• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

家村浩明のブログ一覧

2016年02月29日 イイね!

マツダRX-7 IMSA GTO 《1》

マツダRX-7  IMSA GTO  《1》1991年に「IMSA」GTOのクラスでチャンピオンに輝いた「マツダRX-7」、これが今回のヒーローである。さて、近年話題に上る「IMSA」だが、いったいこれは何の略号か? 答えは「インターナショナル・モータースポーツ・アソシエーション」で、聞いてみれば至極アタリマエなというか、そういう名前の組織なのであった。

ただ、アメリカのレース事情をちょっと考えてみると、この「インターナショナル」(国際的な)という主張には、それなりの理由と意味が込められていることがわかる。つまりアメリカには、まったく国際的でない、アメリカ独自のレース・カテゴリーがいっぱいあるからだ。

たとえば、オーバル・コースで時速220マイル(キロではない!)以上で踏みっきりという「インディ500」とか、あるいは競り合い・ぶっつけ合いアリのストックカー・レースとか、ダートや草の上でドリフトしっ放しのショート・オーバルでのレースとか。ともかくいろんな競走があり、そして、それらのすべてが独自の歴史とスター・ドライバーを持っている。これがアメリカであった。

そんなアメリカ人が、どうもヨーロッパには「アメリカ式」ではないモータースポーツがあるらしい……ということを知ったのは、何と第二次大戦での欧州への出兵時だったというから、歴史はおもしろい。そして戦争が終わっての1950年代、西海岸を中心に、ヨーロッパ的なサーキット・レースをやろうという動きが始まった。

まず、できたのがスポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ(=SCCA)という組織で、これのプロ化へのステップとして、1960年代に「カンナム・シリーズ」が生まれた。そう、幻のレーシング・マシン、トヨタ-7ターボが挑戦しようとした(果たせなかったが)あのカテゴリーである。そして、そのSCCAからプロ志向の人々が独立して作ったのが「IMSA」ということなのだ。

こうして1970年代に始まったIMSAのレースは、その国際性の名の通りに、米国以外のクルマもきちんと評価して、そのメンバーに迎え入れた。その主役のひとつとなったのが、コンパクトなくせにやたらとパワーが出る、ニッポンからやって来たロータリー・エンジンだったのである。

マツダ自身がRX-7(初代)でIMSAに初めて挑戦したのは1979年ということになっているが、実はそれ以前から、マツダRX-3(あのサバンナGT)やファミリア・ロータリー・クーペといったマツダ車が、アメリカのレース・シーンを賑わせていた。

その結果、アメリカには“ロータリー使い”といわれるドライバーやチームが多数生まれていた。今回のRX-7のチーム・オーナーであるジム・ダウニングもそのひとりであり、カーナンバー63は、サバンナGTで走っている頃から、彼が自身の番号として使い続けているもの。つまり「62番」とは、ダウニングのチームメイトということを示しているのだ。

さて、この「RX-7」だが、どこが“セブン”なんだよ?……という感想は当然あるかもしれない。ボディはスチールによる、いわゆるスペースフレームであり、それにカウルが被せてあるだけ。一応、フロントウインドーやルーフ周りなど、つまりウエストラインから上については、オリジナル(市販RX-7)の感じを残さなければならないという決まりで、たしかにそのようにも見えてくるのだが、内容的には市販車の改造などではない完全な純・レーシングカーである。

このように、IMSAのGTクラスが「パイプフレーム+カウリング」となったのは、1983年からだった。また、「GTO」と「GTU」というクラス分けは、「グランド・ツーリング・オーバー」と、同じく「……アンダー」のことであり、マツダの3ローターと4ローターはGTOクラスとなっている。(IMSAはなるべくイコール・コンディションに近づけるべく、排気量やクラス分け、また車両重量などのレギュレーションを常に“いじる”ので、詳述するのは避ける)

ともかく1980年代半ばから、IMSAのGTは、このようなカウル付きプロトタイプ・カーで闘われるようになり、その速い方のクラスである「GTO」はワークス同士のバトルという様相を呈していた。フォード系マーキュリー、シボレー・コルベット、トヨタ・セリカ・ターボ、あるいはニッサン240SXなどが参集し、マツダとしても、多数存在するプライベーターたちにエンジン・キットを販売するだけではなく、ワークス態勢でIMSAに挑まざるを得ない状況になっていったのだ。そこから、「GTO」には4ローターのRX-7が登場することになり、それがこのマシンなのである。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1992年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/02/29 10:14:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月26日 イイね!

トヨタTS010(1993) 《2》

トヨタTS010(1993) 《2》1993年、クルマは良くなっていた。サルテ・サーキットのすべてのコーナーで、トヨタの方がプジョーより速かった。1992年のル・マンでは、プジョーの関係者は、誰もトヨタのピットを覗きに来たりはしなかったが、1993年はそうではなかった。テスト・デイに、エディ・アーバインは、まず言った。「このクルマ、3分25秒で走れるよ!」。そして予選用エンジンを載せた時、エディは言った。「このエンジンなら、3分20秒を切れる!」

ただ、このアーバインのアタックは、結果としては不発に終わった。アーバインはスピン・アウト。タイヤが冷えていて、フロントとリヤのバランスが崩れており、ブレーキングでコントロールを失ってしまったのだ。ちなみに、プジョーが予選用エンジンを使って奪取したポールポジションのタイムは、3分24秒94だった。

決勝レースが始まっても、「プジョーは何故、速く走らないのか?」と、トヨタ側では思っていたという。中盤、最速のプジョーであったフィリップ・アリオー組を抜こうと思えば抜けたのだが、トヨタは2位キープを選んだ。「抜いちゃうと、アリオーがついてきて面倒だ」というのがアーバインの判断だった。

ただ、“速いトヨタ”はいくつかのマイナートラブルに見舞われ始め、ピットストップの時間が少しずつ長くなった。そして、その「遅れ」をコース上で走って取り戻す。24時間レースは、こういう展開になった。

小さなトラブルとは、たとえばサイドポンツーン内でバッテリーが暴れてしまうことだ。これは、ボディの軽量化ということでステーを変更したことによる“ツケ”であったようだが、その修復で遅れた分を取り戻そうという「走り」が、TS010をジワジワと痛めていく。アーバイン組のマシンはクラッチをやられ、そしてついに、ミッション・トラブル。他の2台も同じような経過をたどった。

……速くはないし、92年車からあまりディベロプメントもされていないような、そしてそれなりにトラブルもあったプジョーだったが、結局、ル・マンのウイナーとなったのは、そういうプジョーだった。

勝負事では、先に動いた方が負けというセオリーもある。1992~1993年の「ル・マン」では、ずっと“動いていた”のはトヨタだったのではないか。24時間レースがより「スプリント化」すると読み、その方向でマシンをモディファイし、エディ・アーバインや鈴木利男といったファスト・ドライバーを新たに加えた。Cカー最後の「ル・マン」に必勝の態勢を作り、事実として、より速くなったクルマをサルテに持ち込んだ。しかし、結果だけが出なかった。24時間レースのむずかしさと厳しさ……ということであろうか。

このトヨタTS010というクルマは、見ておわかりのように、実にディテール(細部)が綺麗なクルマである。ワークス・マシンというのは、きめ細かく作られているものだなと思う。何でもない接続部のパーツなど、そうしたひとつひとつの仕上がりがとても美しいのだ。

もしかしたら、長距離レースに勝つという荒ワザを成し遂げるには、このクルマは美しすぎたか。そんな感慨さえ浮かぶほどだが、もはやターゲットを失ってしまった麗しの挑戦者は、後輩マシンに最新・高性能のヘッドランプを託し、いま、静かに佇んでいる。

(了) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/02/26 07:03:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月25日 イイね!

トヨタTS010(1993) 《1》

トヨタTS010(1993)  《1》1993年のル・マン24時間レースを走り終えたトヨタTS010は、ちょっと“虚ろな表情”で撮影スタジオにやって来た。虚ろな……とは気のせいではなく、TS010は“眼”(ヘッドランプ)を失っていたのだ。このマシンに付いていた高性能のヘッドランプは、スパ24時間レースに出場するトヨタ系のレーシングカーに移植されてしまったのだという。

これで、いくつかのことがわかる。まず、ル・マン・カーのトヨタTS010には、滅多なことでは手に入らないような(?)ヘッドランプが付いていたこと。さすが、バリバリのワークス・マシンは、そういう中身ということか。そしてもうひとつは、もうTS010の役目というのが終わってしまったこと。とりあえず、このクルマはもう臨戦態勢である必要はないという事実である。既にしてこのマシンは、過去のクルマになりかけているのだ。

3.5リッター/NAエンジンのスポーツ・プロトタイプカーは、感傷的な表現を用いるなら、みんな不幸である。V12ユニットを積むニッサンのNP35というクルマは、ついに本格的な実戦経験を持つことがなかった。このTS010は、ニッサンに較べればきちんとした戦歴があり、ル・マン24時間にも二回の参加暦があるので、NP35よりはマシかもしれない。……が、それでも“最後の夢”とした1993年の「ル・マン」ではリザルトを残せなかった。

ともかく、ターゲットとしたSWC(スポーツカー世界選手権)というレース・カテゴリー事態が消滅してしまったのだから、これは辛い話である。祭りに参加したいなら、新しいミコシを作って来いといわれ、その通りに作ってみたら、その祭りがなくなって、もうやらないというのだ。そのリードタイムはとても短く(ニッサンはこの点に対応できなかった)それに追いついて、さあ、これからだ!……とした時にステージが消えてしまった。トヨタの場合はこれに近いのではないか。

ただし、トヨタTS010というレーシングカーは“駄馬”ではなかった。SWC最後の年となった1992年には、シリーズの全6戦すべてに出場。優勝1回、2位2回、3位も2回。リタイヤは、わずかに一戦のみ。SWCの短い歴史の中でウイナーとなった日本車は、このTS010だけなのだ。(1992年第1戦・モンツァ)

(厳密にいうと、1991年の「ル・マン」はSWCのシリーズに入っていたので、このレースに勝利したマツダも、SWCのウイナーということになる。ただ、この時のマツダは、エンジンはもちろんロータリーであり、「3.5リッター/NAエンジン」というフィールドのクルマではなかった)

以上のようなリザルトの結果、1992年SWCで、トヨタはメイクス選手権で2位に入っている。また、二回の2位のうちの一つはル・マン24時間である。そして、この双方の1位がプジョーであった。

こういう経緯を経て、1993年の「ル・マン」は、トヨタが宿敵プジョーに挑む最後の年となったのだ。この種のグループCレーサーが「ル・マン」を走れるのは1993年までといわれており、トヨタも、そしてプジョーも、そのラストイヤーを勝利で終えようと、ワークス同士が対決したのである。

……結果は、ご存じの通り、プジョー905の1~2~3フィニッシュ。トヨタTS010は4位が最上位で、プジョー陣営の一角すら崩せなかった。敗者トヨタに対する評は、その参戦態勢への疑問までも含む辛口のものが多いようだが、敗れるべくして敗れた……とまで言ってしまうのは、ちょっと酷のように思う。

「92」から「93」へ。TS010は「ル・マン」に勝つべく、いくつかのモディファイを行なっている。まずは、シャシー/ボディでの30㎏の軽量化。エンジン許容回転数の1000回転アップ。8000回転付近を重視してのトルクの盛りつけと、トルクの谷間を作らないようなチューニング。サスペンションのジオメトリーの見直し。また、92モデルはコクピットが暑かったため、ラジエターホースの配置の変更がなされ、6速のミッション/シフトも、より入りやすいものへと変えられた。

この新サスとジオメトリー変更によって、1993年のトヨタはミシュラン・タイヤで「ル・マン」に挑んだが、そのソフトからハードまでのすべてのコンパウンドを選ぶことができた。一方のプジョー905もミシュラン・ユーザーだが、実際はハード・タイプしか履けず、監督のジャン・トッドがミシュランに、トヨタに違う(特別な)タイヤを供給しているのではないかと抗議する一幕もあったという。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/02/25 20:11:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月25日 イイね!

ニッサンNP35 《2》

ニッサンNP35 《2》その間、着々と開発されていたマシンが、この「NP35」である。エンジンは3.5リッターのV型12気筒。「なぜ、V12なのか」という問いに、エンジン設計の林義正工学博士は即答した。「パワーは、V8でもV10でも、みな同じくらい出せます。V12にしたのは、振動の少なさです。これはV10に較べると、もう圧倒的に少ない。クルマにとっても、また24時間を走るドライバーにとっても、振動は少なければ少ないほど楽ですから」

このクルマ、テーマはあくまでも「ル・マン」なのである。林氏によれば、「ル・マン」をテストから予選、本番レースまで走ると、エンジンは「1700万回転」回らなければならないという。そして、そのことを考えると、振動(の少なさ)はとても重要になる。さらに、このことと関連するが、良好なバランスから来る「吹き上がり」の良さ。これも12気筒の長所だ。

一方デメリットとしては、やはりエンジンの全長が長くなること、重量が重くなること。これに対しては、小ボア径と、マグネシウムなどの軽量材料、それと応力を減らすような強度計算法。これらを採用し計算も駆使して、パーツと構成のそれぞれで極限近くまでツメる。エンジンの公称出力は、630馬力以上/1万2000回転。ただ、あとプラス1000回転くらいの許容範囲はありそう……。というのは、エンジンの耐久テストのモードには、ドライバーのシフトミスまで入っているからだ。

また24時間レースといっても、ルーティンのピットワークがあり、何らかの事情で止まっている時間もあるので、ル・マン用のエンジンなら23時間半くらいの走行を前提に作ればいい。こういう意見を聞いたことがあるが、NP35に積まれる「VRT-35」の場合は、レーシングスピードで30時間走行することをベースに設計されているという。そして、サルテ・サーキット(ル・マン)を一周するのに、四回のシフト・ミス(オーバーレブ)があることを盛り込んでエンジンを作ろう。こういうコンセプトでもある。

そこから始まって、あらゆる「細部」をひとつずつツメた。そうした地味な作業の繰り返しでまとめられたのが、この自然吸気「V12」であり、ここには、あの強くて速いニッサンCカーのターボ・エンジンを仕上げた林氏のノウハウのすべてが注がれているのだろう。

では、その「VRT-35」を積んだNP35というクルマは、ターボカーと較べて速いのか? 「速いです」……林氏はあっさり断言する。そして、あくまでも机上の計算だと前置きした上で、ル・マン24時間レースのシミュレーションを、そっと語ってくれた。

ニッサンのターボCカーなら、24時間でサルテ・サーキットを375周できる。そして、このNP35なら、何と380周するというのだ。最新のル・マンのリザルトで、1993年のウイニングマシンは何周したか? 1-2-3フィニッシュしたプジョー905、その中で最速だった1位のブラバム/ブシュー/エラリー組でも、その周回数は375周なのだ。

このNP35は、1992年に、日本のMINEサーキットで、たった一度のテスト的な実戦をこなしただけで、その後は人の目に触れることはなく、ただ時間だけが過ぎた。そして、1994年の「ル・マン」はどんなカテゴリーのクルマが走るのか、まだ不透明である。

レギュレーションの改変、レース・カテゴリー自体の消滅、メーカーのワークス参戦の縮小、そして活動の休止。時代の波にミートできなかった、史上最強!……であるかもしれない、このグループCレーサーが、サーキットという戦場で「V12」のエキゾーストノートを響かせる時は来るのだろうか?

(了) ── data by dr. shinji hayashi 

(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)

○2016年のための注釈的メモ
1990年代のル・マン24時間の結果を「周回数」だけで比較すれば、もし「380周」すると、90年代はすべての年で優勝できる。日本車唯一の優勝車マツダ787、その1991年の周回数は「362」だった。ちなみに2015年は驚速のポルシェが「395周」で優勝し、2014年に勝ったアウディはサルテ・サーキットを「379周」した。
Posted at 2016/02/25 08:06:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
2016年02月24日 イイね!

ニッサンNP35 《1》

ニッサンNP35 《1》スポーツカー/スポーツ・プロトタイプカーによるレースが、ある時期から混乱してしまった。その混迷の状況は、いまもって収まりきってはいないのだが、その混乱の波をモロに被り、ついに走る場を失ってしまいそうなレーシングマシンがある。

おそらくは史上最強のグループCレーサーのひとつなのだが、それを証明してみせる場は、国際的な舞台ではもはや存在しない。1993年のル・マン24時間は、そのパフォーマンスを発揮する最後のステージかもしれなかったが、そのエントリー・リストにこのクルマの名はなかった。

ニッサン「NP35」。NA(ノンターボ)3.5リッター・エンジンという、いまは無いSWC=スポーツカー世界選手権のレギュレーションに忠実に作られた“幻のアスリート”である。このNP35が、その戦闘態勢を整えようとしたその矢先に、ターゲット(SWC)が消滅し、ニッサンもまた、そのような「グループC」スポーツ・プロトタイプカーによるレース活動を縮小した。1993年の「ル・マン」には、ニッサンCカーの姿は一台もなかった。

スポーツカー・レースを混乱させて、世界的なレベルのレースを消滅させた大きな原因は、やはり「NA/3.5リッター」エンジンという新規定であろう。これが諸悪の根源だ。これによって、客観的な事実として史上最強の市販レーシング・スポーツカーであったポルシェ962Cが、そのレーサー生命を絶たれた。

「市販」とは、その気になれば誰でも手に入れられることを意味するが、新規定の結果、耐久レースのプライベーターたちは“武器”を失い、エントラントが激減した。そしてスポーツカー・レースは「ワークス」だけの極限的なバトルとなり、300~400キロいう距離に合わせての、F1にカウルを付けたような“スポーツカー”が出現するに至って、さらに高次元の闘いとなる。

ワークス=メーカーは、威信をかけて「勝つため」のレースをすることが多く、負けるレースはしたくなくて、そして勝利という目的を達するとステージから去っていく。メーカーとレースの関係は、しばしば、このようなものになる。こうして、去る者あり、参加を見合わせる者ありで、スポーツカーによる世界選手権レース(SWC)は1992年に消滅したのだ。

ただ、SWCはそういうストーリーとなったが、これに「ル・マン」というファクターが加わると、話は少しややこしくなる。日本ではF1以上に有名なこの24時間レースに、日本メーカーは勝ちたい! こういう悲願があるからだ。一方で、このレースを主催するACO(フランス西部自動車クラブ)は、FISAよりも歴史が長く、べつに世界選手権がかかっていなくたって「ル・マンはル・マンだ」という姿勢がある。現に1993年も、SWCカテゴリーは消えても、ル・マンで24時間レースはあった。

1988年から1990年頃には、「ル・マン」がスポーツカーの世界選手権シリーズに入るのか入らないのかという議論が、実は毎年のようにあった。「ル・マン」に出たければ、SWCに全戦参加せよ! こういう強制の中で、やむなくSWCへ出て行ったメーカーはいくつもある。「ル・マン」は、日本のメーカーをレースに引き込むためのエサだった……という説を立てる人もいるくらいだ。

そして、「ル・マン」という24時間のレースと、せいぜい400㎞くらいのスプリント的なSWCではあまりにも違いすぎて、エントラントは二重の対応をしなければならない。そんな事情もあり、ますますスポーツカー・レースは参加しにくいものとなっていった。

では、ニッサンはどうしていたか? 燃費という制限だけがあった「グループC」時代のWSPC(後のSWC)に出るにあたって、ニッサンは「3・5リッター+ツインターボ」というクルマ(エンジン)作りを選択し、R90C、R91Cへと発展して、ターボCカーとしての高い完成度に至った。R90Cで「ル・マン」に挑戦した1990年は、ポールポジション獲得と5位完走というリザルトを残し、この年の「ル・マン」の主役を張って惜敗したという内容だった。

そして1991年からは、例の「NA/3.5リッター」という規定に見舞われ、急遽、NAのレーシング・エンジン開発を余儀なくされる。ニッサンとしては、ターボ車で一旦つないで、それに続けてNAエンジン車で参戦を……というシナリオだったのだが、1991年に、ターボ車の戦闘力を奪うような重量制限が課せられたため、ニッサンのワークスCカーは国際舞台からその姿を消した。

(つづく) ── data by dr. shinji hayashi

(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
Posted at 2016/02/24 19:32:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | モータースポーツ | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「【 20世紀 J-Car select 】vol.14 スカイラインGT S-54 http://cvw.jp/b/2106389/39179052/
何シテル?   01/15 10:59
家村浩明です、どうぞよろしく。 クルマとその世界への関心から、いろいろ文章を書いてきました。 「クルマは多面体の鏡である」なんて、最初の本の前書きに...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

愛車一覧

スバル R1 スバル R1
スバル R1に乗っています。デビュー時から、これは21世紀の“テントウムシ”だと思ってい ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation