• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2016年03月17日 イイね!

スポーツcolumn 【F1】星野一義 日本で最もF1に近かった男 《2》

スポーツcolumn 【F1】星野一義 日本で最もF1に近かった男 《2》こうした闘いをつづけていた1980年代の星野一義に、二つの強敵が出現した。ひとつは、欧州でのレースを続ける上での資金難だった。日本でのレースがある以上、ヨーロッパF2にはスポット的な参戦にならざるを得ない。しかし、スポットで好成績を残せるほどに、欧州のレースは甘くはない。そのため、ヨーロッパ参戦は出費に見合うだけの成果がついて来なかった。しかし、フル参戦ということでヨーロッパに拠点を構えるまでの態勢を作ることは、日本で仕事と家庭を持っていた30代の星野には、やはりむずかしいことだった。

もうひとつの敵は、国内F2シーンに出現した新エンジンである。9000回転以上も吹けるというそのV型6気筒ユニットは、当時のすべてのレーシング4気筒エンジンを過去のものとした。世界のF2レースを制することになる「ホンダV6」が登場したのだ。

星野が、各コーナーで懸命に車間を詰める。しかし、そんな星野のハードジョブをあざ笑うかのように、鈴鹿で、そして富士のストレートで、ホンダV6を搭載したマシンは、かん高いエキゾーストノートとともに星野の視界から遠ざかって行った。

あのエンジンには、どんなことをしても勝てない……。このことを知った星野は、生涯で初めての「交渉ごと」を決意する。言い訳を嫌い、そして“政治的活動”が苦手な星野が、この時だけは違っていた。いや、星野にそれをさせるまでに、この時のホンダ・エンジンと他のエンジンとのハード差は大きかったのだろう。

「でも、よく乗れたよね、あの時に……(笑)」。いまにして星野はこう語るが、その通りで、星野一義はニッサンで育ち、ニッサンのスポーツ活動を支えてきたワークス・ドライバーである。その立場の男が、ニッサンのF2用エンジンは存在しなかったから直接のライバル関係にないとはいえ、国内他社製であるホンダ・エンジンを欲しがる。これは当時の常識を超えるものだった。

だが、同じ条件で闘いたいという星野の熱意は、多くの人を動かす。そして、ハードさえ同じなら他のドライバーには決して負けないという星野は、「ホンダV6」を得ると、その宣言通りに圧勝して見せた。「日本一速い男」は、やっぱり星野だったのだ。

“ニッサンの星野”がその節を曲げてまで、この「日本最速」の座にこだわったのは、「F1」という展望があったからである。F2を制したホンダは、1983年、ついにスピリット・ホンダとして、F1へのエンジン供給を開始していた。このホンダのF1参戦が本格化した時、同社は必ずや、日本人のドライバーを求めるであろう。そしてその時に選ばれるのは、日本最速のドライバーのはずだ。

個人でF1というフィールドへ駆け昇るのが困難であったことを知っていたからこそ、星野は、ホンダとともにF1へ参戦し、そこで日本を代表するドライバーとしてグリッドにつきたいと願った。明らかに日本で最速であった星野一義は、このとき同時に、ホンダF1に最も近い日本人ドライバーであったはずだ。星野とF1の、二回目の“接近遭遇”である。

果たして星野の読み通りに、ホンダはウィリアムズとロータスという2チームへのエンジン供給を開始した。また1987年からは、F1グランプリが日本の鈴鹿サーキットで開催されることも決まった。F1が、日本人に急に身近になった。ついに、星野が待っていた時が来たのだ。

しかし、1987年からのロータス・ホンダ、そのセカンド・ドライバーとして選ばれた日本人は、1947年生まれの星野一義ではなかった。こうして、星野の手のひらからF1は逃げた。これ以後5年以上もの間、星野は、ブームに沸くF1のTV中継を一度も見なかった。

         *

星野一義とF1の三度目の“接近遭遇”は、意外なかたちでやってきた。いや、F1の世界では、意外でも何でもないのかもしれないが、星野にとっては、そうとしか思えなかった。それは、日本でのF1開催がはじまってから数年後のことである。

トップチームのひとつであるベネトンが、しかるべき金額さえ払うなら、鈴鹿で、日本人ドライバーにそのセカンド・シートを提供するというのだ。ベネトンとしても、日本での自社ブランドPRという目的があり、これはベネトンと日本人ドライバーの双方にとって、けっこうおいしい話のようにも見えた。そして、その日本人がF1ベネトンに乗るためのしかるべき金額とは2000万円だった。

ドライバー星野一義が、F1をどれほど渇望してきたかを知っている、レースとビジネス双方でのパートナーで義弟でもあるインパルの金子豊は言った。「ウチはいま、そのくらいのカネなら出せる。星野、走れ! 走って、《星野》を世界に見せてやれ!」

しかし星野は、この友情溢れる金子の申し出を断固として断わるのである。星野は言った。「5000円でもいい。ギャランティがない限り、たとえF1であっても、俺は走らない」──。星野は、奇妙なかたちで訪れたF1参戦へのおそらく最後の機会を、こうして自らの手で閉じた。

(つづく)

(「F1 Quality 」誌 1999年 Thanks to Mr. Masami Yamaguchi 文中敬称略 )

○タイトルフォトは1976年、雨の「日本F1」。この最終コーナーで、ジョディ・シェクターの「6輪ティレル」を捉えた星野一義/カーナンバー〈52〉は、次周のヘアピンでシェクターをパスする。 photo by [STINGER]Yamaguchi
Posted at 2016/03/17 14:53:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2016年03月16日 イイね!

スポーツcolumn 【F1】星野一義 日本で最もF1に近かった男 《1》

スポーツcolumn 【F1】星野一義 日本で最もF1に近かった男 《1》「それはもう、何十回となくされた質問だからね……」。1999年の某日、くつろいだオフの日の星野一義は、笑いながらこう言った。だが、この「何十回」というのは、それほどまでに「そのこと」をみんなが聞きたかった逆証明でもあった。

「日本一速い男」──このプレッシャーの極みのような看板を自ら背負いつづけ、そして同時に、その名をいつも裏切ることがなかったドライバー。70年代から90年代までの長きにわたって、日本のレース界に君臨しつづけた、パッション溢れる実力派パイロット。その星野一義に、人々が聞いてみたかったことは、ひとつしかなかったであろう。そう、あまりにもシンプルなこの疑問である。「星野さん、あなたはなぜ、F1に行かなかったのですか?」……

         *

星野一義のその熱いレーシング・ドライバー生活の中で、彼がF1に限りなく“接近遭遇”したことが少なくとも三回ある。その最初の機会が1976年だった。この年、世界のトップクラスのドライバーとマシンが富士スピードウェイにやってきた。「日本F1」である。

その頃、国内でも一部のコンストラクターが、F1マシンの開発をスタートさせていた。そして、この「世界一」と噂されるレースのレベルが果たしてどのくらいのものか、ハードとソフトの両面で関心が高まっていたのが70年代後半でもあった。そういう風潮にもミートして、このイベントは大きな関心を集め、そして「世界」を迎撃するというかたちで、星野ら日本のトップ・ドライバーが富士に参集した。このとき29歳だった星野がゲットできたマシンは、旧型のティレルだ。

いまは無いティレル・チームだが、この頃は最新のテクノロジーを駆使したトップレベルのチームであり、レギュレーションの隙間を巧みについたF1史に残る「6輪マシン」を擁すトップ・コンテンダーだった。しかし、もちろん星野には、そんな最新マシンは回って来ない。

この6輪ティレルを駆るのはジョディ・シェクター。彼は後年にフェラーリへ移り、1979年にはワールド・チャンピオンになる。そのシェクターは、レースウィークで初めてF1マシンに乗り込む星野に向かって、こう言ったという。「いいかい、右から抜いてほしいときには、右手をこう挙げて。左から抜いてほしいときには、左手を──」

こうして始まったF1ウィークの本番の日、すなわち日曜日は、いかにも富士らしく、ひどい雨になった。だが、この雨を心の底から喜んでいるドライバーがひとりいた。星野である。雨は、マシンの性能差を消す。だから、クルマが劣勢であるドライバーは、雨だけを待っている。雨という条件が加わったとき、レースはマシンではなく、ドライバーの腕の勝負になる。

果たして、後方(21番グリッド)からスタートした星野は、先行するマシン群を抜きに抜いた。星野だけが雨をハンディとしていなかった(と観客には見えた)。最新6輪ティレルのシェクターに追いついたのはヘアピンだったが、そこでも並ぶ間もなく、星野はシェクターを抜き去る。「おい、抜いてほしいときには、手を挙げるんじゃなかったのか!」。星野は、ヘルメットの中で叫んでいた。

だが、星野が3位にまでポジションを上げ、タイヤ交換のためにピットに戻ったとき、彼のピットには、スペアのホイールがもう一本も残っていなかった。このレースをフィニッシュまで走りきれないことを知らされた星野は、ピットに止めたマシンから降りられない。バイザーが曇っているのではなく、涙で前が見えなかった。

およそ20分間も、そうしていただろうか。星野は「よしっ」と声を出すと、ヘルメットを脱いだ。並みいるF1ドライバーの中での、3位というポジション。単にハードウェアが欠けていたことによるリタイヤ。雨の中の、星野一義のすばらしいパフォーマンスだった。

しかし、この「日本F1」のあと、この極東のアグレッシブな、そして30歳を目前にしたドライバーを、自チームの次年度のために獲得しようというF1チームは、ついに現われなかった。

         *

星野は、自分の肌で「F1」を知った。そして、知ってしまった以上は、そこで闘いたかった。1976年以後の星野は、F1というフィールドを渇望したというよりも、そこに凄い世界があるならそこで闘いたい、そして闘うだけでなく、そこで勝ちたいと念じ始める。

それは、16歳で静岡から上京し、モーターサイクル・レースのトップチームに入った時に、自分より速い人たちがゴロゴロしているのを知った驚きと屈辱に似ていたかもしれない。こういう場合に星野は、自分よりキャリアがある人たちが、いまの未熟な自分より速いのは当たり前だ……とは決して考えない。

なぜ、俺は遅いんだ? なぜ、俺はあの人たちに勝てない? この無謀なまでのハングリー精神が「レーサー星野一義」の真骨頂であり、つねに勝利を求めるスピリットは、16歳の時から既に始まっていた。1976年のF1体験は、星野に、この少年の時の敗北感と、そこからの無限の上昇志向をよみがえらせた。

星野は1978年以後、ヨーロッパF2への参戦を試み始める。そして一方では、国内でのレース活動も精力的に行なった。この国内活動については、当時、最も観客を呼べるドライバーは疑いなく星野一義だったから、国内のオーガナイザーやスポンサーが星野を手放したがらなかったという方が、おそらく正しい。そして星野は、そういうことを無視できない男である。義理と人情もからんでの国内レース活動と、夢を求めての、個人的な挑戦としての欧州参戦と──。星野にとって、この頃は苦しい二本立ての時期であった。

しかし星野は、この時のヨーロッパ参戦でも「自力で」ということにこだわり続けた。また、スポンサー獲得や資金をかき集める能力によってではなく、あくまでもドライバーとしての「速さ」で、ヨーロッパのレース・シーンを駆け昇りたいとも思っていた。

(つづく)

(「F1 Quality 」誌 1999年 Thanks to Mr. Masami Yamaguchi 文中敬称略 )

○タイトルフォトは1976年の「日本F1」、雨の「富士」のフォーメーション・ラップ。最終コーナーで、先頭はポールシッターのマリオ・アンドレッティ/ロータス。そして、マクラーレンのジェームス・ハント、フェラーリのニキ・ラウダが続いている。ジョディ・シェクター/ティレルは予選6番目だった。 photo by [STINGER]Yamaguchi
Posted at 2016/03/16 20:55:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2015年11月22日 イイね!

スポーツcolumn 【ゴルフ】勝たなかった時のイ・ボミ 《2》

あるいは、アメリカ・ツアー戦の一環として行なわれたトーナメント、TOTOジャパン・クラシックでのファイナル。この試合は、米ツアーのA・スタンフォードと日本ツアーのアン・ソンジュ、李知姫。この三人によるプレーオフとなっていた。そして日米ツアーの交流という意味もあってか、出場選手は最終組が競技を終わるまでは現場(最終ホール脇)にいなければならない。そんな不文律もあったようである。

そのように、参加した選手のみんなが見ているプレーオフの1ホール目。スタンフォードと李知姫は、グリーンには載せたもののカップからは遠く、二人ともバーディは成らなかった。アン・ソンジュもそんなに近くはなかったが、でもバーディの可能性はあった。

そして、下りの微妙なライン、ゆっくりと転がったソンジュのボールがカップに消えた時、並んでいた出場者の中で、弾けるように飛び跳ねた選手がひとりだけいた。そのイ・ボミはすぐに駆け出し、グリーンを降りようとするウイナーに抱きつく。この優勝の時にアン・ソンジュが図らずも泣いたのは、たぶんボミのせいだ。

この場合、アン・ソンジュが同国人だから祝福したのだろうという解釈は、おそらく正しくない。もし日本選手が勝ったとしても、イ・ボミはやっぱりジャンプしたのではないか。彼女は、日本ツアーの選手が米ツアーの試合で勝ったことが嬉しかった。そのくらいに、イ・ボミ、そしてアン・ソンジュは、自身が日本ツアーの一員であることを、喜びとともに強く意識している。

韓国で賞金女王になったイ・ボミは、日本に来てさらに充実し、強いプレーヤーになった。またアン・ソンジュは、顔立ちがどうかではなくゴルフの「プレー」を見てくれる(と語っていた)日本のギャラリーに感激し、この国で“解放”されて賞金女王になった。そんな二人が日本ツアーを愛していることは観客にも自然に伝わる。コース上での「アンちゃん」「ボミちゃん」はそうして誕生したのであろう。

伊藤園レディスの優勝スピーチ、その最後に、イ・ボミはこんなことも言った。「これからも、ゴルフも日本語も頑張ります。応援よろしくお願いします」──。中継の番組や各メディアにとっては、イ・ボミが流暢に日本語で対応してくれることは便利であり、そして取材もしやすい。それはそうだろうし、彼女の努力もまた素晴らしい。ファンにとっても、彼女の日本語対応は嬉しいことだと思う。

ただ、たとえばポーラ・クリーマー、カーリー・ウェブ、こうしたプレーヤーが優勝した時に、メディアは彼女たちに日本語で話しかけるか? すべての「外国人」プレーヤーに、私たちは同じ「スタンダード」を適用しているか? 

契約しているクラブ・メーカーのPRビデオに、イ・ボミが出演しているのを見たことがある。彼女は日本語を駆使し、一般的な質問にはすべて日本語で応じていた。ただ、打った時のフィールといった微妙な部分になると、彼女のコメントに韓国語が混じり始める。もちろんこれは当然なことで、外国人のイ・ボミが日本語で表現できることには、やはり限りがあるのだ。

優勝インタビューなどでのイ・ボミのトークを見ていて、思うことがある。「みんな見とった? 勝ったとよー!」と、時に方言さえサービスしてしまう彼女の日本語を聞くのはたしかに愉しい。しかし、ひとつの礼儀として、外国人プレーヤーへの取材には通訳を付けるという配慮と意欲がメディア側にあっていいのではないか、と。母国語だからこそ話せる、伝えられるといったことを、メディアは外国人選手から引き出すべきなのだ。

そういえば彼女に付いている大勢のギャラリーから、「イ・ボミ・シ、ファイティン!」といった韓国語での応援が発せられることはあるのだろうか? それとも、軽々と“国境”を越えてしまったイ・ボミにとっては、日本語で声をかけられた方が、いまやずっと嬉しいのか?

ともあれ、日韓の「ボーダー」を独りで「レス」にした小さな親善大使、イ・ボミの偉業にあらためて拍手を! そして、一年越しの念願、マネークイーンの獲得おめでとうございます。こういう時は「チュカエヨ!」でいいんでしたっけ?

(了)
Posted at 2015/11/22 06:28:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2015年11月21日 イイね!

スポーツcolumn 【ゴルフ】勝たなかった時のイ・ボミ 《1》

11月15日の伊藤園レディスで、今季の6勝目。年間獲得賞金2億円と2015年の日本ツアー賞金女王を同時に決めた女子ゴルフのイ・ボミ。

30センチほどの短いウイニング・パットを沈めた後、彼女は左手のパターとともに一度だけ両手を上げた。笑みこそ見えたが、喜びを爆発させたたというほどのアクションではなく、グリーンそばで待っていた母のファジャさんとも、むしろ遠慮がちな軽いハグを交わしただけだった。TV中継でのインタビューで、優勝(賞金女王)が決まった瞬間は、まるで「夢の中にいるよう」だったという意味のことを(日本語で)語っていたが、その通りに、一瞬何も見えないような状態に陥っていたのかもしれない。

いま日本の女子ツアーで、最も多くのギャラリーを引き連れてラウンドしているプレーヤーは「イ・ボミ」だといわれる。外国人の私なのにみなさん応援してくれて……と、当の本人が不思議がるほどだが、それにはやはり原因と理由があるのだと思う。あくまで中継の画面を通してでしかないが、プロ・ゴルファー「イ・ボミ」がどんなプレーヤーなのかを少し書いてみる。

彼女のニックネームである“スマイル・キャンディ”は、韓国のメディアやファンが付けたものだという。その通りに、たしかにその笑顔は印象的なのだが、ただ彼女はところ構わず笑っているわけではない。ある日本女子プロの中堅選手に、大先輩が「歯を見せてヘラヘラとプレーしていてはダメよ!」と叱責したことがあったが、イ・ボミの場合はそのアダ名のイメージとは異なり、スマイルしてない時間の方が(コース上では)ずっと長い。

ただ、イ・ボミで見事だと思うのは、仏頂面というか不機嫌というか、そういう観客としてもあまり見たくないような表情をほとんど見せないことだ。ゴルフはメンタルなスポーツであり、その時の調子やスコアがいいのか悪いのか、顔を見ただけですぐにわかる……というプロは多い(というか、ほとんどだ)が、イ・ボミは違う。プラスマイナスでいうなら原点以下であろうというような状況であっても、彼女はそれを顔には出さない。だから観客は彼女の笑顔だけを憶えて、“スマイル・キャンディ”という称号を贈ったのだろう。

そして、勝たなかった時のイ・ボミ! これがなかなか「粋」なのだ。たとえば試合では、先に競技を終えて、スコア提出室で後続組のプレーを見ているという場合がある。その最終ホール、同スコアで首位に並んでいたライバル(この時はテレサ・ルーだった)がスーパーショットを見せて、バーディは間違いなしという距離につけた。このショットでほぼイ・ボミの負けが決まり、プレーオフもないだろう……ということになった時、彼女はあのスマイルとともに拍手した。

(これとまったく同じことをしたプロを見たことがあった。申ジエである。後続組を待っていて、そしてライバル選手の良いショットがあった。自分の負けを見届けた彼女はいつものように穏やかに笑い、勝者となるプレーヤーとそのプレーを拍手で讃えていた)

あるいは今年、原江里菜が7年ぶりだったか、久々に勝利した試合があった。(いい部屋ネットレディス)この時にイ・ボミは、後続の原が上がってくるのを18番ホール脇で、笑顔を見せながらずっと待っていた。

この日(最終日)のイ・ボミは絶好調で、驚異的なまでにバーディを積み重ね、終わってみたら首位と1打差というところまで駆け上がっていた。したがって競技がプレーオフになる可能性もあり、2位だったボミは帰れなかったのだが、しかし、その理由だけで18番ホール脇に残っていたのではなかっただろう。(プレーオフに備えてなら、プレーヤーは普通、パッティンググリーンに行く)

首位のまま18番に来た原江里菜は、最終ホールをパーでまとめた。久しぶりの勝利だ。同組だったアン・ソンジュが原を抱き締めて、原の目から涙があふれる。そして、その二人が並んでグリーンを降りてくるのを待っていたのはイ・ボミ。ソンジュはもう、ボミが何をしたいのかがわかっている。(私はハグしたから……)というようにさり気なくソンジュが原から離れた時、ボミは両手を拡げて突進していた。その後に繰り広げられたのは、全身で原の身体を締めつけるようなイ・ボミの強烈なハグだった。

(つづく)
Posted at 2015/11/21 15:53:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
2015年11月14日 イイね!

スポーツcolumn 【fb】「?」がいっぱい新ユニフォーム

なぜかリークもされ、発表前に web 上に載っていたので、新しい日本A代表のユニフォームがだいたいどんなデザインなのかは知っていた。ただ、背中はどうなっているか、上下を含めて全体ではどうか。また、試合の中で「動いて」はどうなのか。そういったことを見てから、何か書くなら書く。そのようにしようと思っていた。

11月12日、対シンガポールのアウェー戦は、新ユニフォームのデビュー戦でもあった。試合は相変わらずの凡戦で、このチームが観客を“昂ぶらせる”ものは何も持っていないことが、あらためてわかった。この「何もなさ」とは強いとか弱いではなく、人を“魅する”要素があるかどうか──。

たとえば、宮間あや選手が率いる女子A代表であれば、結果はどうであれ、人をTV中継の画面から離れさせないチャームがある。そして、そんなサッカーを見せつつ、彼女たちはしばしば、ものすごい「結果」も持ち帰る。

コーナーキックやフリーキックで、宮間がボールの後ろで準備して手を挙げた。それだけで、(さあ、どうなる?)とワクワクできる。また“流れ”の中でも、おお、こうやって(相手の守備を)崩すのか!……というパスやシュートに出会える。その意味で「宮間組」のサッカーは至上の存在であり、ゆえに「決定力」のアメリカ女子との対決が稀代の名勝負になるのだ。

……と、ハナシが逸れてしまったが、その女子代表も着用する日本代表の新ユニフォーム。その「ホーム用」のダークなタイプは、対シンガポールの試合の中で見ても疑問ばかりだった。以下、その「?」を列記する。

何より「色」がわからない。いったい何色なのか、これは? 代表ユニフォームでは「史上最も濃い青」だというが、いやぁ、青という印象はないな。オール・ブラックスが示した黒とはもちろん違うし、そして、紺でも藍でもない。ただただダークなだけ、色味は見えない。

そんな“無色”がメインカラーで、その胸の部分だけがボワーッと水色っぽい。ここも「……ぽい」だけであり、強く「青」を主張しているわけでもない。この「ボワーッ」部分、実は11段階のグラデーションだそうで、何かひとつの「色」になってない(していない)のは、まさに狙い通りか。つまり、このユニフォーム、前から見ても後ろから見ても「色」がないのだ?

そして、この“グラデーション”部分には、能書きが付く。何だっけ、「11段階」はサッカーの「イレブン」を想定している? そしてもう一本、赤のラインが加わっていて(女子の場合はピンクとか)これはサポーターを意味する?

……いやぁ、サッカー協会とアディダスは、ほんと、この種の説明が好きだ(苦笑)。この前の型、肩の後ろの筆書きみたいな赤線も、円陣だ円形だと解説がうるさかった。こういう「言葉」は、社内のプレゼン合戦の時だけでいい。ユニフォームのデザインは、見た目の一発勝負。言葉がくっついて初めて「わかる」ようなものは、それだけで(デザインとして)負けている。

そしてこのグラデーションでもそうだが、何より「距離」の設定がわからない。観客席から選手を見る場合は数十メートル離れているし、TV画面の中では、相手も含めて、何人もの選手の動きが同時に映る。そんな時に「11本の青線」とか、そうした細部に意味があるか? 手にとって、触れてみて、そして数センチの距離で確認しながら、(なかなか、いいですねえ……)なんていうのは、カクテルドレスを作る時にでもやってくれ。サッカーのユニフォームに、そんな至近距離でのデリカシーは要らない。

また、ユニフォームに盛り込むべき「要素」だが、これにも「?」がある。左胸、一番いいところを占拠する「JFA」のエンブレム。日本代表は「協会」が選んで、そして、その協会を代表して世界と闘う。それは事実なのだろうが、しかし、それって要するに“国内事情”ではないか。A代表のユニフォームは「対外戦」専用のはず。どこの国のチームなのかと「世界」が日本代表を見る。その際に「日本の協会」の存在とそのエンブレムを示すことに何か意味があるのか。

ちなみに、ラグビーの“ジャパン”(日本代表)は、ここ(左胸)にマスコットとして「桜の花」を掲げている。丁寧なことに、そこには葉と幹も描かれていて、三つの桜花をさり気なく支える。ラグビーの日本代表に「チェリー・ブロッサムズ」というニックネームが生まれた所以でもある。

そして最後に、アディダスにも言いたい。「三本のライン」がアディダスの印であることは、最早、誰もが知っている。そこにアディダスのロゴマークまで加えるのは、ユニフォームという狭い“デザイン世界”の中で「アディダス」を二重に主張していることにならないか。今回は、肩の部分から「三本ライン」は消えたが、その分、脇の下からパンツまで長い白線が連なる。アディダスの主張性は、従来以上にさらに高まった。

新ユニフォーム、ひと言で言うなら、やっぱり、ガッカリ……。A代表のウェアについては、このブログでは前にも書いたことがある(下記URL)ので、このへんでやめる。……あ、新材料で通気性など、いろいろ工夫を凝らしたのかもしれないが、ちょっとしたボディ・コンタクトで破れてしまうのは論外。アディダス様、速やかな修正をよろしく。

https://minkara.carview.co.jp/userid/2106389/blog/c937283/p5/
https://minkara.carview.co.jp/userid/2106389/blog/c937283/p4/
Posted at 2015/11/14 08:48:24 | コメント(0) | トラックバック(0) | スポーツcolumn | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation