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家村浩明のブログ一覧

2014年04月26日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦エピローグ

時間って大事だ。ル・マン24時間レースを闘い終えて、橋本健はしみじみ思った。NSXはポルシェより速い。しかし、ラップタイムだけが耐久レースではなかった。

24時間のうち、ポルシェ・カレラRSRは止まっている時間が1時間とちょっと。つまり、ほとんど23時間、ポルシェはサルテを走り続けていた。対してNSXは、走っていない時間が2時間から3時間。これでは、周回タイムが何秒違っていたって追い切れるものじゃない。24時間をどう使うのか。ル・マンは、この競争なのだ。

時間の使い方といえば、チームメイトのヨーロッパ人たち、その巧みなリラックスの仕方も忘れることができない。耐久レースという過酷な闘いをしながら、彼らはいつも、どこか愉しんでいた。レースはバトルであり、と同時に“祭り”で、そして、それらのミクスチュアでもある。レースの捉え方が、彼らヨーロッパ人はどうも“単眼”ではない。オレはまだ、愉しんでないな……。橋本は自分に呟いた。

* 

そしてもちろん、「負け」はたっぷりと悔しかった。エンジンはもっと軽くして、レスポンスも上げたい。そして例のドライブシャフト、あるいはミッション回りでは、やり切ってないという不安が見事に的中した。これはクルマを栃木に引き取り、自分の見える範囲に置いて根本的に対策するつもりだ。そして、栃木で作っているレーシングNSXの熟成もある。94年ル・マンについては、あまりにも時間がなく、車体作りはTCPに一任する格好となったが、栃木製のレーシングNSXもあるのだ。これをもっとツメたい。

ただし、この日本製マシンでル・マンに挑戦するということは、橋本はまったく考えていない。そういう技術の比べっこよりも、もっとやりたいことがある。

栃木で、レーシングNSXを作る。そしてヨーロッパで、あるいはアメリカで、NSXをモディファイしてレース仕様を作る向こうのレース・エンジニアたちがいる。それらのNSXをより良くするための、より速くするためのアイデアやクリエイティビティを、うまく融合できないか。

そのようにして、レーシングNSXがひとつの完成形になったとき、NSXがもっと強いクルマになったとき、世界中のレーシング・チームがそのNSXでレースをしたいと望むようになるかもしれない。そして、その時のためにも、エンジンはあくまでも量産ベースのままにしておく。そうしておかないと、カスタマー(レーシング・チーム)が「購入」できないクルマになってしまうからだ。

自動車メーカーのエンジニアとして、レースをする人々、そしてそれを観に来てくれる人々に、そういうかたちでサポートができたら──。これが橋本健の夢なのだ。

* 

しかし、ともかく、94年のル・マンは、きっちりと負けた。この“借り”はハッキリ返したい。レースの魅力、あるいは魔力を知ってしまったエンジニアとしての意欲も、同時に、強く湧き上がって来た。限りのないターゲットを目の前に、橋本健は心で呟いた。(オレは二階に上がってる。そして、ハシゴはもう、なくなってる……)

(了)


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年04月24日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦第7章 完走! part2/2

橋本は、それまで座っていたピットウォールの“監督席”を初めて離れた。そして、歩いた。独りになりたかった。誰もいないところって、どこだろうか。ピット裏に、NSXを運んできたクレマーのトレーラーがあった。ちょっと覗いてみた橋本は、その中ががらんどうであることを発見する。

何にもないトランスポーターの空間に身を潜めて、橋本は、まず目をつぶった。10分くらいもそうしていただろうか、そして、そのトランスポーターの中を歩いた。歩き回って、また腰を下ろした。(こりゃ、檻の中を歩き回る熊だな……)橋本は、ひとり苦笑いをした。

先ほどのクレマーの助言が頭をよぎる。その通りなんだろうなと思う。ドライブシャフトのスペアなんて、そう何本もあるものじゃない。ミッションという走りの中枢部がトラブったのも痛い。完走は、むずかしいかもしれない。1台に集中し、止めた2台はスペアパーツとする。これは長いこと24時間レースを闘ってきたクレマーの、当然のノウハウだった。正しい……、きっと正しい。

でも……と、橋本はあることに気づいた。3台のNSXの“症状”はそれぞれに異なっている。この3台がこれから走り続けていくと、クルマはどうなるのか。エンジニアとして、それを知りたくなったのだ。

また、こうも思った。ここでオレがクレマーに「イエス」と言えば、2チームのレースは終わってしまう。栃木から来ている五人のメンバーは、誰もこの状況に不平を言ってない。止めたくない! 

もし、クレマーが言う通りに3台リタイヤとなったら、自分が判断ミスをしたと責任を取ろう。いま一番大切なのは、できるところまで“やり切る”ことだ。(オレは、やりつづける!)

橋本は、トレーラーを出て、ふたたびピットウォールに戻った。橋本がチームやクルーの視界から消えて、およそ1時間が経っていた。橋本がスタート時と同じように“監督席”に収まったことが、クレマーへの返事だった。

(どのNSXも、止めないぞ!)

* 

「チーム国光」47号車のドライブシャフトは、その後も折れ続けた。いつも左側だった。要するに、一時間ほどコースを走ると折れるのだ。そのたびにドライバーは巧みにNSXを操り、なだめすかしてピットに帰り着く。ドライバー交代とドライブシャフト交換が同時という、これは凄まじい“ルーティン”だった。

テストあるいは練習でクルマの様子を探りつつ走るのと、本番レースとでは、負荷がまったく違っていた。またバンピーな路面は、しばしば、一瞬クルマを浮かせる。そして着地した時には、突然の大負荷がかかる。さらにサルテ・サーキットは右コーナーが多い。

さまざまな条件に、47号車のドライブシャフトは耐えられなかった。長いピットストップで、47号車の周回数が見る間に減っていく。ル・マンの「完走」とは、ひとつはチェッカーを受けることが最優先だが、もうひとつ、大きなハードルがある。それは首位車の70%以上のラップ数を走り切ること。そうでなければ「完走」にならないのだ。

遅い(!)ポルシェは、しかし、着々と周回数を重ねていた。止まらない。首位車の「70%」というクリアすべきバーが少しずつ上がっていく。

午後2時50分、つまり、残り1時間10分。「圭ちゃん、行ってよ」。高橋国光はチェッカーまでの最後のドライブを、自らの意志で土屋圭市に譲った。(ル・マンっていいよ、凄いよ。フィニッシュすると、それがわかるよ)。国光は圭市に、心で言った。

* 

ガショー組の48号車、清水組の46号車は、それぞれミッションと新しい燃料配管系を移植してからは、ほぼ順調だった。完走はできそうだった。問題は3台目の47号車だ。だが、そのNSXのドライブシャフトは、残り40分でふたたび折れた。またしても左側だった。

NSXのドライブシャフトは左右不等長で、折れるのはいつも左側だった。これまでに2台のNSXが、実に7本のドライブシャフトを“消費”していた。そして、この時に47号車に換装されたドライブシャフトは最後の一本というか、橋本健と丸谷武志のアイデアから生まれた超スペシャルのパーツだった。

スペアパーツとして、右側用のドライブシャフトは山ほど残っている。橋本が丸谷に訊く。「これ、左には付かないのか? カバーの長さは確かに違うけど、インナーだけなら、左用として付くんじゃないか?」

そのパーツを付けた土屋圭市の47号車は、午後3時45分にピットを後にした。残りは15分だ。

* 

ファイナルラップを迎えた土屋圭市は奇妙なことに気づいた。オフィシャルが旗を振っているのはわかるが、その旗の動きが変なのだ。それは、「行け、行け」とも「ほら、押すぞ」とも取れるような、そんな合図を圭市に送ってきていた。ヨタヨタとチェッカーに向けて走り続けるNSX。止まるなよ、行くんだぞ。旗は、そう語っているようだ。

(このオフィシャルの人たち、オレのクルマがどういう状態なのかを知っている!)

圭市は、思いっきり驚いた。首位なんかじゃないぜ、こんな、完走するかどうかもわかんないようなクルマだぜ。でも、こんなクルマのことまで、この人たちは、24時間、しっかり見ててくれたんだ……。このことに気づいたとき、もう、旗はぼやけて見えなかった。ヘルメットの中で、土屋圭市は泣いていた。

* 

(ああ、やったあ……。完走だあ……)ピットウォールの“監督席”から、橋本健は立ち上がった。諦めなくてよかった。この8ヵ月、そしてこの24時間。ともかく、ル・マンを“やれた”、終わった。そして、完走した。

やったあ! 安堵と満足感で大きく息をついている橋本の方へ、外国人メカニックの一人が握手を求めて近づいて来た。あ、あいつ! 全然寝てないはず。壊れちゃ直し、壊れちゃ直しで、ずっとやり続けて。あいつだけじゃない、みんな、みんな……。そして、栃木の連中も……。

(あ、ヤバいよ、来ないで。そんな顔で、こっちへ来ないで……。だって、オレ……)

メカニックの顔がかすんで、そして歪んだ。一度噴き出した涙は、もう止まらなかった。橋本さん……と、誰かの声がする。橋本健は、精いっぱいの声を張り上げた。「泣いてねえよ、目から汗だよ」

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年04月24日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦  第7章 完走! part1/2

1994年ル・マン24時間レースのスタートを、ホンダ栃木研究所の橋本健はピットウォールで迎えた。3台のクレマー・ホンダNSXがストレートに帰ってきて、そして1コーナーへと消える。それを「総監督」として見守り続けるのに、最もコースに近い場所がここだったからだ。3リッターV6のエンジン音も、ここならナマで聞ける。直線でのクルマの挙動も見える。

そしてもうひとつ、スタート以後も橋本がピットロードに居続けるのには理由があった。走り去るNSXを見送り、ホッと一息つこうとピット裏へ橋本が休みに行く。すると決まって、何かトラブルを抱えたNSXが、あたかも彼を追うようにピットインして来た。それが三回続いた時、橋本は決めた。(よし、オレは動かない。ここにいる。オレが動くから、何かが起きるんだ)

レースはエンジニアリングの競争でもあるが、一方では勝負事だ。良いリザルトのためには、ツキも要る。不運のタネかもしれないことは、少しでも排除する。これはレースを闘ってきた者としての、単なる縁起担ぎではない行動だっただろう。橋本はNSXが走っているほとんどすべての時間を、ピットウォール上の小さなチェアの上で過ごした。

* 

ル・マン24時間レースを、ここまで61回仕切ってきた主催者、フランス西部自動車クラブ(ACO)の古株役員が、レースウイーク中のある日、橋本に言った。「初めてル・マンに来て完走するというのは、まず不可能だ」と。ま、そうだろうなと、橋本も思った。でも、そうでもないかもしれないとも同時に思った。時間はたしかに、今回は足りてない。しかし、その中では十分に仕事はした。これはメーカーのエンジニアとしての自負だった。

* 

決勝レースは、まずはマイナー・トラブルの連発から始まった。46号車はミッションのリンケージ、足回りのセッティング(オーバーステア)、そして燃料配管の不具合。47号車はバッテリーとスターター。さらに48号車もタイヤがブローし、ラジアスロッドとフューエルポンプの交換を余儀なくされた。これが序盤だった。橋本健がピットウォールに居続けようと決心したのも頷けるというものだ。ただ、3車のトラブルは一様ではなかった。それなりの個性があった。

ル・マンは、クルマに何も問題がなければ、ピットワークは給油とタイヤ交換とドライバー交代だけで終わり、クルマはふたたびコースへ出て行く。これがルーティンのピットワークで、これだけならピットストップの時間は3~4分で済む。ブレーキパッドやディスクを交換すると、これにさらに2~3分が上乗せされる。

スタートしてから5時間まで、このルーティンのピットワークのみでコースに復帰していったNSXは一台もなかった。

* 

94年のル・マンは暑かった。陽が出ているうちはシャツ一枚でもよかったし、暗くなっても、例年のような“冬武装”をする必要はなかった。

もうひとつ、例年のル・マンと違っていたことがある。それは路面状態だった。毎年たくさんのCカーが走り回り、コース中に、その軟らかいタイヤ滓を貼りつけてくれる。だが、今年はそれがなかった。各車は自分のタイヤを減らしながらグリップさせて、周回を続けなければならない。グループCモンスターの時代は終わり、この94年ル・マンはCカーが走れるラスト・イベントだったが、しかし最早、そうしたレーシング・カーは数えるほどしか世に棲息していなかった。

高温、ドライ、グリップしないサーフェス。このようなファクターが、94年ル・マンのすべてのエントラントに、少しずつ、ボディブローのようなダメージを蓄積していった。むろん、NSXがその例外であるはずはなかった。

* 

午後4時に走りはじめて6時間後、夜10時頃。3台のNSXは初めて、給油とタイヤ交換とドライバー交代というルーティンのピットワークのみで、相次いでコースに戻っていった。橋本健は、例のACO役員の顔をフッと思い出した。(ほら、順調じゃないか!)そして周回タイムは、ポルシェ・カレラRSRよりNSXの方が速いことを、もう一度確認した。(やれるな、これは。完走だってできる!)

──と思えたのは、一瞬だった。夜中の12時を過ぎると、走りはじめてから8時間が経ったことになるが、しかしル・マンでは、まだ三分の一が終わったに過ぎない。

まず、ガショー組48号車のドライブシャフトを交換するが、出ていった周にすぐ折れて、ふたたび交換となる。「チーム国光」の47号車は、これより先にドライブシャフトを換えていたが、それは取りあえず保ったものの、今度はギヤがどこにも入らなくなり、ついにガレージの中でミッション交換の作業に入った。

もう一台、日/欧混成の46号車も燃料配管系をチェックしながらの走行で、3時過ぎ、ついにその交換を決定した。そして、この作業に1時間を費やす。一方ミッション交換は約2時間を要する大仕事だが、このトラブルは国光車だけではなく、ガショー/ハーネの48号車をも襲っていた。このクルマも、午前3時から5時まで、ピットに止まったままになった。

24時間レースで、この時間を過ぎてからのトラブルは、もう初期トラブルではない。そして、しばしば致命的なダメージとなる。ホンダのル・マン挑戦を観戦していた日本人ジャーナリストの何人かも、この時点で、(NSXは、もう終わりだなと思った……)と証言する。

総監督・橋本健のところに、ドライバーのベルトラン・ガショーが来た。「ハシモト、これがル・マンだよ」。マネージメントを預かるクレマーも来た。そのサジェッションは、より具体的だった。「もし完走させたいなら、2台は止めろ。そうでないと、このクルマ、完走は無理だ」

時刻は午前4時頃、スタートしてから12時間が経っている。クレマーがこのように言うのも、実にリーズナブルなことだった。46号車も48号車も、ピット内で大手術中で止まったまま。47号車も、交換後のミッションの様子を見ながら、飯田章が大事にNSXを走らせているところだ。そして4時過ぎ。飯田から国光にドライバーが代わって何周もしないうちに、47号車もドライブシャフトが折れた……。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年04月03日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

第6章 12時間前のシェイクダウン part2

事故車を見たTCP側は、このピロボールにはまったく問題はないと言った。しかし橋本は、もうワンサイズ大きいものにしてくれとオーダーした。さらにリヤ・サスのアッパーアームをもっと太くしてくれと要請し、TCPスタッフは急遽、イギリスの本拠地に戻り、メーカーに、翌日の朝一番で発注した。

そして6台分(3台×2)の新しいハブ・ベアリングもヨーロッパ・ホンダのパーツセンターに連絡を取り、在庫をル・マンの現場に揃えるように要請した。足回りに関して、橋本はナーバスだった。というより、ナーバスにならざるを得なかった。

もちろんドライブシャフトも、全車、新品に換えるよう指示した。その作業の中で、ひとつ驚くべき発見があった。デフ側へのドライブシャフトの付き方が、橋本はどうも理に合わない気がしたのだ。調査の結果、それは“誤組み”であることがわかった。壊れたのは、それが原因だった。ふたたび浮上したドライブシャフト問題だったが、意外なところからその回答が出現した。ここでもまた、ドライブシャフトそのものへの疑問は“誤組み”によって覆い隠された。

* 

大破した48号車をどうするか。クレマー・ホンダ・チームに大問題が浮上した。Tカーを持ってきてもいいのか? 修復は可能なのか? 

何と言っても、ハーネ、ガショー、ブシューというのは最速のクルーである。予選初日に、最高タイムをマークしたのもブシューだった。決勝では、このクルーにのみ、8000回転をリミットとして行けるだけ行かせ、レーシングNSXのポテンシャルを探るというプランもある。他の2車が7500回転を上限として完走を狙うというのとは異なるテーマが、この48号車にはあった。そのクルマが大破してしまったのだ。

レース主催者のACOに問い合わせると、やはり車両の変更(Tカーの使用)は不可だった。ただし、48号車のボディを使っていれば、パーツを新装して“新車”を作ることは可だという。

メカニックたちの突貫作業が始まった。木曜日の夜は、ほとんどのメンバーが徹夜となった。しかし金曜日の朝になっても、まだ48号車は完成しない。イギリスへ戻ったTCPのスタッフからは、金曜日の夜10時頃に、新パーツとともにル・マンの現場に戻れる。そういう連絡も入った。

金曜日の深夜、あるいは土曜日の早朝。つまり、夜中の2時。レーシングNSXの48号車がようやく完成した。そして完成してすぐ、2時から4時まで、48号車はサルテ・サーキットのすぐ隣の飛行場で、新パーツを装着した他の2台とともにシェイクダウンを行なった。

土曜日の早朝4時とは、24時間レースの本番がスタートするわずか12時間前である。ホンダNSXのル・マンへの挑戦は、最後の最後まで、時間との闘いだった。

* 

そのような経緯で、1994年ル・マン24時間レースのスタート時刻が迫ってきていた。スターティング・グリッドの21番目と23番目、そして32番目にNSXがいる。ほんとに、3台がいる! 

「あ、並んだな。ほんとに、並んだんだな」。94年6月18日の午後、サルテ・サーキットのストレートで、橋本健が思ったことがこれだけだったというのは当然であったかもしれない。「この6月」の16ヵ月前にル・マン挑戦を企図し、スタッフを集めたのが9月だった。そこからこの決勝日までは正味8ヵ月とちょっと。エンジンも車体も何もないところから出発してのプロジェクトが本当にかたちになった。レースに出る、そのための時間との闘いは、ひとまず終わったのだ。

サルテの現場には、丸谷と石坂がいて、そして栃木には、まったくのゼロを意味する「ZZ計画」の名のもとに、NSXル・マン挑戦のために動き続けてくれた20名以上のスタッフがいる。さらに、この破天荒な試みに呼応してくれたヨーロッパ・ホンダの面々と、その“ホンダの夢”にタイム・スケジュールを合わせてくれたヨーロッパのレース屋たちがいる。高橋国光は、「まるで“赤い糸”に操られるように……」と、この挑戦の不思議な成り立ちを表現した。

ピットウォールに陣取る橋本の目の前を、予選1位のクラージュC32ポルシェを先頭とする48台のマシンが通り過ぎて行く。

1994年ル・マン24時間レースは、3台のNSXを含んで、6月18日の土曜日・午後4時、スタートを切った。

* 

総監督である橋本健は、初めての24時間レースを一応6時間ごとに区切って、その展開をイメージしていた。マージンに3ラップを置き、各車は20周でピットインして、ガス・チャージとドライバー交代を行なう。そして、明け方(午前5~6時)を迎えられれば、何らかの見通しがつく。そういうレースだと、ル・マンを考えていた。

しかし、予定はあくまで未定だった。スタートして1時間も経たないのに、46号車がいきなりピットに飛び込んできた。ドライバーのファブルはオーバーステアを訴え、そしてミッションが入りにくいと叫んだ。

「24時間」をどう闘うのか。新たな時間とのバトルが、こうして始まった。


(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
2014年04月03日 イイね!

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦

 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦第6章 12時間前のシェイクダウン part1

「何でポルシェは速くないんだろう?」……サルテ・サーキットのピット内でモニターを見ながら、橋本健はちょっと不思議に思った。白と紺のウェア、背中には「HONDA」の文字。栃木の五人のスタッフとともに、94年6月、橋本はル・マンにいた。24時間レースの予選が始まったのだ。

予選一日目の水曜日。彼らのレーシングNSXはあっさりと4分18秒台をマークした。ドライバーのクリストフ・ブシューは「あと3秒はタイムを縮められる」と言った。これに対して、GT-2クラスのライバルと目されるポルシェ・カレラRSR勢のタイムは4分27~28秒だった。

クルマは仕上がってる! こう考えた橋本は、第二回目のタイムアタックは気温の下がるナイト・セクションにしようと決めていたが、もし他車が上に来なかったらアタックはしなくていいという指示まで出した。

ただ、順調なのはこの48号車のみで、他の2台はタイムが伸びず、とりわけ47号車はミッション・トラブルやオイル洩れ、スターターの不調などにも見舞われて苦戦の予選となっていた。47号車のドライバーは高橋国光、土屋圭市、そして、飯田章。「チーム国光」の三人である。ル・マンにこの三人で出場する、この夢は94年に現実のものとなり、高橋国光はル・マン未経験の二人を気遣いながら、この“奇跡の6月”が本当にやってきたことを喜んでいた。

48号車はレーシングNSXの開発ドライバーと言っていいアーミン・ハーネと、F1経験もあるベルトラン・ガショー、それにクリストフ・ブシューが乗る。この三人のナショナリティはドイツとフランス。46号車は、清水和夫と岡田秀樹、そしてフィリップ・ファブル。ここは日本/スイスである。

3台のNSXは橋本のプラン通りに、欧州組、日/欧組、そして日本人のみという三タイプで構成されていた。

3台のNSXは基本的には同一スペックである。だが、タイムの出ない47号車と46号車をサポートするため、ドライバーを集めての合同ミーティングも行なわれた。ともかくクルマの出来は悪くない。タイムは出せるのだ。こうして、94年6月のル・マン・ウイークは始まった。

* 

レーシングNSXにとっての初めての24時間レースについて、仕掛け人であり、エンジニアであり、そしてル・マンの現場では総監督という立場になった橋本健は、率直なところ、どういうイメージで実戦に臨んだのだろうか。たとえば、24時間を走りきれると読んでいたか? 

現場での橋本は、つとめて明るい表情を振りまきつつ、「完走できるよ!」とチームとクルーに語り続けていた。それは、(オレがまず弱気でいたんじゃ、どうにもなんない)という判断からであり、同時に、NSXの速さを目の当たりにしての嬉しい驚きからでもあった。

ただ心の奥底には、レースに関わりつづけてきたエンジニアとしての冷静な展望があった。(何かはわからないが、きっと何かが起こる。何といっても、やり切ってないという現実があるのだ。完走は、たぶん、ない……)

* 

「チーム国光」は予選一日目、トラブルの続出に泣いていた。ただ、この種のマイナートラブルが初日に出てくれたことを良しとしようと、みんなが思っていた。もともとテストの時間は足りてないのであり、三人のドライバーのうちの二人はル・マン初体験なのである。また、この三人でレースの実戦を闘うのも、この「94ル・マン」が実は初めてであった。

そして高橋国光は、土屋圭市の言語表現力にひそかに期待をかけていた。ル・マン24時間というレースの、特有の“空気”。国光自身が大好きな、この6月の祭り。それを圭市に語ってほしかったのだ。(圭ちゃんなら、ぼくよりずっと巧く、このレースの素晴らしさ、厳しさ、その深さをみんなに伝えてくれるはず……)。当の圭市はレースが始まるまでは、N1耐久のちょっと長いやつという程度にしかル・マンを認識しておらず、国光の深い意図には気づいていなかった。

* 

レースのマネジメントはドイツのクレマー、車体を作ったのはイギリスのTCP。エンジンは、チューンド・バイ・ホンダ栃木。メカニックらチームクルーはすべてヨーロッパ人で、ドライバーのナショナリティは前述の通り。これに、橋本、丸谷、石坂らの栃木のスタッフがどれぞれの立場で合同する。この多国籍のチャレンジャーたちが走らせるNSXのフロントカウルには、ドイツとイギリスと日本の国旗が掲げられる。

ル・マン・ウイークはファイナルの「24時間」に向けて、着々と時を刻みはじめていた。

* 

事件が起きたのは、予選二日目だった。最速のNSXである48号車がメインスタンドを過ぎての右コーナー、通称テルトル・ルージュでスピンし、クラッシュしたのだ。ドライブしていたのは、ベルトラン・ガショーだった。

NSXはドライブシャフトが折れており、スピンの原因はたぶんこれだったが、ただ、リヤ・アッパーアームのピロボールもグシャグシャになっていて、サスペンションが壊れたという可能性もあった。

大破したクルマを見た橋本健は、すぐに全チームに走行中止の指示を出した。これは、全車に同じトラブルが発生する可能性がある。ドライバーを危険に曝すことはできない。そう判断したのだ。

ル・マンという怪物が少しずつ、新参のエントラントに、その牙を剥きはじめたのだろうか。

(つづく) ──文中敬称略


○解説:『 Le Mans へ…… 1994レーシングNSXの挑戦 』

この記事は、1994年に雑誌「レーシングオン」、No.174~NO.180に連載されたものに加筆・修正し、1995年3月に、(株)グラフィティより刊行された小冊子、『ル・マンへ……1994レーシングNSXの挑戦』を再録するものです。本文の無断転載を禁じます。
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