
~『最速GT-R物語』 史上最強のハコを作った男たち(双葉社・1996年)より
1989年8月、R32GT-Rがデビューしてすぐに、つまり世間が新型車の登場に湧いている時に、厚木のNTC=ニッサン・テクニカルセンター内で始められたことがある。それは「要素技術」のテストであった。何のためにと言えば、もちろん、来たるべき「次期GT-R」のためにである。そして「要素」とは、次世代のGT-Rを構成することになる(かもしれない)新しいユニットのことだ。
R33スカイラインの主管・渡邉衡三は、R32GT-Rの「ニュル」でのテストで、極めてシビアな「走り」の状況で必要とされる技術的なテーマを発見していた。またR32スカイラインでGT-Rを作ったが故に、その改良を中心としたいくつかの問題点を把握した。これらを解決するための「要素」のテストも、そこには含まれていた。
ブレーキ、クラッチ、エンジンルーム内の熱、フロントバンパー下のエア整流。あるいは、ハイキャスの特性、4輪駆動アテーサET-Sのトルクの前後配分、タイヤの特性、さらには、後にR33の基準車にも設定されることになるアクティブLSD。これらのすべてが、この時、研究と開発とテストの対象とされた。
たとえば、R32のGT-Rに追加されたブレンボ・ブレーキ装着仕様の「Vスペック」は、実はこの「要素技術」の研究から生まれたものだ。また、このVスペックでは「回頭性」が向上したことが指摘されたが、それもそのはず、この先行テストを踏まえてのE-TSチューンの変更で、4WDの前後トルク配分の見直しが行なわれていたのである。
このように、次なるものをめざして活動を続けている以上、いずれは「R33GT-R」の実現と市販に到達したいというのは、その研究やスカイライン・プロジェクトに関わっていたスタッフ全員の、当然の願望であった。
もちろん渡邉衡三もそのひとりなのだが、ただ、不安もなくはなかった。たとえばR32GT-Rは、基準車に対して駆動システムから違っており、エンジンも2.6リッターの別物を新作した。これは当時の「グループA」レースのレギュレーションで、車両重量との絡みで最も有利とされた排気量であり、R32主管の伊藤が「シリンダーヘッドとクランクだけ、ちょっと変えていいかな?」と、社内の了解を半ば強引に取りつけ、まんまと2リッター「RB20」エンジンからの飛躍を果たしたという、いわくつきのパワーユニットだった。
つまりR32のGT-Rは、そのベース車に比べると、このような技術的な大きなジャンプと新しい武器があったのである。また、それまでまったく空白であったところに、16年ぶりに「GT-R」というハードパンチを繰り出した──この意義と衝撃も大きかったはずだ。
実験主担としてR32を作り、そしてR33の主管というポジションに就いた渡邉は、ひそかに自問自答していた。
(R32GT-Rは、仮に60点の出来だったとしても、それまでがゼロだったのだから60点分のインパクトがあった。またその評価にしても、つねにゼロと比べてのものだった)
(しかしR33の『R』は、もし90点のものを作ったとしても、既存のものに対して、たかだか30点が上乗せされたものでしかない)……
さらに、もうニューGT-Rを飾るべき新しい“武器”はないよという声が、他ならぬ社内の他部署のエンジニアから聞こえてきたのも、渡邉を考え込ませた。そうかもしれないのだ。(「やりたい」と「できる」は違う。あのR32を、果して超えられるのか……)そして、身内というべきスタッフの中にも、「ハンパなら(R33のGT-Rは)やめたら?」という者がいた。その通りだと、渡邉も思った。
その間にも、市販中のR32GT-Rのモディファイは着々と進行していた。クラッチが変わり、ブレーキが変わった。前述のように、4WDシステムのE-TSも見直されて、市販モデルに盛り込まれた。でも、これらは、次代のR33GT-Rのための“武器”としてテストされているものではなかったのか。たとえば、冷却性能が高くて強力なブレンボのブレーキシステムを、R33GT-Rの“目玉”とするより先に、R32に装着して市販してしまったのは何故だろう?
これにはレーシング・フィールドからの要請もあったであろうが、次期GT-Rの「要素技術」テストを続けてきたスタッフにとっては別の動機が存在した。たとえばその中心にいたひとりであり、このR32GT-R・Vスペック仕様の完成に尽力してきた実験部の吉川正敏にとっては──。
吉川の見解というのは、こうだ。各種の「要素技術」のテストの結果、R33のGT-Rを「出せる」という確信が生まれた。そうなったからこそ、逆にR32もきちんとやっておきたいと思うようになった。ブレーキでいえば「要素」のテストの後、実際にクルマに積んでの一年間の確認期間を経て、ブレンボ仕様をデビューさせた。先行開発のテストと、市販化のための確認作業は同じではないので、ちょっと煩わしかったが、これでよかったと思っている。
R33GT-Rの姿が、吉川正敏の中で少しずつ見えてきていた。故に、R32で「要素技術」の一部を見せてしまったとしても一向に構わない。そういう展望なのである。その背景にあったのは、彼が自身で見てきたサーキットでの現実だった。吉川はモータースポーツ好きであり、自宅の居間(庭ではない!)にレーシング・ロータス・エランを飾っているほどだが、サーキットにもしばしば足を運んでは、グループA・R32GT-Rのレースを見続けていた。そして、その中でひとつ重要な発見をしていた。
サーキットでのR32GT-Rは、年々速くなっていく。しかし、基本的なハードは変わっていない。ということは、ソフトと“ツメ”でクルマはいくらでも変えられるということではないのか? (新しい武器というのは、新しいハードということだけじゃない)
「ハンパなら、やめたら?」と渡邉に言ったスタッフのひとりとは、実は吉川正敏であった。その当の本人が、先行テストを経た結果、R33のGT-Rに向けて本気になりはじめた。
(第2章・了) ──文中敬称略
Posted at 2014/11/19 13:59:57 | |
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