明白だった。獅子倉は、二台のクルマで一回ずつ、120km/hでダブルレーン・チェンジをしただけで、笑いながらクルマから降りてきた。「参った、効くよ、これは!」

クルマがガシッとする。挙動がダイレクトになる。何かをした後の収まり具合が違う。収束性には格段の差がある。そして、レスポンスの違いは最も顕著だった。新パーツを付けたクルマは、ドライバーの意志が、気持ちいいほど瞬時に、クルマの全身にピッと伝わった。テストした二種類のR33は、まさに別のクルマであった。

そういうことなら、これらのパーツのすべてを組む前提で、それにはどうしたらいいかを、厚木とツメよう。村山は決定した。これで、GT-R作りの最終行程へのルートがようやく見えてきた。

(第18章・了) ──文中敬称略
2014年12月16日 イイね!

第17章 工場試作 その2

 ~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より

さて“猫殺し”というアダ名の加藤プロデュースによる“超・高剛性ボディ”ができあがって、R33GT-Rのボディのあるべき姿は見えていた。次は、そのボディをどう「再現」するかがスタッフの仕事となる。厚木での試作段階が終わり、それをGT-Rの生産工場である村山の「工場試作」に移す時期が来た。

だが、できあがった村山工場製のボディに加藤が乗ると、彼のダメが出てしまう。栃木の不満が噴き出す。厚木と村山は、ちゃんと「一対一」の対応をしてるのか? 言った通りにならないじゃないか!

一方、工場の村山にも言い分がある。これはラインでの生産を前提としてのプロトタイプだ。純粋に性能狙いだけで作ってくる厚木の試作は、そのまま生産(量産)できない部分がある。たとえば、ネジの穴をこのサイズにしないとラインでは組めないとか、あるいはスポット溶接の箇所を変えざるを得ないといったことだ。さらに、プレスにしても、厚木で試作用に使っているものと、大量生産のための村山の機械とでは、そのできあがり具合が微妙に違っていた。

だが、こうして微細な差があるプロトタイプを作ると、恐るべきセンサーの持ち主である評価ドライバーの加藤博義は、違いをあっさりと発見してしまう。そして言うのだ、「これじゃあ、GT-Rにはならない」と。

開発の時間は無限ではない。甚だしい場合は、設計図も抜きだった。厚木の試作品を、田沼がそのまま村山へ持っていく。このブツで行きたい、これを工場(ライン)で作れる(組める)かどうか、やってみてほしい──。 

「ある日突然(ボディに)これ付けたいって、設計担当が持ってくるんですよ」「設計図じゃなくって、段ボール切って、こういうパーツなんだけどって、田沼が来たことがありましたね(笑)」。村山工場の対厚木の窓口になっている工務部技術課の久松太久司は、この頃の田沼の行動をこう証言する。

設計者としての田沼の仕事は、「工場試作」が本格的に始まってからもなくならなかった。栃木の要求レベルのものを、村山の組立ラインで再現する。そのためにはどう設計するか、どう設計変更すればいいのか。それを考え続けなければならなかったからだ。

ひとつの例では、GT-Rはリヤのストラットの下側に、リヤ・ストラット・タワーボードという剛性強化のための板が渡されていた。これを工場のラインで組む際には、その板をトランクの開口部(上)から入れたいと、工場側は言った。それに対応して、二分割して上から入るようにしようと変更したが、栃木にテストをさせると「やはり一体化してくれ」という答が実験部からは返って来る。では一枚で、かつトランクから入れられるようにするには、どういう形状ならいいのか。こういう問題に対応しなければならない。

また、仮にその種の「板」が運ぶのには重すぎるとすれば、アルミに材料置換することが必要になるかもしれない。工場での実際の作業者が、仕事をしやすいようにする。これもまた、設計側に課せられた重要なテーマだ。田沼にとってのボディ設計面での開発終了というのは、彼が設計して村山で組んだものに、栃木がOKを出した時ということになる。

結果的にGT-Rのアンダーフロアは、その形状自体は基準車とまったく同じものになった。だが、その材質と厚さは、基準車とは全然違っていた。ボディサイドの部分も同様に、形状は同じで材質だけが異なるものとした。スカイラインの基準車が流れるのと同じラインで、GT-Rを組む。そのために、田沼をはじめとする厚木のボディ設計陣が編み出した巧妙な作戦であった。

「GT-Rは、ボディでいうと、基準車とはドンガラから全部違ってます。同じ生産ラインの中で、まったく別のクルマを作る。それがGT-Rの方法です」。厚木のボディ設計エンジニア・田沼謹一は、自身の仕事をこう振り返った。

(第17章・了) ──文中敬称略
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プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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