2016年09月15日
最初の頃は「ベースボール=野球」という表現をしてきたこの一文だが、ある段階から「ベースボール」と限定的に表記することが多くなった。この球技のアメリカでの歴史などを探っていくうちに、どうも私たちが知る「野球」と、アメリカで行なわれている(らしい)「ベースボール」はかなり違う? そんなことに気づいたからだった。
グラウンドに守備側の9人が散って、打者がバッターボックスに入って、審判が手を挙げて「プレイ!」──。さあ、これからみんなで、ボール・ゲームを遊ぼうぜ! そんなワクワクの時間が始まるのだから、プレイヤーは全員、ココロの中にはスマイル・マーク。ガムだって噛むし、ベンチでひまわりの種は食うし、噛みタバコも止めない。これがアメリカでの「ベースボール」(であるように、私には見える)。
さらには、ここは日曜・朝のチャーチ(教会)じゃないんだ、ボール・パークだぜ!……と、集った全員が思っているから、スタンドでは「街なか」と同じようにホットドッグが売られ、観客はそれを頬張りつつ、バドワイザーなどの軽いビールを飲む。
一方、「野球」の場合はどうか。「プレイボール!」という宣言で日本野球の選手や監督のココロに去来するのは、(さあ、戦闘開始だ)という厳粛な言葉と、一種殺伐なまでに試合と勝負に徹した冷徹モード……なのではないか。そして、これからシビアな闘いが始まるのだから、プレーヤーは誰もスマイルしていない。(観客席ではビールは売っているが)
そういえば日本の場合、球場とそのグラウンドはしばしば「聖地」になる。グラウンドに入る際に、「人」に対してではなく「地」に対して礼をする。これは高校生にとっての「甲子園」以外でも、日本各地で行なわれている習慣であろう。そんな「聖地」に踏み込んだ巡礼者たちが、もし笑みを浮かべていれば、それは不敬である。そういえば“高校球児”がしばしば頭を丸坊主にするのは、「聖地」に入るために身を清めたということなのかもしれない。「球場」は日本人プレイヤーにとって、「街なか」とは異なる非・日常的空間であると同時に、神聖かつ荘厳な場なのである。
そして、「ゲーム」(エンタメ=ベースボール)なのか、「試合」(戦闘=野球)なのか。ともかく実際に競技が始まっても、ベースボールと野球は異なった様相を呈する。私見では、二つの球技で一番違うのは「投手」のコンセプトというか、その姿勢や役割であると思う。
メジャー・リーグなどのアメリカの投手は、「俺の球、打つなら打ってみろ!」と、打者に向かって投げ込む。自身のベスト・ピッチを投げて、それが打たれたのなら、それはそういうこと。そんな雰囲気もある。一方で日本野球の投手は、どうすれば打たれないか、どこに投げれば、自チームの“被害”が一番少ないか。投手はそのことに腐心して、打者に対する。いま投手として、何を一番「してはいけない」かを考えろ。これがおそらく監督のココロだ。(お前のベスト・ピッチ? 何だ、そりゃ?)
ハナシをいきなり具体的にすると、たとえば1球目、打者がストライクを見逃した。2球目は振りに行ったがファールだった。よくある展開だが、これでボールなしの2ストライクになる。さあ、3球目。投手はどういう意図と姿勢で、何を投げるか?
この時に、あと一つのストライクで打者との対決に勝てるのだから、三振を狙って、3球目に勝負に行くのが「ベースボール」。例の、打つなら打ってみろ!……である。そして投手は、もし打者が見逃せば三振になる球、つまり「ストライク」を投げる。
一方、日本の「野球」で、ボールなしの2ストライクになった時、投手が考えるのは(これはつまりチーム監督が考えるに等しいのだが)、「よし、これで三つ、ボールを投げられるな」ということ。とくに「0-2」からの3球目は絶対と言っていいほど、打者が打とうとしても打てない球、つまり「ボール」を投げる。
そして、この「ストライクを投げない」というコンセプトは4球目以降も徹底していて、日本の好投手は「1-2」以後も“打てない球”(ボール)を投げ続ける。何故なら、「3-2」まではフォアボールではないからだ。「0-2」から三つ、ボール球を投げて、そのうちの一球を打者が振ってくれたら儲けもの。こういうカタチの“勝負”をするのが「野球」である。
この時に効果があるのが、日本でフォーク・ボールと呼ばれる「縦に落ちる球」だ。2ストライク後にこの球が来ると、多くの打者は耐えきれずに手を出し、そして空振りする。とりわけ、「ストライクからボールになる球」というのが効果的で、この種の球を投げられる投手が「野球」では高く評価される。
ただし、途中までストライク・コースに来ていて、でも最後にはボールになる球とは、結局は「ボール」なのである。これを平然と見逃せたのが天才打者・落合博満で、ゆえに落合は、一世を風靡した「フォーク投手」佐々木主浩をまったく苦にしなかった。佐々木のフォークには手を出さず、実はそんなに威力はない彼の直球だけを狙い打った。「全部ボールでしょ、あれ(フォーク)は」と笑っていたな、そういえば。
しかし、多くの打者は落合のように天才ではないので、「フォーク投手」は概ね日本で成功する。ほとんどの打者は、2ストライク後に投手が投げてくるワンバウンドするような球、つまり、バットに当てることはほぼ不可能という球を空振りするからだ。
まあ、たまに落合風というか、ちょっとだけ、したたかな打者がいて、2ストライク後の「ボール球」には手を出さず、「0-2」から「3-2」くらいまで粘ることはある。しかし、日本の「優れた投手」は、次は必ず「振る」という自信があるのか、フォアボールを怖れないのか。そうしたフルカウントからでも、やっぱり「ボール」を投げて来るのだ。その時には、さすがの「好打者」もワンバウンドする球を振って、結果としてはやっぱり三振で終わる。
つまり、日本の「野球」における2ストライク後の“見世物”というのは、投手は、バットには当たらない球(ボール)をどう振らせるか。打者は、投手によるそんな誘惑や焦らしに、如何にして耐えるか。要するに、そういう“ショー”になっている。
この見世物でひとつおもしろくないのは、投手の側は「3ボール」になるまで何のリスクもないということだ。だって、どんな打者でも打てないだろうという“ワンバウンド球”を投げてるんだからね! これは、片方だけが絶対優位のショーで、見ていて愉しいものではない。
それに、何より勝負(打者一人からのアウト奪取)に手間が掛かりすぎる。「0-2」から投手が投げる、打者がまず打つことができない三つのボール球は、時間のムダではないのか。そして、結果もミエミエで、サスペンスやワクワク感がない。投手はその間、打者が“打てない球”だけを投げている。さらに言うなら、この間は打球は前には飛ばないので、守備陣が好プレーを見せる機会も生じない。
こうしたこと(2ストライク後の展開)に気づいた時、私は「日本の野球」に対してかなりシラけた。けっこう盛り下がる見世物、間延びしたショーだとも思った。重箱の隅をつつくようなバトルは、監督対監督の心理戦、緻密で高度な“戦争”であるかもしれないが、意外性と解放感には乏しい。スピード感やダイナミズムもない。
(もちろん、どの世界にも例外と驚異はある。日本プロ野球の『江夏豊』は、俺は「三球三振」で打者を片づける!……という野球をした。また彼は、相手打者の全員を三振に取れば、捕手以外の野手は要らないのだと、ココロのどこかで思っていたに違いない。1971年のオールスター戦、責任回数3回・9つのアウトを、江夏は全員三振で決めて、そのことを実証した)
(つづく)
Posted at 2016/09/15 05:23:20 | |
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2016年08月27日
……あれ、ハナシが「幕末」から「ジェロニモ」にまで逸れてしまった。ともかく、全米各地で自然発生的に始まったベースボール(の原型)は、人々がプレーする広場ごとに、それぞれルールや決め事があった。これが草創期の実状だったと想像する。
そして、各地のシティやタウンでベースボール・ゲームが行なわれ始めた頃は、それを競技する「場」もさまざまだった。そのサイズにしても、市街のワンブロックの大きさは「街」によって違うだろうし、空き地の広さやカタチ、それをベースにしたボール・パークの形状などもいろいろであったと思う。
1869年にシンシナティに誕生したアメリカ初のプロ・チーム、「シンシナティ・レッド・ストッキングズ」(後のシンシナティ・レッズ)は全米を転戦して回ったそうだが、彼らは訪れる街ごとにボール・パークの形状や広さが異なることを体感しつつ、各地で試合をしていったのではないか。
そして、来訪してきたシンシナティ・チームと、ホームタウンの野球チームとの対抗戦。それが「できた」ということは、基本的なベースボールの統一ルールは、1869年時点でほぼできあがっていたのだろう。
「21点先取」でゲームが終わるのではなく、3ダウンで攻守が交代して、9イニングの表と裏での獲得得点を競うなどのルールは、1857年には既にできあがっていたようだ。また、初期には「8ボール」や「7ボール」で打者が一塁へ歩いたが、それが「5ボール」になり、そして今日の「4ボール」となったのは、シンシナティ・レッドストッキングズの創立から20年後(1889年)だったという。
また、バッテリー間の距離は、当初の50フィートから、1893年に60フィート6インチ=18・44メートルになった。何で、せっかく改定したのに、60フィートにプラス「6インチ」というハンパが付いているのかというと、60フィートに決まったというメモの「60・0」を、実務担当者が「60・6」と見誤った。以後、その「プラス6」がずっと踏襲されているという、ウソのようなハナシが伝わる。でも、これはたぶんホントのことなんだと思う。
ちなみに「6インチ」とは、約15センチほど。仮に、既にマウンドを造ってしまった後でも、それを「60フィート」に修正するのは、そんなにむずかしいことではなかったとも思うが、そうなったら今度は「何故、60フィートぴったりでなければならないんだ?」という反問が出現して、それには誰も答えられなかった。案外そんな理由で、「60・6」が生き残ってしまったのではないか。
さて、こうして塁間やバッテリー間の距離など、つまり「内野」に関しては厳密な数値も含んでルールの整備が行なわれていったが、「外野」とその奥というか、ベースボール・パーク(球場)の広さやサイズを統一しようとは、やっぱり、誰も思わなかったようだ。ボール・パークの仕様(スペック)なんて、「その街なり」でいいんじゃね?……この彼らの大らかさには、アキレを通り越してちょっと感動する。おもしろい国ですね、アメリカって!(笑)
前にも書いたことだが、外野の塀を越えたショット(ホームラン)は、それだけで「1点」が入る。その塀までの距離が違うというのは、サッカーに例えるなら、地区やピッチによってゴールマウスの大きさが異なるのに近いとさえ思うが、対戦する2チームが同じ条件でゲームをしているのなら、それは何の問題もない。これがおそらくアメリカ流、そしてベースボール的なルールの解釈と判断なのではないか。(なんか、少しずつ彼らの感覚がわかってきたような……笑)
ベースボールにおける、そうした自由さと「不揃い」は、アメリカがそもそも「合州国」であることと関係があるかもしれない。州境を挟んで、法律や慣習が変わるのは当たり前。軍事的にも「州」が独自の州兵を持っていたりするというのは、“超・中央集権国家”の民である現今の私たちには、なかなか想像しにくい部分である。
(ただ、これって実は「明治以後」百数十年のことで、江戸時代にはこの国も「合邦国」だった。江戸期の人々が「くに」と呼んでいたのは、それぞれのお殿様が治める「藩」のことだった)
フッと思うのは、アメリカ人にとってのベースボールは「競技」というよりも、カテゴリーとしては「遊戯」(エンターテインメント)に属しているのではないかということ。競技 → 闘い → 作戦・戦略 → 戦争……というようなラインの上に、ベースボールはどうも乗っていない?
いや、表面的にはベースボールは、この種の用語や言葉で満ちている感がある。ただ、それはいわば表層で、底流というか基本精神のところでは「競技」や「戦争」と微妙にズレている気がする。ベースボールは、たとえば、安息日にみんなで踊るフォークダンスとか、週末のカントリー・ミュージックのジャンボリーで家族バンドが歌っているとか。スピリット的には、コッチ(エンタメ)方面に属するゲームなのではないか。
そして、技術的な頂点ということでは、野球ではメジャー・リーグ、エンタメではブロードウェイのミュージカル。この二つが「テクニカル」な意味でのアメリカのツインピークを構成する。この二つは無縁のようで、しかし、アメリカ人のココロの奥深いところではツイン(双子)として肩を並べている……とまで言うと、ちょっと妄想が過ぎるか。
それはともかく、彼ら米人にとってのベースボールは、「競技」である以上に「遊戯」(エンタメ)であって、ベースボールで大切なのは「やる」(プレーする=演る)にしても「見る」にしても、まずエンジョイすること。この基本精神が、メジャー・リーグをはじめとするアメリカのベースボールに受け継がれているように思う。
何より、ベースボールの試合開始に際して、審判が手を挙げつつ(これは宣誓ともつながっているのか)宣言するのは「プレー!」である。つまり「さあ、遊べ」。プレーヤーは、こう言われてグラウンドに出て行く。これから、みんなでボールと戯れる時間だと、グラウンドの両チーム、さらには観客も合意して、ベースボールは始まるのだ。
(「プレー」「プレーボール」は、野球以外のボール・スポーツでも用いられるが)
(つづく)
Posted at 2016/08/27 17:50:17 | |
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2016年08月24日
ベースボール=野球の起源を探っていくと、遠く中世ヨーロッパで行なわれていた球技にまで行き着くらしい。何かを丸めて小さなボール状にしたものを投げ合う。さらには、それを打って飛ばすというのは、誰かが言い出したから始まったというようなものではなく、人の「遊戯欲」の根源的な部分とどこかで繋がっているのかもしれない。
この「遊戯欲」ということでは、人は「重力」を利用して滑ったり落ちたり、また「重力」に逆らって飛んでみたりと、「G」を絡めての遊戯がとても好きである。20世紀という百年間に、世界中でクルマが急速に普及して一般化したのも、この「G」(重力)をコントロールしたい、「G」と戯れたい!……という、多くの人々が抱えている秘かな欲求と関連があると私は考えている。
さて、それはともかく、このベースボールという競技もしくは遊戯(エンターテインメント)が非常に好まれて発展したのがアメリカであるということについては、誰も異議はないはず。そして、そのアメリカでのベースボールの発展と楽しみ方で、つくづく(おもしろいなあ……!)と思うのは、これを行なう競技場(球場)の規格について、彼らがまったく無頓着なことである。
ベースボール=野球とは基本的に、対戦するそれぞれのチームが獲得した得点を競うゲームで、初期には21点先取でゲームセットとしていた時期もあったという。(あまりに時間が掛かりすぎたので「回数」を定めることになった)
そして「ホームラン」というショットが出ると、それだけで1点の獲得が認められるというルールもある。そういうことであるなら、その「ホームラン」の定義は厳格であっていいと思うのだが、これがどうもそうではない。打球がどのくらいの距離を飛んだらホームランにするといった決まりは別にないようで、この件は言ってみれば“その場任せ”になっている。
この球技では(ランニング・ホームランを例外として)多くの場合、向こうに見えてる「あの塀」を越えたら本塁打にしようね!……といった決めごとがあるだけのようだ。その「塀」にしても、ホームベースからの距離やその高さは「不定」で、さらに球場の左翼側と右翼側では「塀」までの距離が異なるという場合も少なくない。そうした競技場の形状の「左右非対称」ぶりは、とくに米メジャー・リーグで顕著であるという。
そういえば、この「ホームラン」だが、これはプレーしているボールが「競技範囲」の外に出てしまった、もう誰もプレーができないよ……ということであろう。そうであるのだがベースボールの場合、それを「アウト」とか「OB」(アウト・オブ・バウンズ)といったペナルティにはせずに、ヒットの中でも最上級のものとして賞賛する。これもまた、この球技の特異なところだと思う。
まあゴルフでも、ティーショットの飛距離は長ければ長いほどいいじゃないかと言われるかもしれないが、ただご承知の通り、ゴルフには、飛ばしすぎは絶対不可のショートホールがある。また、その“飛ぶと嬉しい”ティーショットにしても、打ってよろしいというその範囲はきわめて狭く、ベースボールのように「広角」(90度)で許容されているわけではない。
さて、ベースボールが「範囲外」や「場外」を、むしろ歓迎すること。そして、ベースボールを行なう競技場の規格について頓着しない。これは何故なのだろうか? ベースボール大国のアメリカで、この“遊び”が始まった頃を想像しながら、ちょっと考えてみる。
ベースボール(の原型)は、アメリカ各地のタウンというかシティというか、そうした「街」の中の広場や空き地で、おそらく自然発生的に始まったと思う。一説では、オフィスやショップなどで仕事をするために「街」に集まってきた社員や職員の昼休みの娯楽として、このボールを使うゲームが始まったとされる。そう言われてみると、ベースボールをプレーする際の、妙にダブダブしていて、そして“日常的”な「競技ウェア」のナゾも、少し解けるような気もする。
このウェアについて想像を巡らせると、「街」の仕事場に社員がニッカボッカ姿で来ていれば、昼休みにはそのままプレーした。そして普通のズボンであれば、その裾をソックスの中に入れて、あるいはもう一枚のソックスを履いてまとめ、“足さばき”を良くした。このどちらの格好にしても、目立つのは膝から下のストッキングの部分で、それが下半身だったとすれば、上半身はジャケットや襟のあるシャツは脱ぎ捨て、Tシャツ一枚、もしくはその種の襟のないウェアを重ね着して、昼休みにプレーしたのではないか。
アメリカ最初のベースボール・チーム(アマチュア)の名前は「ニッカボッカーズ」だったそうで、そして、プロフェッショナルなベースボール・チームは、1869年、シンシナティでの球団創立に始まるという。この時のチーム名が「シンシナティ・レッド・ストッキングズ」だった。
こうしたネーミングからも、ベースボールをプレーする際の「靴下姿」が、遊ぶ人々とそれを見る人々の双方に、非常に印象的だったことが想像できる。ゆえに今日でも、メジャー・リーグにはホワイトソックスやレッドソックスといったチーム名が残り、長い伝統を持つ球団であることを、その名によって誇示しているのではないか。
ちなみに、レッド・ストッキングズが創立された「1869年」とは、アメリカでは南北戦争が終わって3年後。日本では「幕末」期に当たり、前年の1868年には江戸城が無血開城されている。そして、この年には幕末期の戦いの最後であった函館戦争が終わり、元・新撰組の土方歳三が五稜郭で戦死した。そしてアメリカでは、レッドストッキングズ誕生の7年後(1876年)に、最初のプロ野球リーグとしてナショナル・リーグが興っている。
さらに、ちなみに/その2だが、シンシナティなど北部や東部で人々がベースボールのプロ・リーグを楽しんでいても、アメリカの西部や南部はそうではなかった。そこでは、新大陸にヨーロッパからやって来た人々が「開拓」という名の“侵略”的な行動を起こしたのに対し、それに反発するネイティブ・アメリカン諸部族が武力によって抵抗していた。歴史では、アパッチ族のジェロニモが降伏した時に、ネイティブ・アメリカンによる軍事的な抵抗が終わったとされているが、それは1886年のことであった。
つまり、ようやくアメリカの西・南部が「平定」(という言葉を一応使っておくが)された年より10年も前に、米メジャーのナショナル・リーグは創立されていて、東部の人々はベースボールの勝敗に一喜一憂していたということ。アメリカという国の広さと複雑さを示すエピソードとして、これ、個人的にはちょっと好きである。
(つづく)
Posted at 2016/08/24 02:46:02 | |
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スポーツcolumn | 日記
2016年07月05日
日本のプロ野球リーグで活躍した選手が、アメリカのメジャー・リーグに活動の場を移し、そこでもヒットを量産。そのヒット数が、メジャー・リーグの最多安打記録に迫っているという話題がある。
この時に、その日本選手、つまり鈴木イチローが大リーグで打ったヒット数に、日本でプレーしていた時期のヒット数を足していい。もしくは双方を足して「世界記録」とすべきだという考え方が(日本国内で)あるようだが、これはちょっと無理筋ではないか。
このイチローの「ヒット数」についてはアメリカ側も反応していて、当事者ともいうべきメジャー・リーグ最多安打の記録保持者ピート・ローズは、(日本人は)「イチローの高校時代のヒット数まで足そうとしている」と言ったそうだ。
まあ、高校時代ウンヌンというのは彼のジョーク、あるいはわざと間違って見せているのだろうが、ただ、このローズの見解が米・大リーグ側の多数派であろうことは容易に想像できる。つまり、「場」と「リーグ」が違うだろ!……ということで、これは一見イチローに冷たいようだが、しかし、事象を日本に置き換えてみると、ローズ説には一理あることがわかる。
たとえば台湾や韓国のリーグで、あるいはベネズエラやキューバでもいいが、それらの野球リーグで活躍した選手が、日本のプロ野球にやって来た。そして、日本でも活躍して1000本のヒットを打ったとする。その際に、彼は母国で既に1000本のヒットを打っていたから、彼を「2000本ヒッター」として認めるべきだ。もし、こうした意見が、その選手の母国側から出て来たら?
おそらく、日本の野球ファンと関係者は、そのほとんどがピート・ローズと同じような反応をする。まあローズの場合は、露骨に「大リーグだけが“野球”なんだ!」という感じのコメントになって、私たちは(ちょっと待ってくださいよ……)と、若干オブラートに包んでのモノ言いになる。そんな違いはありそうだが。
メジャー・リーグ側としては、野球=ベースボールにおいては「大リーグ」だけが突出していること。そして、その下部にトリプルAとかダブルAを始めとするマイナー・リーグがあり、そうした米国内での「格付け」と同じように、米国以外の野球リーグもまた、すべてマイナー・リーグ以下のレベルとして位置づける。そして、その「国外のリーグ」の中には、当然、日本プロ野球も含まれている……ということであろう。(だから日本のリーグで何本ヒットを打っても、それはイチローが高校生の時のハナシだろ?……というローズのジョークにもなる)
一方、米人ほど図々しくない(笑)日本プロ野球とそのファンは、もう少し微妙であると思う。さすがに、大リーグ(MLB)と日本プロ野球(NPB)が同格だとは思っていないが、しかしMLBが圧倒的に優位だと感じているわけではない。仮に二つのリーグの優勝チーム同士で“世界シリーズ”を行なったら、4勝2敗でたぶん大リーグが勝つであろうけれど、しかしNPBのチームが4戦全敗で屈するとは考えていない。
そして、「対メジャー・リーグ」でその程度(世界シリーズで2勝4敗で負ける)なのだから、その他の国やリーグに対しては、日本リーグは圧倒的に優位であると信じている。だから野球の国際大会でアメリカ以外の国に負けると、サベツ意識も露骨に日本人ファンは本気で怒るし、たとえば韓国リーグのスーパースターだったイ・スンヨプが日本でプレーした際でも、彼のヒット数やホームラン数を「韓+日」で合計することなど思いつきもしなかった。
さて、今回のイチローの記録事件でもそれがうかがえるのだが、私たち日本人は、私たちが好きな野球という競技もしくは“遊戯”を「世界基準」で捉えたい。あるいは、野球を何としても「世界化」したいという願望がとても強いと思うのだが、しかし、そういうのは、もう「やめ」にしませんか?……というのが本コラムの企図だ。
(つづく)
Posted at 2016/07/05 23:18:49 | |
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2016年06月25日
「蝶のように舞い……」という言葉に触れて、フッと“遠い目”になっていることに気づく。当時の言葉や映像、それらの断片が跳び回り始め、ココロの収拾がつかなくなっている。
まず、この言葉で思い浮かべたのは「カシアス・クレイ」という名だった。モハメド・アリの死去の際に多くの追悼記事が出たが、そのほとんどが「クレイ」に触れていなかったのは意外だった。偉大なるモハメド・アリは、その名になる前はカシアス・クレイだった。そして「蝶のように……」と言ったのもクレイ時代だったはずだ。
1964年、カシアス・クレイはヘビー級のタイトルを賭けて、ソニー・リストンと闘った。その時に、自身のファイティング・スタイルを「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と描写した。……そう、それはまさに“描写”で、自分自身のことをこれほど的確に表現できる人がいるのだと、そのことにも驚いた。
重量級のボクシング史に詳しいわけではないが、「クレイ以前」のヘビー級の闘いは、要するに二人が足を止めての「殴り合い」だった。そして、どっちのパンチが強いか、どっちがタフなのかで勝負を決めていた。でも、俺のボクシングはそうじゃないと、カシアス・クレイは言ったのだ。
当時は、今日のように映像(動画)が氾濫する時代ではなく、言葉と静止画が「情報」の主役だった。もちろん“動く絵”は散発的にはあったが、何であっても、まずは「言葉」をベースに想像を逞しくするしかなかった。しかし、一瞬でもカシアス・クレイに関する動画を目にしたなら、彼の言っていることはすぐにわかった。リング上の彼は、たしかに「蝶」だったからだ。
クレイがタイトルを賭けて最初に闘った相手は、最強のパンチャーといわれたソニー・リストンだ。しかし試合が始まると、そのパンチはクレイのフットワークに翻弄されて、ほとんど当たらなかった。6ラウンドに渡って「蝶」に眩惑され、そして「蜂」によってビシビシと刺され続けたリストンは、7ラウンドが始まっても自コーナーの椅子から立ち上がらない。クレイとリストンの初戦(1964年)は、こういう結末だった。
「有言」して、さらに「実行」する。ホラを吹くのだが、しかし、それはそのまま現実になる。こうしたカシアス・クレイの「物語性」に、人々はシビレた。フィクション(ウソ)みたいなことを、ホントにしてしまう。そしてクレイは、その「物語」の製作・監督・主演を独りでやっていた。
史実では、クレイはリストン戦に勝ってチャンピオンになった際に、リングネームを「モハメド・アリ」に変える宣言をしていたらしい。しかし、メディア上ではどうだっただろうか。1965年にもう一度リストンと闘った際でも、報道では「クレイ対リストン」だったような気がするのだが。
そして、アマチュアとしてローマ・オリンピックで金メダルを取り、プロとしてヘビー級のチャンピオンになったカシアス・クレイは、ある日、その栄光の(アメリカ人的な)名をあっさりと捨てる。彼は「モハメド・アリ」になり、同時にムスリム(イスラム教徒)になっていた。(後にはリングネームだけでなく、本名もモハメド・アリに改名する)
ここから先、「モハメド・アリ」になって以降の彼の「闘い」は、あまりにも波瀾万丈に過ぎるので、ここでもう止めにする。ただ、1960年代に徴兵を拒否し、アメリカにとっての“非国民”だったであろうアリ氏が、アトランタ五輪(1996年)の開会式に登場した際にはちょっとした感慨があった。アメリカは彼の名誉回復を行ない、さらにはリスペクトもしているのだと思った。ただ、最後の聖火ランナーとしての彼の姿は、パーキンソン病と闘っていて痛々しく、「蝶」でも「蜂」でもないクレイ=アリを見るのは、とても辛く悲しかったが。
さて、F1/カナダに話を戻す。2016年のここでのレースは、ルイス・ハミルトンにとって会心のものだったのだろう。走りたいように走れて、そのフィールにクルマもついて来た。だからルイスは、そんなレースだったことを示すため、カシアス・クレイ=モハメド・アリの“あの言葉”を選んだ。
ふと気づけば、この「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とは、クルマの世界、それもレースやコンペティションを語るのに、けっこうピッタリではないか。「意のままに」とは、メーカー内で「運動性」を担当する人々が好んで使うフレーズだが、これを少し“芸術方向”に振ると「蝶のように……」となるはず。また、コーナーなどで狙ったライン通りにクルマが行ってくれれば、それは「蜂のように」刺したということになろう。
でも、これまでクルマについて何かを語る際に、このカシアス・クレイの言葉が持ち込まれた例は(私の知る限り)これまでには無かった。ルイス・ハミルトンが自身のレースを振り返って「蝶のように……」と語ったのは、ルイスの才覚の現われか、それとも教養か。あるいは、クレイ=アリと共通する、彼の肌の色がそうさせたのか。とにかくルイス・ハミルトンは、カナダでの勝利後、カシアス・クレイ=モハメド・アリという20世紀最高のアスリートのひとり、その名とその言葉を甦らせて、多くの人々の記憶と感情を揺さぶった。
そして彼自身も、モナコ、カナダと二連勝して、チャンピオンシップ・ポイントでも首位のニコ・ロズベルクに肉迫した。その後に、市街地で行なわれたヨーロッパ・グランプリでは張り切りすぎたか(笑)予選でクラッシュ。決勝では上位からスタートできずに、グランプリで三連勝することはできなかったが。
さて、モナコではレッドブルに「クルマ的」に敗れたメルセデスだったが、カナダとバクー(ヨーロッパGP)ではやはり速く、他車よりは上位にいた。ただ、メルセデスとライバル二チーム、つまりフェラーリ、レッドブルとの差は縮まっている。三つ巴とまではいえないにしても、予選でも決勝でも、予断を許さないという状況になってきた。シーズンも中盤に来て、F1が少しおもしろくなってきている。
(了)
Posted at 2016/06/25 10:32:50 | |
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