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家村浩明のブログ一覧

2017年01月15日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54

【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54今回は、日本のクルマ史上で最も「伝説的」という言葉が似合うモデルのひとつ、スカイラインGTを採り上げよう。そして、数あるスカG伝説の中でも、最もその伝説度が“濃い”と思われる「S54」にスポットを当てたい。

このクルマは、たったひとつの「シーン」で伝説になった。時は1964年、ステージは鈴鹿サーキットだった。第二回の日本グランプリ、その頂点のクラスというべき「GTⅡ」カテゴリーに、この年、日本のファンがそれまで見たことがなかった形状の自動車がエントリーした。ポルシェによる最新のレーシング・スポーツカー、「カレラ」(ポルシェ904)である。

1960年代の前半、日本で「クルマ」といえばセダン型だった。そして、英国ではこういう屋根のないタイプで楽しんでいるらしいという、MGやトライアンフ、ジャガーXKといったオープンカーが少数ながら走っていた。それらがこの国の「乗用車」のすべてだったという頃に、鈴鹿サーキットにいきなり、地面にハリつくような“ペタンコ造形”のプロトタイプ・レーシングカーが出現したのだ。

当時でも、一部のクルマに詳しい人たちは雑誌などを通じて知っていただろうが、しかし、そうであっても、こうしたタイプのクルマに「実車」として触れるのは初めてだった。……これは何なんだ? こんな“自動車”があるのか! パドックで「カレラ」に接したエントラントやレース関係者でさえ、そんな驚きと感動を隠せなかったといわれている。

そして、GTⅡカテゴリーのレースが実際に始まってみると、もうひとつの驚きがグランプリの観客を待っていた。そのペタンコな“異次元マシン”に執拗に食らいつく(競ったかどうかは微妙かもしれないが、少なくともブッちぎられてはいなかった)ちょっとノーズが長すぎるようにも見える一台のセダンがあったからだ。

さらに、あろうことかそのセダンは、7周目のストレートにヨーロッパから来たスポーツカーを従えて、何と首位で還ってきた。この時に鈴鹿サーキットのメインスタンドで沸き上がった歓声は凄いものであったという。……あ、抜いてる! 日本のセダンが首位だ!

結果はもちろん、純レーシング・カーであるポルシェ・カレラの勝利だった。そのカレラは練習走行でクラッシュしていて、決勝レースに間に合うように何とか作りあげた急造のマシン。決して本調子ではなかったはずだが、しかし、そもそもはカテゴリーが違うクルマ。ツーリングカーのレースにプロトタイプ・レーサーが紛れ込んだようなもので、そこでポルシェが勝つのは当然のことでもあった。

だから問題は、それに食い下がって惜敗した“ハコ”の方である。まず、あの「41番」は健闘したと、翌日のスポーツ新聞が派手に採り上げた。当時、わが国で始まったばかりの「自動車レース」は、一般新聞にとっても新鮮なネタのひとつだった。この時に新聞紙上で「泣くな!」と讃えられ、一躍、全国的なヒーローとなったのがプリンス自動車(当時)からエントリーされていたスカイラインであった。

思えばこの1964年とは、その秋に東京でオリンピック(アジアで初!)が開催される年であり、世界と日本ということ、また日本はどこまで来ている?……といったことに人々が敏感だった頃だった。たとえ一瞬であったとはいえ、「世界基準」と日本のクルマが互角に闘った(ように見えた)。それを象徴したのが、ポルシェを従えて鈴鹿のストレートに還ってきたスカイラインの姿だった。

この時に「GTⅡ」に出場したスカイラインは、このレースのために特製したプロトタイプである。本来は1500ccクラスであるスカイラインに、自社の上級2リッター・クラスであるグロリア用の6気筒エンジンをチューンして、ノーズを伸ばしたボンネット内に押し込んだ。前年に惨敗していたプリンスとしては、日本グランプリのために満を持して作って来たスペシャル・マシンであった。

そして、ホモロゲーションのために100台を作っだけのはずが、鈴鹿でのレース後、あまりの反響の大きさに、改めて市販車としてまとめたという“新伝説”が続く。そうして登場したのが「S54」と呼ばれることになるスカイラインで、市販の“スカG”としての、これが最初のモデルであった。

当然、小さめのボディに強力な6気筒エンジンという市販“スカG”も、マーケットで大人気となり、1960年代半ば以降のこの国の「スポーツ車」に強い影響を及ぼした。そのひとつが、見かけだけの(?)スポーツカーよりも“速いハコ”がカッコいい!……というトレンドで、国内各社がこの“スカG”コンセプトに対応し、自社のセダン系モデルに高性能バージョンを加えるという動きになった。

ニッサンのブルーバード(1960年代半ば時点ではニッサンとプリンスは別会社)は、その高性能版をスーパー・スポーツセダン(=SSS)と称し、トヨタのコロナ・マークⅡといすゞのベレットは、プリンスと同じように、その速い仕様を「GT」と名乗った。少し時間が経って1970年代に登場するコンパクト・スポーツのレビン/トレノにしても、セダン系の車種に速いバージョンを設けるという“スカG”が作った流れ(伝説)の中の産物であろう。(そういえばトヨタは、カローラにも「GT」を設定していた時期がある)

そして当のプリンスは、鈴鹿サーキットで走らせた“スカG”が、彼らにとってのプロトタイプ・スポーツであった。そこから、その発想をそのまま適用し、今度はポルシェ・カレラと同じフィールドで、そのカレラに勝てるクルマを作ろうということになる。プリンスがニッサンに吸収・合併されて以後も、そのレーシング・スピリットは衰えることなく、「R380」に始まる“一品生産”的なプロトタイプ・レーシングカーを作っていく。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2017/01/15 10:59:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2017年01月02日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.13 マツダR360クーペ

【 20世紀 J-Car select 】vol.13 マツダR360クーペ小さなルーフを持つこのクーペ・ボディを見る今日の読者は、ひょっとしたら一種の同類項として、登場したばかりのスズキ「ツイン」をイメージしたりするかもしれない。そのツインは2003年に、爛熟の(?)日本マーケットに出現、そしてこの「マツダR360クーペ」のデビューは1960年であった。

そしてツインが、クルマが隅々までゆきわたったが故に、逆に、機能を絞り込んだ作り方の方が新鮮であろうという提案であるのに対して、このR360が登場した時は、まだ多くの人がクルマなんか持っていないよ……という時代だった。

そもそもダイハツや「くろがね」とともに、オート三輪メーカーとしての長い歴史を持っていたマツダ(当時は東洋工業)にとって、これは最初の軽自動車であり、さらにはこの「クーペ」が、メーカーとして初めて世に問う四輪車でもあった。そういえば「クーペ」と名乗ったのは、日本のクルマ史上ではこのモデルが最初だったはずだ。

ただ、マーケットがそんな草創期であるのなら、もっと量販が見込めそうな、そしてユーティリティ機能も高くできそうな、たとえばワゴン・タイプでも作った方がよかったのでは?……と、今日の読者なら考えるかもしれない。

ただ、当時の感覚では、だからこそのクーペ・スタイルだったように思う。ともかく自動車というものが“高嶺の花”であった時代、小さくて軽量なクルマなら、それは少しでも安価に仕立てられるかもしれない。現に2年前の1958年に登場していたスバル360は、その見慣れない格好で42・5万円で、これは日野ルノーが60万円以上していた当時としては、普通車と軽自動車という違いがあったにしても、大幅なバーゲン価格といえた。

そんな時代に、「スバル」をもっと突き詰めれば、クルマはさらに安価になるのかもしれない? そんなイメージを庶民に抱かせたのが、このクーペだった。R360はMT仕様で30万円というプライスで(AT版は32万円)登場、スバル360以上に、クルマが身近になったと庶民の夢をかき立てることになった。

「2+2」といった言い方は、当時はまだなかったはずだが、実際にもこの小さなクーペの後席は子どもしか乗れないミクロ・サイズで、実質は二座席のクルマだった。クルマを小さく作れば、鋼板などの材料も少なくて済み、販価も下げられる。それと同時に、軽自動車というジャンルであっても、実用性重視のセダンやバンばかりでなくて、スタイリングを愉しむことをしてもいいはず──。このクルマを日本初の「クーペ」に仕立てたメーカーには、こんな意図と提案があったと見る。

そして、提案といえばほかにもあった。このクルマはスタイル追求だけのクルマではなく、たとえばエンジンは、小排気量では2ストロークが普通であった時代に、先進・軽量(アルミ合金使用)の4ストローク・エンジンを採用していた。そのV型2気筒エンジンはリヤに置かれ、「RR」として後輪を駆動した。

また、普通車であってもマニュアル変速(MT)が常識だった時代に、このクルマはいち早く、AT搭載モデルをそのラインナップに持っていた。軽自動車というジャンルで、ツーペダルでドライブできるAT(トルコン)を装備したのは、このR360が初である。そしてその特性を生かした、手だけで運転できる(いまの言葉でいう)福祉車両も、1961年にラインナップに加えていた。

ただ1960年代、時代の変化は急だった。クルマが“遠い夢”であった頃が意外に早く過ぎて、とくに1966年にサニーとカローラが登場してからは、庶民にとってクルマを買うことがあり得ないことではなくなった。そしてその時、このクーペの小ささとユーティリティ性の少なさは、やっぱりちょっと“非現実的”に過ぎたようだ。

もちろん、メーカーとしてのマツダ(当時は東洋工業)も、当然そのことは読んでいて、このクーペを追うかたちで、セダンとしての軽自動車キャロルを1962年に登場させている。とはいえ、この先駆としてのクーペはすぐに消滅することはなく、キャロルと併売されて、その後もマーケットに残った。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2017/01/02 12:11:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月30日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.12 スバル1000

【 20世紀 J-Car select 】vol.12 スバル1000スバルの「名車」といえば、その“プロジェクト”が某有名TV番組で採りあげられたりで、やはり「テントウ虫の360!」というのが定番であるかもしれない。しかし、そんな“名車度”で言うなら、この「1000」も負けず劣らずであり、そして実はこのクルマも、その「360」と同じ開発チームによって作られたものであった。

しかし、「スバル360」はリヤエンジン/後輪駆動だが、これはフロントエンジン/前輪駆動(FF)ということで、メカニズム的には前後がまったくひっくり返っている。ただ、そのあたりがまさに、このチームが“独創を好む”精神の結果であったのではないか。

1960年代当時、“普通のクルマ”では「FR」が常識だったが、スバルは新しい小型車で「FF」を選択する。「富士重工50年史 六連星はかがやく」には、この「1000」が「FF」を採用した理由として、「長いプロペラシャフトでリヤへ動力をつなげ、さらに駆動軸を経て車輪に至るというFRのパワートレーンは、乗用車としてはいかにも合理的ではない」という技術陣の言葉が紹介されている。

ここでは名前が登場しないが、この言葉を発したのが「スバル360」の開発を指揮した百瀨晋六技師であることは、業界では知られている。もともと中島飛行機のエンジニアで、根っからの「ヒコーキ屋」であった百瀨技師にとって、わざわざエンジンから離れた場所に駆動輪(プロペラ)を設定するようなレイアウトは、とても納得できるものではなかったのであろう。

そういえば、このクルマがショーで公開された1965年という時点で(発売は1966年5月)、わが国の普通乗用車で「FF」を採用していたのはこのモデルだけだった。つまりこれは、日本車における初の“本格FF”という栄誉を担うクルマでもあるのだ。(FF方式は、軽自動車では1950年代にその採用例がある)

また、そもそも前部エンジン/前輪駆動の方式を「FF」と呼ぶという慣わしは「1000」登場時にスバルが言い出したものという説があり、実際にもこのクルマは、エンジンをサイズアップした際には車名を「FF-1」と改めている。

また、車名の通りに1000ccのエンジンを積んだ、今日でいうリッターカーでありながら、車重がわずか670㎏(スタンダード)しかなかった(注1)というのは、軽量車体を実現するために腐心した、あの“テントウ虫”と共通のスピリットから生まれたものだった。

ボディの構造は、当時の最新コンセプトであるモノコック。そしてエクステリアのデザインは、どうすればボディが軽量に仕上がるかというテーマとつながっていて、決して“デザインのためのデザイン”ではなかった。たとえばCピラーの造形は、剛性を実現しつつトランク容量を十分に取るための、ほとんど唯一の形状だったといわれる。

そして、この駆動方式だけでなく、(いまのスバルにまでつながっている)アルミ合金を多用した軽量の水平対向エンジン、またインボード・タイプの前輪ブレーキといったメカニズムも、それぞれ日本車では初だった。さらには、デビュー後1年を経た1967年の時点で、145SR-13という聞き慣れないサイズのタイヤを履いたスポーツ・セダンがシリーズに追加されたが、ラジアルタイヤを標準で装備したのも、このスバルが日本での先駆であった。

ただ、こうして、独創性に満ちたセダンとして生まれた「スバル1000」だったが、残念ながら、機能性とも密着した、このプレーンかつクリーンなデザインは長くはつづかなかった。

このモデルが1100ccへと排気量をアップした「FF-1」(1969年)へ、さらにホンダ1300と対抗したという「1300G」(1970年)へと“成長”するに伴い、スタイリングは少しずつ暑苦しくなって、ディテールでの虚飾が増えていく。そして、1971年(注2)。「1000」に始まったスバルのコンパクト車は、あのアグリーな(!)「レオーネ」へと“進化”して、その第一世代の幕を閉じるのである。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)

○注1:軽量であることにこだわった1966年に登場のニッサン・サニーは、車重は625㎏でまとめていた。
○注2:百瀨晋六技師は「360」と「1000」、そしてサンバーの開発を指揮したが、この時には既にクルマ開発の現場から去っていた。
Posted at 2016/12/30 07:07:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月25日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.11 パブリカ

【 20世紀 J-Car select 】vol.11 パブリカ日本のモータリゼーションとその「大衆化」は、1966年に登場したニッサンのサニーとトヨタのカローラがその両輪となって本格的に進展した。この見方は、やはり正しいと思う。

ただ、サニーやカローラ以前にも、多くのコンパクト車が存在した。いや、むしろ、1950年代後半から1960年代前半という時期での日本メーカー各社のさまざまなトライと提案があったがゆえに、それらを基盤として、1966年以降の爆発的な「クルマの大衆化」現象が起こったと考えるべきであろう。

そして、空前のヒット作となったサニーとカローラは、小型のクルマでありながら、メカニズムとしては平凡な「FR」だった。これら以前のコンパクト車の方が「RR」だったり「FF」だったりと、機構的にははるかにチャレンジングでバラエティに富んでいた。それは「カローラ以前」のトヨタ車においても、実は例外ではなかった。

1955年に政府筋が発した、クルマをこの国で一般化させようという「国民車構想」にトヨタも呼応し、その翌年にはプロトタイプを作っていた。その時の小さなクルマが、空冷の水平対向2気筒エンジンをフロントに置く「FF」だったのだ。

そのスモールカーは、のちに「パブリック・カー」を縮めた「パブリカ」という名で世に出ることになるのだが、しかし、そのデビュー時には「FF」という方式はさまざまな意味で時期尚早だとして、採用が見送られた。

その「FF回避」の理由の中には、その頃の道路状況もあったと、後年、パブリカの開発陣が明かしている。「当時の日本の道路はあまり舗装されてなく、蒲郡のある旅館の玄関まで着けるのに、砂利道の急登坂路があって、その登り坂をFFの試作車では、前輪の荷重が軽くなって、滑って上れなかった」と証言するのは、パブリカの開発に携わった佐々木紫郎氏だ。

そして、これに続けて氏は、「設計技術もよくなかったけど、精密な加工技術がなかったので、等速ジョイントの良いものができなかった。この二つが、パブリカのFFを諦めざるを得なかった理由だったと思う」と語っている。(「トヨタをつくった技術者たち」2001年・刊より)

さて、こうして「FFではなくなった」パブリカ(UP10型)が発表されたのは、1961年の6月だった。このモデルは“光りもの”がほとんどないシンプルかつプレーンなデザインのクルマだが、ただ、後のカローラほどのヒット作にはならなかった。……というより、このパブリカでの“失敗”を踏まえて、トヨタはカローラで大成功を収めることになるというのが史実に近いだろう。

その理由として、カローラはパブリカと違って「豪華」だったからというのがあって、これはもちろん正解である。ただ、もうひとつ。ここで、当時の「大衆」がクルマに対して持っていた「意識せざる願望」という要素を挙げておきたい。

当時、つまり1960年代の初頭。日本の“一般ピープル”にとって、クルマというのは生涯に初めて買うことになる超・高価な商品だった。ゆえに、自分たちがようやく買おうとしている大衆的なサイズと価格のクルマが、それまでに見てきた普通車あるいは上級車とは異なるコンセプトであったり、また、小型車特有のメカニズムであることを(無意識のうちに)望まなかった。「大衆」のために“別仕立て”になっているクルマではなく、上級車と同じようなものでありつつ、しかし安価な自動車を希求したのである。

そんな状況を経ての1966年、それまでに見てきた上級車と同じメカニズムで、そしてサイズだけを縮小版にしたようなクルマが登場した。さらに、そんな小型車を、それまでに上級車を作っていた二つのメーカーが作ってくれた。この時、「大衆車」という言葉も、ポジティブなものに変わった。それが「サニーとカローラ」だったのではないか。

ただしトヨタは、この“失敗作”パブリカのために作った「空冷水平対向2気筒」というパワーソースをムダにしなかった。1967年、この小さなエンジンと軽量ボディを巧みに組み合わせたスポーツカーが誕生。通称「ヨタハチ」、トヨタ・スポーツ800である。初代パブリカのための“心臓”はしたたかに生きて、歴史に残る傑作スポーツ車へその命をつないだのだ。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/25 23:39:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
2016年12月23日 イイね!

【 20世紀 J-Car select 】vol.10 コルト・ギャランAⅡGS

【 20世紀 J-Car select 】vol.10 コルト・ギャランAⅡGSこの2002年の秋、三菱は同社にとって歴史と伝統の名である「コルト」を新しいコンパクトカーの名として復活させる。……ところで、このネーミングということでは、1970年代の三菱にはちょっと奇妙な(?)習慣があった。それは、あるひとつの車種に派生的なモデルを設定しては、その新しい派生モデルを次々と独立させていったことで、その大々的な例が1970年代の「ギャラン」の“増殖”であった。

ギャランは、まず派生モデルとして、1970年に「ギャランGTO」を発表。そして、クーペの「FTO」を1971年に設定し、やがて、それぞれを独立した車種とした。さらに、セダン車型である本線のギャランについては、1976年に「ギャラン・シグマ」を設定し、後年には「エテルナ」という次世代モデルに進化させる。歴史書によれば、このシグマが登場した時に「車名から“コルト”が消えた」ということになっている。

つまり、「シグマ以前」のギャランは、あくまでも「コルト」からの派生モデルだったということ。この「コルト」は1962年に端を発する車名で、それまでの三菱車は、単に「三菱500」などと呼ばれるだけで、とくにニックネーム(車名)は付いていなかった。そして「コルト」登場以降、これに排気量を組み合わせた名前(コルト1100など)で歴史を作ってきた。

そんな三菱=コルトが、外観としても内容としても、それまでのヤボったかったコルトのイメージを一新するニューモデルを発表したのが1969年のこと。そして、その新型車には、新世代への脱皮ぶりを象徴するような「ギャラン」というサブ・ネームが付けられていた。「コルト・ギャラン」の誕生である。上記したようなギャラン・ファミリーのその後の増殖と発展も、この1969年の「コルト・ギャラン」が成功したゆえであった。

そういえば三菱は、1990年代にオフ系のモデルの名をすべて「パジェロ」系として統一してしまったが、そのスタイル(方法)の原型としてあったのが、1970年代ギャラン・ファミリーの設定と成功だったのかもしれない。

さて、この最初の「ギャラン」だが、まず、スタイリングが新鮮だった。ダイナウェッジ・ラインと呼ばれたその造形には、若きジゥジアーロも噛んでいたといわれ、その低いボンネット内には、新設計のOHCエンジンが収められていた。そして、最も高性能なAⅡGS(1500cc)は、当時の高性能車の“お約束”のひとつだったSUツインキャブが装着されて、その出力は105psに達した。

この時のギャランに搭載されたSUキャブは、アイドリングもあまり安定せず、また異様に高回転を好むエンジンで、市街地ではトップギヤ(4速)が使えないほど。しかし、ドライバーがその気になって回した際の伸びは豪快で、スポーツ・フィールに充ちていた。

1970年代の三菱は、この「初代ギャラン」の成功を基盤に、上記のようにギャラン・ファミリーを発展させ、それと併行して、軽量・コンパクトなスポーティ・モデルとして、弟分のランサーを設定。ラリーも視野に入れた三菱的なスポーツ車の系譜を作っていく。

(2002年 月刊自家用車「名車アルバム」より 加筆修整)
Posted at 2016/12/23 14:28:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 00年代こんなコラムを | 日記
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何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
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